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君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱる子
第二部「王女ではない夏」

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第13話 テラスの一曲

「レイン秘書、次のお客様がお見えです」


「承知しました。侯爵夫妻へお知らせを」


 返事をしながら、僕は手元の名簿へ印をつけた。


 広間では楽団が最初の舞曲を奏で始めていた。


 磨き上げられた床に燭台の光が映り、色鮮やかなドレスが音楽に合わせて揺れている。開け放たれた扉からは夏の夜風が入り、花と香水の匂いを運んでいた。


 けれど、僕にはゆっくり眺めている時間がない。


 遅れて到着した客人の案内。


 給仕の配置。


 休憩室で足りなくなった水の手配。


 楽団へ伝える演奏順の変更。


 次から次へと呼び止められ、広間の端から端まで歩き回っていた。


「テオ」


 すれ違いざま、エリーの声が聞こえた。


 足を止める。


 銀白色の髪を結い上げた彼女は、淡い青のドレスをまとっていた。胸元も袖も控えめな仕立てなのに、広間のどこにいても目を引いた。


 その隣には、挨拶を待つ貴族たちがいる。


「何かありましたか、アルノー嬢」


 人前なので、公の呼び方を使う。


 エリーは一瞬だけ唇を結んだ。


「いいえ。お忙しそうでしたので」


「問題なく進んでおります」


「少しも休んでいないでしょう」


「後ほど休みます」


「先ほども、そう言っていました」


「今度こそ本当です」


 僕が答えると、彼女の後ろにいた年配の婦人が微笑んだ。


「アルノー嬢は、レイン秘書をずいぶん心配していらっしゃるのね」


「案内役の方に倒れられては困りますから」


 エリーは乱れのない笑顔で答えた。


 僕も一礼する。


「ご心配には及びません」


 そう言って、次の仕事へ向かった。


 背中に視線を感じたが、振り返る余裕はなかった。


 最初の曲が終わる。


 拍手の後、すぐに次の演奏が始まった。


 エリーは何人もの客人に囲まれていた。


 年配の貴族と話し、同年代の令嬢へ微笑み、ダンスを申し込んだ青年の手を取る。


 断る理由のない相手なのだろう。


 彼女は礼儀正しく広間の中央へ進んだ。


 僕は扉のそばで、到着した客人の名を確認していた。


 それでも、視界の端で彼女を追ってしまう。


 エリーは踊りに慣れていた。


 相手の動きに遅れることもなく、音楽に合わせて軽やかに足を運ぶ。海辺で波を追いかけていた時とは違う、隙のない美しさだった。


 相手の青年が何かを言う。


 エリーは微笑む。


 胸の奥に、鈍いものが落ちた。


 舞踏会なのだから、踊るのは当然だ。


 僕は仕事をしている。


 彼女を誘わなかったのも、誘えなかったのも、理由ははっきりしている。


 僕は侯爵家の秘書で、彼女は外国から来た高位貴族令嬢だ。


 公の場で僕が手を差し出せば、余計な注目を集める。


 何より、エリーには僕よりふさわしい相手がいくらでもいる。


「レイン秘書」


 呼ばれて、慌てて顔を向ける。


「はい」


「葡萄酒の追加は、どちらへ運べば?」


「東側の控室へお願いします。広間へは、給仕長の指示を受けてから」


 仕事へ戻る。


 けれど、曲が終わるたびに広間を見た。


 エリーは別の相手とも踊った。


 その次の曲では、年配の伯爵と話していた。


 僕と目が合うたび、ほんの少しだけ表情が変わる。


 笑みが柔らかくなる時もあれば、何かを訴えるように見つめてくる時もあった。


 けれど、僕が近づけば誰かに呼ばれる。


 エリーにも、次の挨拶相手が現れる。


 広間の中にいるのに、ひどく遠かった。



 舞踏会も終盤に入り、ようやく客人の出入りが落ち着いた。


 楽団はゆるやかな曲を奏でている。


 僕は壁際で帳簿を閉じた。


 大きな問題は起きていない。


 給仕も足りている。


 次の演奏順も確認した。


 今なら、数分くらい席を外しても支障はない。


「テオ」


 顔を上げると、エリーがすぐ前に立っていた。


「どうしました」


「少し、お時間はありますか」


