第11話 砂糖を四杯
「こちらの卓は、もう少し壁際へ寄せた方がよろしいと思います」
若い令嬢が会場図へ指を置いた。
「踊り終えた方々が休む場所と、給仕の通路が重なってしまいますので」
「確かに。その場合、楽団との距離はどうでしょう」
「二列目までなら、会話に支障はないかと」
僕は図面へ修正を書き込んだ。
ロスウェル侯爵家で開かれる夏の舞踏会まで、あと数日。
地元貴族の家々からも準備の手伝いが入り、屋敷の中では朝から使用人たちが慌ただしく動いていた。
向かいに座る令嬢は、過去にも侯爵家の催しを手伝った経験があるらしい。
客人の席順、花の配置、休憩室へ運ぶ飲み物の量まで、細かな点によく気づいた。
「ご婦人方の控室には、扇を多めに用意した方がよいでしょうか」
「今年は例年より暑いですから、必要ですね。予備も含めて数を確認します」
「レイン秘書は、こうした催しの準備にも慣れていらっしゃるのですね」
「侯爵家へ仕えていれば、外交文書だけを扱うわけにもいきませんから」
「頼もしいことです」
令嬢は朗らかに笑った。
そこに特別な意味はない。
仕事が順調に進んでいることへの、普通の笑顔だ。
僕も礼儀として微笑み返し、次の確認事項へ移ろうとした。
その時、視線を感じた。
少し離れた窓際で、エリーが紅茶を飲んでいる。
手元には本が開かれていたが、頁はしばらく同じままだった。
僕と目が合う。
エリーは完璧な微笑みを浮かべ、何事もなかったように本へ視線を戻した。
「では、当日の進行についてですが」
令嬢の声に、僕も仕事へ意識を戻す。
舞踏会の開始時刻。
侯爵夫妻の挨拶。
最初の曲が始まるまでの流れ。
確認することは多く、打ち合わせは予定より長引いた。
その間、エリーは一度も会話へ加わらなかった。
ただ、紅茶へ砂糖を入れていた。
一杯目。
二杯目。
三杯目。
僕は話しながら、その手元を目で追っていた。
四杯目の砂糖が匙へ載せられたところで、さすがに声をかける。
「エリー」
「何ですか」
「それ以上は、やめた方がよいのでは?」
令嬢もつられてエリーのカップを見た。
エリーは砂糖を載せた匙を止める。
「なぜですか」
「もう四杯目です」
「数えていたのですか」
「目に入りましたから」
「打ち合わせ中ではなかったのですか」
「打ち合わせ中でも、四杯の砂糖は目立ちます」
エリーは匙の上の砂糖を見た。
少し考えた後、そのままカップへ落とす。
「入れるのですね」
「すでに載せてしまいましたから」
「戻せばよかったでしょう」
「砂糖壺へ戻すのは、行儀がよくありません」
「紅茶へ四杯入れるのはよいのですか」
エリーは答えず、静かに紅茶をかき混ぜた。
銀の匙が、カップの内側へ小さく触れる。
向かいの令嬢が口元へ手を添えた。
「お二人は、ずいぶん親しくなられたのですね」
「アルノー嬢の滞在中、案内を担当しておりますので」
僕は公の呼び方へ戻して答えた。
エリーの匙が止まった。
「レイン秘書は、とても丁寧に案内してくださいます」
声も表情も穏やかだった。
だが、なぜか褒められている気はしなかった。
「それでは、残りは当日の朝に確認いたしましょう」
令嬢が書類をまとめる。
「長い時間、お引き止めしてしまいました」
「こちらこそ、助かりました」
「当日もよろしくお願いいたします」
「はい」
僕が立ち上がると、令嬢も席を立った。
扉まで見送り、廊下で使用人へ案内を頼む。
談話室へ戻ると、エリーはまだ同じ頁を開いていた。
紅茶にも口をつけていない。
「打ち合わせは終わったのですか」
「はい」
「ずいぶん長かったですね」
「確認することが多かったので」
「楽しそうでした」
「仕事が滞りなく進むのは、楽しいことです」
エリーは本から顔を上げた。
「そういう意味ではありません」
「では、どういう意味ですか」
「別に」
彼女は紅茶へ手を伸ばす。
僕は向かいの椅子へ座った。
「冷めていますよ」
「冷めた紅茶も飲めます」
「甘さの方が問題だと思いますが」
「テオには関係ありません」
「体調を崩されると、予定を変更する必要があります」
「秘書として心配しているのですか」
「それ以外に何がありますか」
答えると、エリーの眉がわずかに動いた。
自分でも、少し意地の悪い返しだと思った。
花火の夜以来、エリーは以前より僕のそばで力を抜くようになった。
その変化を嬉しいと思う一方で、今のような反応を向けられると、理由を確かめたくなる。
「先ほどの方は、舞踏会にも参加なさるのですね」
エリーが何気ない調子で尋ねた。
「はい。ご家族と一緒に」
「よく、こちらへいらっしゃるのですか」
「侯爵家の催しには、時々」
「昔からのお知り合い?」
「顔を合わせたことはあります」
「踊ったことも?」
「どうでしょう。覚えていません」
エリーがカップを置いた。
