婚約者
「イグニス!!」
屋敷の敷地外に出た途端、前方から躊躇なく飛び込んできた華奢な身体を抱き留める。
「アリア、危ないだろう」
「イグニスなら受け止めてくれると分かっていましたからね」
領地を治める貴族の娘とは思えないほどにお転婆な少女は、イグニスの腕の中で可憐な笑みを浮かべた。アリアから距離をとって控えた護衛たちはイグニスに抱き着くアリアを咎めない。
王国で数少ない領地を治めることを許された貴族の女性が、嫁入り前にこうして男性に飛びつくなんて本来あってはならないことだが、婚約者という立場がそれを許していた。アリアは一人娘なので、イグニスからすると甘やかされて育っているように見える。
「アリアはもう成人なんだから、もう少し落ち着いた方がいいぞ」
イグニスとしては当然のことを言ったつもりだが、既に成人したアリアには些か不服だったらしい。
「私はとっくにスキルも授かったし、魔法だって使えます! イグニスだって見ていたでしょう、もう忘れたんですか?」
「まさか、アリアが水魔法を“授かった”ところを忘れる訳がないだろう」
どういう経緯であれ、アリア・リーヴィニが無事に成人の議を終えて、水魔法を使えるようになったことをイグニスは祝福している。
「イグニスが成人するのもあと少しですね。本当は成人すると同時に結婚でもよかったのに、イグニスが早いって言うから」
「俺にとっては早いからな」
イグニスとって結婚する最低ラインの年齢は早くても16歳、それでも早いぐらいだ。それに、成人の議とやらが無事に終わる保証だってない。女神なんてものを盲目的に信じられる価値観は15年経ってもイグニスに根付いていない。
「……私と、結婚したくない訳ではないですよね?」
「まさか、そんな訳ないだろ。俺はアリアを大切に思ってるよ」
よく知りもしない男にアリアを任せるぐらいなら、自分が結婚すると思うぐらいには。あまり言葉がうまくないイグニスの態度が悪かったので、お詫びにと日差しが反射して輝く水面の髪をそっと撫でる。上目遣いにイグニスを見上げた青い瞳からは一抹の不安が消えて、いつもの自信が溢れる。
「当然ですね。私はイグニスに見合うよう努力をしてきたので」
「全くだな、恐れ入るよ」
日差しの下で屈託なく笑う少女に自然とイグニスの表情も緩む。恐れ入るというのは割と本心だ。アリアは家名がある他の貴族の女性たちよりもずっと努力家で、聡明で、自身の地位を笠に着るべき権力ではなく誇りだと正しく理解している。
「今日も見回りに行くんでしょう? 私も一緒に行きますからね」
「俺はともかく、アリアまで行く必要はないんだぞ」
「いいえ、私はイグニスの自分が守る領地を知っておくべきという考え方に深く、ふか~く!共感したんです。
いずれ私とイグニスで守るのだから、一緒に行って当然です」
当然、アリアが一緒に出掛ける時は裏路地を始めとした危険な場所は避けている。イグニスは剣の覚えがあるお陰で、早くから一人で町中を出歩くようになった。
対処できないのは魔法ぐらいだが、町中での攻撃魔法の使用は強く禁止されている。間違って魔法で人を傷つけようものなら下手したら極刑だ。
それに、魔法は発動する際にどうしても目立つ。必然的に、街中で魔法を使う悪い連中はほとんどない。
「イグニスがいますし、私は魔法が使えます。護衛は不要です、帰って屋敷の警備を」
「日が暮れるまでには俺が送り届けよう」
そんなに絶対的な信頼を置かれても困るが、町中の大通りを選んで歩いているので治安は悪くない。躊躇したように顔を見合わせた護衛たちは、お嬢様の言うことには逆らえないらしくアリアの屋敷へと歩き出した。
「町中での魔法はご法度だぞ」
「私はリーヴィニ領の次期当主ですから、身を守るために少しぐらい魔法を使ったって許されます。
むしろ魔法を使って民を救ったとなれば、女神様もお喜びになります」
あながち間違ったことも言っていないので、イグニスは苦笑で応えた。
後ろでもなく、前でもなく、イグニスの隣をアリアが歩く。イグニスよりも一回り小さい背丈の彼女に合わせて、自然とイグニスの歩幅も狭くなる。
一人で街を見回るのは治安の維持よりも、現状の把握の方が意味としては強い。この世界の常識、普通の人の暮らし、治安、顔見知りを作ること。だから、一人で見回る方がずっと効率がいい。
けれど、イグニスはアリアと歩く時間も悪くないと思っていた。




