第18話 閉ざされた扉
廊下から、足音が近づいてきた。
ゆっくりとした、迷いのある歩き方だった。
僕は寝台の上で目を閉じたまま、その音が扉の前で止まるのを待った。
「テオ」
扉越しでも、その声は分かった。
返事はしなかった。
脇腹の傷は、動かなければ耐えられる程度まで落ち着いていた。
医師は毎朝やってきて、包帯を替え、熱がないことを確かめる。食事も少しずつ普通のものへ戻り、昨日からは支えがあれば部屋の中を歩けるようになった。
けれど、エリーゼとの面会だけは断っていた。
「昨日は、きちんと答えられなくてごめんなさい」
扉の向こうで、彼女が言う。
「貴方の問いから、逃げました」
僕は毛布の端を指でつかんだ。
閉ざされた扉一枚。
それだけの距離なのに、声は以前よりずっと遠く聞こえる。
「すぐに許してほしいとは言いません」
エリーゼは続けた。
「ただ、謝らせてください」
何を謝っているのだろう。
偽名を使ったことか。
王女であることを隠したことか。
帰国後に婚姻の話があると黙っていたことか。
それとも、僕が彼女を好きになると分かっていながら、真実を話す日を延ばしたことか。
一つの謝罪で片づけられるほど、僕の中は整っていなかった。
「テオ」
もう一度呼ばれる。
僕は口を開きかけ、閉じた。
何か答えれば、扉を開けなければならなくなるような気がした。
足音が離れていく。
角を曲がり、聞こえなくなるまで、僕は目を閉じていた。
静かになってから、ようやく息を吐く。
会いたくなかった。
顔を見れば、傷つけられたことより先に、祭りの夜の笑顔を思い出してしまいそうだった。
それが嫌だった。
◇
二日目は、午後に足音が来た。
午前中、母とアンナが見舞いに訪れた。
母は僕の顔を見るなり眉を寄せ、アンナは泣くまいとして余計にひどい顔になった。
傷が深くないと何度説明しても、二人はなかなか安心しなかった。
それでも、帰る頃にはアンナも笑えるようになっていた。
「エリーさんは?」
扉の前で、アンナが尋ねた。
今はエリーさんではない。
そう言いかけて、やめた。
「忙しいんだと思う」
「そうですか」
アンナはそれ以上聞かなかった。
母だけが、僕をしばらく見つめていた。
何も言わず、毛布の端を整えて帰っていった。
その日の午後、足音が扉の前で止まった。
「今日は、説明をさせてください」
エリーゼの声だった。
「ローデン伯爵から聞いたことと、私が話したことだけでは、足りないと思います」
僕は窓の外を見た。
夏の光が庭へ落ちている。
数日前までなら、あの庭で彼女と本を読んでいた。
「過去の襲撃未遂の後、父と王室は、国外で身分を伏せる方針を決めました。セレネへ来ること自体も、最後まで反対されていました」
淡々と話そうとしているのだろう。
それでも、言葉の合間に何度も息を整える音がした。
「伯母様のもとで夏を過ごすことを許された代わりに、私の身分を知る者は限られました。テオへ話さなかったのも、最初はその決まりのためです」
最初は。
前にも聞いた言葉だった。
「ですが、途中からは違いました」
声が少し低くなる。
「テオに嫌われることが怖くて、話せませんでした」
僕は寝台から起き上がった。
傷が引きつり、顔をしかめる。
扉へ近づくつもりはなかった。
けれど、横になったまま聞くことができなかった。
「安全のために話せなかったことと、私が自分のために話さなかったことは、同じではありません」
扉の向こうで、衣擦れの音がする。
「前者を理由にして、後者まで正しいことにしようとは思いません」
僕は返事をしなかった。
それは、僕が聞きたかった区別だった。
身分を隠す必要があったことは理解できる。
けれど、その必要が薄れた後も、彼女は僕との時間を失いたくなくて黙っていた。
そこを曖昧にされれば、僕はきっともっと怒っていた。
正しく分けて話されたからといって、すぐに許せるわけではなかったが。
「テオ」
その呼び方が、胸へ刺さった。
自然に呼ばれていた名前。
雨の停車場から、何度も聞いた声。
今はそれが、勝手に以前の距離へ戻ろうとするように感じられた。
「今は、その名前で呼ばないでください」
声に出した瞬間、扉の向こうが静かになった。
自分の言葉が、思っていた以上に冷たく響いた。
取り消したいとは思わなかった。
けれど、傷つけたことは分かった。
「……承知しました」
返ってきた声は、ひどく小さかった。
「レインさん、とお呼びすればよいですか」
その呼び方も、違う。
初めて会った頃のような距離へ戻るには、僕たちは互いのことを知りすぎていた。かといって、以前と同じ名前で呼ばれることにも耐えられない。
「今は、呼ばなくて結構です」
長い沈黙が落ちた。
「分かりました」
エリーゼは、それ以上何も言わなかった。
足音が離れていく。
僕は扉へ背を向けた。
名前を拒んだのは僕だ。
それなのに、呼ばれなくなった後の静けさが、胸の中へ残った。
