第5話 自分で選んだ菓子
「エリー、そちらは三軒目ですよ」
僕が声をかけると、エリーは菓子店の前で足を止めたまま、困ったように振り返った。
「分かっています、テオ」
海辺の市場は、朝から人と荷車で混み合っていた。
石畳の両側には色鮮やかな布屋や果物店が並び、港から運ばれた魚の匂いに、焼きたてのパンや香辛料の香りが混ざっている。
クラリスは数歩後ろを歩いていた。
さらに外側には、町の人間と変わらない服装をした護衛たちがいる。彼らはエリーを取り囲まず、行き交う人々の間へ自然に散っていた。
「まだ決めていないのですか」
クラリスが尋ねる。
「もう少しだけ見てからにします」
「先ほどのお店でも、同じことを仰っていました」
「あのお店には、あのお店のよさがありました」
「では、そちらでお買いになればよかったのでは?」
エリーは答えに詰まった。
今朝、侯爵邸を出る前には、ずいぶん意気込んでいた。
夏の願い帳に書いた「自分で好きな菓子を選ぶ」を叶える。そのために、自分で市場へ行くと決めたのだ。
ところが、最初の菓子店へ入った途端、彼女は動けなくなった。
砂糖をまぶした焼き菓子、果物を煮詰めた飴、蜂蜜を練り込んだ堅い菓子。
店主から何が欲しいのかと尋ねられたエリーは、しばらく商品を見つめた後、
「最もよいものをお願いします」
と答えた。
それでは自分で選んだことにならない。
僕がそう指摘すると、今度は値札を比べ始めた。
最も高いものが最もよいとは限らないと告げると、彼女はさらに困ってしまった。
そうして一軒目では何も買わず、二軒目でも決められず、今は三軒目の前に立っている。
「何を基準に選ぼうとしているのですか」
「何を、と言われても……」
エリーは店先へ並ぶ菓子を見た。
「一番よいものを選ぼうとしています」
「では、エリーにとっての『よいもの』とは?」
「それが分からないから困っているのです」
少し責めるような口調だった。
僕は笑わずに頷く。
「甘いものは好きですか」
「嫌いではありません」
「硬いものと柔らかいものなら?」
「どちらでも食べられます」
「果物の香りは?」
「よい香りだと思います」
どの答えも間違いではない。
けれど、彼女自身の好みには辿り着いていなかった。
「普段は、どのような菓子を召し上がるのですか」
「その時々で用意されたものを」
「好きな菓子を頼んだことは?」
「ありません」
「では、苦手なものを残したことは?」
エリーは目を瞬いた。
「出されたものを残すのは、作った方へ失礼です」
「苦手な味でも?」
「食べられないものはありません」
食べられることと、好きであることは違う。
だが、彼女にとっては今まで、その二つを分ける必要がなかったらしい。
店頭では、色とりどりの菓子が硝子瓶や木箱へ収められていた。
蜂蜜色の飴。粉砂糖をまぶした丸い焼き菓子。赤い果実を練り込んだ柔らかな菓子。薄く切った柑橘の皮を砂糖で煮詰めたもの。
エリーはそれらを見つめながら、真剣な顔で黙っている。
まるで、重要な書類へ署名する前のようだった。
「すべて買って、食べ比べてはいかがですか」
クラリスが言った。
もっとも合理的な解決だった。
だが、エリーは首を横へ振る。
「それでは選んだことになりません」
「一つに決める必要はないと思いますが」
「今日は一つ、自分で選びたいのです」
声は穏やかだったが、譲るつもりはないらしい。
クラリスは一度僕を見た。
それから、エリーに聞こえないほど小さく息を吐く。
「では、私は少し離れたところでお待ちしております」
「よいのですか」
「この通りには護衛もおります。お二人でごゆっくりお選びください」
クラリスは店先を塞がない場所まで下がった。
