表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱる子
第二部「王女ではない夏」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/15

第7話 家族の食卓

「エリーさんを家へ招いてもいい?」


 アンナがそう言い出した時、僕は聞こえなかったふりをしようかと思った。


 ロスウェル侯爵邸の使用人玄関で、妹は母から預かった包みを僕へ押しつけるように渡した。中身は着替えと、焼いた菓子だという。


「駄目なの?」


「駄目というより、どうしてそういう話になるんだ」


「お兄様が手紙に書いたからでしょう。アルディナから来た令嬢の案内をしているって」


「令嬢とは書いたが、家へ招いてほしいとは書いていない」


「だって、母様も会ってみたいって」


「母さんまで……」


 僕たちが暮らしていた家は、侯爵邸から馬車で半刻ほどの町外れにある。


 男爵家の屋敷と呼べるようなものではない。父の死後、負債を整理するために本邸を手放し、今は庭の小さな二階建ての家で母とアンナが暮らしていた。


 清潔にはしている。


 だが、外国の高位貴族令嬢を招く場所かと尋ねられれば、迷わず違うと答える。


「エリーさん、普通の家の食卓に興味があるんでしょう?」


 アンナは声を潜めた。


「お兄様の手紙に書いてあったわ。宿屋で皆と食事をした時、とても嬉しそうだったって」


「そこまで書いた覚えはない」


「書いてあったわよ。本人は何も言わなかったが、嬉しそうに見えた、って」


 どうやら、余計なことまで書いていたらしい。


 家族へ送る手紙では、侯爵家の仕事について詳しく触れない。その代わり、最近あった小さな出来事を書くことが多かった。


 市場で菓子を選ぶのに三軒も回ったことまでは、書いていないはずだ。


「ねえ。誘うだけ誘ってみたら?」


「警護の問題もある」


「それは大人の人たちに相談すればいいでしょう」


 アンナは十七歳だが、都合のよい時だけ僕を大人として扱う。


「それに、嫌なら断るわ」


 そう言ってから、妹は僕の顔を覗き込んだ。


「お兄様が、勝手に断らなければね」


「僕はそんなことをしない」


「本当に?」


 即答できなかった。


 エリーを家へ連れていくところを想像する。


 侯爵邸の食堂とは違う。使用人が料理を運んでくるわけでもなく、銀器も揃っていない。椅子は古く、食卓の端には何度磨いても消えない傷がある。


 彼女が嫌がるとは思わない。


 だからこそ、家の違いを目の前へ出すことに、僕自身がためらっているのだろう。


「本人に聞いてみる」


 僕が答えると、アンナは満足そうに笑った。


「では、明日の夕食で」


「もう日まで決めているのか」


「母様がお肉を仕込んでいるから」


 断る余地を残しているようには聞こえなかった。



「行きたいです、テオ」


 エリーは迷わなかった。


 侯爵邸の小さな談話室で、僕が招待の件を説明し終えるより先に身を乗り出す。


「まだ、どのような家か話していません」


「テオのご家族のお家でしょう?」


「そうですが、侯爵邸のような場所ではありません。かなり質素です」


「それでは、いけないのですか」


「いけないわけでは……」


「願い帳に書いたでしょう。家族の食卓を囲みたい、と」


 エリーは膝の上に置いた青い手帳を指先で押さえた。


「侯爵家でも、皆様とお食事をしています」


「侯爵家の晩餐は、家族の食卓とは少し違います」


「では、なおさらです」


 彼女は僕をまっすぐ見た。


「行きたいです、テオ」


 自分で選びたいと言った時と同じ目だった。


 僕が家の古さを理由に断るのは、彼女のためではない。僕自身が恥ずかしいだけだ。


「分かりました」


 僕が答えると、エリーの表情が明るくなる。


 隣にいたクラリスが口を開いた。


「事前に家の周囲を確認させていただきます。護衛は目立たない位置へ配置しますが、二名ほど近くに控えさせます」


「構いません」


「ご家族にも、ご不便をおかけするかもしれません」


「母とアンナなら、気にしないと思います」


「それならば、私からローデン伯爵へお伝えいたします」


 クラリスは淡々と予定を書き留めた。


 エリーはそんな彼女へ少し身を寄せる。


「クラリスも、一緒に食べませんか」


「私は控えております」


「宿屋では一緒だったでしょう」


「あの時とは事情が異なります」


 エリーの顔に、わずかな落胆が浮かぶ。


 クラリスはそれを見て、小さく息をついた。


「……ご家族がお許しくださるのでしたら、食事の間だけ同席いたします」


「本当に?」


「警護のためでもございます」


「はい」


 エリーは嬉しそうに頷いた。


 クラリスは僕へ目を向ける。


「そのようなわけですので、テオさん。席を一つ増やしていただけますか」


「母なら、最初から人数に入れていると思います」


「それは、ずいぶん用意のよいことで」


 呆れたような言葉とは反対に、クラリスの声は柔らかかった。



 翌日の夕方。


