第12話 母が遺した言葉
その封書は、朝の郵便物とは別に届いた。
濃い青の封蝋。
厚い紙。
差出人の名はなく、封筒の端にはアルディナ王国で使われる格式高い書式だけが記されていた。
「エリー様へ、直接お渡しくださいとのことです」
ローデン伯爵付きの従者から受け取り、僕は重さを確かめるように手の中で持ち直した。
単なる私信にしては、ずいぶん厳重だ。
だが、僕が知る必要のある文書ではない。
「承知しました」
侯爵家の受領簿へ時刻だけを書き、封書を持って談話室へ向かった。
舞踏会を翌日に控え、屋敷の中は朝から騒がしい。
廊下では花瓶が運ばれ、広間からは楽団の音合わせが聞こえてくる。使用人たちは足早に行き交いながらも、封書を持つ僕を見ると道を空けた。
窓際の卓で、エリーは招待客の名簿を眺めていた。
隣にはクラリスが立ち、衣装の最終確認について話している。
「失礼します」
僕が声をかけると、エリーが顔を上げた。
「どうしました、テオ」
「アルディナから、エリー宛てです」
封書を差し出す。
彼女の視線が青い封蝋へ落ちた。
それだけで、表情が止まった。
「……ありがとうございます」
受け取る指先は、いつもどおり落ち着いている。
けれど、封筒を裏返した時、親指が一度だけ封蝋の縁で止まった。
「急ぎでしょうか」
「直接渡すようにとは言われましたが、内容については何も」
「そうですか」
エリーは封書を名簿の上へ置いた。
すぐに開こうとはしない。
「ほかに、何か伝言は?」
「ありません」
「分かりました」
微笑みは柔らかかった。
それでも、僕ではなく、窓の外へ向けられているように見えた。
クラリスが封書へ目を落とす。
「エリー様。お部屋でご覧になりますか」
「いいえ。後で構いません」
「ですが」
「今は、こちらの確認を終えましょう」
エリーは名簿へ手を戻した。
「テオ、この方のお名前の発音を、もう一度教えていただけますか」
示されたのは、昨日も確認した名だった。
「こちらですか」
「はい」
「セレネ語では、最初の音を少し弱くします」
僕が発音すると、エリーも続ける。
一度で正しく言えた。
それなのに彼女は、同じ名をもう一度尋ねた。
封書は卓の端に置かれたまま、誰にも触れられない。
◇
昼を過ぎても、エリーの態度は変わらなかった。
言葉は優しい。
僕の仕事にも、舞踏会の準備にも、いつもと同じように気を配っている。
ただ、笑った後に、ふと遠くを見る。
廊下で花を運ぶ使用人へ道を譲った時。
仕立屋から届いた手袋を試した時。
僕が会場図を広げ、明日の動きを説明した時。
青灰色の瞳が、一瞬だけ別の場所へ向かう。
封書はもう彼女の手元にはなかった。
開いたのかどうかも、僕には分からない。
「テオ」
「はい」
「明日の舞踏会では、ずっとお仕事なのですよね」
「ほとんどは」
「ほとんど?」
「すべて予定どおり進めば、途中で少し休めるかもしれません」
「その時間は、何をするのですか」
「何を、と言われても」
エリーは僕を見ている。
「水を飲むか、会場の端で次の予定を確認すると思います」
「踊ることは?」
昨日、砂糖を四杯も入れた時の会話を思い出した。
「必要があれば」
「必要がなければ?」
「踊りません」
「そうですか」
エリーは小さく頷いた。
その返事に、昨日のような明るさはなかった。
「エリーは、踊りたいのですか」
「舞踏会へ出るのですから、踊ることはあると思います」
「そうではなく、自分から踊りたい相手がいるのかと」
尋ねた瞬間、彼女の手が止まった。
卓の上には、明日使う扇が置かれている。
白い羽根の先を、指でそっと押さえる。
「……まだ、分かりません」
「まだ?」
「いいえ。今のは忘れてください」
「難しい言葉ではありませんでしたが」
「簡単な言葉ほど、忘れていただきたい時もあります」
