第9話 王女様の対訳ノート
「テオ。少し、お時間をいただけますか」
朝の書斎へ入ってきたエリーは、背中に何かを隠していた。
「構いませんが、その前に一つ聞いても?」
「何でしょう」
「昨夜は、きちんと眠りましたか」
エリーの動きが止まった。
「もちろんです」
「そうですか」
「なぜ、そのようなことを?」
「いつもより瞬きが多いので」
彼女は意識したように目を見開いた。
けれど、次の瞬間には小さな欠伸をかみ殺し、口元へ手を当てる。
「今のは、違います」
「欠伸に違うものがあるのですか」
「朝ですから、少しくらいは出ます」
「朝だから出るのではなく、眠いから出るのだと思いますが」
エリーは僕から顔を逸らした。
銀白色の髪の隙間から、わずかに赤くなった耳が見える。
「それより、こちらを」
背中へ隠していたものが、机の上へ置かれた。
濃紺の布で表紙を包んだ、厚みのある一冊のノートだった。
「これは?」
「開いてみてください」
表紙には何も書かれていない。
少し迷ってから開くと、最初の頁に二つの言葉が並べられていた。
左側がアルディナ語。
右側がセレネ語。
その下には、単純な訳語だけでなく、どのような場面で使われるのかまで細かく記されている。
「対訳表ですか」
「はい」
頁をめくる。
条約。
批准。
仲裁。
免責。
主権。
外交や法律で使われる語句が、項目ごとに整理されていた。
同じアルディナ語でも、宮廷で使われる場合と議会で使われる場合では、セレネ側が受ける印象が異なる。その差まで短い文章で説明されている。
「この語は、通常なら『要請』ですが、王室から地方機関へ向けた文書では、事実上の命令になります」
エリーが横から指差す。
「反対に、議会で使う場合は、まだ協議の余地が残っています」
「よく整理されていますね」
「本当ですか」
「ええ。アルディナ語を学んだ外国人が間違えやすい点ばかりです」
僕は次の頁を開いた。
公文書で頻出する遠回しな拒絶。
相手の面目を保ちながら再考を求める言い回し。
両国で意味が似ているため、かえって誤訳されやすい単語。
以前、僕が仕事で困った表現もいくつか載っていた。
「この区別は、辞書にもほとんど書かれていません」
「実際の使われ方を知らなければ、説明できませんから」
「誰かに確認したのですか」
「いいえ。私が知っている範囲でまとめました」
エリーは何でもないことのように答えた。
だが、ノートの内容は、日常会話だけで身につくものではない。
宮廷と議会の言葉の違いを知り、法律文書の形式にも慣れている。アルディナの高位貴族令嬢なら、教育の一環として学ぶこともあるのだろう。
それにしても、詳しすぎる気はした。
「ここも見てください」
エリーが頁をめくる。
「同じ『同意する』でも、この語を使うと、自発的に賛成したという意味が強くなります。こちらは、反対はしないという程度です」
「条約交渉では、大きな違いになりますね」
「テオなら、すでにご存じでしたか」
「違いは知っていました。ただ、これほど明確に説明したことはありません」
頭の中では理解していても、人へ教えるための言葉に直すのは難しい。
このノートには、その説明が簡潔にまとめられている。
僕はもう一度、最初から頁をめくった。
前半の文字は整っていた。
どの行も一定の間隔で、見出しには定規を使った線が引かれている。
ところが半分を過ぎる頃から、少しずつ筆跡が変わっていた。
文字の傾きが揃わなくなり、説明の途中でインクを落とした跡がある。
終わりに近い頁では、同じ単語を二度書き、片方を慌てて消していた。
「エリー」
「はい」
「これを、いつ作ったのですか」
「時間がある時に、少しずつ」
「昨日、僕が仕事を終えた時には、このノートはありませんでした」
「昨日から始めたとは限りません」
「一昨日、談話室では願い帳しか持っていませんでしたね」
「テオは、人の持ち物をよく見ていますね」
「仕事柄です」
僕はノートの後半を彼女へ向けた。
「この辺りを書いた時には、かなり眠かったのでは?」
「文字は読めます」
「読めるかどうかではありません」
「内容にも間違いはないはずです」
「それも今は聞いていません」
エリーは右手を背中へ隠した。
その動きで、僕はようやく気づいた。
「手を見せてください」
「なぜですか」
「いいから」
机を挟んで手を差し出す。
エリーはためらった後、ゆっくりと右手を出した。
中指の脇に、青黒いインクの染みが残っている。
爪の端にも入り込み、布で拭いただけでは落ちなかったらしい。
「ずいぶん書きましたね」
「夢中になってしまっただけです」
「朝まで?」
「朝までは起きていません」
「では、何時までですか」
エリーは黙った。
「エリー」
「時計は見ていませんでした」
分かりやすい答えだった。
僕は息を吐き、もう一度ノートを見る。
叱るべきなのかもしれない。
体調を崩してまで作る必要はないと、はっきり伝えるべきだ。
けれど、その前に別の感情が込み上げてきた。
一つ一つの文字が、僕のために書かれている。
僕がいつか使うかもしれない言葉を選び、意味を確かめ、眠る時間を削って並べたものだ。
嬉しいと思った。
同時に、少し怖かった。
誰かが自分の未来へ、これほど手を伸ばしてくることに慣れていない。
「この頁の説明は、特によくできています」
