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君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱる子
第一部「雨の停車場」

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第6話 初めての海

 丘を下りきったところで、エリーが立ち止まった。


「……これが、海。国境の線が、どこにも見えません」


 潮の匂いを含んだ風が、銀白色の髪を大きく揺らす。


 彼女は帽子を押さえることも忘れ、目の前に広がる青を見つめていた。


 市場から海岸までは、馬車で十分ほどだった。


 昨日までの雨はすっかり上がり、夏の陽射しが水面で細かく砕けている。波が白い線を描いて浜へ寄せ、引くたびに小石が擦れ合う音を立てた。


 セレネで育った僕にとって、海は珍しいものではない。


 港へ行けば船があり、町を歩けば潮風が吹く。天候の話をする時も、魚の値段を話す時も、海はいつも生活のすぐそばにあった。


 けれどエリーは、初めて何かを見つけた子供のように瞬きもせず眺めている。


「遠くから見たことはあるのでしたね」


「はい。船や高い場所からなら」


「浜へ下りるのは初めてですか」


「こんなに近くまで来たことはありません」


 答えながら、また海へ顔を向ける。


 その横顔には、いつもの慎重さがなかった。


「母が、よく話してくれました」


 エリーが小さく言った。


「こちらの海のことを?」


「ええ。夏になると、靴を脱いで歩いたそうです。海水は冷たくて、砂は熱くて、帰る頃には髪が塩で固くなったと」


 少し懐かしそうに笑う。


 その話をした母親が今どこにいるのか、僕は尋ねなかった。


 夏の願い帳へ残された筆跡。


 過去形で語られる思い出。


 それだけで、今聞くべきではないこともある。


「話だけ聞くと、あまり快適ではありませんね」


 僕が言うと、エリーは意外そうにこちらを見た。


「海のよいところを説明してくださらないのですか」


「砂は靴へ入りますし、風が強ければ髪も乱れます。母上のお話は正確です」


「それでも、皆さんは海へ来るのでしょう?」


「来ますね」


「では、ほかにも理由があるはずです」


「それを確かめに来たのでは?」


 エリーは少し考えてから、青灰色の瞳を細めた。


「そうでした」


 浜へ続く石段を、彼女はいつもより早い足取りで下り始めた。


「エリー様、足元へお気をつけください」


 後ろからクラリスが声をかける。


「分かっています」


「走らないでくださいませ」


「走ってはいません」


 そう答えた直後、エリーの歩みは明らかに遅くなった。


 僕は笑わないよう口元へ力を入れる。


「今、笑いましたか」


「いいえ、エリー」


「口元が動きました」


「風のせいでしょう」


「便利な風ですね」


 エリーは不満そうに言ったが、すぐに海へ意識を戻した。


 波打ち際まで来ると、彼女は裾を持ち上げ、足元を見た。


「このまま入ってもよいのですか」


「靴のままですと、帰りが大変ですが」


「では、脱ぎます」


 決断が早かった。


 近くの平らな岩へ腰を下ろし、靴へ手をかける。


 クラリスが一歩進み出た。


「お手伝いいたします」


 エリーは手を止めた。


 いつもの彼女なら、そのまま任せただろう。


 けれど今日は靴を見つめた後、ゆっくりと首を横へ振る。


「自分でできます」


 クラリスはすぐには動かなかった。


 やがて、エリーの隣へ小さな布を敷く。


「では、脱いだ靴はこちらへ。お預かりいたします」


「ありがとう、クラリス」


「波打ち際から離れすぎないでくださいませ」


「分かりました」


 クラリスはそれ以上手を出さなかった。


 エリーは靴と靴下を脱ぎ、裸足で砂の上へ立つ。


「あつっ……」


 すぐに片足を上げた。


「砂が熱いとは聞いていたでしょう」


「知っていることと、実際に熱いことは別です」


「もっともです」


 波打ち際まで小走りに進む。


 今度こそ走っていたが、クラリスは追いかけなかった。


 代わりに僕へ視線を向ける。


「テオさん」


「はい」


「お願いいたします」


 短い一言だった。


 安全を任されたのだと理解し、僕も靴を脱ぐ。


「任されてしまいました」


 僕が言うと、エリーは波の中から振り返った。


「何をですか」


「エリーが海へ流されないようにする仕事です」


「流されません」


「足元を見る前に走る方の言葉とは思えませんね」


「今は、きちんと見ています」


 寄せてきた波が、エリーの足先へ触れる。


「冷たい!」


 彼女は驚いて後ろへ下がり、それからすぐに波を追いかけた。


 引いていく水へ足を進めると、次の波が足首まで覆う。


 ドレスの裾を両手で持ち上げ、声を立てて笑った。


 侯爵邸で見せる控えめな微笑みでも、市場で菓子を選んだ時の誇らしげな笑顔でもない。


 ただ楽しいから笑っている。


「テオ、見てください」


「見ています」


「足の下から砂がなくなります」


「波にさらわれているだけです」


「不思議です」


 彼女は足元を確かめるように何度も踏み直した。


