第15話 いちばん幸せな夏祭り
「テオ。どこか、おかしいところはありませんか」
待ち合わせ場所へ現れたエリーは、そう言って両腕をわずかに広げた。
僕は答えるまでに、少し時間がかかった。
白を基調にした夏用のドレスは、裾と袖口に淡い青の刺繍が入っている。銀白色の髪はいつもより低い位置でまとめられ、小さな花飾りが添えられていた。
舞踏会の夜ほど華やかではない。
けれど、今の方がずっと近く感じられた。
「おかしいですか」
返事がないことを不安に思ったのか、エリーが自分の袖を確かめる。
「いいえ。似合っています」
「それだけ?」
「とても似合っています」
言い直すと、彼女は満足そうに微笑んだ。
「テオも、今日は少し違いますね」
「侯爵夫人に、仕事着のまま祭りへ行くのはやめなさいと言われました」
僕もいつもの濃色の上着ではなく、夏用の薄いものを着ている。
首元まで整えたつもりだったが、エリーが僕の前へ一歩近づき、襟へ手を伸ばした。
「少し曲がっています」
「自分で直します」
「もう直しました」
指先が離れる。
それだけの接触に、前夜のテラスと、夜明け前につないだ手を思い出した。
エリーも同じだったのか、僕から少し目を逸らした。
「お二人とも、準備はよろしいですか」
後ろからクラリスに声をかけられる。
「はい」
エリーは何事もなかったように振り返った。
クラリスも夏祭りに合わせ、いつもより軽い装いだった。ただし、周囲を確認する視線に変わりはない。
護衛たちは町の人々に紛れる服装で、少し離れた位置にいる。
今夜の町は、すでに多くの人で賑わっていた。
港へ続く大通りには色布とランプが飾られ、家々の窓辺にも小さな灯りが並んでいる。屋台からは焼いた肉や魚、果物を煮た甘い匂いが漂ってきた。
遠くでは楽団が音合わせをしていた。
弦楽器の音に笛が重なり、時折、太鼓が短く鳴る。
「行きましょう、テオ」
「はい」
僕たちは並んで大通りへ歩き出した。
◇
「エリーさん!」
人混みの向こうから、アンナが大きく手を振った。
母と一緒に、通りの角で待っていたらしい。
「アンナさん」
エリーも手を振り返す。
以前よりずっと自然な動きだった。
「そのドレス、とても素敵です」
「ありがとうございます。アンナさんの髪飾りも似合っています」
「本当ですか? 母様と選んだんです」
アンナが嬉しそうに母を見る。
母は僕へ軽く目礼してから、エリーの姿を眺めた。
「今夜は、どうぞ楽しんでくださいね」
「はい。ありがとうございます」
「テオ。あなたも仕事のような顔をして歩かないの」
「していないよ」
「今、祭りの人出を確認していたでしょう」
図星だった。
人の流れ、屋台の位置、護衛が立てる場所。
案内役として見ていたつもりだったが、母には分かったらしい。
「今夜は僕が案内しなければ」
「案内と心配は違います」
母が言うと、エリーが小さく笑った。
「私も、そう思います」
「エリーまで」
「今日は私も、テオに楽しんでほしいです」
真っ直ぐ言われ、言葉に詰まる。
母は何も言わなかったが、口元にわずかな笑みが浮かんでいた。
「では、私たちは向こうを見てきます」
アンナが母の腕を引く。
「エリーさん、後で踊りの輪にも来てくださいね」
「踊るのですか」
「町の皆で踊るんです。難しくありません」
その言葉を聞いて、僕は嫌な予感がした。
舞踏会で踊るものと、町の民俗舞踊はまったく違う。
「後で行きます」
エリーは迷わず答えた。
僕の方を見る。
「テオも一緒です」
「今、決まりましたか」
「嫌なのですか」
「そうは言っていません」
「では、決まりです」
母とアンナは笑いながら、人混みへ入っていった。
