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君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱるめりあ
第三部「いちばん幸せな夏」

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第19話 七日後の特別列車

 朝から、廊下を走る足音が絶えなかった。


「暗号電信を、もう一度確認してください」


「国境側からの返答はまだです」


「駅の構内図を会議室へ!」


 閉ざした扉の向こうで、短い指示が飛び交っている。


 侯爵邸の空気が、昨日までとは明らかに変わっていた。


 僕は寝台の端へ腰かけ、廊下の音を聞いていた。


 傷は順調に塞がりつつある。


 医師からは、部屋の中なら一人で歩いてもよいと言われた。長く立っていると脇腹が重くなるが、寝たきりでいる必要はもうない。


 それでも、僕は部屋から出なかった。


 出れば、誰かと顔を合わせる。


 その誰かが王女殿下でない保証はなかった。


「南駅ではなく、東駅を使う案もあります」


「沿線警備の人数が足りません」


「本国の護衛隊が国境まで迎えに来る。そこから先は引き継げるはずです」


 普段なら、僕も加わっていた種類の会話だった。


 鉄道会社への連絡。


 駅の選定。


 列車の運行時刻。


 国境を越える際の手続き。


 侯爵家の秘書として、他国の要人を送り出すなら、僕にも仕事があっただろう。


 だが今は、何も知らされていない。


 机の上には療養中の食事と、医師から渡された薬だけがある。


 対訳ノートは引き出しへしまったままだ。


 エリーゼからの手紙も、あの日以来置かれていない。


 廊下を通る足音の中に、彼女のものがあるのかは分からなかった。


 意識しないようにしても、耳が探してしまう。


 扉が三度、規則正しく叩かれた。


「テオ・レイン殿。ローデンです」


 エリーゼではなかったことに、安堵したのか落胆したのか、自分でも分からない。


「どうぞ」


 扉が開く。


 ローデン伯爵は正式な上着ではなく、動きやすい濃灰色の服を着ていた。腕には書類を抱え、目の下には疲労が浮かんでいる。


「お身体の具合はいかがですか」


「部屋の中なら歩けます」


「それは何よりです」


 伯爵は扉を閉めると、窓際の椅子へ腰を下ろした。


 僕の寝台へ近づきすぎない位置だった。


「お話ししておくべきことがあります」


「帰国の件ですか」


 廊下の会話を聞けば、それ以外には考えにくい。


 伯爵は小さく頷いた。


「昨夜、アルディナ王宮から暗号電信が届きました」


 抱えていた書類の一番上へ手を置く。


「国王陛下より、第一王女殿下へ即時帰国の命令が下されました」


 即時。


 その言葉を聞いても、意外とは思わなかった。


 身分が町中に知られ、襲撃まで起きた。


 安全を考えれば、滞在を続けられるはずがない。


「いつ出発するのですか」


「七日後です」


 思っていたよりも、時間があった。


 同時に、思っていたよりも短かった。


「即時帰国なのに、七日も?」


「通常の旅程では移動させられません」


 伯爵は淡々と説明する。


「王女殿下の御身分は、すでに新聞社と町の人々に知られています。昨日の時点で、祭りにいた記者が王都へ電信を送ったことも確認されました」


「止められなかったのですか」


「事実を完全に伏せることは、もはや不可能です。写真師も現場を目撃しています」


 石畳へ跪いた護衛たち。


 アルディナ第一王女として命じるエリーゼ。


 あれほど多くの人の前で明かされた正体を、なかったことにはできない。


「正体が露見した以上、通常の定期列車を利用すれば、駅や沿線に人が集まります」


 伯爵は書類を一枚めくった。


「再び襲撃を受ける危険も高まる。そこで、王室専用の特別列車を国境まで走らせます」


「その準備に七日」


「はい。車両の確保、線路の警備、駅への立ち入り制限、セレネ側との通行手続き。本国から派遣される護衛隊との合流にも時間が必要です」


「出発する駅は?」


