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君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱる子
第一部「雨の停車場」

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第3話 雨宿りのスープ

 宿屋の屋根を叩く雨音は、向かいにいる相手の声さえ遠く感じさせるほど激しかった。


「今夜は、こちらでお休みいただくほかありません」


 僕が告げると、アルノー嬢は窓の外を見た。


 街道は茶色く濁った水に覆われている。近くの川が増水し、橋へ続く道の一部が崩れたらしい。


 侯爵邸を出た時には、まだ小雨だった。


 予定していた訪問を終えて戻る頃には、馬車の屋根を打つ音で会話も難しくなっていた。迂回路も倒木で塞がれ、僕たちは街道沿いの宿屋へ避難することになった。


 部屋を確保できたのは幸運だった。


 もっとも、小さな宿屋に侯爵家とアルディナの一行が押しかけたのだから、余裕があるとは言い難い。


「皆さんも、こちらに泊まれるのですか」


 アルノー嬢が最初に気にしたのは、自分の部屋ではなかった。


「使用人たちは大部屋を使います。護衛の方々には、一階の客室と厩舎近くの控え室をお借りしました」


「レインさんは?」


「僕も大部屋です」


 答えると、彼女は目の前の客室を見回した。


 宿で最も広い部屋とはいえ、寝台と机を置けば、歩ける場所はほとんど残らない。


「私一人で、ここを使うのですか」


「クラリスさんは隣の小部屋にいらっしゃいます」


「そうではなくて……」


 アルノー嬢は言葉を止めた。


 濡れた外套を畳んでいたクラリスが、静かに口を開く。


「アルノー様。お気遣いはありがたく存じますが、安全のためにも、こちらのお部屋をお使いください」


「分かっています」


 アルノー嬢は反論しなかった。


 けれど、その返事にはわずかな硬さが残った。


 僕は夕食の時間と、明朝に道路の状況を確認することを伝え、部屋を出た。


 一階へ下りると、食堂から魚と香草の匂いが漂ってきた。


 宿の主人が、大きな鍋を火にかけている。


「急なことで、大したものは用意できませんがね」


 主人は長い柄の匙で鍋をかき混ぜながら、申し訳なさそうに笑った。


「朝に揚がった魚と、残っていた野菜を煮込みました。雨の日は、こういうものが一番でしょう」


「十分です。突然これだけの人数で押しかけたのに、ありがとうございます」


「奥方がパンを温め直しています。皆さん、冷える前に召し上がってください」


 食堂には、長い木の卓が一つ置かれていた。


 侯爵家の使用人と、アルディナから同行した者たちが、肩を寄せるようにして席についている。


 護衛らしい男たちも、宿へ入った直後は窓や扉から目を離さなかったが、湯気の立つ椀が置かれると、ようやく表情を緩めた。


 僕も空いている席へ腰を下ろす。


 白身魚と玉葱、馬鈴薯を煮込んだ、乳白色のスープだった。


「アルノー嬢のお食事は?」


 僕が尋ねると、宿の女主人が二階を指した。


「先ほど運びましたよ。お客様の馬車に積んであった鶏肉と野菜で、簡単なものを作りました」


 侯爵邸の料理人が、万一に備えて持たせた食材だろう。


 それなら心配はない。


 僕はスープを一口飲んだ。


 淡い塩味と魚の旨味が、冷えた身体へゆっくり染み込んでくる。


 隣では使用人たちが、雨の中での失敗を話していた。


「鞄を水溜まりへ落とすところでした」


「落とさなかったのは、俺が襟をつかんだからだろう」


「首が締まるかと思いましたよ」


「書類を濡らすよりはましだ」


 笑い声が起きる。


 宿の主人も会話へ加わり、増水した川や、明日の天気について話し始めた。


 その時、二階の床が軋んだ。


 窓際から扉へ。


 しばらくして、また窓際へ。


 古い建物だから、上の足音はよく響く。


 食事をしているにしては、何度も同じ場所を歩いている。


 僕は匙を置いた。


「少し、様子を見てきます」


 二階へ上がり、アルノー嬢の部屋の扉を叩く。


「レインです」


 短い間の後、クラリスが扉を開けた。


「何かございましたか」


「アルノー嬢のお食事に、不都合でもありましたか」


「いいえ。よくしていただいております」


 クラリスの肩越しに、机が見えた。


 白い布の上には、焼いた鶏肉、温野菜、白いパンが並べられている。急な宿泊とは思えないほど、丁寧に整えられた食事だった。


 けれど、ほとんど手をつけられていない。


