第14話 夏が終わる前に
「テオ。起きていますか」
扉の向こうから聞こえた声に、僕は寝台の上で目を開けた。
窓の外は、まだ暗い。
枕元の時計を確かめると、夜明けまで一時間ほどあった。
「起きています」
返事をしてから、自分でも嘘だと思った。
「少し、歩きませんか」
エリーの声は小さかった。
昨夜の舞踏会が終わり、ようやく自室へ戻ったのは深夜だった。彼女もほとんど眠っていないはずだ。
「すぐに支度します」
僕は上着へ腕を通しながら、昨夜のことを思い出した。
音楽の届くテラス。
胸元へ寄せられた額。
背中へ回された腕。
思い出した途端、眠気は消えた。
代わりに、どのような顔で扉を開ければよいのか分からなくなる。
結局、答えが見つからないまま廊下へ出た。
エリーは淡い色の外套をまとい、窓辺に立っていた。
銀白色の髪は簡単にまとめられている。舞踏会での華やかな姿とは違い、今は飾りもほとんどなかった。
少し離れた場所にはクラリスがいる。
「おはようございます」
「おはようございます」
挨拶を交わした後、沈黙が落ちた。
昨夜までなら、今日の予定や天気の話をしただろう。
けれど今は、互いの腕の中にいた記憶が近すぎた。
「眠れましたか」
先に尋ねたのは僕だった。
「少しだけ」
「僕もです」
「嘘ですね」
「なぜ分かるのですか」
「目元に出ています」
「エリーも同じですよ」
彼女は指先で自分の目元へ触れた。
それから、わずかに笑う。
「では、お互い様ですね」
「そういうことにしましょう」
ぎこちなさは残っていた。
ただ、それをいつまでも確かめ合う必要はなかった。
エリーが歩き出し、僕も隣へ並ぶ。
屋敷の裏手には、海へ突き出した小さな岬へ続く道がある。
クラリスと二人の護衛は、声の届かない距離を保って後ろからついてきた。
空はまだ青黒い。
庭の草には夜露が残り、靴が触れるたびに細かな音を立てた。
「岬へ行きたいと言い出したのは、エリーですか」
「はい」
「こんな時間に?」
「こんな時間だからです」
「何か見たいものでも?」
尋ねると、エリーは前を向いたまま答えた。
「人が少ない場所で、話したいことがあります」
胸の奥が少しだけ固くなった。
昨夜の続きだろうか。
それとも、舞踏会の前から言いかけていたことか。
「分かりました」
それ以上は聞かず、歩いた。
岬へ続く坂道を上る。
海から吹く風は、昼間より冷たかった。
頂上へ着く頃には、東の空がわずかに明るくなり始めていた。
崖の先には低い石壁がある。
その向こうでは、暗い海がゆっくりと波打っていた。
エリーは石壁のそばで足を止めた。
「ここなら、よく見えますね」
「海が?」
「ええ。それから、空も」
彼女は外套の前を押さえ、風に乱れた髪を耳へかけた。
僕は少し離れた場所に立つ。
昨夜はあれほど近かったのに、今はその数歩が妙に長く感じられた。
「昨日のことですが」
エリーが切り出す。
「はい」
「驚きましたか」
「かなり」
「……申し訳ありません」
「謝らないでください」
「ですが、私から急に」
「嫌ではありませんでした」
昨夜と同じ答えを、もう一度口にする。
エリーの肩からわずかに力が抜けた。
「テオは、抱きしめ返してくれました」
「エリーが、そうしてよいと言ったので」
「私が言わなければ、しなかったのですか」
「おそらく」
「意気地がないのですね」
「慎重と言ってください」
エリーが小さく笑う。
その笑顔は長く続かなかった。
彼女は海へ視線を戻し、両手を外套の前で重ねた。
「テオ」
「はい」
「一つ、聞いてもよいですか」
「どうぞ」
彼女はすぐには言わなかった。
波が崖の下へぶつかる。
白い音だけが、夜明け前の空気に響いた。
「私が、貴方の知らない人だったらどうしますか」
意味を測りかね、僕は黙った。
「知らない人?」
「はい」
「今も、エリーについて知っていることは多くありません」
「そうではなくて」
彼女は首を横へ振る。
「名前も、家も、立場も。今まで話していたことより、ずっと違う人だったら」
冗談ではなかった。
青灰色の瞳が、まっすぐ僕を見ている。
「どうしますか」
答えを急げば、軽く聞こえる気がした。
けれど、考えても答えは変わらない。
「知ろうとします」
エリーの目がわずかに揺れた。
「知った後で、嫌いになるかもしれません」
「それでも、知らないまま別れるよりはいい」
「別れると決まったわけではありません」
「では、知らないまま離れるよりはいい」
言い直すと、彼女は唇を結んだ。
「怖くないのですか」
「怖いですよ」
正直に答えた。
「エリーが、これほど何度も確かめるのですから。簡単な話ではないのでしょう」
「……はい」
「知れば、今までと同じではいられないかもしれない」
「そうかもしれません」
「それでも、エリーが本当のことを話そうとしているなら、僕は聞きたいです」
彼女が目を伏せる。
胸元で重ねた指に、少しだけ力が入った。
「テオは、どうして逃げないのですか」
「まだ何も聞いていないからです」
「聞いてから逃げるかもしれない?」
「その可能性がないとは言えません」
エリーの顔が強張る。
僕は言葉を続けた。
「ですが、知る前から逃げることはしません」
都合のよい約束はできなかった。