「まだ最終決定ではありません」


 伯爵はそこで言葉を切った。


「申し訳ありませんが、決定後も必要な者以外には知らせません」


「僕も必要な者ではない」


「貴殿を疑っているのではありません」


「分かっています」


 前なら、その言葉へ反発したかもしれない。


 だが、襲撃を受けた今、安全上の判断を感情だけで否定することはできなかった。


「殿下をお守りするため、帰国させなければならない」


 ローデン伯爵はまっすぐ僕を見る。


「貴殿への感謝と、この判断は両立します」


 声は冷たくなかった。


 説得するというより、彼自身が負う責任を告げているようだった。


「貴殿が殿下をお救いくださったことを、我々は決して忘れません。しかし、その恩に報いるために滞在を続けさせ、再び危険へさらすこともできません」


「僕も、帰国させるべきだと思います」


 言葉にすると、胸の奥が重くなる。


「そう言っていただけることに、感謝します」


「感謝されるようなことではありません」


 彼女が安全であるべきだと思うことと、離れてほしくないと思うことは、同時に存在できる。


 けれど、後者を伯爵へ話す理由はなかった。


「国王陛下は、かなりお怒りですか」


 尋ねると、ローデン伯爵はわずかに眉を動かした。


「国王としては、強い懸念を示されています」


「父親としては?」


「私が軽々しく申し上げることではありません」


 拒まれたのかと思ったが、伯爵は少し考えてから続けた。


「ただ、帰国命令の最後に、殿下へ直接宛てた一文がありました」


 僕は黙って待つ。


「無事に帰り、自分の言葉で話しなさい、と」


 命令だけではなかった。


 失敗を責めるだけでもない。


「何を話すのですか」


「国王陛下へでしょう。今回の滞在中に起きたことを、ご自身の言葉で」


 僕のことも含まれるのだろうか。


 そう考えたが、口にはしなかった。


「陛下は、殿下をすぐに王都へ連れ戻すことだけをお考えなのではありません」


 伯爵は言う。


「王女として報告を求めると同時に、娘が何を考え、何を選ぼうとしているのかを聞こうとなさっています」


 その言葉を、どこまで信じてよいのかは分からない。


 ただ、冷酷な国王が命令だけを送りつけたわけではないらしい。


「もう一つ、お伝えしておくことがあります」


 ローデン伯爵の声が少し低くなる。


「帰国後、殿下には延期されていた公務が待っています」


「そうでしょうね」


「加えて、マクシミリアン王子との正式な婚姻交渉が始まります」


 傷口とは違う場所が、鋭く痛んだ。


「正式な」


「はい」


「まだ候補だと聞きました」


「現時点では候補です。婚姻が決定したわけではありません」


「では、何を交渉するのですか」


「両王家の条件、婚姻後の公務、居所、殿下の権限。相互に確認すべきことは多くあります」


 それは、僕が想像していたよりもずっと現実的な話だった。


 誰を好きかだけで決まるものではない。


 二つの王家と国の都合が絡む。


「マクシミリアン王子は、どのような方ですか」


 なぜそんなことを聞いたのか、自分でも分からなかった。


 ローデン伯爵はすぐには答えなかった。


「誠実な方です。殿下の意思を無視して婚姻を進める方ではありません」


 やがて、短く言う。


「殿下を王女として尊重し、交渉も一方的に進めるおつもりはありません」


「よい方なのですね」


「少なくとも、私はそう認識しております」


 嫌な人物だと言われた方が、楽だったのかもしれない。


 けれど、エリーゼの婚姻候補が悪人である理由などない。


 彼女にふさわしい身分を持ち、誠実で、王女としての立場も理解している。


 僕とは何もかも違う。


「殿下は、その交渉が始まることも知っていた」


「はい」


「セレネへ来る前から」


「正式な開始時期は未定でしたが、帰国後に話が進む可能性は承知しておられました」


 夏が終われば帰る。


 その後には婚姻交渉がある。


 彼女はそれを知りながら、僕と町を歩いた。


 海へ行った。


 僕の家で食事をした。


 テラスで抱きしめ、岬で手をつないだ。


