第2話 素性を尋ねてはいけない令嬢
馬車が大きく揺れるたび、アルノー嬢の向かいに座った女性が、わずかに腰を浮かせた。
揺れから主人を守ろうとしたのだろう。
だが、その動きは侍女というより、いつでも立ち上がれるよう身構えた兵士に近かった。
「申し訳ありません。今日は道がひどく荒れていまして」
「レインさんが謝ることではありません」
アルノー嬢は窓の外へ目を向けた。
雨は相変わらず激しい。硝子を伝う水滴の向こうで、濡れた田畑と低い石垣が後ろへ流れていく。
駅から侯爵邸まで、馬車で一時間ほどの道のりだった。
普段なら、外国から来た客人へ町の名所や土地の歴史を説明するところだ。しかし、この雨では見えるものも少ない。
「長い移動でお疲れでしょう。侯爵邸へ到着しましたら、まずお部屋へご案内します」
「ありがとうございます。皆様にご挨拶する前に休んでしまっても、失礼にはなりませんか」
「侯爵夫人も、今日は無理をなさらないようにと仰っていました」
アルノー嬢は小さく息を吐いた。
駅で僕の手を取った時と同じように、安堵を表へ出すまでにほんの少し間がある。
「それなら、お言葉に甘えます」
向かいの女性が、アルノー嬢の濡れた袖口を布で押さえた。
「お身体が冷えます。こちらを」
「ありがとう、クラリス」
クラリスと呼ばれた女性は、二十代半ばほどに見えた。
淡い茶色の髪を隙なくまとめ、飾り気のない濃紺の服を身につけている。侍女らしい控えめな装いだが、姿勢が妙に良い。
僕が視線を向けると、クラリスはこちらへ丁寧に頭を下げた。
「ご挨拶が遅れました。アルノー様付きのクラリスと申します」
「テオ・レインです。ご滞在中、何かございましたらお申しつけください」
「ありがとうございます、レインさん」
言葉遣いに非の打ち所はない。
ただし、彼女は話している間にも、馬車の窓と扉を交互に確認していた。
外に何かを見つけた様子はない。確認すること自体が身についているのだろう。
駅で荷物を運んでいた男たちも同じだった。
侯爵家の使用人として紹介された者が二人、アルディナ側の従者が三人。いずれも体格がよく、重い旅行鞄を扱いながら、周囲への注意を一度も解かなかった。
高位の貴族令嬢であれば、護衛が同行すること自体は不思議ではない。
それにしては人数が多い。
僕は革鞄の留め金を指で確かめ、窓の外へ視線を戻した。
尋ねる必要はない。
必要があれば、侯爵夫人から説明があるはずだ。
「レインさん」
「はい」
呼ばれて顔を上げると、アルノー嬢がこちらを見ていた。
「先ほどから、何かお気づきでしょうか」
予想していなかった問いだった。
「何かとは?」
「いえ……」
彼女は一度クラリスへ目を向け、それから膝の上で指を組み直した。
「私の一行は、少し大げさに見えるかもしれませんから」
どうやら、気づかれていることには気づいているらしい。
「外国でのご滞在です。用心なさることに、問題はないと思います」
「理由は、尋ねないのですね」
「僕が知る必要のあることなら、侯爵夫人が教えてくださいます」
アルノー嬢は、しばらく僕の顔を見ていた。
疑っているというより、言葉の意味を確かめているような目だった。
「……そうですか」
それだけ言うと、彼女は窓へ視線を戻した。
雨音に紛れそうな小さな声だった。
「ありがとうございます」
何への感謝なのか、僕は聞かなかった。
◇
ロスウェル侯爵邸へ到着した時には、空が早くも夕方の色へ沈み始めていた。
馬車が正面玄関へ近づくと、待機していた使用人たちが一斉に動き出した。
アルノー嬢が降りる前に、アルディナから同行した男が先に地面へ立つ。
玄関、二階の窓、庭へ続く通路。
ごく自然な動きで周囲を見渡してから、馬車の扉を開いた。
やはり、ただの従者ではない。
僕が傘を差し出すと、アルノー嬢は一瞬だけ僕の手元を見た。
駅で転びかけたことを思い出したのかもしれない。
けれど今回は自分で裾を持ち上げ、慎重に足を下ろした。
「足元へお気をつけください、アルノー嬢」
「はい、レインさん」
玄関では、マリアンヌ・ロスウェル侯爵夫人が待っていた。
普段は穏やかに微笑む人だが、アルノー嬢を見た瞬間、その表情がわずかに崩れた。
「よく来てくれましたね」
「ご無沙汰しております、ロスウェル侯爵夫人」
アルノー嬢は深く一礼した。
侯爵夫人が抱きしめるのではないかと思ったが、二人は互いに一歩を残したまま向き合っている。
外国の高位令嬢と迎える侯爵夫人としては自然な距離だ。
