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君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱる子
第二部「王女ではない夏」

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第10話 花火の音

 破裂音が響いた瞬間、エリーの手から本が落ちた。


 乾いた大きな音が、日没直後の庭を震わせる。


 僕が空を見上げるより早く、エリーは両手で耳を塞ぎ、その場へしゃがみ込んだ。


「エリー?」


 返事はなかった。


 白い顔で俯き、短い呼吸を何度も繰り返している。


 夕食までの短い時間、僕たちはロスウェル侯爵邸の庭にいた。


 西の空にはまだ橙色の光が残り、庭に立つランプへ火が入れられたばかりだった。


 木陰の卓には資料が広げられている。


 僕はセレネ語の文書を確認し、エリーは僕へ渡した対訳ノートに、新しい語句を書き加えていた。


 少し離れた場所にはクラリスがいて、護衛たちも庭の出入口に立っていた。


 穏やかな夏の夕暮れだった。


 それを一度の破裂音が切り裂いた。


「西の町です」


 護衛の一人が、庭の外へ視線を向けた。


「上空に火花を確認しました」


「火事ですか」


 クラリスの声が鋭くなる。


 次の瞬間、暮れかけた空に赤い光が開いた。


 少し遅れて、二度目の音が届く。


 花火だった。


 町で開かれる夏の催しに向けた、試し打ちなのだろう。


 危険ではない。


 そう分かったのに、クラリスも護衛たちも緊張を解かなかった。


 一人が門へ向かい、別の一人がエリーと屋敷の間へ立つ。クラリスはすぐに彼女のそばへ膝をついた。


「エリー様。こちらをご覧ください」


 エリーは顔を上げない。


「花火でございます。庭に危険はありません」


 三度目の音が響いた。


 エリーの肩が大きく跳ねる。


 身体を守るように腕を縮め、さらに小さくなった。


「お部屋へ戻りましょう」


 クラリスが手を差し出す。


 けれど、エリーは動けなかった。


 立ち上がれないというより、足元から意識を離せないように見えた。


 僕はすぐ近くまで進みかけ、止まった。


 海辺で彼女を抱きとめた時とは違う。


 転びそうな身体を支えるなら、考える前に触れられる。けれど今、僕が勝手に腕をつかめば、かえって逃げ道を塞ぐかもしれない。


「クラリスさん」


 僕は声を落とした。


「無理に動かさない方がよいですか」


 クラリスが僕を見る。


 その顔には、普段の落ち着きとは違う緊張があった。


「ええ。今は、このままの方がよろしいかと」


「分かりました」


 僕はエリーから腕一本分ほど離れた場所へ腰を下ろした。


 正面には座らない。


 彼女が顔を上げた時、視界を塞がない位置を選んだ。


「エリー」


 聞こえる程度の声で呼ぶ。


「僕はここにいます」


 返事はない。


 また花火が上がった。


 薄暗くなった空へ緑色の火花が広がり、破裂音が窓硝子をかすかに震わせる。


 エリーの呼吸がさらに速くなった。


 息を吸うたび、喉の奥で細い音がする。


「ゆっくり息をしてください」


 そう言ってから、言葉だけで呼吸を整えるのは難しいと思い直した。


 僕自身が、少し大きく息を吸う。


 急がずに吐く。


 もう一度、同じように繰り返した。


「僕に合わせなくても構いません。ただ、息を吐く方を少し長くしてみてください」


 エリーの肩はまだ震えていた。


 それでも、何度目かに吐いた息が、先ほどよりわずかに長くなる。


 クラリスはエリーの反対側へ座ったまま、背中には触れなかった。


「水をご用意します」


 彼女が護衛へ告げる。


 護衛の一人がすぐに屋敷へ向かった。


 庭の塀の向こうから、花火に気づいた子供たちの声がかすかに聞こえる。


 空へ上がる光を喜ぶ声だった。


 こちらとは、あまりに違う。


 四度目の光が打ち上がった。


「次も鳴ります」


 僕はエリーへ伝えた。


「今、光りました。少ししてから音が来ます」


 数秒後、破裂音が響く。


 エリーは身を固くしたが、先ほどのように大きく肩を跳ねさせることはなかった。


「もう一度上がったら、先に言います」


 僕は空を見る。


 次の光を待ちながら、彼女の様子を視界の端で確かめた。


 銀白色の髪が顔へかかり、その下で唇が震えている。


「テオ」


 かすかな声だった。


「はい」


「……近くに、いますか」


「います」


「どこにも、行きませんか」


「行きません」


 エリーはゆっくり顔を上げた。


 青灰色の瞳は、僕の姿を確かめるように何度か動いた。


 次の花火が上がる。


「光りました」


 僕が言うと、エリーは目を閉じた。


 音が届く。


 彼女の指が芝をつかみ、すぐに離した。


「大丈夫です」


 言いかけて、やめた。


 僕が安全だと分かっていても、彼女の恐怖が消えるわけではない。


「花火です」


 事実だけを伝える。


「町の西側です。ここからは離れています」


 エリーは目を開けた。


「……分かっています」


「はい」


「分かっているのに」


 声が掠れる。


 僕は続きを促さなかった。


 水を持った護衛が戻り、クラリスへ渡す。


 クラリスは硝子杯へ注ぎ、エリーの見える場所へ置いた。


「急いで飲まなくても結構です」