 秘密は、王女という身分だけではなかった。


 夏の後に続く彼女の人生そのものが、僕には隠されていた。


「このことを、殿下は僕へ話すつもりだったと言いました」


「そのように伺っております」


「祭りの夜に」


「はい」


「最後まで話していれば、僕は何と答えたのでしょうね」


 伯爵へ尋ねたわけではなかった。


 返事もなかった。


 答えられるはずがない。


 僕自身にも分からないのだから。


「レイン殿」


「はい」


「殿下が貴殿へ真実を告げるのを遅らせたことについて、私は擁護いたしません」


 ローデン伯爵は膝の上で手を組んだ。


「しかし、婚姻交渉が始まることと、婚姻を受け入れることは同じではありません」


「何が言いたいのですか」


「事実を、必要以上に決定された未来として受け取らないでいただきたい」


 僕は伯爵を見る。


「殿下の将来を決めるのは、僕ではありません」


「そのとおりです」


 迷いのない返答だった。


「国王陛下だけでも、私だけでも、マクシミリアン王子だけでもありません。殿下ご自身の意思を含め、多くの責任と条件の中で決まることです」


「なら、僕には関係がない」


「それを決めるのは、私ではありません」


 今度は少しだけ意味の違う答えだった。


 それ以上、伯爵は何も言わなかった。


 立ち上がり、書類を抱え直す。


「出発までの七日間、侯爵邸の警備はさらに厳しくなります。貴殿のご家族についても、必要な範囲で護衛を置きます」


「ありがとうございます」


「殿下との面会については、これまでどおり貴殿の意思を尊重します」


「王女殿下は、何と?」


「面会を求めるようなことはしない、と」


 胸の奥が沈む。


「そうですか」


「ただし、出発前にお話しする機会を望んでおられます」


「僕が断れば?」


「その意思も尊重なさるでしょう」


 赦しを迫らない。


 扉を開けろとも言わない。


 それが彼女なりの責任なのだと分かる。


 分かるからこそ、時間だけが先に進んでいく。


「お伝えすることは以上です」


 ローデン伯爵が一礼する。


「療養中のところ、長く失礼しました」


「伯爵」


 扉へ向かう背中を呼び止める。


「王女殿下は、無事ですか」


 伯爵が振り返った。


「お身体に問題はありません」


「そうではなく」


 言いかけて、やめる。


 眠れているのか。


 食事を取っているのか。


 僕の扉の前へ来なくなってから、どのような顔をしているのか。


 尋ねる資格がないとは思わない。


 けれど、知ったところでどうするのかが分からなかった。


「いえ。何でもありません」


 ローデン伯爵はしばらく僕を見ていた。


「殿下は、帰国の準備と事後の対応にあたっておられます」


 必要な範囲だけ答えた。


「祭りで負傷した市民はいなかったことが確認されました。混乱の中で転倒した方々への見舞いと、営業を中止した店への補償についても、殿下ご自身で確認されています」


「そうですか」


「昨夜は、遅くまで書類をご覧になっていました」


 それ以上は言わず、伯爵は部屋を出た。


 扉が閉まる。


 廊下では、また忙しい足音が響いている。


「国境側から返答が届きました!」


「特別列車の車両は確保できるそうです」


「警備計画をローデン伯爵へ!」


 すべてが帰国へ向けて動いている。


 僕が扉を開けるかどうかとは関係なく。


 エリーゼを赦せるかどうかとも関係なく。


 七日後、彼女は列車へ乗る。


 国境を越え、アルディナへ帰る。


 その先では王女としての公務が待ち、誠実な王子との婚姻交渉が始まる。


 僕が会わないと決め続ければ、このまま顔を見ないまま別れることもできる。


 それは、傷ついた僕が選べる権利だった。


 けれど一度選べば、後から扉を開けても、もう向こう側に彼女はいない。


 七日。


 謝るにも、怒るにも、もう一度恋をするにも短すぎる時間。


 数字にすれば、わずか二文字だった。


 それなのに今は、僕が閉ざした扉よりも、ずっと重く感じられた。

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