エリーは扇を閉じた。
それから僕へ微笑む。
いつものように整った笑顔だった。
だが、目元には少しだけ力が入っている。
「テオは、明日の確認へ戻ってください」
「追い出されましたか」
「お仕事をお願いしただけです」
「同じことでは?」
「違います」
エリーは答えたが、声には普段ほどの勢いがなかった。
そこへ、マリアンヌ侯爵夫人が入ってきた。
「エリー。少しよろしいかしら」
「はい、伯母様」
エリーが立ち上がる。
マリアンヌ夫人は卓の上を見回し、僕へ視線を向けた。
「テオ。悪いけれど、しばらく席を外してもらえる?」
「承知しました」
理由は尋ねなかった。
書類をまとめ、扉へ向かう。
「テオ」
背後からエリーに呼ばれた。
振り返る。
彼女は何かを言おうとしていた。
唇がわずかに開き、それから閉じる。
「……後で」
「はい」
何を後で話すのか。
それを聞く前に、マリアンヌ夫人がエリーのそばへ座った。
僕は一礼して、部屋を出た。
扉が閉じれば、中の声は聞こえない。
廊下には花の香りと、広間から流れてくる舞曲だけが残った。
僕は会場の確認へ戻った。
卓の配置を直し、給仕の通路を確かめ、届いた葡萄酒の本数を帳簿と照らす。
仕事は途切れなかった。
それでも、エリーが言いかけた「後で」が、頭の片隅から消えなかった。
◇
日が傾き始めた頃、僕は裏庭の回廊でエリーを見つけた。
白い柱の間から、夕方の光が差している。
彼女は一人で庭を見ていた。
クラリスは少し離れた場所にいて、僕に気づくと静かに一礼した。
「エリー」
声をかける。
彼女は振り返り、少しだけ驚いた顔をした。
「テオ。お仕事は?」
「今、一区切りつきました」
「そうですか」
「こちらにいても?」
エリーは頷いた。
僕は隣へ並ぶ。
庭では、舞踏会に使う白い花がいくつも切り取られ、植え込みの一部が寂しくなっていた。
「侯爵夫人とのお話は終わりましたか」
「はい」
「何か、困ったことでも?」
尋ねると、エリーはすぐには答えなかった。
「困っているように見えますか」
「少し」
「テオは、よく見ていますね」
「仕事柄です」
「便利な言葉です」
「エリーも使うでしょう」
彼女は小さく笑った。
けれど、やはりその後で庭の向こうを見る。
「母に、昔言われたことがあります」
「母上に?」
「ええ」
エリーは柱へ片手を添えた。
指先が、白い石の上をゆっくり滑る。
「誰かに選ばれる前に、自分が誰を選びたいのかを知りなさい」
静かな声だった。
僕は言葉の意味を確かめるように、心の中で繰り返した。
「誰かに選ばれる前に、自分が誰を選びたいのかを知りなさい」
「母上らしい言葉ですか」
「はい」
エリーは微笑んだ。
「いつも、私が答えを出すまで待ってくれる人でした」
「夏の願い帳を書いた方ですからね」
「覚えていたのですか」
「大切な言葉に見えましたから」
エリーは胸元へ手を添えた。
そこに手帳があるわけではない。
今日は部屋へ置いてきたのだろう。
「なぜ、今その言葉を思い出したのですか」
僕が尋ねると、彼女の視線が揺れた。
庭。
僕。
また庭。
「明日は舞踏会ですから」
「舞踏会と、その言葉に関係が?」
「多くの人が、相手を選ぶ場でしょう」
「最初の一曲を誰と踊るか、という話ですか」
「それだけではありません」
答えた後で、エリーは口を閉じた。
「それだけではない?」
「忘れてください」
「今日は、忘れてほしいことが多いですね」
「テオが細かく覚えすぎるのです」
「忘れるように言われたことほど、気になるものです」
エリーは困ったように眉を下げた。
僕は追及をやめる。
彼女が話したくないことを聞き出さない。
花火の夜にそう決めたばかりだ。
「では、母上の言葉だけ覚えておきます」
「それは、忘れないのですか」
