第7話 家族の食卓
「エリーさんを家へ招いてもいい?」
アンナがそう言い出した時、僕は聞こえなかったふりをしようかと思った。
ロスウェル侯爵邸の使用人玄関で、妹は母から預かった包みを僕へ押しつけるように渡した。中身は着替えと、焼いた菓子だという。
「駄目なの?」
「駄目というより、どうしてそういう話になるんだ」
「お兄様が手紙に書いたからでしょう。アルディナから来た令嬢の案内をしているって」
「令嬢とは書いたが、家へ招いてほしいとは書いていない」
「だって、母様も会ってみたいって」
「母さんまで……」
僕たちが暮らしていた家は、侯爵邸から馬車で半刻ほどの町外れにある。
男爵家の屋敷と呼べるようなものではない。父の死後、負債を整理するために本邸を手放し、今は庭の小さな二階建ての家で母とアンナが暮らしていた。
清潔にはしている。
だが、外国の高位貴族令嬢を招く場所かと尋ねられれば、迷わず違うと答える。
「エリーさん、普通の家の食卓に興味があるんでしょう?」
アンナは声を潜めた。
「お兄様の手紙に書いてあったわ。宿屋で皆と食事をした時、とても嬉しそうだったって」
「そこまで書いた覚えはない」
「書いてあったわよ。本人は何も言わなかったが、嬉しそうに見えた、って」
どうやら、余計なことまで書いていたらしい。
家族へ送る手紙では、侯爵家の仕事について詳しく触れない。その代わり、最近あった小さな出来事を書くことが多かった。
市場で菓子を選ぶのに三軒も回ったことまでは、書いていないはずだ。
「ねえ。誘うだけ誘ってみたら?」
「警護の問題もある」
「それは大人の人たちに相談すればいいでしょう」
アンナは十七歳だが、都合のよい時だけ僕を大人として扱う。
「それに、嫌なら断るわ」
そう言ってから、妹は僕の顔を覗き込んだ。
「お兄様が、勝手に断らなければね」
「僕はそんなことをしない」
「本当に?」
即答できなかった。
エリーを家へ連れていくところを想像する。
侯爵邸の食堂とは違う。使用人が料理を運んでくるわけでもなく、銀器も揃っていない。椅子は古く、食卓の端には何度磨いても消えない傷がある。
彼女が嫌がるとは思わない。
だからこそ、家の違いを目の前へ出すことに、僕自身がためらっているのだろう。
「本人に聞いてみる」
僕が答えると、アンナは満足そうに笑った。
「では、明日の夕食で」
「もう日まで決めているのか」
「母様がお肉を仕込んでいるから」
断る余地を残しているようには聞こえなかった。
◇
「行きたいです、テオ」
エリーは迷わなかった。
侯爵邸の小さな談話室で、僕が招待の件を説明し終えるより先に身を乗り出す。
「まだ、どのような家か話していません」
「テオのご家族のお家でしょう?」
「そうですが、侯爵邸のような場所ではありません。かなり質素です」
「それでは、いけないのですか」
「いけないわけでは……」
「願い帳に書いたでしょう。家族の食卓を囲みたい、と」
エリーは膝の上に置いた青い手帳を指先で押さえた。
「侯爵家でも、皆様とお食事をしています」
「侯爵家の晩餐は、家族の食卓とは少し違います」
「では、なおさらです」
彼女は僕をまっすぐ見た。
「行きたいです、テオ」
自分で選びたいと言った時と同じ目だった。
僕が家の古さを理由に断るのは、彼女のためではない。僕自身が恥ずかしいだけだ。
「分かりました」
僕が答えると、エリーの表情が明るくなる。
隣にいたクラリスが口を開いた。
「事前に家の周囲を確認させていただきます。護衛は目立たない位置へ配置しますが、二名ほど近くに控えさせます」
「構いません」
「ご家族にも、ご不便をおかけするかもしれません」
「母とアンナなら、気にしないと思います」
「それならば、私からローデン伯爵へお伝えいたします」
クラリスは淡々と予定を書き留めた。
エリーはそんな彼女へ少し身を寄せる。
「クラリスも、一緒に食べませんか」
「私は控えております」
「宿屋では一緒だったでしょう」
「あの時とは事情が異なります」
エリーの顔に、わずかな落胆が浮かぶ。
クラリスはそれを見て、小さく息をついた。
「……ご家族がお許しくださるのでしたら、食事の間だけ同席いたします」
「本当に?」
「警護のためでもございます」
「はい」
エリーは嬉しそうに頷いた。
クラリスは僕へ目を向ける。
「そのようなわけですので、テオさん。席を一つ増やしていただけますか」
「母なら、最初から人数に入れていると思います」
「それは、ずいぶん用意のよいことで」
呆れたような言葉とは反対に、クラリスの声は柔らかかった。
◇
翌日の夕方。
家の前へ馬車が止まると、僕の方が緊張していることに気づいた。
玄関の扉は新しく塗り直されている。