少し歩くと、見覚えのある夫婦が屋台の前に立っていた。
雨宿りした宿の主人と女主人だった。
「おや、あの時のお嬢さんじゃありませんか」
主人が先に気づき、大きな声を上げる。
「ご無沙汰しています」
エリーが頭を下げた。
「魚のスープ、とてもおいしかったです」
「覚えていてくださったんですか」
女主人が嬉しそうに笑う。
屋台の大鍋からは、あの夜とよく似た香りが立ち上っていた。
「今夜も召し上がりますか」
「ぜひ」
「まだ祭りは始まったばかりですよ」
僕が言うと、エリーは鍋を見る。
「後では、なくなってしまうかもしれません」
「たっぷり作ってありますとも」
主人が胸を張った。
「ですが、食べたい時に食べるのが祭りです」
女主人は小さな椀へスープを注ぎ、エリーへ渡す。
僕の分も、すぐに隣へ置かれた。
「代金を」
「雨の日に宿へ来てくださったお礼です」
「お礼をするのはこちらです」
「それなら、また泊まりに来てください」
エリーは椀を両手で包み、湯気の向こうで笑った。
「はい」
僕たちは屋台の脇で並んでスープを飲んだ。
大勢の笑い声に囲まれている。
あの雨の夜と違い、空は晴れていた。
「同じ味ですね」
エリーが言う。
「少し香辛料が多い気がします」
「テオは細かいです」
「仕事柄です」
「今夜は仕事ではないのでしょう?」
母との会話を聞いていたらしい。
「では、おいしいです」
「素直ではありませんね」
エリーは笑いながら、最後まできれいに飲み干した。
椀を返して通りへ戻ると、今度は市場の菓子店の主人に呼び止められた。
「お嬢さん。今日は迷わず選べますか」
店先には、色とりどりの砂糖菓子が並んでいる。
エリーは胸を張った。
「もちろんです」
「では、一番のお気に入りは?」
「柑橘の砂糖煮です」
「いい答えです」
店主は紙袋へ菓子を入れると、以前より少し多めに渡した。
「二人で仲よくどうぞ」
僕が何か言う前に、エリーが受け取った。
「ありがとうございます」
「今回は案内役だと否定しないのですね」
店を離れてから尋ねる。
「何を否定するのですか」
「二人で仲よく、というところです」
「仲が悪いのですか、私たち」
「悪くはありません」
「では、問題ありません」
エリーは紙袋を開き、一枚の砂糖菓子を取り出した。
以前と同じように半分へ割る。
「どうぞ」
「また二つ選んだことにするのですか」
「いいえ」
片方を僕へ差し出したまま、エリーは言う。
「今日は、テオと同じものを食べたいからです」
伸ばした手が止まりかけた。
彼女は自分の言葉を気にしていないように見えたが、視線だけは僕の手元へ落ちている。
受け取らない理由はなかった。
「ありがとうございます」
二人で同時に口へ運ぶ。
甘さの後に、柑橘の苦味が広がった。
「やはり、おいしいです」
「自分で選んだ味ですからね」
「今は、選ばなくても分かります」
エリーは残りの紙袋を大切そうに閉じた。
その時、通りの向こうで強い光が瞬いた。
僕は反射的にエリーを見る。
彼女の肩がわずかに動いたが、音は鳴らなかった。
写真師が、大きな写真機の隣で布を上げている。
その横では、手帳を持った記者らしい男が、祭りの責任者へ話を聞いていた。
「写真ですか」
エリーが尋ねる。
「祭りの様子を新聞へ載せるのでしょう」
写真師は楽団や屋台、踊りの準備をする町の人々へ写真機を向けている。
外国から来た珍しい髪色の令嬢がいると聞いたのか、こちらにも何度か視線を送ってきた。
クラリスが静かに近づく。
「正面からの撮影は避けるよう、伝えてまいります」
「祭り全体を撮る中へ入る程度なら、構いません」
エリーが答えた。