 家の前へ馬車が止まると、僕の方が緊張していることに気づいた。


 玄関の扉は新しく塗り直されている。


 窓辺には花が飾られ、庭の雑草もきれいに刈られていた。母とアンナが朝から準備していたのだろう。


「素敵なお家ですね」


 馬車を降りたエリーが言った。


「気を遣わなくてもいいですよ」


「気は遣っていますが、嘘は言っていません」


 以前、僕が使った言葉だった。


 エリーは少し得意そうに笑う。


「覚えていたのですか」


「便利な言葉ですから」


 玄関が開き、アンナが顔を出した。


「お兄様、いつまで外にいるの?」


 僕の後ろにエリーを見つけると、妹の背筋が急に伸びる。


「はじめまして。アンナ・レインです」


「エリー・アルノーです。本日は、お招きいただきありがとうございます」


 二人は互いに丁寧な礼をする。


 その様子を見ていた母が、アンナの肩を軽く押した。


「玄関でいつまでも挨拶していては、料理が冷めてしまうわ。どうぞ中へ」


「お邪魔いたします」


 エリーが家へ入る。


 廊下は二人並ぶと少し狭い。壁には家族の古い写真と、アンナが幼い頃に描いた風景画が飾られていた。


 エリーは一つひとつを珍しそうに見る。


「この男の子は、テオですか」


 写真を指差され、僕は立ち止まった。


 十歳ほどの僕が、髪を乱して不機嫌そうに立っている。隣では幼いアンナが笑っていた。


「片づけておくよう言ったはずだけど」


「家族の写真をどうして隠すの?」


 アンナは平然としている。


「この時のお兄様は、池へ落ちた直後なんです、エリーさん」


「アンナ」


「池へ?」


 エリーが僕を見る。


「妹の帽子が落ちたので、取ろうとしただけです」


「池の真ん中まで棒を伸ばして、自分が落ちたのよ」


「帽子は取れた」


「母様が新しい服を買うことになったけれどね」


 母まで会話へ加わる。


 エリーは口元へ手を添えた。


「テオにも、そのような時があったのですね」


「僕にも子供の頃くらいあります」


「いつも最初から、落ち着いた大人だったように見えます」


「そんな子供がいたら不気味でしょう」


 エリーが声を立てて笑った。


 海辺で聞いた笑い声より控えめだが、侯爵邸にいる時よりずっと自然だった。


 食卓には、母が作った肉と豆の煮込み、焼いた野菜、丸いパンが並んでいた。


 豪華ではない。


 だが、僕が子供の頃から何度も食べてきた料理だった。


「口に合わなければ、遠慮なく言ってくださいね」


 母がエリーへ取り皿を渡す。


「そんなことはありません。とてもよい香りです」


「母様は、朝からずっと味を直していたのよ」


「アンナ」


「いつもの料理だから、気にしなくていいと言ったのに」


「いつもどおりだからこそ、失敗したくなかったのです」


 母は少し照れたように笑った。


 エリーは差し出された皿を両手で受け取る。


「ありがとうございます」


「パンもどうぞ。足りなければ、まだ焼いてありますから」


 母が籠を渡すと、エリーはパンを一つ取り、隣のアンナへ回した。


 宿屋で教えた時よりも、動きはずっと自然だった。


 全員へ料理が行き渡る。


 誰かが合図をするでもなく、それぞれが食べ始めた。


「おいしいです」


 一口食べたエリーが、すぐに言った。


「本当に?」


「はい。とても」


「よかった」


 母の肩が目に見えて下がった。


 アンナが煮込みの鍋へ手を伸ばす。


 同時に僕も匙を伸ばし、鍋の上でぶつかった。


「お兄様、私が先よ」


「僕の方が先だった」


「客人の前でも譲らないのね」


「客人がいるからといって、急に兄らしく振る舞う方が不自然だろう」


「テオは、普段から妹君に譲らないのですか」


 エリーが尋ねる。


「アンナは、譲れば次から当然だと思う人です」


「お兄様は、昔から小さいことを覚えている人です」


「最後の菓子を勝手に食べられたことを、忘れる必要があるか?」


「あれは半分残したでしょう」


「一口分だけだった」


 母が笑う。


「二人とも、まだ言っているのね」


「何年前のお話ですか」


 クラリスが尋ねた。


「七年ほど前です」


「テオさんは、ずいぶん長く覚えていらっしゃるのですね」


「物を大切にする性格なんです」


「執念深いとも言うわ」


 食卓に笑い声が広がる。


 エリーも笑っていた。


 僕が失敗した話をアンナが持ち出し、母が訂正を加える。次にはアンナが幼い頃、隠した皿を自分で踏んだ話になり、今度は僕が笑う側へ回った。


 誰かの失敗を責めるためではない。


 その場にいない時間を、皆で分け合うような会話だった。


 エリーは食事をしながら、話す者の顔を一人ずつ見ていた。


 時折、自分の知らない僕の話が出ると、


「それは本当ですか、テオ」


 と確かめる。


「大半は誇張されています」


「半分以上は本当よ、エリーさん」


 アンナがすぐに口を挟む。


 エリーはまた笑った。


 やがて母が、中央の大皿へ残った焼き野菜を取り分けようとした。


「エリーさん、こちらも召し上がりますか」


「はい。いただきます」