窓辺には花が飾られ、庭の雑草もきれいに刈られていた。母とアンナが朝から準備していたのだろう。
「素敵なお家ですね」
馬車を降りたエリーが言った。
「気を遣わなくてもいいですよ」
「気は遣っていますが、嘘は言っていません」
以前、僕が使った言葉だった。
エリーは少し得意そうに笑う。
「覚えていたのですか」
「便利な言葉ですから」
玄関が開き、アンナが顔を出した。
「お兄様、いつまで外にいるの?」
僕の後ろにエリーを見つけると、妹の背筋が急に伸びる。
「はじめまして。アンナ・レインです」
「エリー・アルノーです。本日は、お招きいただきありがとうございます」
二人は互いに丁寧な礼をする。
その様子を見ていた母が、アンナの肩を軽く押した。
「玄関でいつまでも挨拶していては、料理が冷めてしまうわ。どうぞ中へ」
「お邪魔いたします」
エリーが家へ入る。
廊下は二人並ぶと少し狭い。壁には家族の古い写真と、アンナが幼い頃に描いた風景画が飾られていた。
エリーは一つひとつを珍しそうに見る。
「この男の子は、テオですか」
写真を指差され、僕は立ち止まった。
十歳ほどの僕が、髪を乱して不機嫌そうに立っている。隣では幼いアンナが笑っていた。
「片づけておくよう言ったはずだけど」
「家族の写真をどうして隠すの?」
アンナは平然としている。
「この時のお兄様は、池へ落ちた直後なんです、エリーさん」
「アンナ」
「池へ?」
エリーが僕を見る。
「妹の帽子が落ちたので、取ろうとしただけです」
「池の真ん中まで棒を伸ばして、自分が落ちたのよ」
「帽子は取れた」
「母様が新しい服を買うことになったけれどね」
母まで会話へ加わる。
エリーは口元へ手を添えた。
「テオにも、そのような時があったのですね」
「僕にも子供の頃くらいあります」
「いつも最初から、落ち着いた大人だったように見えます」
「そんな子供がいたら不気味でしょう」
エリーが声を立てて笑った。
海辺で聞いた笑い声より控えめだが、侯爵邸にいる時よりずっと自然だった。
食卓には、母が作った肉と豆の煮込み、焼いた野菜、丸いパンが並んでいた。
豪華ではない。
だが、僕が子供の頃から何度も食べてきた料理だった。
「口に合わなければ、遠慮なく言ってくださいね」
母がエリーへ取り皿を渡す。
「そんなことはありません。とてもよい香りです」
「母様は、朝からずっと味を直していたのよ」
「アンナ」
「いつもの料理だから、気にしなくていいと言ったのに」
「いつもどおりだからこそ、失敗したくなかったのです」
母は少し照れたように笑った。
エリーは差し出された皿を両手で受け取る。
「ありがとうございます」
「パンもどうぞ。足りなければ、まだ焼いてありますから」
母が籠を渡すと、エリーはパンを一つ取り、隣のアンナへ回した。
宿屋で教えた時よりも、動きはずっと自然だった。
全員へ料理が行き渡る。
誰かが合図をするでもなく、それぞれが食べ始めた。
「おいしいです」
一口食べたエリーが、すぐに言った。
「本当に?」
「はい。とても」
「よかった」
母の肩が目に見えて下がった。
アンナが煮込みの鍋へ手を伸ばす。
同時に僕も匙を伸ばし、鍋の上でぶつかった。
「お兄様、私が先よ」
「僕の方が先だった」
「客人の前でも譲らないのね」
「客人がいるからといって、急に兄らしく振る舞う方が不自然だろう」
「テオは、普段から妹君に譲らないのですか」
エリーが尋ねる。
「アンナは、譲れば次から当然だと思う人です」
「お兄様は、昔から小さいことを覚えている人です」
「最後の菓子を勝手に食べられたことを、忘れる必要があるか?」
「あれは半分残したでしょう」
「一口分だけだった」
母が笑う。
「二人とも、まだ言っているのね」
「何年前のお話ですか」
クラリスが尋ねた。
「七年ほど前です」
「テオさんは、ずいぶん長く覚えていらっしゃるのですね」
「物を大切にする性格なんです」
「執念深いとも言うわ」
食卓に笑い声が広がる。
エリーも笑っていた。
僕が失敗した話をアンナが持ち出し、母が訂正を加える。次にはアンナが幼い頃、隠した皿を自分で踏んだ話になり、今度は僕が笑う側へ回った。
誰かの失敗を責めるためではない。
その場にいない時間を、皆で分け合うような会話だった。
エリーは食事をしながら、話す者の顔を一人ずつ見ていた。
時折、自分の知らない僕の話が出ると、
「それは本当ですか、テオ」
と確かめる。
「大半は誇張されています」
「半分以上は本当よ、エリーさん」
アンナがすぐに口を挟む。
エリーはまた笑った。
やがて母が、中央の大皿へ残った焼き野菜を取り分けようとした。
「エリーさん、こちらも召し上がりますか」
「はい。いただきます」
「では、これくらい?」