僕たちを急かさず、かといって警戒を緩めるわけでもない。周囲へ注意を向けながら、こちらの会話には口を挟まなかった。
「クラリスも、諦めたようですね」
僕が言うと、エリーは少し眉を寄せた。
「見守ってくれているのです」
「そういうことにしておきましょう」
「テオは、時々意地が悪いです」
「選ぶのを手伝っているだけですが」
「では、もっと親切に手伝ってください」
僕は店頭へ一歩近づいた。
「正解を探すのはやめましょう」
「正解がないのに、どうやって選ぶのですか」
「好きなものを選ぶことに、正解はありません。もし好みでなければ、次に別のものを選べばよいんです」
「それが一番難しいのです」
「ですから、分かることから減らします」
僕は手前の木箱を指した。
「これは蜂蜜を使った焼き菓子です。甘さは強いですが、香ばしくて少し硬い」
隣の硝子瓶へ指を移す。
「こちらは苺を煮詰めた柔らかい菓子です。酸味はほとんどなく、かなり甘い」
「これは?」
エリーが薄い黄金色の菓子を指差した。
「柑橘の皮を砂糖で煮たものです。最初は甘く、後から少し苦味が残ります」
「苦いのに、菓子なのですか」
「その苦味を好む人もいます」
エリーは不思議そうに硝子瓶を覗き込んだ。
「こちらの白いものは?」
「焼いた木の実を砂糖で包んであります。外は甘く、中は香ばしい。噛むと音がします」
「音がすることも、選ぶ理由になるのですか」
「人によっては」
「菓子を選ぶというのは、思っていたより複雑なのですね」
エリーはますます真剣な顔になった。
僕は思わず息を漏らす。
「笑いましたね」
「少しだけです」
「ひどい方です」
「ですが、先ほどより選びやすくなったでしょう」
「……少しだけ」
彼女は柑橘の菓子と、木の実の菓子を交互に見た。
「テオは、どちらが好きですか」
「僕の好みを聞いたら、僕が選んだことになりませんか」
「参考にするだけです」
「先ほどまでの様子を見ると、そのまま選びそうですが」
エリーは唇を結んだ。
否定できないらしい。
「僕が説明できるのは味までです。どれを食べたいかは、エリーにしか決められません」
「一度も食べたことがなくても?」
「だから選ぶのでしょう。自分で選んだ失敗なら、次の選び方を覚えられます」
エリーはしばらく黙った。
市場のざわめきが、僕たちの間を通り過ぎていく。
果物を売る声。荷車の車輪が石畳を鳴らす音。遠くで響く船の汽笛。
やがて彼女は、柑橘の菓子が入った硝子瓶を指差した。
「これにします」
言った後で、迷うように指を下ろす。
「本当にこちらで?」
「僕に確認しないでください」
「ですが、苦いのでしょう」
「少しだけです」
「甘いものを選びに来て、苦いものを買うのは変ではありませんか」
「変でも構わないでしょう。エリーが食べてみたいなら」
彼女はもう一度、硝子瓶を見た。
今度は先ほどより迷わずに頷く。
「では、これにします」
店の奥から、恰幅のよい店主が顔を出した。
「柑橘の砂糖煮ですね。いいところを選びましたよ、お嬢さん」
店主は硝子瓶の蓋を開け、小さな紙袋へ菓子を入れる。
「この辺りの果実を使っているんです。甘いだけじゃないから、暑い時でも食べやすい」
「この方が選んだのですか」
店主が僕へ視線を向けた。
「いいえ。エリーが自分で選びました」
「それは失礼しました」
店主は彼女へ向き直り、にこやかに頭を下げる。
「お嬢さん、お目が高い」
「まだ、味を知りません」
「なら、選んだ自分の目が正しかったか、食べて確かめないと」
店主は紙袋を差し出した。
エリーは両手で受け取る。
「ありがとうございます」
「そちらのお兄さんと仲よくどうぞ」
「仲よく……」
