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君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱる子
第一部「雨の停車場」

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第1話 彼女が王女だと知った夜

 彼女が王女だと知ったのは、僕が彼女を庇って刃を受けた、夏祭りの夜だった。


 その瞬間まで、僕は彼女を「エリー」としか知らなかった。


 石畳に倒れた僕の頬を、生温かい雨が叩いていた。


 いや、雨ではなかったのかもしれない。


 耳の奥では楽団の音が途切れ、代わりに誰かの叫び声と、駆け寄ってくる靴音が重なっていた。夜空には祭りの灯りが滲み、何もかもが水の底に沈んだようにぼやけている。


「テオ!」


 彼女の声がした。


 いつもは穏やかな声が、今は震えていた。


 僕のそばへ膝をついた少女の白いドレスに、赤いものが広がっていく。彼女自身の血ではない。僕の上着を押さえた手が、みるみる赤く染まっていた。


「大丈夫、です」


 そう言ったつもりだった。


 けれど、喉から漏れたのは息だけだった。


 誰かが彼女の腕をつかんだ。


「殿下、ここは危険です。お下がりください!」


「離しなさい」


 聞いたことのない声だった。


 けれど間違いなく、彼女の声だった。


 細い肩を震わせながら、彼女は立ち上がった。


 銀白色の髪がほどけ、濡れた頬に張りついている。それでも、その青灰色の瞳だけは真っ直ぐに周囲を見据えていた。


「アルディナ第一王女として命じます。私の警護より、彼の命を優先しなさい!」


 その場にいた男たちが、一斉に膝をついた。


 鎧が石畳を打つ、鈍い音が響く。


 僕はその光景を見上げながら、ようやく理解した。


 僕がエリーと呼んでいた少女は、エリーではなかったのだ。



 それより、数週間前。


 セレネ王国南部を襲った夏の豪雨は、朝から一度も弱まる気配を見せなかった。


 ロスウェル侯爵家の玄関を出た瞬間、傘を差すより先に風が雨粒を運んできた。磨いたばかりの靴の先へ、遠慮なく泥水が跳ねる。


 僕はしばらく靴を見下ろし、それから諦めて馬車へ乗り込んだ。


「駅へ。急いでください。ただし、車輪を取られない程度に」


「承知しました、レインさん」


 御者が苦笑し、手綱を鳴らした。


 急げと言いながら安全を求めるのは、いささか勝手な注文だった。しかし、迎える相手を待たせるわけにはいかないし、馬車ごと水路へ落ちるわけにもいかない。


 僕は濡れた袖を払い、革鞄から折り畳んだ電報を取り出した。


 アルディナより令嬢一名到着。


 同行者あり。


 到着予定、午後三時十二分。


 詳しい身分についての記載はない。


 ロスウェル侯爵夫人から受けた指示も簡潔だった。


「遠縁の令嬢が、しばらく我が家で夏を過ごします。外国からの客人ですから、失礼のないように迎えてください」


「お名前は?」


「エリー・アルノー嬢です」


「それ以外に、僕が知っておくべきことはありますか」


 そう尋ねると、侯爵夫人はわずかに間を置いた。


「今は、それだけで十分です」


 侯爵家に仕えるようになって二年。


 僕は、その言葉が「それ以上は尋ねるな」という意味であることくらい理解していた。


 秘書の仕事には、知らなければならないことを見分ける能力と同じくらい、知らなくてよいことへ口を出さない慎重さが求められる。


 もっとも、その慎重さを覚えたのは侯爵家に仕えてからではない。


 家が傾けば、余計な望みを口にしないことくらい、誰でも身につける。


 父が残した負債。郊外で暮らす母と妹。途中で辞めた大学。


 僕が外交官になるために学んでいた法律や外国語は、今では侯爵家の契約書を読み、来客の手紙を翻訳するために役立っている。


 無駄になったとは思っていない。


 そう思わなければ、やっていられないだけかもしれなかった。


 馬車が大きく揺れた。


 窓の外では、雨に煙る町並みがゆっくりと後ろへ流れていく。軒下へ逃げ込む人々、荷車へ布をかける商人、増水した側溝。


 晴れていれば侯爵邸から駅まで二十分もかからない。


 今日は倍近い時間を要した。


 駅へ着いた時には、時計の針はすでに三時半を回っていた。


 だが、列車もまだ到着していなかった。


「北側の線路で倒木があったそうです」


 駅員は帽子を脱ぎ、額の汗を拭った。


「撤去は済みました。もう間もなく到着するはずです」


「分かりました。待合室にいます」


 小さな停車場だった。


 煉瓦造りの駅舎には湿った石炭と古い木材の匂いが満ちている。屋根を叩く雨音が大きく、隣にいる人間の話し声さえ聞き取りにくい。


 僕は待合室の窓際に立ち、懐中時計を確かめた。


 三時四十六分。