「もう少しお願いします」
エリーが自分から量を答えた。
母は何も特別なことのように扱わず、言われた分だけ皿へ載せる。
エリーはその皿を見て、小さく微笑んだ。
その直後だった。
青灰色の瞳から、涙が一粒こぼれた。
笑顔は消えていない。
本人も気づいていなかったのか、涙が頬を伝ってから目を見開いた。
「エリー?」
僕が呼ぶと、彼女は慌てて指で頬を拭った。
「申し訳ありません」
「具合が悪いのですか」
クラリスが立ち上がりかける。
「違います。大丈夫です」
エリーは首を横へ振った。
だが、もう一粒、涙が落ちる。
「本当に……何でもないのです」
母は何も言わず、清潔な布をエリーへ差し出した。
アンナも、さっきまでの勢いを失って黙っている。
エリーは布を受け取り、しばらく目元へ当てた。
「ただ、懐かしいのです」
小さな声で言った。
「懐かしい?」
「はい」
彼女は食卓を見回した。
古い木の卓。皆が手を伸ばす大皿。形の揃っていない椅子。端へ寄せられたパン籠。
「こういう時間が、とても」
それ以上の言葉は続かなかった。
懐かしいという言葉が、本当に過去の記憶を指しているのか、僕には分からない。
一度も持ったことのないものを見て、以前から知っていたように感じることもあるのかもしれない。
尋ねれば、彼女は答えようとするだろう。
答えたくないことまで、礼儀正しく説明するかもしれない。
僕は中央の大皿へ手を伸ばした。
「エリー。野菜が冷めます」
焼いた人参と馬鈴薯を取り、彼女の皿へ載せる。
「先ほど、もう少し食べると言ったでしょう」
エリーは布を目元から下ろした。
「……はい」
「この人参は、アンナが切りました」
「どうしてそれを言うの?」
「大きさが揃っていないから」
「食べれば同じよ」
「火の通り方が違う」
「お兄様は細かすぎるの」
「では、エリーさん。どちらが正しいか、食べて確かめてください」
アンナが真剣な顔で皿を指す。
エリーは涙の残る目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「分かりました」
母も何事もなかったようにパン籠を差し出す。
「こちらもどうぞ」
「ありがとうございます」
食卓の会話は、少しずつ元へ戻った。
誰も理由を聞かなかった。
誰も大丈夫だと言わせようとしなかった。
エリーもやがて食事を再開し、最後には母が用意した果物まできれいに食べた。
◇
食後はアンナがカードを持ち出した。
「エリーさん、アルディナでもこの遊びはしますか」
「似たものはあります。ですが、この絵柄は初めてです」
「では、私が教えます」
アンナは嬉しそうにカードを配った。
最初の一回は、エリーが慎重になりすぎて負けた。
二回目はルールを理解し、僕が負けた。
「テオは、手札へ出るものが顔に出ますね」
「出ていません」
「よい札を引くと、左の眉が少し下がります」
「よく見ていますね、エリーさん」
アンナが感心する。
僕は自分の眉へ触れた。
「そんな癖はない」
「今も下がりました」
エリーとアンナが同時に笑う。
母は少し離れた椅子で編み物をしながら、その様子を眺めていた。
クラリスも一度だけカードへ加わったが、表情をまったく変えずに勝った。
「クラリスは強すぎます」
「お顔を見て判断なさるからです、エリー様」
「テオには通じたのに」
「僕を基準にしないでください」
夜が更けるまで、そうして過ごした。
帰る時間になると、母はエリーの手を両手で包んだ。
「今日は来てくださって、ありがとうございました」
「お礼を言うのは私です」
「またいらしてください。今度は、もう少し気楽に」
エリーは一瞬、返事をためらった。
それから、ゆっくりと頷く。
「はい。また、来てもよいでしょうか」
「もちろんです」
アンナも横から顔を出した。
「次はカードで負けませんから、エリーさん」
「私も、次は最初から勝つつもりです」
「言いましたね」
二人はすっかり次の約束を始めていた。
馬車へ乗る前、エリーは青い糸の手帳を取り出した。
玄関の灯りの下で頁を開き、「家族の食卓を囲む」と書かれた項目の横へ、小さな丸をつける。
ペンを閉じた後も、彼女はすぐには馬車へ乗らなかった。
「エリー?」
「今、行きます」
そう答えながら、家の窓を見上げる。
母とアンナが、明るい部屋の中から手を振っていた。
エリーも手を振り返し、ようやく馬車へ乗る。
馬車が動き出してからも、彼女は何度も後ろを振り返った。
道が曲がり、窓から家が見えなくなるまで。
夜の中に残る小さな灯りを、惜しむように見つめ続けていた。
あの時、母が何気なく口にした「帰っていらっしゃい」という言葉を、エリーがどれほど大切に抱えたのか。僕が知るのは、ずっと後のことだった。