◇
次の日、エリーゼは扉を叩かなかった。
昼食の少し前、廊下で小さな物音がした。
しばらく待ってから扉を開けると、盆が置かれていた。
蓋のついたスープ。
柔らかいパン。
水差し。
その隣に、折り畳まれた手紙が一通。
廊下には誰もいなかった。
僕は盆を部屋へ入れ、扉を閉める。
手紙には、王家の紋章も封蝋もなかった。
白い紙を二つに折っただけのものだった。
開く。
文字は整っていた。
対訳ノートを作った時と同じ筆跡だった。
『返事は要りません。
貴方が私を赦さなくても、傷つけた責任まで消えるわけではありません。
会いたくない間は、会いません。
聞きたくない間は、説明もしません。
ただ、食事は取ってください。
傷が治ることと、私を赦すことは別のことです。』
そこで文章は終わっていた。
名前も署名もない。
僕に呼ばないでほしいと言われたから、自分の名も書かなかったのかもしれない。
紙を畳み、卓の上へ置く。
スープの蓋を開けると、湯気が上がった。
厨房の料理人が作ったものだろう。
けれど、パンの横には薄く切った果物が添えられていた。
僕が医師から、酸味の強いものは避けるよう言われたことまで知っているらしい。
食べるつもりはなかった。
それでも、冷める前に口へ運んだ。
味はほとんど分からなかった。
手紙の一文ばかりが頭に残った。
赦さなくても、責任は消えない。
赦しを要求しない謝罪があることを、僕は初めて知った。
謝ったのだから許してほしい、と言わないこと。それは彼女が僕へ返そうとしている、最初の選択権だった。
◇
その次の日は、クラリスが来た。
扉を叩く音が、エリーゼより短い。
「テオさん。クラリスです」
「どうぞ」
彼女だけなら、扉を閉ざす理由はなかった。
クラリスは盆を持って入り、卓へ置いた。
「お食事をお持ちしました」
「ありがとうございます」
「昨日のものは、ほとんど召し上がったと聞きました」
「誰からですか」
「盆を下げた者からです」
当然のことだった。
クラリスは寝台のそばへは来ず、窓際に立った。
「面会をお願いしに来たわけではありません」
「分かっています」
「殿下からも、そのように申しつかっております」
殿下。
その呼び方を聞くたび、まだ胸が硬くなる。
「クラリスさんは、最初から知っていたのですね」
「はい」
「僕へ話そうと思ったことは?」
「ありません」
迷いのない答えだった。
「安全上、許されておりませんでしたから」
「そうでしょうね」
「ですが」
クラリスは一度、言葉を切った。
「安全のために黙っていたことと、殿下が貴方との時間を失いたくなくて告白を遅らせたことは、別です」
エリーゼと同じ区別だった。
「後者について、私から正当化するつもりはありません」
「止めなかったのですか」
「お話しになるべきだと申し上げたことはあります」
「それでも、話さなかった」
「はい」
クラリスは目を伏せた。
「私も、結果としてお支えできませんでした」
長い弁明はなかった。
エリーゼの事情を並べて、僕に理解を求めることもしない。
「殿下は、廊下へ来ることも控えると仰っています」
「そうですか」
「テオさんが静かに休めるように、と」
胸の奥に、小さな痛みが走った。
傷口とは違う場所だった。
「手紙は、まだ置くかもしれません」
「返事はしません」
「承知しております」
クラリスは一礼した。
「それで構わない、と」
扉が閉じる。
僕はまた一人になった。
静かに休みたいと思っていた。
毎日足音が来るたび、緊張していた。
扉を開けるつもりがないのに、何を言われるのか考えてしまった。
だから来ない方がよいはずだった。
◇
翌朝、足音は来なかった。
医師が傷を診て、順調だと言った。
昼前にも、来なかった。
食事は使用人が運んできた。
手紙はなかった。
午後になっても、廊下は静かなままだった。
僕は本を開いたが、同じ行を何度も読んだ。
対訳ノートは卓の引き出しへしまってある。
目に入ると苦しいから、自分で隠した。
だが、どこにあるかを意識していた。
夕方。
窓の外が橙色に染まる。
いつもなら、そろそろ足音が聞こえる時刻だった。
来ない方がよい。
会いたくない。
今は、声も聞きたくない。
そう思っているはずなのに、廊下で床板が鳴るたび、耳を澄ませてしまう。
使用人の足音。
医師の助手。
遠くを通る護衛。
どれも違った。
傷の痛みは、少しずつ薄れている。
けれど、彼女を待ってしまう感覚は消えなかった。
痛みと恋しさを同じものにしてはいけない。
傷が治れば、この気持ちまで治るわけではない。
日が落ちても、足音は来なかった。
僕は閉ざしたままの扉を見つめた。
開けるつもりなど、まだなかった。
それでもその日初めて、向こう側に誰もいないことの方が、扉が閉まっていることより苦しいと思った。
閉ざした扉は、彼女を締め出すためのものだった。いつの間にか、僕自身を閉じ込めるものにもなっていた。