「ですが」
「皆さんと同じように祭りへ来ているだけです」
クラリスは少し考えた後、頷いた。
「承知しました。ただし、お名前や詳しいご身分についての取材はお断りいたします」
「お願いします」
記者は無理に近づいてこなかった。
写真師も、遠くから通り全体を撮るだけだった。
僕たちは再び歩き出す。
「新聞に載るかもしれませんね」
僕が言うと、エリーは少し困った顔をした。
「変な顔をしていなければよいのですが」
「スープを飲んでいる時ではありませんでした」
「なら、大丈夫です」
「食べているところを撮られるのは嫌なのですか」
「大きな口を開けていたら、恥ずかしいでしょう」
「エリーはそのような食べ方をしません」
「テオは、私が食べているところをよく見ていますね」
「……仕事柄です」
「今夜は仕事ではないはずです」
先ほどと同じ指摘をされ、僕は答えに困った。
エリーは少し得意そうに笑っていた。
◇
楽団が軽快な曲を始めると、大通りの中央に踊りの輪ができた。
子供から老人まで、互いに手を取り合っている。
決まった歩数で前へ出て、後ろへ戻る。隣の相手と一度回り、次の相手へ移る。
単純に見えるが、人が増えるほど難しくなる踊りだった。
「エリーさん、こちらです!」
輪の中からアンナが呼ぶ。
エリーは僕の袖をつかんだ。
「行きましょう」
「本当に踊るのですか」
「約束しました」
「僕まで約束した覚えはありません」
「先ほど、嫌ではないと言いました」
「それは、決定へ同意したことにはなりません」
「言葉の裏を読むのが得意なのでしょう?」
エリーは楽しそうに僕を輪の中へ引いた。
アンナが簡単に動きを説明する。
エリーは真剣な顔で聞いていた。
「右へ二歩、左へ一歩。それから相手と回るのね」
「はい。曲が速くなったら、少し飛ぶように」
「分かりました」
最初の数歩は完璧だった。
エリーは舞踏会で身につけた足運びを生かし、音にも遅れない。
「上手ですね」
「当然です」
得意そうに答えた直後、踊りの輪が反対へ回った。
エリーは一瞬迷い、僕の靴を踏んだ。
「……今のは」
「何もありません」
「踏みましたね」
「踏んでいません」
「足の上に、エリーの靴があります」
彼女は足元を見る。
「失礼しました」
「認めるのですね」
「証拠が残っているので」
エリーが足をどけた瞬間、次の動きに遅れた。
今度は僕の肩をつかみ、どうにか転ばずに済む。
周囲から笑い声が上がった。
エリーは頬を赤くしながらも、輪から出ようとはしなかった。
「もう一度です」
「負けず嫌いですね」
「今のままでは終われません」
曲が速くなる。
右へ二歩。
左へ一歩。
相手と回る。
「そこです」
「分かっています」
今度はうまくいった。
エリーが嬉しそうに笑う。
次の瞬間、別の人と入れ替わる動きで戻る方向を間違え、また僕の足を踏んだ。
「エリー」
「今のはテオが近すぎました」
「僕のせいですか」
「半分くらいは」
「ずいぶん便利な理屈ですね」
市場で交わした言葉を返すと、彼女は声を立てて笑った。
僕も笑った。
もう足を踏まれたことなど、どうでもよかった。
周囲には母とアンナがいる。
宿屋の夫婦も、屋台からこちらを見て笑っていた。市場の店主は手拍子をし、侯爵家の使用人たちも輪の端へ加わっている。
写真師が大通りの向こうから、踊る人々へ写真機を向けた。
楽団の演奏はますます速くなる。
灯りの下で、エリーの銀白色の髪が揺れた。
彼女は何度も間違え、僕の足を踏み、そのたびに言い訳をした。
僕たちは踊りながら、何度も目を合わせた。
こんな時間が続けばよいと思った。
もし世界がこの夜で止まるなら、それでもよいと一瞬だけ思った。