何を聞いても変わらないと、今の僕には言えない。
彼女が何を隠しているのか、本当に知らないのだから。
ただ、知らないことを理由に、最初から背を向けたくはなかった。
「それでは、足りませんか」
「いいえ」
エリーは静かに首を横へ振った。
「十分です」
東の空が少しずつ明るくなる。
海の輪郭も、先ほどよりはっきり見え始めていた。
「私は、テオへ話さなければならないことがあります」
エリーが言う。
「本当の名前」
その言葉に、胸が小さく鳴った。
エリー・アルノーという名が本名ではない。
予想していなかったわけではない。
ローデン伯爵の警告。
過剰に見える警護。
彼女の身につけた知識。
それでも、本人の口から言われると重さが違った。
「故国での立場も」
エリーは続ける。
「帰った後、私がどのように生きることになるのかも。なぜ今まで話せなかったのかも」
僕は何も挟まなかった。
一つ増えるたび、彼女と僕の間に見えない扉が置かれていくようだった。
開けるまで、向こう側に何があるか分からない。
「今日、話すのですか」
尋ねると、エリーは苦しそうに目を伏せた。
「……まだ、すべてを話すことはできません」
胸の奥に失望が生まれかける。
けれど彼女は、逃げるように顔を背けなかった。
「もう少しだけ、時間をください」
「どのくらいですか」
エリーは海を見た。
「夏が終わる前に、私の名前も、帰らなければならない理由も、全部話します」
はっきりとした声だった。
「本当の名前も、私の立場も、帰った後の未来も。話せなかった理由も、すべて」
「約束できますか」
「はい」
「誰かに許されなければ、話せないことでは?」
一瞬、彼女の指が動いた。
「私だけで決められないこともあります」
「なら、約束して大丈夫なのですか」
「大丈夫にします」
強い言葉だった。
その声には、普段の柔らかさとは違う響きがあった。
けれど、誰かへ命じるようなものではない。
自分自身へ言い聞かせているように聞こえた。
「どうして、そこまでして話そうとするのですか」
尋ねる。
エリーは僕を見た。
何かを言いかけ、息を吸う。
そのまま少しの間、黙った。
「テオに、知らないまま選んでほしくないからです」
胸の奥が大きく揺れた。
「選ぶ?」
「……今は、それ以上聞かないでください」
エリーは困ったように笑った。
けれど、言葉を取り消しはしなかった。
母親の言葉を思い出す。
誰かに選ばれる前に、自分が誰を選びたいのかを知りなさい。
昨夜、エリーは僕の胸へ自分から額を寄せた。
今朝は、本当の自分を知ってほしいと言っている。
それでも、彼女が僕を選んだのだと考えることは怖かった。
期待を持てば、真実を知った時に失うものも増える。
「テオ?」
エリーが不安そうに呼ぶ。
「聞いています」
「怒っていますか」
「いいえ」
「失望しましたか」
「少しは」
正直に答えると、彼女の表情が曇った。
「今すぐ知りたいとは思っています。エリーが隠していることを、気にしていないわけでもありません」
「はい」
「ですが、夏が終わる前に話すという約束は信じます」
「信じてくれるのですか」
「昨日、僕に待ってほしいと言ったでしょう」
「もう少しだけ、と」
「同じです」
「昨日は、こんなに長く待たせるつもりではありませんでした」
「抱きしめている時間の話ですからね」
エリーの頬が赤くなる。
「今、その話をしますか」
「エリーが言い出したのでしょう」
「私は言葉の話をしただけです」
「意味は同じです」
「違います」
彼女は顔を逸らした。
けれど、その頬には先ほどまでなかった色が戻っている。
僕も少しだけ息をついた。
すべては何も解決していない。
むしろ、彼女の秘密が想像以上に大きいことだけが分かった。
けれど、今ここで離れずにいられることが嬉しかった。
風が強く吹いた。
エリーの外套の裾が揺れ、彼女が片手で押さえる。
もう片方の手は、身体の脇に下ろされたままだった。
僕はその手を見た。
昨夜は、彼女の方から僕へ腕を伸ばした。
今度は僕が選ぶ番なのかもしれない。
ためらいながら、手を差し出す。
「テオ?」
「約束の代わりです」
「握手ですか」
「嫌なら、引っ込めます」
エリーはすぐに首を横へ振った。
そっと手を重ねる。
指先だけが触れ、次に掌が合った。
舞踏会で踊った時とは違う。
決められた形も、音楽もない。
僕は少し迷い、彼女の指の間へ自分の指を重ねた。
エリーの手が、同じように動く。
強くは握らなかった。
ただ、離れない程度に互いの手をつないだ。
「夏が終わる前に」
僕が確認する。
「はい。全部話します」
「その時、僕が何を思うかは約束できません」
「分かっています」
「ですが、最後まで聞きます」
エリーの指に、少しだけ力が入る。
「ありがとうございます」
朝の光が海の上へ広がり始めていた。
けれど僕は、昇っていく太陽ではなく、彼女の顔を見ていた。
怖がっている。
迷ってもいる。
それでも、もう逃げないと決めたような表情だった。
僕はまだ、本当の彼女を知らない。
それでも夏が終わる前に約束を守ろうとしている、その目だけは信じてもよいと思った。
この時、夏の終わりまで残された日数は十二日。僕たちは、その短さをまだ正しく恐れていなかった。




