↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱるめりあ
第三部「いちばん幸せな夏」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/46

第18話 閉ざされた扉

 廊下から、足音が近づいてきた。


 ゆっくりとした、迷いのある歩き方だった。


 僕は寝台の上で目を閉じたまま、その音が扉の前で止まるのを待った。


「テオ」


 扉越しでも、その声は分かった。


 返事はしなかった。


 脇腹の傷は、動かなければ耐えられる程度まで落ち着いていた。


 医師は毎朝やってきて、包帯を替え、熱がないことを確かめる。食事も少しずつ普通のものへ戻り、昨日からは支えがあれば部屋の中を歩けるようになった。


 けれど、エリーゼとの面会だけは断っていた。


「昨日は、きちんと答えられなくてごめんなさい」


 扉の向こうで、彼女が言う。


「貴方の問いから、逃げました」


 僕は毛布の端を指でつかんだ。


 閉ざされた扉一枚。


 それだけの距離なのに、声は以前よりずっと遠く聞こえる。


「すぐに許してほしいとは言いません」


 エリーゼは続けた。


「ただ、謝らせてください」


 何を謝っているのだろう。


 偽名を使ったことか。


 王女であることを隠したことか。


 帰国後に婚姻の話があると黙っていたことか。


 それとも、僕が彼女を好きになると分かっていながら、真実を話す日を延ばしたことか。


 一つの謝罪で片づけられるほど、僕の中は整っていなかった。


「テオ」


 もう一度呼ばれる。


 僕は口を開きかけ、閉じた。


 何か答えれば、扉を開けなければならなくなるような気がした。


 足音が離れていく。


 角を曲がり、聞こえなくなるまで、僕は目を閉じていた。


 静かになってから、ようやく息を吐く。


 会いたくなかった。


 顔を見れば、傷つけられたことより先に、祭りの夜の笑顔を思い出してしまいそうだった。


 それが嫌だった。


◇


 二日目は、午後に足音が来た。


 午前中、母とアンナが見舞いに訪れた。


 母は僕の顔を見るなり眉を寄せ、アンナは泣くまいとして余計にひどい顔になった。


 傷が深くないと何度説明しても、二人はなかなか安心しなかった。


 それでも、帰る頃にはアンナも笑えるようになっていた。


「エリーさんは?」


 扉の前で、アンナが尋ねた。


 今はエリーさんではない。


 そう言いかけて、やめた。


「忙しいんだと思う」


「そうですか」


 アンナはそれ以上聞かなかった。


 母だけが、僕をしばらく見つめていた。


 何も言わず、毛布の端を整えて帰っていった。


 その日の午後、足音が扉の前で止まった。


「今日は、説明をさせてください」


 エリーゼの声だった。


「ローデン伯爵から聞いたことと、私が話したことだけでは、足りないと思います」


 僕は窓の外を見た。


 夏の光が庭へ落ちている。


 数日前までなら、あの庭で彼女と本を読んでいた。


「過去の襲撃未遂の後、父と王室は、国外で身分を伏せる方針を決めました。セレネへ来ること自体も、最後まで反対されていました」


 淡々と話そうとしているのだろう。


 それでも、言葉の合間に何度も息を整える音がした。


「伯母様のもとで夏を過ごすことを許された代わりに、私の身分を知る者は限られました。テオへ話さなかったのも、最初はその決まりのためです」


 最初は。


 前にも聞いた言葉だった。


「ですが、途中からは違いました」


 声が少し低くなる。


「テオに嫌われることが怖くて、話せませんでした」


 僕は寝台から起き上がった。


 傷が引きつり、顔をしかめる。


 扉へ近づくつもりはなかった。


 けれど、横になったまま聞くことができなかった。


「安全のために話せなかったことと、私が自分のために話さなかったことは、同じではありません」


 扉の向こうで、衣擦れの音がする。


「前者を理由にして、後者まで正しいことにしようとは思いません」


 僕は返事をしなかった。


 それは、僕が聞きたかった区別だった。


 身分を隠す必要があったことは理解できる。


 けれど、その必要が薄れた後も、彼女は僕との時間を失いたくなくて黙っていた。


 そこを曖昧にされれば、僕はきっともっと怒っていた。


 正しく分けて話されたからといって、すぐに許せるわけではなかったが。


「テオ」


 その呼び方が、胸へ刺さった。


 自然に呼ばれていた名前。


 雨の停車場から、何度も聞いた声。


 今はそれが、勝手に以前の距離へ戻ろうとするように感じられた。


「今は、その名前で呼ばないでください」


 声に出した瞬間、扉の向こうが静かになった。


 自分の言葉が、思っていた以上に冷たく響いた。


 取り消したいとは思わなかった。


 けれど、傷つけたことは分かった。


「……承知しました」


 返ってきた声は、ひどく小さかった。


「レインさん、とお呼びすればよいですか」


 その呼び方も、違う。


 初めて会った頃のような距離へ戻るには、僕たちは互いのことを知りすぎていた。かといって、以前と同じ名前で呼ばれることにも耐えられない。


「今は、呼ばなくて結構です」


 長い沈黙が落ちた。


「分かりました」


 エリーゼは、それ以上何も言わなかった。


 足音が離れていく。


 僕は扉へ背を向けた。


 名前を拒んだのは僕だ。


