ひとひらの薄紅
禁裏の奥深く、恐れをもって「桜の君」と呼ばれている女の本性は、千年の時を生きる猫の大妖であった。
妖の本能のまま、生きとし生けるものを屠り尽くし、その爪と牙を深緋の滴で染め上げたのは遥かなる遠つ代のこと。
長き生に飽き、その身に降る時に倦んでいた。
さりとていささかの者どもに、夜闇の化身たる己を討てるはずもない。
この命を砕けるものは、この世でただ一人。
己と対をなす日輪の化身ーー。人の世で帝と呼ばれる者だけだった。
霊刀でこの身を千々に裂かれようとも構わない。
あるいは常闇に封じられ、悠久の微睡に身をひたすことになろうか。
漫とした思いを抱きながら、禁裏へ降り立った大妖が出逢ったのは未だ前髪も落とさぬ皇子、幼き日の帝であった。
その脆く儚き人の器に宿る日輪の光は、大妖が思わず目をすがめるほどに眩く、春朝の薫風が褪せるほど澄み渡っていた。
この輝けき皇子に討たれるのならば、それはいかにもこの幾千の星霜の終焉にふさわしく思われた。
さりながら稚い皇子に大妖を討ち果たすだけの霊威を振るえようはずもない。
(人の子が育つのにかかる刻など、ほんの刹那のことーー。)
大妖は最後の戯れに幼い皇子の両の手に収まるほどの、柔毛の仔猫にその身を変じ、皇子の眼前へと降り立った。
突如として現れた小さな命に、息を呑む皇子。その驚きに満ちた視線が注がれるなか、仔猫の小さな鼻の上に、風が運んだ薄紅の花びらがひらりと舞い降りた。
◇◇◇
「桜の君」——
皇子が口にするその拙い響きは、どうやら己を呼ぶ名であるらしい。
(人の子の、なんとたあいないものであることか)
この柔毛に秘めたる本性が、かつて殺戮の限りをつくした大妖であるとも知らず、たどたどしく名を呼び、小さな手でそっと毛を漉き、玉の塵が舞う夜には寒かろうと己の着物をかける。
そんな皇子の姿に、桜の君は——心を持たぬはずの大妖は、がらんどうの身のうち、凪いだ水面のようなそこに小さな一雫が密やかに落ちるのを感じた。
◇◇◇
千歳の齢を重ねた桜の君の目にはいかにも弱く頼りない皇子も、禁裏に住まう人の子らにとってはそうではないらしい。
強すぎる日輪の光に人の器が耐え得ぬのか、帝の血に連なるものはその多くが幼いうちに生を終える。
長じた者とて、ある者は若くして世を儚み、またある者はその心を夕闇のなかに彷徨わせた。
その中にあって健やかに愛らしく育つ皇子は禁裏の者たちのよすがであったのだろう。
色鮮やかな袖をひしめかせて傅き、真綿で包むように育てていた。
◇◇◇
日を追うごとに輝きを増してゆく皇子。
だがその姿を見つめる桜の君は訝しんで眉根を寄せた。
(まただ……)
輝く白珠のような皇子の魂。
その片隅に罅とも曇りともつかぬものがわずかに見え隠れしている。
強大な妖力が皇子を害さぬよう、息を詰めてそっと払ってみれば、それは爪の先にも満たぬ糸の端であった。
払っても払ってもいつの間にか皇子に取り付き、皇子が長じるほどにその数を増してゆく。
その源を辿ろうとするも、強大すぎる桜の君の妖威の一端にふれるとたちまちのうちに溶け入るように消えてしまう。
桜の君がそのおぞましき正体を知ったのは皇子の父、当代の日輪にまみえた時であった。




