↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱるめりあ
第三部「いちばん幸せな夏」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/46

第17話 僕に嘘をついた王女

 目を開けた時、最初に見えたのは王家の紋章だった。


 銀糸で縫い取られた双頭の鳥が、濃紺の上着の胸元にある。


 その紋章を身につけたエリーゼが、寝台のそばに座っていた。


「テオ」


 呼ばれた瞬間、脇腹より先に胸が痛んだ。


 昨日までなら、その声を聞くだけで安心できた。


 けれど今は、返すべき名前が分からない。


 銀白色の髪は隙なく結い上げられ、青灰色の瞳の下には薄い影がある。襟元まで整えられた濃紺の衣装には、胸の紋章だけでなく、肩にも細い金糸の飾りが施されていた。


 市場で菓子を選んだ時の軽いドレスとも、海辺で裾を持ち上げた服とも違う。


 祭りの夜の、白と淡い青の装いですらない。


 僕の知らない身分が、形を持って目の前に座っていた。


「気分はどうですか」


 エリーゼが身を乗り出す。


 僕は反射的に身体を起こそうとした。


 脇腹へ痛みが走り、息が詰まる。


「動かないでください」


 彼女の手が伸びる。


 けれど、僕の身体へ触れる前に止まった。


 昨日なら、その手を取っていたかもしれない。


 今は白い手袋の甲に縫われた小さな紋章ばかりが目に入った。


「医師は、傷が深い場所へは届いていないと言っていました」


 エリーゼは手を膝へ戻した。


「出血は多かったですが、縫合も終わっています。熱が出なければ、しばらく安静にすれば――」


「ここは」


 自分の声がひどく掠れていた。


「侯爵邸です。客室を治療に使っています」


 見慣れない天蓋。


 薬品の匂い。


 窓は厚いカーテンで半分閉ざされ、卓の上には水差しと包帯が置かれている。


 寝台の反対側にはクラリスが立っていた。


 さらに少し離れた場所に、ローデン伯爵がいる。


 彼もまた、いつもの旅装ではなかった。


 正式な上着にはアルディナ王室の紋章があり、胸元にはいくつかの徽章が並んでいる。


 もう、何も隠すつもりはないらしい。


「テオ」


 エリーゼがもう一度、僕を呼んだ。


 答えなければならない。


 そう思ったのに、以前と同じ呼び方はできなかった。


 喉の奥で何度も言葉が止まる。


「……王女殿下」


 エリーゼの表情が固まった。


 ほんの一日で、呼び方がこれほど遠くなるとは思わなかった。


 エリーと呼べば、雨の停車場から昨日までの時間へ戻れる気がする。


 けれど、その名は本当ではなかった。


「目覚めたばかりです。お話は、もう少し後でも」


 クラリスが静かに言う。


「いいえ」


 僕は枕へ身体を預けたまま答えた。


「今、聞きたいです」


 エリーゼが僕を見る。


「本当によいのですか」


「先延ばしには、もう十分でしょう」


 言葉が少し強くなった。


 エリーゼは目を伏せる。


 ローデン伯爵が一歩前へ出た。


「まずは、私から申し上げます」


 声には、これまでと変わらない落ち着きがあった。


 ただし、今は一人の随行者ではなく、王室を代表する者として話しているのだと分かった。


「テオ・レイン殿。このたびは、アルディナ第一王女殿下の御身を守っていただき、王室を代表して深く感謝申し上げます」


 ローデン伯爵は深く頭を下げた。


 伯爵が、寝台の上の僕へ。


 その事実だけでも現実感がなかった。


「貴殿の行動がなければ、殿下は重い傷を負っていた可能性があります。我々の警護が十分でなかった責任も、決して軽いものではありません」


「顔を上げてください」


 僕は言った。


「僕は、考えて庇ったわけではありません」


「それでも、行動されたのは貴殿です」


 伯爵は顔を上げる。


「治療費はもちろん、療養中に生じる損失についても、王室が責任をもって補償いたします。御家族の安全についても、必要な措置を講じます」


 御家族。


 その言葉で、母とアンナの顔が浮かんだ。


「二人は無事ですか」


「はい」


 エリーゼが答えた。


「祭りの後、すぐに侯爵夫人が保護しました。テオが治療を受けていることも伝えています」


「会いましたか」


「侯爵夫人が説明を。私は……まだ」


 エリーゼの声が小さくなる。


「二人とも、貴方が目を覚ますのを待っています。医師の許可が出れば、こちらへ」


「そうですか」


 息を吐く。


 それだけで傷が鈍く痛んだ。


 ローデン伯爵が続ける。


「殿下の身分を秘匿していた件についても、説明いたします」


 部屋の空気が少し重くなる。


「殿下は以前、アルディナ国内にて襲撃未遂に遭われました。幸い負傷はありませんでしたが、それ以降、国外滞在時には身分と行程を厳重に伏せる方針が取られております」


 花火の音に怯えたエリーゼを思い出した。


 大きな音が怖くなるような出来事があった。