 侯爵家へ戻れば、夕刻の書簡整理が待っている。その後はアルディナ語の歓迎文書を再確認し、客室係へ明日の予定を渡さなければならない。


 住み込み秘書というのは、肩書ほど優雅な仕事ではない。


 もっとも、没落男爵家の次男に、仕事の優雅さを選ぶ余地などなかった。


 遠くから汽笛が聞こえた。


 待合室にいた人々が一斉に立ち上がる。


 僕も鞄を持ち直し、ホームへ出た。


 風が傘をひっくり返しかけた。どうにか柄を握り直したところで、黒い煙を吐く機関車が雨の向こうから姿を現す。


 車輪が軋み、白い蒸気がホームを覆った。


 扉が開く。


 旅行鞄を抱えた商人や、泣く子供の手を引いた母親が次々と降りてくる。僕はその人波の向こうへ視線を巡らせた。


 アルディナから来る令嬢。


 年齢も、容姿も聞かされていない。


 それでも、その人が客人だとすぐに分かった。


 最後に近い車両から、一人の少女が降りてきた。


 最初に目へ入ったのは、銀白色の髪だった。


 雨空の下でも淡く光を含み、背中まで真っ直ぐに流れている。青みを帯びた旅行着は華美ではないが、布地も仕立ても上等だった。


 少女はホームへ足を下ろすと、すぐに周囲を見回した。


 何かを探すというより、危険がないか確かめるような目だった。


 後ろから降りてきた女性が傘を差しかける。


 少女は小さく礼を言い、それからこちらへ顔を向けた。


 青灰色の瞳と目が合った。


 整った顔立ちに驚いたのは確かだ。


 だが、それ以上に印象へ残ったのは、彼女が一歩を踏み出すまでの短い沈黙だった。


 僕が迎えの人間だと確信できないのだろう。


 当然の慎重さだ。


 僕は胸元から侯爵家の紋章が入った身分証を取り出し、彼女へ見えるように示した。


「アルノー嬢でしょうか。ロスウェル侯爵家から参りました」


 少女の肩から、わずかに力が抜けた。


「はい」


 答えは小さかったが、雨音の中でも不思議とはっきり聞こえた。


 僕は傘を傾け、彼女の方へ歩み寄った。


「列車の遅延、大変でしたね。馬車を待たせています」


「ありがとうございます」


 彼女は丁寧に一礼した。


 その動きは優雅だったが、少しだけぎこちない。長時間の移動で疲れているのかもしれない。


 僕が荷物を受け取ろうとした時、突風がホームを吹き抜けた。


 少女の傘が煽られる。


「あ……」


 彼女は咄嗟に傘を押さえた。


 その拍子に、濡れた石の上で靴が滑った。


 身体が傾く。


 僕は鞄を足元へ落とし、手を伸ばした。


「転ぶ前につかまってください」


 差し出した手を前にして、少女は一瞬だけ動きを止めた。


 すぐにつかまることも、助けを拒むこともしなかった。


 青灰色の瞳が、僕の顔から手元へ移る。


 まるで、差し出された手が本当に安全なものなのか、確かめているようだった。


 僕は急かさず、そのまま待った。


 やがて彼女の白い指先が、僕の手袋へ触れた。


 軽く触れただけだった指に、少しずつ力がこもる。


 僕が腕を引くと、彼女は体勢を立て直した。


「失礼しました」


「いいえ。お怪我はありませんか」


「大丈夫です」


 彼女はそう答えた後も、すぐには僕の手を離さなかった。


 ほんの一呼吸ほど遅れて、それに気づいたように指をほどく。


 その頬に、ごく薄く赤みが差していた。


「エリー・アルノーです」


 改めて、彼女は名乗った。


「このたびは、お世話になります」


「テオ・レインです。侯爵家では秘書を務めています」


「レインさん」


 確かめるように、彼女が僕の名を口にする。


「はい、アルノー嬢」


 僕が答えると、彼女はわずかに笑った。


 笑顔と呼ぶには、あまりに小さな変化だった。


 けれど、先ほどまで警戒するように固く結ばれていた唇が、確かに少しだけ緩んでいる。


 再び風が吹いた。


 僕は彼女へ雨がかからないよう傘を傾け、足元の鞄を拾う。


「馬車まで滑りやすくなっています。お気をつけください」


「はい」


 彼女は一歩を踏み出し、それからもう一度、僕の手を見た。


 けれど今度は助けを求めず、自分の足で濡れたホームを歩き始める。


 僕はその半歩前を歩きながら、歩幅を少しだけ緩めた。


 雨音に包まれた停車場で、銀白色の髪が揺れている。


 ただ美しいだけなら、きっと珍しい客人として記憶しただけだっただろう。


 けれど僕の手を取るまでの慎重さと、取った後に見せた小さな安堵は、妙に心へ残った。


 馬車へ向かう途中、彼女がふと顔を上げた。


 もう一度、青灰色の瞳と目が合う。


 その時も僕はまだ、彼女がどのような人なのか、何一つ知らなかった。


 ただ、その手を離したくないと思った理由だけは、もう始まっていた。

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