「よい言葉ですから」
「テオにも、選びたい人がいるのですか」
今度は僕が黙る番だった。
「どうして、そうなるのですか」
「誰を選びたいのか、という話をしたからです」
「母上がエリーへ言った言葉でしょう」
「テオには関係がない?」
「そうは言っていません」
エリーが僕を見る。
青灰色の瞳に、夕日の色が薄く映っている。
「では、いるのですか」
「選べる立場にない人間が考えても、仕方がないでしょう」
口にすると、自分でもひどく馴染みのある答えだと思った。
傷つく前に、可能性を消してしまう。
外交官の夢について話した時と同じだった。
「それは、選びたい人がいないという答えではありません」
エリーが言う。
「尋問ですか」
「質問です」
「答えないという選択も?」
「あります」
「では、それを選びます」
「ずるいです」
「以前、エリーにも言われました」
「テオは、何度もずるいのです」
不満そうな声だった。
それでも彼女は、僕から視線を外さなかった。
「エリーは?」
「私?」
「誰かを選びたいのですか」
問い返した途端、彼女の呼吸が止まったように見えた。
手が柱から離れる。
その指先が、ドレスの脇をつかむ。
「私は……」
言葉は続かなかった。
エリーは僕を見ている。
何かを言おうとするたび、唇がわずかに動く。
けれど、声にならない。
遠くで、楽団が同じ箇所をもう一度弾き直した。
短い旋律が、回廊まで流れてくる。
「無理に答えなくても構いません」
僕が言うと、エリーは目を伏せた。
「テオは、待ってくれるのですね」
「話せる時まで」
「……もし、話したことで嫌われるかもしれなくても?」
胸の奥が、わずかにざわついた。
「ずいぶん大きな秘密をお持ちのようですね」
冗談めかして言う。
エリーは笑わなかった。
代わりに、袖口の布を指で強くつまむ。
「誰にでも、話しにくいことはあります」
僕は続けた。
「ただ、話してもいないうちから、嫌われると決めなくてもよいのでは?」
「そうでしょうか」
「少なくとも、僕はまだ何も聞いていません」
エリーが顔を上げる。
その表情には安堵よりも、迷いが残っていた。
話せば嫌われる。
黙っていても、いつまでも隠せるわけではない。
彼女が何を恐れているのか、僕には分からない。
ただ、守るためだけに黙っている人の顔には見えなかった。
自分が傷つくことも恐れている。
そう見えたが、断定はできない。
「エリー」
「はい」
「明日は、楽しい舞踏会になるとよいですね」
話題を変える。
彼女は少し驚いた後、ようやく微笑んだ。
「はい」
「誰と踊るかも、自分で選べるとよい」
エリーの笑みが揺れた。
「テオは?」
「僕は仕事です」
「そうでしたね」
彼女は庭の先へ目を向ける。
「でも、少しくらいは休めるのでしょう?」
「予定どおり進めば」
「では、予定どおり進むようにしてください」
「厳しい注文ですね」
「レイン秘書なら、できます」
公の呼び方を使いながら、声だけは私的なものだった。
僕は一礼する。
「承知しました、アルノー嬢」
エリーは少しだけ笑った。
それから回廊を歩き出す。
数歩進んだところで、一度振り返った。
「テオ」
「はい」
「母の言葉を、覚えていてください」
「誰かに選ばれる前に、自分が誰を選びたいのかを知る」
「ええ」
「覚えておきます」
エリーは頷き、今度こそクラリスとともに屋敷へ戻っていった。
僕は一人、回廊に残る。
彼女は誰を選びたいのだろう。
その問いを考えた瞬間、胸の奥へ自分の名前を置きたくなった。
けれど、答えが違った時のことまで同時に浮かぶ。
だから僕は、その場所へ「テオ・レイン」と書き込む前に、考えることそのものをやめた。
選ばれないと決めつけることもまた、相手の選択を先回りして奪う行為だとは、まだ気づいていなかった。