「今なら」


「では、来てください」


 彼女は返事を待たず、広間の脇にある扉へ向かった。


「エリー?」


「こちらです」


 客人の少ない廊下を通り、庭へ面したテラスへ出る。


 夜風が火照った頬を冷やした。


 テラスには誰もいない。


 欄干の向こうでは庭の木々が暗く揺れ、遠くに町の灯りが見える。広間の扉は閉じていたが、音楽だけは柔らかく届いていた。


「何か問題がありましたか」


 僕が尋ねると、エリーは首を横へ振った。


「問題がなければ、呼んではいけませんか」


「そういう意味ではありません」


「テオは、今日ずっとお仕事でした」


「舞踏会ですから」


「私とは、一度も踊っていません」


 思わず言葉を失う。


 エリーは僕を見ていた。


 青灰色の瞳には、広間の灯りが淡く映っている。


「僕は、踊る立場ではありません」


「舞踏会の招待客ではなくても、踊ることは禁止されていないでしょう」


「禁止はされていませんが」


「先ほど、休める時間があると言いました」


「今がそうです」


「では、その時間を私にください」


 遠くから、曲の旋律が流れてくる。


 ゆっくりとした三拍子だった。


 エリーが右手を差し出す。


「一曲だけ」


「ここで?」


「広間では、テオは仕事中です」


「ここでも仕事中ではあります」


「今は休憩中でしょう」


 返す言葉がなくなった。


 彼女の手は下がらない。


 僕は周囲を見回した。


 テラスへ続く扉は閉じている。庭にも人影はない。


 誰かに見られる可能性がないわけではない。


 それでも、差し出された手を取らずに戻る方が、ずっと難しかった。


「一曲だけですよ」


「はい」


 僕は彼女の手を取った。


 もう片方の手を、ためらいながら腰の少し上へ添える。


 海辺で抱きとめた時とは違う。


 今は、互いに分かって触れている。


 それだけで、指先に力を入れることが怖くなった。


「テオ」


「はい」


「もう少し近くても、踊れます」


「十分近いと思いますが」


「広間の方々は、もっと近かったです」


「よく見ていたのですか」


「見なくても分かります」


 少し不満そうな声だった。


 僕は一歩だけ距離を詰めた。


 エリーの手が僕の肩へ触れる。


 かすかな花の香りがした。


「これで?」


「……はい」


 曲に合わせて足を動かす。


 広間の床ほど平らではないため、歩幅は小さくなった。


 それでもエリーは迷わずついてくる。


「お上手ですね」


「大学にいた頃、最低限は習いました」


「最低限には見えません」


「先ほど踊っていた方々ほどではないでしょう」


 言った後で、余計な言葉だったと思った。


 エリーの指先が、僕の肩で少し動く。


「見ていたのですか」


「仕事の合間に」


「どなたと踊っていたかも?」


「何人かは」


「そうですか」


 返事の声がわずかに明るくなった。


「楽しそうでしたね」


「礼儀です」


「皆さんと笑っていました」


「会話をしながら踊るものですから」


「何を話したのですか」


「天気や町のことです。舞踏会が素晴らしいとも」


「それだけ?」


「それだけです」


 エリーは僕を見上げた。


「テオは、何を話してくださいますか」


「今、話しているでしょう」


「ほかには?」


「エリーは、今日何度もこちらを見ていましたね」


 彼女の足が一瞬止まりかける。


 僕は手に少し力を入れ、体勢を支えた。


「見ていません」


「目が合いました」


「テオがこちらを見ていたからです」


「では、お互いに見ていたということで」


 エリーは否定しなかった。


 その代わり、少し俯く。


「忙しそうでしたから」


「心配してくださった?」


「それもあります」


「ほかにも?」


「質問が多いです」


「先ほど、エリーもたくさん聞いたでしょう」


「私はよいのです」


「ずいぶんな理屈ですね」


 エリーの口元に、小さな笑みが浮かんだ。


 僕も笑う。


 それ以上のことは言えなかった。


 本当は、誰と踊っていても彼女を見ていた。


 ほかの男の手に彼女の手が重なるたび、理由の分からない不快さを覚えた。


 いや、理由は分かっている。


 認めることが怖いだけだ。


