第8話 まだ、なっていない人
「この一文は、直訳しない方がよいですね」
僕はアルディナ語で書かれた文書へ赤い線を引いた。
向かいに座っていたエリーが、身を乗り出す。
「意味が変わってしまうのですか」
「意味そのものではなく、受け取られ方が変わります」
ロスウェル侯爵邸の書斎には、紙をめくる音と、窓の外から聞こえる蝉の声だけが響いていた。
机の上にあるのは、来月予定されているアルディナ商務関係者の訪問についての文書だった。
港湾設備の視察、商会との懇談、鉄道貨物の確認。
難しい交渉ではない。
だが、両国の担当者が使う言葉には、細かな違いがあった。
「こちらの表現ですと、セレネ側には命令のように聞こえます」
「アルディナでは、礼儀正しい依頼です」
「分かっています。ですが、セレネ語へそのまま移すと、相手の裁量を認めていない印象になる」
僕は書き直した文章を、エリーの方へ向ける。
「『視察の機会を賜りたい』ではなく、『視察についてご相談したい』とします」
「内容は同じでは?」
「アルディナ側から見れば、ほぼ同じです。ですが、セレネでは後者の方が、相手が断る可能性を残しているように聞こえます」
「実際には、断られては困る予定ですよね」
「はい」
「それなら、なぜ可能性を残すのですか」
「残しているように見せるためです」
エリーは数秒黙った。
それから、書き直した一文をもう一度読む。
「言葉というのは、不思議ですね」
「便利とも言います」
「少し恐ろしくもあります」
「それも否定できません」
僕は次の頁を開いた。
貨物鉄道についての説明には、今度はセレネ側の表現に問題があった。
アルディナ語へ直訳すれば、現地の商会が一方的な負担を求められているように見える。
「こちらは、主語を変えます」
「主語を?」
「『アルディナ商会が費用を負担する』ではなく、『両国の合意に基づき費用を配分する』にします」
「ですが、具体的な負担額は変わりません」
「変わりません。ただ、最初から一方だけに義務を負わせる書き方をすると、その後の話し合いまで難しくなります」
エリーはペンを取り、僕が直した部分の横へ小さく印をつけた。
「こちらも、理由を書いていただけますか」
「備考欄へ?」
「はい。後で読み返したいので」
僕は彼女の手元を見た。
アルディナ語とセレネ語が並べて書かれ、それぞれの言葉が与える印象の違いまで記されている。
ただ翻訳を確認するだけなら、そこまで細かく残す必要はない。
「ずいぶん熱心ですね」
「テオの説明が分かりやすいからです」
「褒めても、仕事は減りませんよ」
「減らしてほしいとは言っていません」
エリーは真剣な顔で答えた。
そのまま次の文書へ手を伸ばす。
「こちらも見てもよいですか」
「構いませんが、先ほどのものより退屈です」
「読んでから決めます」
封筒から取り出したのは、商取引上の紛争を扱うための手続書だった。
古い法律用語が多く、文章も長い。
エリーは最初の数行を読んだところで眉を寄せた。
「……確かに、退屈です」
「正直ですね」
「ですが、テオはこれを読むのでしょう?」
「仕事ですから」
「これほど複雑な文章を、すぐに?」
「似た文書を何度も見ています」
僕は彼女から書類を受け取り、問題のある箇所を順に示した。
「ここでは『仲裁』と『調停』が混同されています。こちらは当事者の合意が必要ですが、こちらは第三者が判断を下す」
「セレネ語では、同じ言葉に見えます」
「日常では同じように使われます。法律文書では分けなければなりません」
該当部分を修正し、必要な注釈を書き加える。
さらに前の文書と表現を揃え、日付と役職名の誤りを直す。
作業を終えて顔を上げると、エリーが僕を見ていた。
「どうしました」
「いえ」
「何か間違いが?」
「そうではありません」
彼女は机の上へ並んだ文書を見回した。
