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君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱるめりあ
第三部「いちばん幸せな夏」

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第16話 アルディナ第一王女

「エリー!」


 僕は彼女の前へ踏み出した。


 男の腕が振り下ろされる。


 避ける余裕はなかった。


 左の脇腹に、焼けた鉄を押し当てられたような痛みが走った。


「っ……!」


 息が止まる。


 刃が抜ける感触とともに、身体から力が抜けた。


 それでも倒れるわけにはいかなかった。


 僕のすぐ後ろには、エリーがいる。


 男がもう一度、腕を持ち上げる。


「下がって!」


 僕は振り返らずに叫び、エリーを背中で押した。


 靴底が石畳の上を滑る。


 身体が思うように動かない。


 脇腹から広がった熱が、服の内側を濡らしていく。


「テオ!」


 エリーの声がした。


 男の刃が再び光る。


 その腕へ、横から護衛が飛びついた。


 鈍い音。


 刃物が石畳へ落ちる。


 もう一人の護衛が男の肩を押さえ、地面へ組み伏せた。


「動くな!」


 怒声が響く。


 男は地面へ押さえつけられながら、アルディナ語で叫んでいた。


「王家の娘を逃がすな!」


 単なる通り魔ではない。その事実だけが、痛みの向こうでもはっきり分かった。


 周囲の人々が悲鳴を上げ、海辺の遊歩道から逃げ始める。


 押し合う足音。


 倒れる屋台の椅子。


 遠くで続いていた楽団の音が、途中で乱れて止まった。


「道を空けてください!」


 クラリスの声が飛ぶ。


「走らないで! お子様を先に!」


 祭りの客たちは混乱していた。


 誰が襲われたのかも分からないまま、灯りのある大通りへ戻ろうとしている。


 護衛の一人が僕たちの前へ立ち、もう一人が背後を確認する。


「ほかに不審者は?」


「確認中です!」


「対象を確保! 刃物は一つです!」


 僕は数歩だけ進もうとした。


 だが、足に力が入らない。


 膝が石畳へ落ちた。


「テオ!」


 エリーが僕の腕をつかむ。


 そのまま二人で崩れるように地面へ座り込んだ。


「大丈夫です」


 言ったつもりだった。


 声がうまく出ない。


 脇腹へ手を当てると、掌がすぐに濡れた。


 街灯の下で見なくても、それが血だと分かった。


「テオ……血が」


 エリーの声が震える。


「深くは……ないと思います」


 根拠はなかった。


 痛みは鋭いままなのに、傷の周りだけが妙に冷たくなっていく。


「布を」


 僕は上着を押さえながら言った。


「何か、押さえるものを」


 クラリスが自分の肩掛けへ手を伸ばす。


 だが、エリーは動かなかった。


 僕のそばへ膝をついたまま、血に染まる服を見つめている。


「エリー」


 呼びかける。


 反応がない。


 青灰色の瞳が大きく開かれていた。


 呼吸が浅い。


 花火の夜と同じだった。


 突然の大きな音に、庭でしゃがみ込んだ時と同じように、身体が固まっている。


「エリー」


 もう一度呼ぶ。


 彼女の指が僕の袖をつかんだ。


「大丈夫です」


 今度も、嘘だと分かっていた。


 大丈夫だと伝えなければ、彼女が戻ってこないような気がした。


「僕を見てください」


 エリーの視線が、血から僕の顔へ移る。


「呼吸を」


 言葉の途中で、痛みが強くなる。


 思わず身体を折った。


「テオ!」


 エリーが僕の肩を支える。


 その手にも血がついた。


 白い指へ赤い色が広がっていく。


 彼女はそれを見た。


 唇が震える。


 けれど次の瞬間、表情が変わった。


 恐怖が消えたわけではない。


 顔色は白く、呼吸もまだ乱れている。


 それでも、エリーは背筋を伸ばした。


「クラリス」


 声は震えていた。


 だが、言葉は明瞭だった。