それでも、侯爵夫人の指先が一度だけ動いたのを、僕は見逃さなかった。
伸ばしかけた手を、途中で止めたように見えた。
「道中は大変だったでしょう」
「皆様のおかげで、無事に到着できました」
「今日は休みなさい。話は明日で構いません」
侯爵夫人はクラリスにも目礼し、使用人へ客室への案内を命じた。
アルノー嬢は去り際に振り返った。
「レインさんも、ありがとうございました」
「いいえ。これが僕の仕事ですから」
僕が答えると、彼女はなぜか少しだけ困ったように笑った。
その理由を考える前に、クラリスとともに階段を上がっていく。
銀白色の髪が曲がり角の向こうへ消えてから、侯爵夫人が僕を呼んだ。
「テオ。書斎へ来てください」
「承知しました」
書斎には、すでに一人の男性が待っていた。
五十代ほどだろうか。
白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけ、灰色の旅行服を隙なく着こなしている。派手な装飾はないが、立ち姿だけで長く宮廷に仕えてきた人物だと分かった。
「こちらはローデン伯爵です。アルディナ側の随行責任者を務めておられます」
「テオ・レインです」
「ローデンだ。侯爵夫人から話は聞いている」
差し出された手を握る。
力を誇示するような握り方ではない。だが、相手の姿勢や反応を確かめるような、短く正確な握手だった。
侯爵夫人は机の前へ腰を下ろした。
「テオ。アルノー嬢の滞在中、あなたには彼女の案内役をお願いします」
「案内役、ですか」
「ええ。土地に不慣れな彼女へ、町や領内を案内してください。それから、アルディナ語の通訳と、必要な文書の補佐も」
予想していたより、深く関わる仕事だった。
「僕が担当してよろしいのでしょうか」
「語学と文書の両方を任せられる者は、我が家ではあなたしかいません」
侯爵夫人は淡々と言った。
褒められたというより、事実を確認されたにすぎない。それでも、背筋が自然と伸びる。
「承知しました」
「アルノー嬢は、アルディナ王室に近い家柄の令嬢です」
侯爵夫人はそこで一度、言葉を切った。
「詳しい素性については、あなたが職務を果たすうえで必要ありません」
「分かりました」
「驚かないのですね」
「駅へ迎えに行く前から、お名前以外は教えていただいておりませんでしたので」
侯爵夫人の口元がわずかに緩んだ。
「そうでしたね」
代わりに口を開いたのは、ローデン伯爵だった。
「レイン君。貴殿は複数の言語を扱い、外交文書の翻訳にも通じていると聞いている」
「大学で学んだ程度です。現在は侯爵家の実務で使っております」
「謙遜する必要はない。翻訳とは、単語を別の言語へ置き換えるだけの仕事ではないからな」
ローデン伯爵は、机の上に置かれた封筒へ指を添えた。
「書かれていない意図を読み、選ばれなかった言葉を考える。相手が何を隠そうとしているかまで察する者でなければ、外交文書は扱えない」
褒められているようには聞こえなかった。
ローデン伯爵は、真っ直ぐに僕を見た。
「貴殿は、言葉の裏を読むことに長けているそうだ」
書斎の窓を雨が叩く。
「この件に限っては、読まないでいただきたい」
敵意のある声ではなかった。
だからこそ、単なる脅しではなく、明確な線引きなのだと分かった。
「アルノー嬢の身分や、滞在理由についてでしょうか」
「その両方だ」
「僕へ伝えられた範囲だけを、職務に必要な情報として扱います」
「疑問を持つなとは言わない」
ローデン伯爵は、わずかに息を吐いた。
「人は、見たものについて考えずにはいられない。だが、考えたことを確かめようとしないでいただきたい」
「承知しました」
不愉快ではなかった。
僕も侯爵家の人間ではなく、雇われた秘書にすぎない。外国の高位貴族が抱える事情へ、好奇心だけで踏み込む権利はない。
むしろ、ここまで明確に言われた方が仕事はしやすい。
「もう一つ」
ローデン伯爵は続けた。
「アルノー嬢が外出する際には、行き先と帰宅予定を事前に我々へ知らせていただく。急な予定変更も避けてほしい」
「安全上の理由ですね」
「そう理解してもらえればよい」
それ以上は尋ねなかった。
打ち合わせを終え、侯爵夫人とローデン伯爵へ一礼する。
机の脇へ置いた書類を取ろうとした時、一枚の電信紙が目に入った。
通常の文章ではなく、数字と短い記号が並んでいる。暗号電信らしい。
その下には、深い青色の封蝋が押された封筒があった。
中央に刻まれた紋章は見覚えがない。
