愛の夢
軽く十二畳はある広い彼の部屋の隅には、グランドピアノが位置していた。
しかも、専用のクリーナーで磨き上げられているらしく、黒光りの光沢を放ち、埃ひとつ被っていない。単なる物置に落ちぶれたピアノなどでは決して、ない。
よく見れば、傍らの本棚にはぎっしりと楽譜が納められ、何百枚ものCDが並んでいる。
バッハ、ハイドン、モーツアルト、ベートヴェン、スカルラッティ、ショパン、シューマン、グリーグ、シューベルト、ラヴェル、リスト、ドビュッシー、プロコフィエフ……etc、etc。
古典からロマン派、印象派、近代に至るまで、数々の作曲家のあらゆる様々な曲集の楽譜が連なっている。
「すごい!!」
私は感嘆の声を上げた。
「稜クン、これみんな弾けるの?!」
「まだまだだけど、まあ……。主だった曲は一通り」
「超上級者レベルじゃない! いつから習ってるの? 今でもレッスンしてるの?」
興奮気味に問う私に、
「四つのガキん時から。今は月一か、二ヶ月に二、三回かな」
と、彼は照れているのか、わしわしとその柔らかな茶色い髪をかきあげながら、あえて平静さを装うようにそう答えた。
「知らなかったわ。何で今まで黙ってたの?」
「だってだぜ。この年でピアノを弾く男なんてマニアだろ? 可南に「おたく」って思われたくなかったんだ」
「全然そんなことない! 高校生でピアノが弾ける男子って、むしろすっごくかっこいい」
ピアノは私も昔、習っていた。
そしてバレエをやっている関係で私は、クラシック音楽にも多少は造詣が深いつもりだ。
しかし、せいぜい初級のモーッアルトのソナタ集や、バッハの三声に行くか行かないあたりでお稽古をやめてしまった私から見れば、彼のレパートリーはプロのピアニスト並みだ。
しかも、彼は私と同じく帰宅部なのに、どことなく、体育会系のノリがある。
179㎝の長身。筋肉質に引き締まった逞しい体躯。男らしいルックス。男っぽい仕草。
事実、去年の秋の「学園球技大会」では、バスケの試合で、ダンクシュートやスリーポイントを連発し、体育館中に女生徒達の黄色い悲鳴が響き渡ったものだ。
運動神経抜群の上、ピアノまで弾けるなんて!
「カナンには隠し通そうかとも思ったんだけど、いずれはばれることだしさ。それに。可南さえ良かったら、一曲……捧げたいと、思って」
「え?! 私の為に弾いてくれるの?」
彼は軽く頷いた。
「是非!」
色めき立つ私を見て、彼はピアノの前に座った。
彼の瞳が真剣さを帯びる。
すうっと一息、深呼吸すると彼は静かに弾き始めた。
これって……。
優しく、甘い調べのこの曲は……。
リストの「愛の夢」だった。
ゆっくりとしたさざ波のような調べ。穏やかな旋律が緩やかに奏でられていく。
甘美な叙情性に満ち溢れたフレーズが蕩々と流れ、徐々に静かな激しさを増してゆく中、中間部の聴かせどころをたっぷりと情感を込め謳いあげる。
目もとまらぬような速いパッセージも、彼はいともあっさりと、難なく軽やかに弾きこなしてゆく。
わずか数分間の甘くたおやかなその時間は、まるで永遠のようだった。
しかし、静かな残響の一音で、遂に曲は終わりを告げた。
「この「愛の夢」を……。私に……?」
うっとりと官能にさえ満ち、まるであのブゾーニ張りとすら思える、完璧な「愛の夢」の演奏を聴き終えて、そう問うた。
「ああ。可南の為だけを想って奏でたよ」
優しい、稜クンの言葉……。
「有難う。稜クン」
椅子から立ち上がった彼を前に、私は踵を上げ背伸びをすると、彼の左の頬にキスをした。
「え? 可南……!?」
彼は信じられないような顔をして、私がキスしたばかりのその左の頬に手をあてている。
頬とはいえ私からキスをしたことは、あの初めてのクリスマス・イヴの夜から約2ヶ月半が経つ今まで、一度もなかったからだろう。
「愛の夢の……お礼」
急に恥ずかしくなって私は俯いた。
しかし、そんな私を、彼はぎゅっとあらん限りの力を込めて抱き締めたのだ。
「りょ、稜クン…苦しい……」
その息も出来ないほどの抱擁に戸惑いながら、訴える。
「あ、ああ。ごめん」
彼は、ゆっくりと腕の力を緩めた。
けれど、今度は不意にあらぬ方を見上げる。
稜クン……。
今日の稜クン、なんだかおかしい。