「清潔な布を。傷口を強く押さえてください」


「はい」


「医師を呼んで。最も近い者を、馬車で」


「承知しました」


「護衛は周囲を封鎖。ただし、市民の避難を妨げないでください。逃げ道を一つに絞らず、海側から離して」


 護衛たちが一瞬、彼女を見る。


「聞こえませんでしたか」


 エリーの声が低くなる。


「市民を安全な場所へ。転倒した方と、ほかの負傷者がいないか確認を」


「はっ!」


 二人の護衛がすぐに動いた。


 一人は大通りへ向かい、混乱する人々を左右の路地へ誘導する。もう一人は周囲へ倒れている者がいないか確認し始めた。


 クラリスが肩掛けを折り畳み、僕の脇腹へ押し当てる。


「失礼いたします」


 強く圧迫された瞬間、目の前が白くなった。


「……っ」


「テオさん、意識を保ってください」


「はい」


 答えたが、自分の声が遠い。


「刃は残っていません。出血を押さえます」


 クラリスの手は震えていなかった。


 その隣で、エリーは僕の肩を支え続けている。


「医師が来るまで、このまま」


 彼女はクラリスへ言い、それから組み伏せられた男へ視線を向けた。


「拘束してください。問いただすのは後です。今は誰も近づけないで」


「承知しました」


 男を押さえていた護衛が短く答える。


 長い戦いにはならなかった。


 刃物は地面から離され、男の両腕は背中で縛られた。


 それでも、周囲の緊張は解けない。


 町の人々が遠巻きにこちらを見ていた。


 記者らしい男もいる。


 祭りの様子を撮っていた写真師は、写真機のそばで立ち尽くしていた。布を持った手が下がり、何が起きているのか理解できずにいるようだった。


「エリー様、こちらへ」


 護衛の一人が近づく。


「安全な場所へお移りください」


 エリーは僕の肩から手を離さなかった。


「彼を先に運びます」


「ですが、エリー様の安全を確保することが我々の任務です」


「分かっています」


 彼女は答えた。


 その声には、焦りと苛立ちが混じっていた。


「だからこそ、周囲を確認しなさい。私を囲むために人手を使わないで」


「しかし――」


 護衛が言いかける。


 別の護衛も集まってきた。


 彼らはエリーを守る位置へ立とうとし、僕のそばにはクラリスだけが残る。


 担架を探す者も、医師を呼びに行く者も足りていない。


 エリーが周囲を見た。


 僕の血で汚れた自分の手。


 傷を押さえるクラリス。


 彼女を囲もうとする護衛たち。


 そのすべてを一度に確かめる。


「退きなさい」


 静かな声だった。


 護衛たちが動きを止める。


「エリー様」


「私は無傷です」


「ですが、再び襲撃が――」


「周囲は確認されています。犯人も拘束された。今必要なのは、負傷者を医師のもとへ運ぶことです」


 護衛の一人がなおもためらった。


「我々は、貴女様をお守りするために――」


 その時、エリーが立ち上がった。


 僕の肩から手が離れる。


 支えを失った身体が傾き、クラリスがすぐに抱きとめた。


「テオさん、こちらへ」


「すみません」


「動かないでください」


 僕は石畳へ横たえられた。


 視界が低くなる。


 その向こうで、エリーは血のついたドレスのまま立っていた。


 先ほどまで僕と砂糖菓子を分け、何度も僕の足を踏んで笑っていた少女。


 その姿は同じはずだった。


 けれど、背筋を伸ばして護衛たちを見渡す彼女は、僕の知らない誰かに見えた。


「アルディナ第一王女として命じます」


 空気が変わった。


 町の喧騒も、護衛たちの声も、一瞬で遠のいたように感じた。


「私の警護より、彼の命を優先しなさい!」


 護衛たちが跪いた。


 一人ではない。


 彼女を囲んでいた全員が、石畳へ片膝をつき、頭を垂れた。


「御意、王女殿下」


 声が重なる。


 僕はその言葉の意味を理解できなかった。


 王女殿下。


 誰のことだ。


 視線の先にいるのは、エリーだ。


 雨の停車場で転びそうになった少女。


 魚のスープを同じ卓で食べた少女。