双頭の鳥を囲む七つの星。一般的な貴族家の私印ではなく、国家に近い場所で使われる意匠に見えた。
僕は視線を止めず、自分の書類だけを持ち上げた。
中身を知る必要はない。
そう決めたばかりなのだから。
◇
翌朝、僕の最初の仕事は、アルノー嬢へ滞在中の日程表を説明することだった。
客間へ入ると、彼女は窓際の机に座っていた。
昨日の旅行着とは違い、淡い灰青色のドレスを身につけている。華やかさより動きやすさを優先した服だが、銀白色の髪によく似合っていた。
クラリスが傍らに立っている。
「おはようございます、アルノー嬢」
「おはようございます、レインさん」
僕は向かいの席へ座り、二種類の日程表を広げた。
「こちらがセレネ語、こちらがアルディナ語で作成したものです。内容は同じですが、ご確認しやすい方をお使いください」
「ありがとうございます」
アルノー嬢は、先にセレネ語の方を手に取った。
文章へ目を通す速さは、外国語をたどたどしく読む人のものではない。
「三日目の午後に、領内の紡績工場を見学する予定なのですね」
「はい。ただし、天候次第では延期します」
「工場側への連絡は、いつまでに行えば間に合いますか」
「前日の正午までであれば問題ありません」
「では、雨が続く場合は、二日目の朝に判断した方がよいでしょうか」
「そうですね。その方が先方にも負担をかけずに済みます」
アルノー嬢は頷き、余白へ自分で書き込んだ。
セレネ語の綴りにも、ほとんど迷いがない。
「お上手なのですね」
「何がでしょう」
「セレネ語です。会話だけでなく、文書も問題なく読まれている」
彼女のペン先が一瞬止まった。
「アルディナでは、セレネ語を学ぶ機会が多いのです」
「それにしても、かなり正確です」
「……失礼にならない程度には、勉強しました」
謙遜するように答えたが、日程表の一か所へ視線を戻す。
「この『訪問』という言葉ですが、アルディナ語版では公式訪問に近い表現になっています。私は私人として滞在しているのであれば、もう少し軽い言葉の方がよいのではありませんか」
僕は該当箇所を確認した。
彼女の指摘どおりだった。
直訳としては間違っていないが、アルディナの慣例では公的な意味が強くなる。
「おっしゃるとおりです。修正します」
「申し訳ありません。細かなことを」
「いいえ。言葉は、細かな違いで意味が変わりますから」
僕がペンを取ると、アルノー嬢は少し驚いたように瞬きをした。
「嫌ではないのですか」
「何がでしょう」
「私に訂正されることが」
「間違いを残す方が嫌です」
答えると、彼女は視線を下げた。
口元に、昨日と同じ小さな笑みが浮かぶ。
「レインさんは、変わった方ですね」
「よく言われます」
本当は、あまり言われたことはない。
けれど彼女が笑ったので、訂正しなかった。
その後も日程を一つずつ確認した。
アルノー嬢は礼儀正しく、質問は簡潔で、使用人や訪問先への負担を先に気にした。
何も知らない令嬢ではない。
むしろ、多くの人間へ指示を出すことに慣れているようにも見えた。
それでも、明日の朝食を何時にするか尋ねられた時だけ、彼女は答えに詰まった。
「アルノー嬢のお好きな時間で構いません」
「私の、好きな時間……」
彼女は困ったようにクラリスを見た。
クラリスは何も答えず、静かに待っている。
「では……八時でお願いします」
「承知しました」
たったそれだけの選択を終えたアルノー嬢は、難しい文書へ署名した後のように息を吐いた。
僕には理由が分からない。
尋ねることもできた。
けれど昨日、彼女は質問しないことへ感謝した。
だから僕は、日程表へ朝食の時間を書き込むだけにした。
「それでは、八時に」
「はい」
書類をまとめ、席を立つ。
扉へ向かう僕の背中へ、アルノー嬢の声が届いた。
「レインさん」
振り返る。
「昨日も今日も、ありがとうございます」
「まだ何もしていません」
「何もしないでいてくださることも、時にはありがたいのです」
彼女はそれ以上説明しなかった。
僕も尋ねなかった。
書斎へ戻る廊下を歩きながら、ローデン伯爵の言葉を思い出す。
言葉の裏を読むな。
彼女が何者で、なぜこれほど守られ、なぜ朝食の時間を決めるだけで迷うのか。
知る必要はない。
僕はそう理解していた。
それなのに、知ってはならないと言われたその人を、僕はまだ何も知らないのだと思った。
そして不思議なことに、知らないままでいることを、もう少しだけ惜しいと感じていた。