エリーが小さく繰り返した。
「店主殿、僕は案内役です」
「市場を一緒に歩いて、菓子を選ぶのを待ってやる男を、ここじゃ案内役とは呼ばないんですがね」
店主は楽しそうに笑った。
少し離れた場所で、クラリスが口元へ手を添えた。
咳払いにも見えたが、その目はわずかに笑っていた。
「行きましょう、テオ」
エリーは僕の袖を引く。
「まだ代金を払っていません」
「では、早くしてください」
頬が少し赤くなっている。
僕は代金を支払い、店主の笑い声に見送られながら店先を離れた。
「市場の方は、皆あのように話すのですか」
「親しみやすい方が多いのは確かです」
「テオは、案内役ではないのですか」
「案内役です」
「それなら、なぜあの方は違うと言ったのでしょう」
「深く考えない方がよいと思います」
「また、言葉の裏を読まない方がよいのですか」
「今回は特に読む必要がありません」
「怪しいですね」
そう言いながらも、エリーの声は少し楽しそうだった。
◇
市場の端には、港を見下ろす小さな広場があった。
僕たちは石造りの長椅子へ腰を下ろす。
クラリスと護衛たちは、こちらが見える距離を保ちながら、少し離れて立っていた。
目の前では帆船が揺れ、荷を運ぶ人々の声が風に乗って届く。
エリーは膝の上で紙袋を開いた。
薄く切られた柑橘の皮が、砂糖をまとって光っている。
一つ取り出し、慎重に口へ運ぶ。
噛んだ瞬間、青灰色の瞳が大きくなった。
「どうですか」
尋ねても、すぐには答えない。
もう一度噛み、味を確かめる。
「甘いです」
「菓子ですから」
「ですが、後から本当に苦くなりました」
「嫌いでしたか」
エリーはしばらく考えた。
その間にも、もう一口食べる。
「いいえ」
やがて、はっきりと言った。
「好きだと思います」
その表情には、これまで見たことのない種類の喜びがあった。
誰かに褒められた時の微笑みでも、礼儀として浮かべる笑顔でもない。
自分の選択が、自分にとって嬉しいものだったと知った顔だった。
「選んだ甲斐がありましたね」
「はい」
エリーは頷き、残った菓子を見た。
そして、手にしていた一枚を両側からつまむ。
「何をしているのですか」
「半分にします」
砂糖の結晶が指先へ落ちる。
薄い菓子は小さな音を立て、きれいに二つへ割れた。
エリーはその片方を僕へ差し出す。
「どうぞ」
「エリーが選んだ菓子でしょう」
「半分にすれば、二つ選んだことになります」
「ずいぶん便利な理屈ですね」
「嫌なら返してください」
差し出した手を引こうとする。
僕はその前に、菓子を受け取った。
「返すとは言っていません」
エリーは少しだけ得意そうに笑った。
「では、どうぞ」
僕も口へ運ぶ。
砂糖の甘さが最初に広がり、噛むほどに柑橘の香りが強くなる。最後に、皮の苦味が舌へ残った。
「どうですか」
「おいしいです」
「本当に?」
「本当に」
「私が選んだから、気を遣っていませんか」
「気は遣っていますが、嘘は言っていません」
以前と同じ返事をすると、エリーは声を立てて笑った。
少し離れた場所で、クラリスがこちらを見ている。
警戒を解いてはいない。
それでも、エリーの笑い声を止めようとはしなかった。
風が吹き、紙袋の口を揺らす。
エリーは残りの菓子を大切そうに包み直し、膝の上へ置いた。
市場で菓子を一つ選んだ。
それだけのことだった。
けれど、彼女が悩んだ時間も、自分で指を差した瞬間も、最初の一口で見せた顔も、僕は思った以上にはっきり覚えていた。
舌には、同じ甘さと、わずかな苦味が残っている。
エリーと同じ味を食べた。
ただそれだけのことが、夏の午後を特別なものにした。
甘さの奥に残る苦味まで、自分で選んだ味だった。