夏が終わることも、彼女が帰ることも、今だけは考えたくなかった。
けれど、考えないままにはできない。
僕には、今夜伝えたいことがあった。
祭りが終わったら、エリーへ話す。
彼女の真実をすべて聞いた後でなければ、言う資格がないのかもしれない。
それでも、このまま何も伝えずに夏を終わらせることだけはしたくなかった。
曲が終わる。
大きな拍手と歓声が上がった。
エリーは息を弾ませながら、僕の手を握ったままだった。
「楽しかったです」
「僕の足は、かなり踏まれましたが」
「最後の方は踏んでいません」
「最後の方は、僕が避けていました」
「そうなのですか?」
「気づいていなかったのですね」
エリーは笑い、額にかかった髪を払った。
その表情が、灯りの下であまりに明るく見えた。
「テオ」
「はい」
「祭りの後、話があります」
笑顔は残っていた。
けれど、その目には夜明け前の岬で見た決意が戻っている。
「僕もです」
「テオも?」
「はい。聞いてほしいことがあります」
エリーの指が、僕の手を少しだけ強く握る。
「では、先に私から話してもよいですか」
「もちろんです」
「全部、聞いてください」
「約束しましたから」
彼女は静かに頷いた。
◇
祭りの終わりが近づく頃、僕たちは海辺へ向かった。
町の中心ではまだ音楽が続いている。
けれど、港から少し離れた遊歩道には人が少なかった。
街灯と、沖に浮かぶ船の灯り。
波の音。
遠くから届く祭りの旋律。
クラリスと護衛たちは、姿が見える程度の距離を保っていた。
エリーは歩きながら、何度も息を整えていた。
僕も緊張していた。
告白するつもりだった。
その言葉を胸の中で何度も組み立てた。
けれど今は、先に彼女の話を聞く。
どのような真実でも、最後まで聞くと決めた。
海辺の灯りの下で、エリーが立ち止まる。
「テオ」
「はい」
「その前に、今日のことを言わせてください」
彼女は胸元で両手を重ねた。
「今日は、これまでの人生で一番幸せな夏祭りでした」
「初めて参加したのでは?」
「それでも、一番です」
「それなら、僕も同じです」
エリーの顔がほころぶ。
「テオも?」
「はい。足は痛いですが」
「まだ言うのですか」
「冗談です」
「本当に?」
「少しだけ痛いです」
エリーは困ったように笑った。
その笑顔を見ていると、これから聞く話が何であっても、今夜の時間まで嘘になることはないと思えた。
彼女は一度、海へ目を向けた。
それから、僕をまっすぐ見る。
「約束したことを話します」
「聞きます」
「私が今まで使っていた名前は、本当の名前ではありません」
「はい」
「故国での立場も、話していませんでした」
エリーの声は震えていた。
それでも目は逸らさない。
「帰国した後のことも、私には決められていることがあります」
胸の奥へ、不安が押し寄せる。
けれど、僕は黙って待った。
「そして、テオに隠していたことを……ずっと、怖いと思っていました」
「僕に嫌われることが?」
エリーは小さく頷いた。
「ですが、もう隠したままにはしません」
重ねていた手を下ろす。
その指先は震えていた。
僕は手を差し出しかけ、止めた。
今は彼女が自分の言葉で話す時だ。
「テオ。私の本当の名前は――」
背後で、誰かが叫んだ。
祭りの喧騒とは違う、鋭い声だった。
エリーの視線が僕の肩越しへ動く。
同時に、クラリスの声が響いた。
「エリー様!」
暗がりから人影が飛び出した。
街灯の光を受け、男の手の中で刃物が白く光る。
その切っ先が向いていたのは、僕ではなかった。
「エリー!」
考えるより先に、僕は彼女の前へ踏み出した。