 エリーは杯へ手を伸ばしかけたが、指先が震えて持ち上げられない。


 クラリスが支えようとした時、エリーは小さく首を横へ振った。


「自分で……」


「承知しました」


 クラリスは手を引いた。


 エリーは両手で杯を包み、ゆっくり持ち上げた。


 唇へ運ぶまでに時間がかかったが、一口だけ水を飲む。


「もう一口、飲めそうですか」


 僕が尋ねる。


 エリーは頷き、今度は先ほどより少し長く飲んだ。


 空に光が上がる。


 夕暮れの青は薄れ、花火の色が先ほどよりはっきり見えた。


「次が来ます」


 僕の声に、エリーは杯を膝の上へ置く。


 音が響く。


 まだ身体は震えた。


 けれど、呼吸は少しずつ深くなっている。


 何発目かを境に、花火の間隔が長くなった。


 最後の一発が開き、赤い火花が夜へ溶けていく。


 それから空は静かになった。


「終わったようです」


 護衛の一人が告げる。


 クラリスはすぐには立ち上がらなかった。


 僕も動かなかった。


 音が止んだ後も、エリーの震えは続いていた。


 静かになったからといって、身体まで同時に静かになるわけではないらしい。


「戻りましょうか」


 クラリスが尋ねる。


 エリーは首を横へ振った。


「もう少し……ここにいます」


「承知しました」


 クラリスは護衛へ目配せする。


 彼らは庭の周囲へ散り、こちらを囲まない位置へ戻った。


 庭のランプが、芝の上へ淡い光を落としている。


 僕たちの近くには、葉を揺らす風の音だけが残った。


「何か話した方がよいですか」


 僕が尋ねる。


 エリーはしばらく考えた。


「今は、何も」


「分かりました」


 沈黙が続いた。


 僕は立ち上がらず、彼女と同じ高さで暗くなっていく庭を見ていた。


 目の前には、先ほど落ちた本が開いたままになっている。


 風で頁がめくれそうになり、僕は手を伸ばして閉じた。


 エリーの方は見ない。


 呼吸の音だけを確かめる。


 速かった息が、少しずつ元へ戻っていく。


 やがて彼女が、小さな声で言った。


「怖いです、テオ」


 今まで、自分は平気だと言おうとしていたのかもしれない。


 けれど、その言葉には言い訳も説明もなかった。


 ただ、怖いという事実だけがあった。


「では、怖くなくなるまでいます」


 僕が答えると、エリーは目を伏せた。


「長くかかるかもしれません」


「今夜は、この後に急ぎの予定はありません」


「仕事があるでしょう」


「後でもできます」


「侯爵夫人に叱られませんか」


「事情を話せば、叱られないと思います」


「何と話すのですか」


「エリーが庭で少し休んでいると」


 彼女は僕を見る。


「それだけ?」


「それ以上、何が必要ですか」


 エリーの唇がわずかに動いた。


 笑おうとしたようにも見えたが、まだ形にはならなかった。


「理由を、聞かないのですね」


「話したいのですか」


 エリーはすぐに答えなかった。


 膝の上の杯へ視線を落とし、親指で縁をなぞる。


「以前、馬車のすぐ近くで大きな音がしたことがあります」


 声は静かだった。


「窓が割れて、護衛の方が倒れました。それ以来、突然鳴る音が……苦手です」


「そうですか」


「それだけです」


「分かりました」


 エリーが顔を上げる。


「本当に、それだけでよいのですか」


「詳しく話す必要はありません」


「気にならないのですか」


「気にはなります」


 正直に答える。


「ですが、僕が知りたいことと、エリーが話したいことは同じではないでしょう」


 彼女の指が、杯の縁で止まった。


「話さなくても、怒りませんか」


「怒る理由がありません」


「信じていないと思いませんか」


「思いません」


「秘密が多い人でも?」


 その言葉に、少しだけ引っかかりを覚えた。


 けれど、今ここで問い返すべきことではない。


「誰にでも、話せないことはあります」


 僕は閉じた本を彼女のそばへ置いた。


「話せる時が来たら、聞きます。来なければ、それでも構いません」


「……テオは、ずるいです」


「何がですか」


「そのように言われると、いつか話したくなります」


「では、その時まで待ちます」


 エリーは俯いた。


 今度こそ、口元にごく小さな笑みが浮かんだ。


 クラリスが、少し離れた場所から静かに声をかける。


「エリー様。お部屋へ戻れそうでしょうか」


 エリーは自分の呼吸を確かめるように、ゆっくり息を吸った。


「もう少しだけ」


「承知しました」


 クラリスは急かさなかった。


 庭はすっかり暗くなり、窓から漏れる屋敷の灯りが芝の端まで伸びている。


 僕は隣に座ったまま、夜空を見上げた。


 もう花火は上がらない。


 それでも、エリーが立ち上がるまでは動かないつもりだった。


 しばらくして、彼女の手がわずかに動いた。


 僕の方へ伸び、袖の端を短くつかむ。


 強くもなく、引き止めるほどでもない。


 そこにいることを確かめるような、小さな触れ方だった。


 僕は何も言わなかった。


 袖をつかんだ指が自分から離れるまで、ただ夜の庭で隣に座っていた。


 守るとは、抱きしめることだけではない。相手が自分で立てるまで、勝手に動かさず隣にいることでもあるのだと、その夜初めて知った。

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