僕は動揺を隠すように、一つの項目を指した。
「公文書の実例へそのまま使えそうです」
「役に立ちますか」
「もちろんです。まるで王女様が作ったような出来ですね」
冗談のつもりだった。
エリーの表情が、一瞬だけ固まった。
瞬きもせず、僕を見つめる。
「エリー?」
「……王女様ほど暇ではありません」
少し遅れて、そう答えた。
「王女様はお忙しいでしょうからね」
「ええ。きっと公務や行事に追われて、このようなノートを作っている時間などないでしょう」
「では、暇ではないエリーが、なぜ作れたのでしょう」
「睡眠時間を少し短くしたからです」
「認めましたね」
エリーは目を逸らした。
先ほどの不自然な間は気になったが、王女にたとえられたことが、高位貴族令嬢としては居心地悪かったのかもしれない。
それ以上、考える必要のあることには思えなかった。
「今夜は早く休んでください」
「命令ですか」
「お願いです」
「それなら、自分で決めます」
エリーは少し得意そうに言う。
「自分で選ぶことを、よく覚えましたね」
「教えてくださった方がいましたから」
「その方も、眠らないでよいとは言っていないはずです」
「では、今日は早く休みます」
「約束ですよ」
「はい」
素直に頷いた後、エリーはノートへ手を伸ばした。
取り返すのかと思ったが、表紙の端を整えるだけだった。
濃紺の布には、よく見ると細い糸が何本か残っている。
慣れない手つきで貼ったのだろう。角の一つがわずかに浮いていた。
「表紙も自分で?」
「クラリスに少し手伝ってもらいました」
「少し、ですか」
「布を切るところと、貼るところだけです」
「ほとんどでは?」
「色は私が選びました」
エリーは真剣な顔で言った。
「それは重要ですね」
「笑わないでください」
「笑っていません」
「先ほどから、何度も口元が動いています」
「気のせいです」
彼女は不満そうに僕を見る。
けれど、ノートを持ち帰ろうとはしなかった。
「どうして、ここまでしてくださるのですか」
僕が尋ねると、エリーの表情から少しだけ不満が消えた。
「ここまで、とは?」
「この内容を整理するだけでも、相当な時間がかかったでしょう」
「知っていることを書いただけです」
「知っていることでも、これだけまとめるのは簡単ではありません」
僕は後半の乱れた文字を指先でなぞる。
「まして、一晩で」
エリーはインクの染みた指を、もう片方の手で隠した。
「迷惑でしたか」
「どうして、そうなるのですか」
「テオは、困っているように見えます」
困ってはいた。
こんな贈り物を受け取った時、どのような顔をすればよいのか分からない。
母やアンナから物を受け取る時とは違う。
侯爵夫人から仕事に必要な品を与えられるのとも違う。
「迷惑ではありません」
僕ははっきりと答えた。
「とても嬉しいです。だから、理由を知りたい」
エリーは僕の顔を見た。
それから、机の上の古い法律文書へ視線を移す。
「まだなっていない人には、必要でしょう?」
以前と同じ言葉だった。
今度は、そこに一冊の重みが加わっている。
「僕は、まだ何も決めていません」
「知っています」
「試験を受けるとも言っていない」
「それも知っています」
「それなのに?」
「受けると決めてから準備を始めるより、使えるものが先にあってもよいでしょう」
エリーは穏やかに言った。
「それに、試験を受けなくても、お仕事には役立つはずです。だから、無駄にはなりません」
僕が断る理由まで、先に取り除かれていた。
ただし、受験を強いる言葉は一つもない。
僕の代わりに未来を選ぶのではなく、選択肢を机の上へ置いてくれた。
「ありがとうございます」
それ以外に、適切な言葉を見つけられなかった。
「大切に使います」
「書き間違いを見つけたら、教えてください」
「今のところ、ありません」
「これから見つかるかもしれません」
「その時は、作った方へお伝えします」
エリーは少しだけ眉を寄せた。
「ずいぶん他人行儀ですね」
「では、エリー先生へ」
「先生ではありません」
「これだけ教わったのですから、間違いでもないでしょう」
「普通にエリーと呼んでください」
「ノートの話をしている時も?」
「いつでもです」
答えた後で、エリーは自分の言葉に気づいたように目を伏せた。
僕が何かを言う前に、彼女はノートの角を整える。
「とにかく、そのノートはテオのものです。返却は受けつけません」
「取り上げるつもりだったのでは?」
「間違いを見つけた時だけ、貸してください」
彼女は表紙から手を離した。
机の上へ残された一冊が、僕のものになった。
◇
エリーが部屋を出た後、僕は改めてノートを開いた。
最初の頁には、対訳が始まる前に、小さな空白が設けられていた。
贈る相手が何かを書くために残したのかもしれない。
僕はペン先を整え、インクへ浸した。
自分の名前を書くことに、なぜか少し緊張した。
眠る時間を削って書かれた文字の隣へ、雑な筆跡を残したくなかった。
ゆっくりと、最初の行へ記す。
テオ・レイン。
その下には、ノートを受け取った日付を書いた。
インクが乾くまで、頁を閉じずに待つ。
自分の未来へ誰かが用意してくれた最初の一冊に、僕は名前と今日の日付を、できる限り丁寧な文字で残した。
それは勉強の記録であると同時に、彼女が信じてくれた未来への最初の署名だった。




