犬と前世
犬がどういう生き物かを説明するには、まずイグニスの前世を説明する必要があって。けれど、それを上手く説明するのは難しい。
膝をついて犬の毛をかき分けて、シルバーウルフに噛まれた痕を確認する。
「手当をするから、じっとしててくれ」
『クゥーン』
尻尾をバタバタさせて動きたがっている犬は、それでもイグニスの言葉に従って暴れなかった。水で傷口を洗い流して、清潔な布で傷口を抑える。傷跡は小さいから、縫うほどじゃない。
「よし、もういいぞ。傷に障るから暴れないようにな」
『ワン!』
犬は威勢よく吠えて、今度は尻尾を振りながらナラへと近づいてく。
「その子は危なくないと思う。犬っていうのは……変なことを言うが、聞いてくれるか?」
「イグニスさんの話ならなんだって聞きますよ」
そう言いながらも、ナラは近寄って匂いを嗅ぎたがる犬に手のひらを差し出す。犬は嬉しそうに手の匂いを嗅ぐと、今度は後ろに回ってナラの尻に鼻を突っ込む。
「ひゃっ!!」
「こら、初対面の人の尻を嗅ぐな」
イグニスに叱られて、犬はペタンと耳を折って情けない声をあげた。その姿はやっぱり可愛いので、ナラは大丈夫だよとモフモフの頭を撫でてやっていた。躾を考えると甘やかしすぎるのはよくないのだけど、可愛いのは分かるので何とも言えない。
「……俺には前世、生まれる前の記憶がぼんやりとあって、それは俺たちが今生きている場所と全然違ったんだ。
日本っていう場所で暮らしていて、何を信じて生きても自由だったし、技術も発展していて鉄の塊が空を飛んで人や物を運んだ。魔物や魔法も存在しないが、その代わり魔物より凶悪じゃない生き物がいた」
「つまり、イヌっていうのもイグニスさんが昔生きていた場所にいたっていうことですか」
犬にもナラが自分に優しいと伝わったのだろう、嬉しそうに尻尾を振って、今度は顔を舐めようと立ち上がる。舐めるのは手だけにしろ、イグニスはそう言って犬の身体を抑えた。
「ああ、犬は人間にとって仲間や家族だった。人間の生活を手助けしてくれる犬もいたし、こういう大きい犬もすごく小さい犬もいた。基本的に人間に友好的な存在だ」
ナラの匂いを充分嗅いだのだろう、またイグニスに近寄ってきた背中を撫でる。
犬を撫でた時の柔らかな感触に不思議と心安らぐ、大地のような獣の匂いは懐かしい気持ちを呼び起こす。犬は可愛いと日本では大人気だったし、覚えてはいないが前世の自分の家でも飼っていたのかもしれない。
犬が立っている時はイグニスの膝よりも背が高い、大型犬ではあるのだろう。どうしてか初対面の犬はイグニスによく懐いて尻尾をぶんぶんと振り回しているが、この世界に犬はいないはずなのだ。
「そうなんですね。いい子であるみたいですけど、この子の仲間はいないんでしょうか?」
「飼われていない犬は群れで生きるらしいし、どこかに親はいると思うんだが……ナラはこんな話を信じてくれるのか?」
ナラが真っすぐにイグニスを見る、その茶色の瞳には確かな信頼が映っていた。
「当然です、それに納得しました。イグニスさんって前から結構ズレてますし、当たり前のことだって疑問に思うから……私はそういう貴方に救われたんだから、信じない方がおかしいでしょう」
木漏れ日の下でナラが微笑む、その存在はまるでイグニスをまるごと包容してくれているようだった。ナラは今でも毎日女神に祈りを捧げている。
イグニスは女神なんてもの信じられないけれど、ナラの在り方が女神のようだと言われたら頷くだろうし、出会えたことを神様に感謝したいとは思う。
「ふっ、ナラには勝てないな」
つい笑みが口から零れる。辺りには魔物の血や死体があって、この世界は危ないことだらけだ。平和なんてものには程遠いし、イグニスは目の前の少女を守ることすら出来てない。
『クゥーン』
早く撫でろと言うかのように犬がぐいぐいと頭を手に押し付けてくる。そのふわふわな頭を撫でてやりながら、この犬に幸せがあればいいと自然に願う。
「先にシルバーウルフの討伐報告を村にしてから、この辺りに犬の群れがいないか探そう」
「そうですね、さっきは群れからはぐれていただけかもしれませんし」
イグニスとナラの言葉を当然分かっていないだろう犬は、撫でてもらいながらぺたりと耳を伏せた。