 市場で自分の菓子を選び、初めての海で笑った少女。


 僕の家で母やアンナと食卓を囲み、花火の音に怯えた少女。


 対訳ノートを作り、砂糖を四杯入れ、テラスで僕を抱きしめた少女。


 そのエリーへ、アルディナの護衛たちが跪いている。


「王女……」


 自分の口から漏れた声が、他人のもののように聞こえた。


 アルディナ第一王女。


 内陸の王国の王女。


 外交を学んだ者なら、その名を知らないはずがない。


 国王アウグストの長女。


 王太子ルシアンの姉。


 外国式典や条約承認の場で、王家を代表することもある第一王女。


 けれど、僕の知っている名はエリー・アルノーだった。


「担架を!」


 護衛たちが動き出す。


「医師が到着するまで圧迫を続けろ!」


「馬車をこちらへ!」


「市民を下がらせてください。通路を空けます!」


 命令が次々に伝わっていく。


 誰もが彼女を王女として扱っていた。


 記者が震える手で手帳を開く。


 写真師も、目を見開いたままエリーを見ている。


 周囲の町民から、ざわめきが広がった。


「第一王女……?」


「アルディナの?」


「では、あの令嬢は……」


 エリーは彼らを見なかった。


 再び僕のそばへ膝をつく。


 王女と呼ばれた彼女が、血に濡れた石畳へためらいなく膝をついた。


「テオ」


 声が戻っていた。


 花火の夜に、僕を呼んだ時と同じ声だった。


 けれど、もう同じようには聞こえない。


「医師が来ます。もう少しだけ、意識を保ってください」


 彼女が僕の手を取る。


 指先は冷たかった。


「エリー……」


 呼んでから、その名前が本物ではなかったことを思い出す。


 朝の岬で聞いた言葉。


 本当の名前。


 故国での立場。


 帰った後の未来。


 彼女はすべて話すと約束した。


 話そうとしていた。


 あと少しだった。


「第一王女……なのですか」


 尋ねる声は掠れていた。


 エリーはすぐには答えなかった。


 僕の手を包んだまま、唇を震わせる。


「はい」


 それだけだった。


 否定はなかった。


「どうして……」


 何を尋ねたいのか、自分でも分からない。


 なぜ隠したのか。


 なぜ僕に近づいたのか。


 どこまでが本当だったのか。


 僕と踊ったことも、抱きしめたことも、手をつないだことも。


 何一つ、言葉にならなかった。


「ごめんなさい」


 エリーの目から涙が落ちた。


 一滴が僕の手の甲へ触れる。


「ごめんなさい、テオ」


 彼女は何度も息を整えようとした。


 けれど声は震えたままだった。


「今、話すつもりでした」


 知っている。


 海辺で、彼女は僕に向き合っていた。


 逃げずに話そうとしていた。


 けれど、僕の頭の中では、エリーと第一王女が重ならない。


「私の名前は、エリーゼです」


 彼女の指が僕の手を強く握る。


「エリーゼ・フォン・アルディナ」


 その名は知っていた。


 新聞で見たことも、大学の講義で聞いたこともある。


 けれど、それが目の前の少女の名前だとは、一度も考えたことがなかった。


「ごめんなさい、テオ」


 エリーゼ。


 エリーではない。


 けれど、僕の手を握って泣いている顔は、僕の知っているエリーのものだった。


 どちらが本当なのか。


 それとも、どちらも本当なのか。


 考えようとしたが、視界が暗くなる。


「テオ?」


 声が遠ざかる。


「目を閉じないでください」


 指先に力を入れようとしても、動かなかった。


「テオ!」


 最後に聞こえたのは、王女の声ではなかった。


 僕がエリーと呼んでいた少女の、泣きそうな声だった。


 けれど意識が途切れる直前まで、頭の中に残っていたのは、たった今知らされた本当の名前だった。


 エリーゼ。


 その名を心の中で繰り返しながら、僕は暗闇へ落ちた。


 エリーという夏が終わり、エリーゼという人を知る時間が、最も残酷な形で始まった。

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