「これを、どなたかに教わったのですか」
「基礎は大学で学びました。実務は侯爵家へ来てからです」
「大学では、何を?」
「外交と法律です」
答えると、エリーの目が少し大きくなった。
「外交を学んでいたのですか」
「はい」
「では、外交官を目指していた?」
ペンを持つ手が止まった。
特別に隠していることではない。
それでも、今の仕事に必要な経歴として説明するのと、昔の望みとして口にするのとでは、少し違った。
「一応は」
「一応?」
「外交官試験を受けるつもりでした」
「それなら、なぜ――」
エリーは言いかけて止まった。
机の端に置かれた文書へ視線を落とす。
「失礼でしたら、答えなくて構いません」
「父が亡くなったからです」
僕は赤いインクの蓋を閉めた。
「家には負債が残りました。母とアンナだけでは生活できませんでしたし、学費を払い続ける余裕もなかった」
「それで、大学を?」
「辞めました」
「働くために」
「はい。侯爵夫人が住み込みの仕事を用意してくださいました。給金の大半は、家へ送っています」
エリーは何も言わない。
同情されるのは苦手だった。
立派な犠牲だったと言われるのも、同じくらい苦手だ。
あの時の僕には、ほかの選択肢がほとんどなかった。
家族を置いて大学へ残る道を、選べなかっただけだ。
「後悔していますか」
エリーが尋ねた。
「家族を助けたことを?」
「大学を辞めたことをです」
僕はすぐには答えなかった。
母とアンナが今も暮らせている。
負債も少しずつ減っている。
その事実を前に、後悔しているなどと言えば、二人を責めているように聞こえるかもしれない。
だが、エリーは目を逸らさなかった。
「……しています」
口にすると、思っていたより簡単に言葉が出た。
「大学へ戻れたらと考えたことはあります。試験を受けた同級生の名前を新聞で見た時、読まなければよかったと思ったことも」
自分で選んだ道だ。
だから、不満を持つ資格まで失うわけではない。
そう理解するまでには、少し時間がかかった。
「それでも、今の選択を変えたいとは思いません。母とアンナを放っておくことはできなかった」
「二つとも本当なのですね」
「はい」
「家族を支えたかったことも、夢を失って悔しかったことも」
僕は頷いた。
「なれなかったのではありません。諦めただけです」
少し笑ってみせる。
冗談にするほど軽くもないが、深刻に語るほど新しい傷でもない。
もう終わった話として、何度も自分へ言い聞かせてきた。
エリーは笑わなかった。
「違います」
「何がですか」
「その言い方です」
青灰色の瞳が、まっすぐ僕へ向けられる。
「貴方は外交官になれなかった人ではありません。まだ、なっていない人です。扉を閉じたのが自分なら、開き直すこともできます」
窓の外で、風が木の葉を揺らした。
僕は返事を忘れた。
あまりに迷いなく言われたため、意味を理解するまでに時間がかかった。
「……同じことでは?」
「違います」
「僕は大学を辞めました」
「知っています」
「試験も受けていません」
「ですから、まだなっていないのでしょう」
「エリー」
思わず苦笑した。
「励ましてくださるのはありがたいですが、世の中は言葉だけでは変わりません」
彼女は恵まれた家に生まれた令嬢だ。
望めば教師がつき、学びたいものを学べたのだろう。
一度手放した道へ戻る難しさを、簡単に考えているのかもしれない。
そう思いかけた。
「外交官試験に、大学の卒業資格は必須ですか」
エリーが尋ねる。
「……いいえ」
「必要な在学期間は?」
「一定の課程を修了していれば、受験資格の審査を受けられます」
「テオは、どこまで修了したのですか」
「基礎課程は終えています。専門課程の途中でした」
「では、受験資格がないとは限らない」
「書類審査があります」
「実務経歴は評価されますか」
「翻訳や外国使節への随行経験は、補足資料として提出できます」