 波が来るたびに後ろへ逃げ、引けば追いかける。


 十九歳の高位貴族令嬢がする振る舞いとしては、少し無邪気すぎるのかもしれない。


 だが、止めようとは思わなかった。


 少し離れた岩のそばで、クラリスが靴を預かっている。


 心配そうには見えるが、波打ち際から離れない限り、声をかける様子はなかった。


「母も、ここでこうしたのでしょうか」


 エリーが海を見ながら呟く。


「同じ場所かは分かりません」


「ええ」


「ですが、同じ海ではあります」


 彼女は振り返った。


 風に乱れた銀白色の髪が、頬へ張りついている。


「同じ海……」


 言葉を確かめるように繰り返し、もう一度水平線へ目を向けた。


 その時だけ、笑顔が少し静かになった。


 僕には、その表情の意味までは分からない。


 ただ、彼女が自分のためだけに海へ来たわけではないように思えた。


「もう少し先まで行っても?」


「足首の辺りまでにしてください」


「クラリスと同じことを言うのですね」


「僕も安全を任されましたから」


「昨日は、私が選ぶのを手伝うと言いました」


「危険まで選ばせるとは言っていません」


 エリーは頬を膨らませた。


 それでも素直に浅い場所を歩く。


「テオも来てください」


「そのつもりです」


 僕も裾を軽くまくり、水へ入った。


 足元へ寄せる水は冷たいが、陽射しを受けた風は温かい。


 僕たちは波打ち際を並んで歩いた。


 エリーは貝殻を見つけるたびに足を止める。


 白いもの。薄桃色のもの。欠けて、内側だけが光っているもの。


「これは持ち帰ってもよいのでしょうか」


「一つくらいなら、海も怒らないでしょう」


「海は怒るのですか」


「比喩です」


「テオは時々、分かりにくい言い方をします」


「エリーが真面目に受け取りすぎるのです」


「では、これは?」


 彼女は別の貝殻を拾おうと身を屈めた。


 その瞬間、少し大きな波が寄せた。


 足元の砂が崩れる。


「あ――」


 エリーの身体が傾いた。


 僕は咄嗟に腕を伸ばした。


 片手で彼女の肩をつかみ、もう片方の腕を腰へ回す。


 勢いのまま、細い身体が胸元へ飛び込んできた。


「大丈夫ですか」


 返事がない。


「エリー?」


 腕の中で、彼女が顔を上げた。


 濡れた銀白色の髪が頬へかかり、青灰色の瞳がすぐ近くにある。


 吐息が触れそうな距離だった。


 肩へ置いた手の下に、彼女の体温がある。


 腰を支えた腕にも、柔らかな感触がはっきり伝わっていた。


 僕は息を止めた。


 エリーも動かなかった。


 波が引いていく音だけが、やけに大きく聞こえる。


「……怪我は」


 どうにか声を出す。


「ありません」


 彼女の返事も、普段より小さかった。


「そうですか」


「はい」


 それなのに、どちらもすぐには離れなかった。


 彼女を支えるためだった。


 倒れないよう、反射的に抱きとめただけだ。


 そう分かっているのに、身体のどこへ手を置いているのかを意識した途端、指先が熱くなる。


 僕は慌てて腕を解いた。


 エリーも一歩下がる。


 けれど足元にまだ波があり、また身体が揺れた。


「気をつけて」


 今度は手首だけを支える。


「……はい」


 エリーは俯いた。


 耳まで赤くなっている。


 夏の陽射しのせいではない気がしたが、確かめられるはずもなかった。


「浜へ戻りましょう」


「もう少しだけ」


「また転びます」


「今度は気をつけます」


「先ほども、気をつけていたのでしょう」


 そう言うと、エリーは少しだけ唇を尖らせた。


「では、テオが隣にいてください」


「最初からそのつもりです」


 答えた後で、言葉が妙に近く聞こえた。


 エリーも何かを感じたのか、こちらを見たまま黙る。


 僕は視線を海へ戻した。


「足元を見てください」


「……はい」


 それからは、互いに少し距離を空けて歩いた。


 先ほどまでは何とも思わなかった肩の間隔が、ひどく不自然に感じられる。


 やがて浜へ戻る。


 クラリスが布を持って近づいてきた。


「お怪我はございませんか」


「大丈夫です。少し足を滑らせただけです」


 クラリスはエリーの足元を確かめ、それから僕へ一礼した。


「ありがとうございました、テオさん」


「間に合ってよかったです」


「ええ。本当に」


 クラリスはそれ以上何も言わず、エリーへ布を渡した。


 けれど、僕たちの間を一度見たその目は、叱るようなものではなかった。


「テオ」


 エリーが呼ぶ。


「はい」


「……ありがとうございます」


「どういたしまして」


 靴を履いた彼女は立ち上がり、海を振り返った。


 その手が、無意識のように自分の腰へ触れる。


 僕が抱きとめた場所だった。


 触れたことへ気づいたのか、彼女はすぐに手を離した。


 僕も目を逸らす。


 胸の鼓動は、走ったわけでもないのに、まだ速いままだった。


 海辺では風が絶えず吹いている。


 それでも、腕に残った彼女の体温だけは、なかなか冷めなかった。


 海には国境線が見えない。けれど僕たちの間には、まだ名前も知らない境界があった。

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