 彼女は、それだけを話していた。


「今回のセレネ滞在においても、御身の安全を確保するため、限られた者以外には身分を知らせないことが必要でした」


「僕にも?」


「当初は、その予定でした」


「夏の終わりまで、ずっと」


 ローデン伯爵はわずかに間を置いた。


「はい」


「僕は案内役でした」


「承知しております」


「何度も町へ出ました。海へも、家族の家へも。何か起きれば、僕も巻き込まれる立場だった」


「その点については、我々の判断に責任があります」


「でも、僕には何も知らせなかった」


 声を荒らげるつもりはなかった。


 それでも、抑えきれないものが混じった。


 伯爵は目を逸らさない。


「身分を知る者を増やすこと自体が、危険を高めます」


「僕が秘密を漏らすと?」


「貴殿個人を疑ったわけではありません」


「では、何を疑ったのですか」


「秘密を知ることで、貴殿の行動や周囲の接し方が変化する可能性です。意図せず不自然さが生じれば、正体を探る者の目に留まります」


 理屈は分かる。


 僕は外交と法律を学んでいた。


 王族の外遊において、情報を限る必要があることも知っている。


 けれど、理解できることと、傷つかないことは同じではなかった。


「安全上、必要だった」


「はい」


「なら、僕は最初から、知る必要のない人間だったということですね」


「テオ」


 エリーゼが呼ぶ。


 僕は彼女を見た。


 やはり、その名で呼び返せない。


「王女殿下から、お話しください」


 エリーゼの唇がわずかに震えた。


 ローデン伯爵とクラリスが視線を交わす。


「我々は、外した方がよろしいでしょうか」


 伯爵が尋ねた。


 エリーゼは僕を見る。


 判断を求められているのだと気づくまで、少し時間がかかった。


「どちらでも」


「では、そばにいてください」


 エリーゼが答える。


 声はかすかだった。


「私一人の話ではありませんから」


 ローデン伯爵とクラリスは、その場に残った。


 エリーゼは膝の上で両手を重ねる。


「私の本当の名前は、昨日お伝えしたとおりです」


「エリーゼ・フォン・アルディナ」


 僕の口から出た本名に、彼女の目が揺れる。


 けれど、呼びかけたのではない。


 確認しただけだった。


「はい。私は、アルディナ国王アウグストの長女です」


 言葉の一つ一つが、僕たちの間に距離を作っていく。


「セレネへ来た理由は、伯母であるマリアンヌ侯爵夫人を訪ねるため。そして、母の願いをかなえるためでした」


「王女ではない少女として、夏を過ごす」


 青い糸で綴じられた手帳を思い出す。


「知っていたのですか」


「手帳に書かれていた言葉から、そういう願いだとは思っていました。王女だとは知りませんでしたが」


「……そうですね」


「エリー・アルノーという人は、そのために作ったのですか」


「名前は偽りです。ですが、すべてを演じていたわけではありません」


 エリーゼは急いで言った。


「市場へ行きたいと思ったことも、海を見たいと思ったことも、本当です。テオの家へ行きたいと言ったのも、対訳ノートを作ったのも――」


「それは、後で聞きます」


 僕は遮った。


 今その言葉を聞けば、すぐに信じたいと思ってしまう。


 その一方で、どこまでが本当なのか疑ってしまう。


 どちらも苦しかった。


「まず、隠していたことをすべて話してください」


「はい」


 エリーゼは一度、息を整えた。


「私は、夏が終わる前にアルディナへ戻る予定でした」


「いつ決まっていたのですか」


「ここへ来る前からです」


「僕と会う前から」


「はい」


「帰った後は?」


 彼女の指が重なる。


「王女としての公務へ戻ります。それから……婚姻についての話し合いが予定されています」


 胸の奥で、何かが冷たくなった。


「婚姻」


「まだ決定ではありません」


 エリーゼは顔を上げる。


「相手はマクシミリアン王子です。以前から候補として話がありましたが、正式な返答はしていません」


 知っている名だった。


 アルディナと友好関係にある王家の王子。


 新聞で見たことがある。


 年齢も立場も、第一王女の相手として不足はない。


「そのことも、僕には話さなかった」


「話せませんでした」


「なぜですか」


「最初は、身分を伏せる必要があったからです」


「最初は」


 その言葉を拾うと、エリーゼは黙った。


「途中からは?」


「……怖くなりました」


「何が」


「テオに知られることが」


 エリーゼの手が強く重なる。


「身分を知れば、貴方は今までのように話してくれなくなると思いました。私をエリーとは呼ばなくなる。距離を置き、王女としてしか見なくなるかもしれないと」


 それは今、現実になっている。


 けれど、だからといって彼女の判断が正しかったことにはならない。


「それを、殿下が先に決めたのですか」


「……はい」


「僕がどうするかを、僕に聞かずに」


 エリーゼは答えなかった。