 曲はゆっくりと終わりへ近づいていた。


 最後の旋律が夜風に混ざる。


 僕たちは足を止めた。


「終わりましたね」


「はい」


 けれど、エリーは手を離さなかった。


 僕の肩へ置いた手も、そのままだった。


「エリー?」


 呼びかける。


 彼女は俯いたまま、小さく息を吸った。


「少しだけ、動かないでください」


 意味を尋ねる前に、エリーが一歩近づいた。


 額が、僕の胸へ触れる。


 次の瞬間、両腕が背中へ回された。


 抱きしめられている。


 そう理解するまで、数秒かかった。


 僕の両腕は中途半端に上がったまま、行き場を失っている。


 海辺では、転ばないように支えただけだった。


 今は違う。


 エリーは自分から僕へ近づき、腕を回している。


 胸元に彼女の重みがある。


 髪が顎の下へ触れ、呼吸のたびにわずかに揺れる。


 僕は動けなかった。


「……エリー」


「はい」


「これは」


「嫌でしたか」


 胸に額をつけたまま尋ねられる。


 声が、服越しに小さく響いた。


「いいえ」


 答えは考えるより先に出た。


 エリーの腕が、ほんの少し強くなる。


「では、少しだけ」


 僕は上げたままだった腕を下ろしかけ、また止めた。


 抱きしめてよいのか。


 彼女が近づいたからといって、僕まで同じことをしてよいのか。


 答えを探している間にも、胸の奥では鼓動が速くなっていく。


 隠せる距離ではなかった。


「テオの心臓、速いです」


「誰のせいだと思っているのですか」


「私ですか」


「ほかに誰が」


 エリーは何も言わなかった。


 ただ、僕の服をつかむ指が少し動いた。


 僕はようやく、彼女の背へ腕を回した。


 触れる直前まで迷い、壊れやすいものを扱うように、そっと引き寄せる。


 細い背中だった。


 けれど、抱きしめ返した瞬間、腕の中にいることがはっきりと分かった。


 エリーが小さく息を吐く。


 その身体から、少しだけ力が抜けた。


 遠くでは次の曲が始まっていた。


 けれど、僕たちは踊らなかった。


 ただ、テラスの隅で抱きしめ合っていた。


 何も決めていない。


 好きだとも言っていない。


 この先どうなるかも、彼女が何を隠しているのかも分からない。


 それでも、腕の中の温度だけは疑いようがなかった。


 離したくないと思った。


 そう思った自分に驚くより先に、エリーの指が背中の服をわずかに握る。


「テオ」


「はい」


「もう少しだけ」


「……はい」


 答えながら、腕へ少し力を込めた。


 彼女の髪に頬が触れそうになり、慌てて顔を上げる。


 これ以上近づけば、何かを越えてしまう気がした。


 だから、抱きしめるだけにした。


 それで十分なはずだった。


 けれど、十分だとは少しも思えなかった。


 扉が静かに開く音がした。


「お時間です」


 クラリスの声だった。


 責める調子でも、驚く様子でもない。


 ただ、必要なことだけを告げている。


 エリーの腕が緩む。


 僕も力を抜いた。


 けれど彼女はすぐには離れなかった。


 胸元へ置いていた額を上げ、僕を見つめる。


 青灰色の瞳が、すぐ近くにあった。


「戻らなければ」


「はい」


 エリーが一歩下がる。


 その直前、僕の上着を一度だけ強くつかんだ。


 布に皺が寄る。


 それから指を離し、何事もなかったようにドレスを整えた。


「行きましょう、クラリス」


「はい、エリー様」


 エリーは扉の前で一度だけ振り返った。


「テオ」


「はい」


「一曲、ありがとうございました」


「こちらこそ」


 彼女は小さく微笑み、クラリスとともに広間へ戻っていった。


 扉が閉じる。


 音楽と人々の声が、再び遠くなる。


 僕は一人、テラスに残った。


 上着には、彼女がつかんだ皺が残っている。


 背中へ回した腕にも、細い身体の感触が残っていた。


 腕の中から彼女がいなくなった後も、そこに残った温度だけが、いつまでも消えなかった。


 楽団が次の曲を奏で始めても、僕の中では、彼女と踊った一曲だけが終わらずに続いていた。

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