「踊った相手を覚えていないのですか」
「舞踏会では、挨拶として踊ることもありますから」
「そうですか」
短い返事だった。
彼女は窓の外へ顔を向ける。
庭では、使用人たちが長い布を運んでいた。楽団用の壇を飾るものだろう。
「エリーも、あの方とお話ししたかったですか」
「いいえ」
「ずっとこちらを見ていましたが」
「見ていません」
「本の頁が一度も変わっていませんでした」
エリーは開いた本へ目を落とした。
それから、ようやく一枚めくる。
「難しい頁だったのです」
「どのような内容でしたか」
「……まだ読んでいる途中です」
「最初の行から?」
エリーが僕を睨んだ。
「テオは、仕事中に周りを見すぎです」
「秘書には必要な能力です」
「先ほどの方のことも、よく見ていましたね」
「話している相手の顔を見るのは礼儀でしょう」
「では、私が話している時も同じなのですね」
「同じとは?」
「誰にでも、あのように笑うのですか」
問いかけた後、エリーは自分の言葉に気づいたように口を閉じた。
頬が少しずつ赤くなる。
僕の胸の奥では、場違いなほど軽いものが跳ねた。
期待してはいけない。
ただの好奇心かもしれないし、案内役がほかの人へ注意を向けたことが気に入らないだけかもしれない。
それでも、嬉しくないと言えば嘘になる。
「エリー」
「何ですか」
「テオが誰と踊っても、私には関係ありません」
尋ねる前に、彼女が言った。
あまりにきっぱりとしていたので、僕は一瞬黙る。
「それなら、なぜ砂糖が四杯も?」
「……今日の紅茶は苦いのです」
「まだ飲んでいなかったでしょう」
「香りで分かります」
「ずいぶん便利な味覚ですね」
「嫌なら、砂糖を減らしてください」
「もう溶けています」
「では、どうしようもありません」
エリーは少し勝ち誇ったようにカップを持ち上げた。
しかし、まだ飲まない。
「先ほどの方は、踊りがお上手なのでしょうか」
「聞いたことはありません」
「舞踏会の準備に慣れているなら、踊ることにも慣れていそうです」
「関係があるでしょうか」
「あるかもしれません」
「気になりますか」
「催しへ参加する方について知っておくのは、普通です」
「ほかの招待客については、一人も尋ねませんでしたね」
エリーはカップ越しに僕を見る。
「たまたまです」
「そういうことにしておきます」
「何ですか、その言い方は」
「何でもありません」
これ以上からかえば、本当に怒らせてしまう。
僕は笑いを抑え、机の上に残された会場図を畳んだ。
「安心してください」
「何をですか」
「僕は当日、あの方と踊る予定はありません」
エリーの目が、すぐに僕へ向いた。
「なぜですか」
「舞踏会の間は仕事があります。進行の確認や、招待客の案内をしなければなりません」
「一曲も?」
「必要がなければ」
「そうですか」
エリーはそれだけ答えた。
だが、先ほどまで固く結ばれていた唇が、わずかに緩んでいる。
肩の力も抜けたように見えた。
「ずいぶん安心した顔ですね」
「していません」
「そうですか」
「仕事が滞りなく進みそうで、安心しただけです」
「それは何よりです」
エリーは僕から顔を逸らし、ようやく紅茶へ口をつけた。
次の瞬間、眉が寄る。
「……甘いです」
「四杯も入れれば、そうでしょう」
「テオが途中で止めなかったからです」
「四杯目で止めました」
「もっと早く言ってください」
「一杯目から数えていると思われるのも、どうかと思いまして」
「先ほどは、数えていたと言ったではありませんか」
「四杯目で気づいたことにしてください」
「嘘ですね」
エリーはもう一口飲もうとして、やめた。
カップを遠ざけるように、受け皿の上へ戻す。
「新しい紅茶をお持ちしましょうか」
「結構です」
「無理に飲む必要はありませんよ」
「自分で入れたものですから、飲みます」
「それは、選択ではなく意地だと思います」
「テオには関係ありません」
二度目の言葉は、最初よりずっと弱かった。
僕は給仕を呼ばず、水差しから少しだけ湯を足した。
「これなら、多少は飲みやすくなるでしょう」
「勝手に変えましたね」
「飲み切ると決めたのはエリーです。僕は手伝っただけです」
彼女は言い返さず、薄まった紅茶を一口飲む。
「まだ甘いです」
「当然です」
エリーは不満そうにカップを見つめた。
その頬には、先ほどまでとは違う赤みが残っている。
今日の紅茶は苦いと言ったのに、実際には甘すぎた。
けれど僕には、その紅茶よりも、舞踏会で僕が誰とも踊らないと知った時の彼女の反応の方が――。
そこまで考えて、やめた。
僕まで砂糖を入れすぎたようなことを考え始めている。
きっと、舞踏会の準備で疲れているだけだ。
そう言い聞かせながら、僕は彼女が誰と踊るのかを、必要以上に気にしていた。