「身分を知れば離れる。婚姻の話を知れば、僕は何も言わなくなる。そう決めたから、黙っていた」


「テオを巻き込みたくなかったのも本当です」


「巻き込むかどうかも、僕には選べなかった」


「危険があることを知らせれば、それだけで――」


「では、案内役を断ることもできなかった」


 声が震えた。


 傷が痛むからではない。


「僕は何も知らずに町を歩き、何も知らずにあなたを家族へ会わせた。何も知らずに、あなたが帰った後のことを考えていた」


「ごめんなさい」


「謝ってほしいだけではありません」


 エリーゼが息を止める。


「僕は、殿下が王女だから怒っているのではありません」


 言い切ると、ローデン伯爵がわずかに目を動かした。


「婚姻候補がいることだけでもない。エリーという名前が偽名だったことだけでもありません」


 脇腹が痛んだ。


 けれど、今止めれば二度と言えない気がした。


「僕は、知ったうえで選びたかった」


 エリーゼの目に涙が浮かぶ。


「王女だと知って、それでもそばにいるのか。婚姻の話を知って、それでも自分の気持ちを伝えるのか。危険があると知って、それでも案内役を続けるのか」


 一つも選ばせてもらえなかった。


 僕が傷つかないように。


 彼女が嫌われないように。


 どちらのためだったとしても、結果は同じだ。


「殿下は、僕に選ばれることを望みながら、僕が選ぶために必要なことを隠した」


「……はい」


 エリーゼの頬を涙が伝った。


「そのとおりです」


 言い訳をしなかったことが、かえって苦しかった。


「夏が終わる前に話すつもりでした」


 彼女は続ける。


「本当の名前も、立場も、帰国の予定も、婚姻の話も。すべて話してから、テオへ――」


 そこで言葉が止まる。


 昨日、彼女は海辺で話そうとしていた。


 僕も、その後で自分の気持ちを伝えるつもりだった。


 もし襲撃がなければ、何が起きていたのだろう。


 彼女の話を聞いても、僕は同じ気持ちを伝えられただろうか。


 分からない。


 今となっては、もう確かめられない。


「どうして、昨日まで待ったのですか」


「話そうとするたびに、今の時間を失うのが怖くなりました」


 エリーゼの声が途切れる。


「テオが笑ってくれることも、名前を呼んでくれることも。すべて変わるかもしれないと思うと、もう一日だけ、もう少しだけと……」


「それで、夏が終わる直前まで」


「はい」


「僕が何も知らないまま、殿下を好きになることは怖くなかったのですか」


 尋ねた後で、部屋が静まり返った。


 初めて、はっきり口にしてしまった。


 好きだった。


 今も気持ちそのものが消えたわけではない。


 だからこそ、これほど痛い。


 エリーゼは僕を見つめていた。


「テオ」


 僕は視線を逸らす。


 その呼び方を聞くたびに、以前の時間へ引き戻される。


 魚のスープ。


 半分に割った菓子。


 海辺の笑顔。


 花火の夜に袖をつかんだ指。


 テラスで抱きしめた温度。


 どれも確かにあった。


 それなのに、そのすべての中心にいた少女の名前すら、本当ではなかった。


「一つだけ、答えてください」


 僕はエリーゼを見る。


「はい」


「僕が恋をしたエリーは、最初から存在しなかったのですか」


 エリーゼの唇が開いた。


 すぐに答えが返ってくると思った。


 違うと言ってほしかった。


 名前は偽りでも、あの時間は本物だったと。


 けれど、彼女は何も言えなかった。


「私は……」


 声がかすれる。


「エリーは――」


 続かない。


 第一王女としてなら、どれほど難しい場でも言葉を選べるのだろう。


 昨夜も恐怖の中で立ち上がり、周囲へ的確な命令を出した。


 それでも今、僕の問いには答えられない。


 沈黙が、答えよりも深く胸へ刺さった。


「今日は、もう休ませてください」


 僕は目を閉じた。


「テオ、待ってください」


「申し訳ありません、王女殿下」


 その呼び方に、エリーゼが息を呑む。


「今は、これ以上聞けません」


 寝台の脇で衣擦れの音がした。


 近づいたのか、立ち上がったのかは見なかった。


「テオ」


 もう一度、名前を呼ばれる。


 僕は答えなかった。


 しばらくして、ローデン伯爵の低い声がした。


「殿下。本日は、ここまでにいたしましょう」


「ですが」


「レイン殿には休息が必要です」


 長い沈黙の後、椅子が引かれた。


 足音が扉へ向かう。


 それでもエリーゼは、すぐには部屋を出なかった。


「ごめんなさい、テオ」


 最後に聞こえた声は、王女としてのものではなかった。


 けれど僕は目を開かなかった。


 扉が閉まった後も、呼び方を失った痛みだけが、傷口より深い場所に残っていた。


 嘘だったのは名前だけなのか。それとも、僕が愛した夏そのものなのか。答えを出すには、傷も心もまだ生々しすぎた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。