第4話 夏の願い帳
青い糸で綴じられた小さな手帳が、エリーの膝から滑り落ちた。
「あ」
彼女が声を上げるより先に、僕は足元へ手を伸ばした。
午後の陽射しが差し込むロスウェル侯爵邸の談話室では、開け放たれた窓から、庭の木々を揺らす風が入ってきていた。
先日の豪雨が嘘のような青空だった。
エリーは窓際の長椅子で、翌週の日程表に目を通していた。僕は向かいの机で、訪問先へ送る手紙をまとめていたところだった。
床へ落ちた手帳は、途中の頁を開いたまま伏せられている。
拾い上げようとした拍子に、風が一枚だけ頁をめくった。
整った筆跡が目へ入る。
自分で好きな菓子を選ぶ。
海へ入る。
家族の食卓を囲む。
反射的に目を逸らそうとした。
だが、風がもう一度吹き、次の頁が開いた。
好きな人と踊る。
自分から贈り物をする。
好きな人へ朝食を作る。
「テオ」
エリーの声に、僕はすぐ手帳を閉じた。
「すみません。落ちた時に開いてしまって」
青い糸で綴じられた表紙を上にし、彼女へ差し出す。
エリーは手帳を受け取らなかった。
銀白色の髪の間から見える耳が、わずかに赤くなっている。
「……どこまで、読みましたか」
「開いていたところだけです」
「開いていたところとは、どこですか」
「菓子を選ぶことと、海へ入ること。それから……」
朝食についてまで正直に言うべきか迷った。
けれど、隠せばかえって不自然だ。
「踊ることや、贈り物をすることも」
エリーは両手で顔を覆った。
「全部ではありませんか」
「全部かどうかは、僕には分かりません」
「少なくとも、見られたくなかったものは、ほとんど見られました」
「申し訳ありません」
「テオが悪いわけではありません。私が落としたのですから」
そう言いながらも、彼女は顔を上げない。
普段のエリーは、礼儀や外国語について間違いを指摘されても、ここまで動揺しない。
宿屋で食卓の勝手が分からなかった時も、困ってはいたが、恥じているようには見えなかった。
僕は手帳を持ったまま、少し考えた。
「中身を見られたことが、それほど嫌でしたか」
「嫌というより……」
エリーは指の隙間から僕を見た。
「幼いと思いませんでしたか」
「幼い?」
「書いてあったでしょう。菓子を選ぶとか、海へ入るとか」
彼女はようやく両手を下ろした。
「普通の人なら、わざわざ願いとして書くほどのことではありません」
声は落ち着いていた。
それでも、膝の上で重ねられた指には力が入っている。
「舞踏会へ出たいとか、珍しい宝石が欲しいとか、もっと……願いらしいことを書くものではないでしょうか」
「そうでしょうか」
「違うのですか」
「願いらしい願い、というものを考えたことがありません」
「テオには、叶えたいことがないのですか」
「今は手帳の話です」
僕が答えると、エリーは不満そうに唇を結んだ。
話を逸らしたことには気づかれたらしい。
僕は彼女の向かいにある椅子へ座り直した。
「少なくとも、幼いとは思いませんでした」
「気を遣わなくてもよいのですよ」
「気は遣っています。ですが、嘘は言っていません」
エリーが僕の顔を見る。
僕は手の中の手帳へ視線を落とした。
深い青色の表紙は、何度も開かれたためか、角が少しだけ柔らかくなっている。綴じ糸は新しいものではなく、一部が毛羽立っていた。
大切に持ち歩かれてきたものなのだろう。
「僕にとって簡単なことが、別の人にとっても簡単とは限りません」
「ですが、菓子を選ぶだけです」
「選んだことがないのなら、立派な願いでしょう」
エリーは返事をしなかった。
「海へ入ることも、家族と食卓を囲むことも、したことがないのですか」
尋ねた後で、少し踏み込みすぎたかと思った。
ローデン伯爵からは、彼女の素性や事情を確かめようとするなと言われている。
だが、エリーは表情を硬くしなかった。
「海は、見たことならあります」
「入ったことは?」
「ありません」
「家族の食卓は」
エリーは窓の外へ目を向けた。
「同じ部屋で食事をしたことはあります」
宿屋で、大鍋のスープを囲んだ時の彼女を思い出す。
同じ部屋にいることと、同じ食卓を囲むことは、彼女の中では違うのだろう。
「それなら、書いてもおかしくありません」
「好きな人へ朝食を作る、というのも?」
その言葉だけ、声が小さくなった。
「まだ相手が決まっていないなら、少し早い気はします」
「相手が決まっているとは言っていません」
「僕も決まっているとは言っていません」
エリーは僕を睨んだ。
しかし、その顔は赤いままだった。
「やはり、笑っているではありませんか」
「笑ってはいません」
「口元が動きました」
「気のせいです」
「テオは、時々あまり正直ではありません」
「職務上、言わなくてよいことを黙る訓練を受けていますので」
「便利な言い訳ですね」
ようやく、エリーの肩から少し力が抜けた。
僕は手帳をもう一度差し出した。
今度は彼女も受け取ろうと手を伸ばす。
その時、表紙がわずかに開いた。
表紙裏へ書かれた一文が見えた。
他の頁とは違う筆跡だった。
少し細く、柔らかな文字で記されている。