 それなのに、呼ばれなくなった後の静けさが、胸の中へ残った。


◇


 次の日、エリーゼは扉を叩かなかった。


 昼食の少し前、廊下で小さな物音がした。


 しばらく待ってから扉を開けると、盆が置かれていた。


 蓋のついたスープ。


 柔らかいパン。


 水差し。


 その隣に、折り畳まれた手紙が一通。


 廊下には誰もいなかった。


 僕は盆を部屋へ入れ、扉を閉める。


 手紙には、王家の紋章も封蝋もなかった。


 白い紙を二つに折っただけのものだった。


 開く。


 文字は整っていた。


 対訳ノートを作った時と同じ筆跡だった。


『返事は要りません。


 貴方が私を赦さなくても、傷つけた責任まで消えるわけではありません。


 会いたくない間は、会いません。


 聞きたくない間は、説明もしません。


 ただ、食事は取ってください。


 傷が治ることと、私を赦すことは別のことです。』


 そこで文章は終わっていた。


 名前も署名もない。


 僕に呼ばないでほしいと言われたから、自分の名も書かなかったのかもしれない。


 紙を畳み、卓の上へ置く。


 スープの蓋を開けると、湯気が上がった。


 厨房の料理人が作ったものだろう。


 けれど、パンの横には薄く切った果物が添えられていた。


 僕が医師から、酸味の強いものは避けるよう言われたことまで知っているらしい。


 食べるつもりはなかった。


 それでも、冷める前に口へ運んだ。


 味はほとんど分からなかった。


 手紙の一文ばかりが頭に残った。


 赦さなくても、責任は消えない。


 赦しを要求しない謝罪があることを、僕は初めて知った。


 謝ったのだから許してほしい、と言わないこと。それは彼女が僕へ返そうとしている、最初の選択権だった。


◇


 その次の日は、クラリスが来た。


 扉を叩く音が、エリーゼより短い。


「テオさん。クラリスです」


「どうぞ」


 彼女だけなら、扉を閉ざす理由はなかった。


 クラリスは盆を持って入り、卓へ置いた。


「お食事をお持ちしました」


「ありがとうございます」


「昨日のものは、ほとんど召し上がったと聞きました」


「誰からですか」


「盆を下げた者からです」


 当然のことだった。


 クラリスは寝台のそばへは来ず、窓際に立った。


「面会をお願いしに来たわけではありません」


「分かっています」


「殿下からも、そのように申しつかっております」


 殿下。


 その呼び方を聞くたび、まだ胸が硬くなる。


「クラリスさんは、最初から知っていたのですね」


「はい」


「僕へ話そうと思ったことは?」


「ありません」


 迷いのない答えだった。


「安全上、許されておりませんでしたから」


「そうでしょうね」


「ですが」


 クラリスは一度、言葉を切った。


「安全のために黙っていたことと、殿下が貴方との時間を失いたくなくて告白を遅らせたことは、別です」


 エリーゼと同じ区別だった。


「後者について、私から正当化するつもりはありません」


「止めなかったのですか」


「お話しになるべきだと申し上げたことはあります」


「それでも、話さなかった」


「はい」


 クラリスは目を伏せた。


「私も、結果としてお支えできませんでした」


 長い弁明はなかった。


 エリーゼの事情を並べて、僕に理解を求めることもしない。


「殿下は、廊下へ来ることも控えると仰っています」


「そうですか」


「テオさんが静かに休めるように、と」


 胸の奥に、小さな痛みが走った。


 傷口とは違う場所だった。


「手紙は、まだ置くかもしれません」


「返事はしません」


「承知しております」


 クラリスは一礼した。


「それで構わない、と」


 扉が閉じる。


 僕はまた一人になった。


 静かに休みたいと思っていた。


 毎日足音が来るたび、緊張していた。


 扉を開けるつもりがないのに、何を言われるのか考えてしまった。


 だから来ない方がよいはずだった。


◇


 翌朝、足音は来なかった。


 医師が傷を診て、順調だと言った。


 昼前にも、来なかった。


 食事は使用人が運んできた。


 手紙はなかった。


 午後になっても、廊下は静かなままだった。


 僕は本を開いたが、同じ行を何度も読んだ。


 対訳ノートは卓の引き出しへしまってある。


 目に入ると苦しいから、自分で隠した。


 だが、どこにあるかを意識していた。


 夕方。


 窓の外が橙色に染まる。


 いつもなら、そろそろ足音が聞こえる時刻だった。


 来ない方がよい。


 会いたくない。


 今は、声も聞きたくない。


 そう思っているはずなのに、廊下で床板が鳴るたび、耳を澄ませてしまう。


 使用人の足音。


 医師の助手。


 遠くを通る護衛。


 どれも違った。


 傷の痛みは、少しずつ薄れている。


 けれど、彼女を待ってしまう感覚は消えなかった。


 痛みと恋しさを同じものにしてはいけない。


 傷が治れば、この気持ちまで治るわけではない。


 日が落ちても、足音は来なかった。


 僕は閉ざしたままの扉を見つめた。


 開けるつもりなど、まだなかった。


 それでもその日初めて、向こう側に誰もいないことの方が、扉が閉まっていることより苦しいと思った。


 閉ざした扉は、彼女を締め出すためのものだった。いつの間にか、僕自身を閉じ込めるものにもなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。