 アルノー嬢は窓辺に立ち、階下から聞こえる声へ耳を傾けていた。


 また笑い声が上がる。


 彼女の指先が、窓枠の上で小さく動いた。


「アルノー嬢」


 声をかけると、彼女は少し驚いたように振り向いた。


「お食事がお口に合いませんでしたか」


「いいえ。とてもおいしいです」


「では、お身体の具合が?」


「それも違います」


 アルノー嬢は答えながら、扉の向こうへ視線を移した。


「下では、皆さんが一緒に食べているのですか」


「はい」


「同じ食卓で?」


「宿に一つしかありませんから」


「同じ料理を、皆さんで?」


「魚のスープとパンです」


 彼女は、机に並べられた料理へ目を落とした。


 鶏肉も温野菜も、階下の料理より上等だ。


 だが、彼女が気にしていたのは料理の中身ではないらしい。


 僕はクラリスを見る。


「安全上の問題がなければ、アルノー嬢も下で召し上がってはいかがでしょう」


 クラリスの表情が引き締まる。


「一階の食堂で、ですか」


「入口と窓は、護衛の方々から確認できます。一般の宿泊客は別室へ移っていただいています。難しければ、皆の食事をこちらへ運ぶこともできますが」


「その必要はありません」


 答えたのは、アルノー嬢だった。


「私が下へ行っても、ご迷惑ではないでしょうか」


「迷惑ではありません。ただ、簡素な料理ですが」


「皆さんと同じものなのですね」


「はい」


 アルノー嬢はクラリスへ顔を向けた。


 クラリスは扉の外と窓の位置を確かめるように視線を動かした後、静かに頷く。


「護衛を食堂と入口へ配置します。あまり遅くならないようになさってください」


「ありがとう、クラリス」


 アルノー嬢の声が、少しだけ明るくなった。



 アルノー嬢が食堂へ入ると、それまで続いていた話し声が止まった。


 侯爵家の使用人たちが立ち上がろうとする。


 アルノー嬢は慌てて手を上げた。


「どうか、そのままで。私もご一緒してよろしいですか」


 宿の女主人が、真っ先に椅子を運んだ。


「もちろんですとも。少し狭いですが、こちらへどうぞ」


 僕の隣へ椅子が置かれる。


 アルノー嬢は長い卓を見回し、少しためらった後、裾を整えて腰を下ろした。


 目の前へ魚のスープが運ばれる。


「熱いですから、お気をつけくださいね」


「ありがとうございます」


 アルノー嬢は椀を引き寄せ、きれいな所作で匙を取った。


 一口飲む。


 その表情が、目に見えて柔らかくなった。


「とてもおいしいです」


「それはよかった」


 女主人が嬉しそうに笑う。


 止まっていた会話も、少しずつ戻り始めた。


 最初は皆がアルノー嬢を意識していたが、宿の主人が雨漏りの話を始める頃には、先ほどと同じ空気になっていた。


「寝室の天井が落ちた時は、さすがに宿を畳もうかと思いましたよ」


「天井が落ちたのですか」


 アルノー嬢が目を見開く。


「ほんの一部ですよ」


 僕が小声で補足する。


「先ほどは、全部落ちたように聞こえました」


「ご主人は話を少し大きくする癖があるようです」


「お客様の前で、ひどいことを言わないでください」


 主人が笑いながら抗議し、卓のあちこちで笑い声が上がった。


 アルノー嬢も、口元へ手を添えて小さく笑った。


 彼女の食事の所作には、何の不自然さもなかった。


 魚の身を丁寧に分け、骨を取り除き、匙の音さえ立てない。正式な食卓で十分な教育を受けていることは、誰の目にも明らかだった。


 ただ、食べ方とは別のところで、彼女は何度か迷った。


 中央に置かれたパン籠へ手を伸ばしかけて、止める。


 宿の女主人が大鍋から二杯目のスープをよそい始めると、自分も頼んでよいのか分からないように、その様子を見ていた。


「パンをどうぞ」


 僕は籠を彼女の前へ寄せた。


「よろしいのですか」


「そのために置いてありますから」


 彼女は籠の中を見て、一番小さなパンを選んだ。


 次に回す相手を探すように視線を動かす。


「隣へ渡していただければ」


「こうでしょうか」


「はい」


 アルノー嬢は両手で籠を持ち、向かいの使用人へ差し出した。


「どうぞ」


「ありがとうございます、アルノー様」


 それだけのやり取りに、彼女は少しだけ満足そうな顔をした。


 しばらくして、アルノー嬢の椀が空になる。


 けれど匙を置かず、大鍋を気にしていた。


「もう一杯いかがですか」


 僕が尋ねる。


「いただいてもよいのでしょうか」


「もちろんです」


「ですが、皆さんの分が」


 宿の主人が豪快に笑った。