答えてから、僕は眉を寄せた。
「どうして、そのようなことを」
「知りたいからです」
「何をですか」
「テオが、本当にもうなれないのかを」
エリーは机の上にあった白紙を引き寄せた。
「必要な試験科目は?」
「外国語、国際法、国内法、政治史、経済。それに論述と面接です」
「外国語は問題ありませんね」
「試験で求められる水準は、日常会話とは違います」
「今日の文書を直せる方が、基準へ届かないとは思えません」
あまりにも当然のように言う。
僕は反論しようとして、言葉を探した。
「法律も、今のお仕事で扱っています」
「試験範囲はもっと広いです」
「では、不足している範囲を確認すればよいでしょう」
「簡単に言いますね」
「簡単だとは言っていません」
エリーの声が少し強くなる。
「難しいことと、できないことは同じではありません」
彼女は白紙へ科目を書き並べていく。
外国語。
国際法。
国内法。
政治史。
経済。
僕が口にした順番を、一つも間違えなかった。
「実務経歴を証明する書類は、侯爵家で作成していただけますか」
「侯爵夫人なら、頼めば用意してくださると思います」
「受験に必要な費用は?」
「願書と証明書、それに試験地までの交通費です」
「大学へ戻らなければ、受けられないのですか」
「独学でも受験はできます。ただ、専門書を揃える必要があります」
「昔の本は残っていますか」
僕は答えに詰まった。
「実家に、いくつか」
「捨ててはいないのですね」
「捨てる理由もありませんでしたから」
本当は逆だった。
捨てる理由なら、いくらでもあった。
場所を取る。
古くなる。
見れば、できなかったことを思い出す。
それでも手放せなかった。
「テオ」
エリーがペンを置く。
「今すぐ何かを決めてほしいわけではありません」
「では、なぜここまで聞くのですか」
「貴方が、もう終わったことのように話すからです」
彼女は白紙を僕の前へ滑らせた。
「終わったかどうかを決める前に、まだ残っている道を確かめてもよいと思います」
そこには、試験科目と、確認すべき項目が並んでいた。
受験資格。
実務経歴。
必要書類。
費用。
どれも、調べようと思えば調べられることだった。
僕はそれを、何年も調べなかった。
調べて、道が残っていると分かることが怖かったのかもしれない。
進めない理由を、今よりはっきり見なければならなくなるから。
「随分と、僕の将来へ熱心ですね」
軽く言ったつもりだった。
エリーは少しだけ目を伏せる。
「テオは、私が選ぶのを待ってくれました」
「菓子や海の話とは違います」
「違いません」
「外交官試験は、願い帳へ丸をつけるようにはいかない」
「分かっています」
彼女は顔を上げた。
「だから、私が代わりに決めることはしません。ただ、選べる道があるなら、それをなかったことにはしたくないのです」
その言葉に、僕は何も返せなかった。
エリーは自分の手帳を閉じる時のように、白紙を丁寧に二つ折りにした。
「これは、テオが持っていてください」
「宿題ですか」
「いいえ」
彼女は首を横へ振った。
「忘れないための紙です」
◇
その夜、僕は侯爵邸の自室で、机の一番下の引き出しを開けた。
家から持ってきた荷物の奥に、古い教科書が数冊入っている。
国際法概論。
近代外交史。
条約文書の解釈と実務。
表紙には細かな傷があり、頁の端は黄ばみ始めていた。
僕は長い間、そこにあることを知りながら触れなかった。
エリーから渡された紙を机へ置く。
その横へ、一冊目の教科書を載せた。
開いた頁には、大学にいた頃の僕の字で、いくつもの書き込みが残っていた。
もう必要のないものだと思っていた。
それなのに久しぶりに触れた紙は、捨てたはずの未来へ続く扉のように、まだ静かに開いていた。
扉の向こうへ進むかどうかを決めるのは、今度こそ僕自身だった。