この夏に、自分で選んだものを書きなさい。
読み終える前に、僕は手帳を閉じた。
「今のは……」
エリーが息を止める。
「すみません。また見えてしまいました」
「母の字です」
彼女は手帳を受け取り、両手で胸元へ抱いた。
それ以上は説明しなかった。
僕も、亡くなった母親なのか、遠くにいる母親なのかを尋ねなかった。
ただ、その一文だけで、手帳が単なる思いつきの一覧ではないことは分かった。
「母は、私が何も選べないことを知っていました」
エリーは表紙を指先でなぞった。
「いえ、何も、というのは言いすぎですね。必要な場面では、自分で考えて決めることもあります」
「では、どのようなものを選べないのですか」
「私自身のためだけのものです」
窓から入る風が、彼女の髪を揺らす。
「服も、食事も、読む本も、出かける場所も。いつも誰かが、私に最もふさわしいものを選んでくれます」
侯爵邸へ来た翌朝、朝食の時間を尋ねただけで困っていた姿を思い出した。
「それは、楽ではありませんか」
あえて尋ねる。
エリーは少し考えた。
「楽なのだと思います」
「思います、ということは、そう感じてはいない?」
「分かりません。ほかの方法を知らないので」
彼女はそう言ってから、膝の上の手帳へ目を落とした。
「母は、少なくともこの夏だけは、自分で何かを選ぶようにと言いました」
「それで、この一覧を?」
「はい。けれど、書いてみると、あまりに小さなことばかりで」
エリーの指が、青い糸の結び目をいじる。
「もっと立派な望みを書くべきだったのかもしれません」
「叶える価値のない願いには見えません」
彼女の指が止まった。
青灰色の瞳が、ゆっくりと僕へ向けられる。
「本当に?」
「はい」
「テオには簡単なことでも?」
「簡単かどうかと、大切かどうかは別でしょう。自分で選んだという事実は、選んだものの大きさでは決まりません」
僕は机の上の日程表を指した。
「明日の予定一つとっても、侯爵夫人やローデン伯爵が決めれば、エリーは従うのでしょう」
「必要な予定なら」
「では、必要ではない時間については、自分で選んでもよいはずです」
「ですが、外出には警備も必要です。私が望めば、ほかの人へ負担がかかります」
「だから望まない、ということですか」
エリーは口を閉じた。
周囲へ配慮することと、最初から自分の望みを消すことは、同じではない。
けれど、今の僕が彼女へそう言い切るのは、少し違う気がした。
「僕は、勝手に連れ出すことも、警備を無視することもできません」
「当然です」
「ですが、エリーが自分で選ぶための手伝いならできます」
「手伝い?」
「行ける場所を調べる。必要な許可を取る。いくつか選択肢を用意する」
僕は指を折りながら並べた。
「その中から決めるのは、エリーです」
「テオが決めてくれるのではないのですね」
「僕が決めたら、手帳の意味がなくなります」
エリーは少しだけ眉を下げた。
「選べなかったら、どうしますか」
「待ちます」
「ずっと?」
「仕事へ差し支えない範囲で」
「そこは優しく言い切ってくださらないのですね」
「秘書ですから」
答えると、エリーは小さく笑った。
先ほどまでの恥じるような表情ではない。
何かを試してもよいと、ようやく考え始めたような笑顔だった。
「では、一つだけお願いしてもよいですか」
「内容によります」
「まだ決めていません」
「では、決まってから聞きます」
「本当に待つのですね」
「そう言いましたから」
エリーは手帳を開いた。
僕からは文字が見えない角度に傾け、何頁かをゆっくりめくる。
最後まで開いた時、白い頁が何枚も残っているのが一瞬だけ見えた。
今ある願いを叶えるためだけではなく、これから見つけるものを書くための余白なのだろう。
「宿屋の食事は、書いていなかったのですか」
僕が尋ねると、エリーは最初の方の頁へ戻った。
「書いていませんでした」
「それなら、自分で選んだものにはならない?」
「いいえ」
彼女は首を横へ振った。
「下で皆さんと食べたいと、私が言いました」
「最初に誘ったのは僕ですが」
「最後に決めたのは私です」
エリーは机の上からペンを取った。
手帳へ何かを書き加え、その横へ、小さな丸を一つ記す。
「何と書いたのですか」
「秘密です」
「先ほど、かなり見てしまいましたが」
「ですから、これ以上は見せません」
手帳を閉じたエリーは、胸元へ抱えるようにして立ち上がった。
窓の外には、雨上がりの庭が広がっている。
葉の先に残った水滴が、夏の日差しを受けて光っていた。
「次は、自分で選びます」
エリーはそう言ってから、少し考える。
手帳の中に並んでいた願いを、一つずつ思い浮かべているようだった。
やがて彼女は僕を見た。
「テオ」
「はい」
「まずは、選ぶところから手伝ってください」
何を選ぶつもりなのかは、まだ聞かなかった。
彼女が自分で言葉にするまで、待つと約束したばかりだった。
青い糸で綴じられた小さな帳面が、やがて二つの国を越えて僕たちを結ぶことになるとは、この時の僕はまだ知らなかった。