「まだ鍋半分も残っていますよ。遠慮せず食べてください」


「では……少しだけ、お願いします」


 女主人が椀を受け取り、今度は魚も野菜も多めによそった。


 アルノー嬢は驚いたように見たが、断らなかった。


 誰かがパンを取り、隣へ渡す。


 空いた水差しを、近くにいる者が満たす。


 椀が空けば、大鍋から新しいスープが注がれる。


 正式な順序も、決められた席次もない。


 それでも、誰かが足りなければ、別の誰かが気づく。


 アルノー嬢は両手で椀を包んだ。


 立ち上る湯気が、銀白色の髪の向こうへ消えていく。


「同じ鍋から分けてもらうだけで、こんなに温かいのですね」


 僕は返事をしかけ、やめた。


 スープの温度だけを言っているのではないことくらいは分かった。


 けれど、彼女がこれまでどのような食卓を囲んできたのか、僕は知らない。


 知らないことを、今は尋ねないと決めている。


「まだ熱いですから、気をつけてください」


 代わりにそう言うと、彼女は椀の中を見つめたまま頷いた。


「はい、レインさん」


 それからアルノー嬢は、二杯目のスープもきれいに食べ終えた。



 食事の後、アルノー嬢は宿の夫婦へ何度も礼を言った。


 空いた食器を運ぼうとしたところで、女主人に慌てて止められる。


「お客様にそんなことはさせられませんよ」


「ですが、皆さんが運んでいます」


「お嬢さんは、たくさん食べてくださっただけで十分です」


 女主人が笑うと、アルノー嬢も少し恥ずかしそうに笑った。


 僕は彼女を階段の下まで見送る。


 クラリスは数歩離れたところで、護衛と明朝の予定を確認していた。


 階段へ足をかける前に、アルノー嬢が振り返る。


「レインさん」


「はい」


 彼女は何かを言おうとして、いったん口を閉じた。


 食事中よりも、今の方が緊張しているように見える。


「どうかなさいましたか」


「その……アルノー嬢という呼び方は、少し遠く感じます」


「遠い、ですか」


「はい」


 彼女は食堂へ目を向けた。


 使用人たちが食器を運び、宿の夫婦が残ったスープを片づけている。


「正式な場では、その方がよいと思います。ですが、今のような時までそう呼ばれると、ずっとお客様のままのようです」


「では、なんとお呼びすればよいでしょう」


 アルノー嬢は銀白色の髪を耳へかけた。


「皆からは、エリーと」


「エリー」


 確かめるように呼ぶ。


 彼女の青灰色の瞳が、わずかに大きくなった。


 駅で名乗られた時にも聞いた名前だった。


 けれど、本人へ向けて呼ぶと、同じ言葉には思えなかった。


「……はい」


 エリーは、ほんの少しだけ笑った。


「それなら、私もテオと呼んで構いませんか」


「もちろんです」


「侯爵夫人のお客様として挨拶する時や、正式な訪問の時は、今までどおりにします」


「それ以外では、名前で構いません」


「クラリスたちの前でも?」


 エリーが、少し離れた場所にいるクラリスへ目を向ける。


 クラリスはこちらへ歩いてくると、静かに一礼した。


「正式なお席でなければ、よろしいのではありませんか。エリー様」


 その呼び方に、エリーが目を瞬く。


「クラリスまで」


「いつまでも堅苦しく呼ばれていては、お寛ぎになれないでしょう」


 クラリスの表情はいつもどおり落ち着いていた。


 けれど、その声は普段よりわずかに柔らかかった。


「……ありがとう」


 エリーの顔に、先ほどより大きな笑みが浮かぶ。


 クラリスは僕へも目を向けた。


「レインさん。今後とも、エリー様をお願いいたします」


「承知しました」


「テオと呼んでよいと言ったばかりなのに」


 エリーが不満そうに言う。


「それはお二人の間のお話でしょう」


 クラリスは涼しい顔で答えたが、口元にはごく小さな笑みがあった。


 エリーは僕へ向き直る。


「お休みなさい、テオ」


「お休みなさい、エリー」


 彼女はクラリスとともに階段を上がっていく。


 途中で一度だけ振り返り、それから二階の廊下へ消えた。


 僕はしばらく、その場に立っていた。


 アルノー嬢。


 そう呼んでいた時より、たった三文字の名前はずっと近い。


 エリー。


 心の中でもう一度呼ぶと、その名前は思っていたより柔らかく、雨の夜に囲んだ食卓の温度と一緒に残った。


 後になって思えば、僕たちの恋は、豪華な舞踏会ではなく、あの一杯の魚のスープから始まったのかもしれない。

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