「では、これくらい?」


「もう少しお願いします」


 エリーが自分から量を答えた。


 母は何も特別なことのように扱わず、言われた分だけ皿へ載せる。


 エリーはその皿を見て、小さく微笑んだ。


 その直後だった。


 青灰色の瞳から、涙が一粒こぼれた。


 笑顔は消えていない。


 本人も気づいていなかったのか、涙が頬を伝ってから目を見開いた。


「エリー?」


 僕が呼ぶと、彼女は慌てて指で頬を拭った。


「申し訳ありません」


「具合が悪いのですか」


 クラリスが立ち上がりかける。


「違います。大丈夫です」


 エリーは首を横へ振った。


 だが、もう一粒、涙が落ちる。


「本当に……何でもないのです」


 母は何も言わず、清潔な布をエリーへ差し出した。


 アンナも、さっきまでの勢いを失って黙っている。


 エリーは布を受け取り、しばらく目元へ当てた。


「ただ、懐かしいのです」


 小さな声で言った。


「懐かしい?」


「はい」


 彼女は食卓を見回した。


 古い木の卓。皆が手を伸ばす大皿。形の揃っていない椅子。端へ寄せられたパン籠。


「こういう時間が、とても」


 それ以上の言葉は続かなかった。


 懐かしいという言葉が、本当に過去の記憶を指しているのか、僕には分からない。


 一度も持ったことのないものを見て、以前から知っていたように感じることもあるのかもしれない。


 尋ねれば、彼女は答えようとするだろう。


 答えたくないことまで、礼儀正しく説明するかもしれない。


 僕は中央の大皿へ手を伸ばした。


「エリー。野菜が冷めます」


 焼いた人参と馬鈴薯を取り、彼女の皿へ載せる。


「先ほど、もう少し食べると言ったでしょう」


 エリーは布を目元から下ろした。


「……はい」


「この人参は、アンナが切りました」


「どうしてそれを言うの?」


「大きさが揃っていないから」


「食べれば同じよ」


「火の通り方が違う」


「お兄様は細かすぎるの」


「では、エリーさん。どちらが正しいか、食べて確かめてください」


 アンナが真剣な顔で皿を指す。


 エリーは涙の残る目を瞬かせ、それから小さく笑った。


「分かりました」


 母も何事もなかったようにパン籠を差し出す。


「こちらもどうぞ」


「ありがとうございます」


 食卓の会話は、少しずつ元へ戻った。


 誰も理由を聞かなかった。


 誰も大丈夫だと言わせようとしなかった。


 エリーもやがて食事を再開し、最後には母が用意した果物まできれいに食べた。



 食後はアンナがカードを持ち出した。


「エリーさん、アルディナでもこの遊びはしますか」


「似たものはあります。ですが、この絵柄は初めてです」


「では、私が教えます」


 アンナは嬉しそうにカードを配った。


 最初の一回は、エリーが慎重になりすぎて負けた。


 二回目はルールを理解し、僕が負けた。


「テオは、手札へ出るものが顔に出ますね」


「出ていません」


「よい札を引くと、左の眉が少し下がります」


「よく見ていますね、エリーさん」


 アンナが感心する。


 僕は自分の眉へ触れた。


「そんな癖はない」


「今も下がりました」


 エリーとアンナが同時に笑う。


 母は少し離れた椅子で編み物をしながら、その様子を眺めていた。


 クラリスも一度だけカードへ加わったが、表情をまったく変えずに勝った。


「クラリスは強すぎます」


「お顔を見て判断なさるからです、エリー様」


「テオには通じたのに」


「僕を基準にしないでください」


 夜が更けるまで、そうして過ごした。


 帰る時間になると、母はエリーの手を両手で包んだ。


「今日は来てくださって、ありがとうございました」


「お礼を言うのは私です」


「またいらしてください。今度は、もう少し気楽に」


 エリーは一瞬、返事をためらった。


 それから、ゆっくりと頷く。


「はい。また、来てもよいでしょうか」


「もちろんです」


 アンナも横から顔を出した。


「次はカードで負けませんから、エリーさん」


「私も、次は最初から勝つつもりです」


「言いましたね」


 二人はすっかり次の約束を始めていた。


 馬車へ乗る前、エリーは青い糸の手帳を取り出した。


 玄関の灯りの下で頁を開き、「家族の食卓を囲む」と書かれた項目の横へ、小さな丸をつける。


 ペンを閉じた後も、彼女はすぐには馬車へ乗らなかった。


「エリー?」


「今、行きます」


 そう答えながら、家の窓を見上げる。


 母とアンナが、明るい部屋の中から手を振っていた。


 エリーも手を振り返し、ようやく馬車へ乗る。


 馬車が動き出してからも、彼女は何度も後ろを振り返った。


 道が曲がり、窓から家が見えなくなるまで。


 夜の中に残る小さな灯りを、惜しむように見つめ続けていた。


 あの時、母が何気なく口にした「帰っていらっしゃい」という言葉を、エリーがどれほど大切に抱えたのか。僕が知るのは、ずっと後のことだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