第20話 彼女の願い帳
扉が二度、静かに叩かれた。
「テオさん。クラリスです」
「どうぞ」
入ってきたクラリスは、盆も手紙も持っていなかった。
両手で、一冊の小さな帳面を抱えている。
青い糸で綴じられた、見覚えのある表紙だった。
「それは……」
「殿下からお預かりしました」
クラリスは卓の上へ、願い帳をそっと置いた。
「テオさんに読んでほしいと、殿下がおっしゃいました」
「全部を?」
「はい」
僕は帳面を見つめた。
最初に拾った時、開かれた頁へ書かれていた願いを、偶然いくつか読んだ。
自分で菓子を選ぶ。
初めて海へ入る。
家族と同じ食卓を囲む。
好きな人と踊る。
どれも、王女として生きてきた彼女には簡単ではない願いだった。
「王女殿下は、これを渡せば僕が赦すと思っているのですか」
クラリスは首を横へ振った。
「そのようなことは、何も」
「では、なぜ」
「読んでほしい。それだけでございます」
声に弁明はなかった。
「返事も求めておられません」
「そうですか」
クラリスは一礼し、扉へ向かう。
「クラリスさん」
呼び止めると、彼女は振り返った。
「王女殿下は、これを渡す時、何か言っていましたか」
「いいえ」
少し考えてから、付け加える。
「長い間、表紙へ手を置いていらっしゃいました」
それ以上は話さず、クラリスは部屋を出た。
扉が閉じる。
卓の上に、青い帳面だけが残った。
僕はすぐには手を伸ばせなかった。
これを開けば、エリーと過ごした夏が戻ってくる。
けれど、表紙を閉じたままにしても、その夏が消えるわけではない。
やがて椅子へ座り、帳面を手に取った。
青い糸の一部が、少し毛羽立っていた。
何度も開かれ、持ち歩かれた跡だった。
最初の頁には、以前にも見た母親の言葉がある。
『この夏に、自分で選んだものを書きなさい。』
その下に、小さな文字で日付が記されていた。
僕と雨の停車場で出会う、少し前の日付だった。
頁をめくる。
『町の人と同じものを食べる。』
その横には、小さな印がついている。
『雨の日、テオと魚のスープを食べた。
同じ卓へ座り、同じ鍋から分けてもらった。
パンを渡す順番が分からず、少し遅れた。
テオは笑わなかった。何も言わず、私の方へ籠を寄せてくれた。』
指が止まる。
僕は、そんなことをした記憶すら曖昧だった。
彼女にとっては、書き残すほどのことだったらしい。
次の頁。
『自分で好きな菓子を選ぶ。』
その下にも印がある。
『柑橘の砂糖菓子を選んだ。
甘いだけではなく、少し苦かった。
テオは、私が自分で選んだことを店の人へきちんと伝えてくれた。
半分に分けたら、困った顔をしながら受け取った。』
その横へ、さらに小さな文字が続いている。
『テオは笑う時、左の眉が少し下がる。』
思わず、自分の眉へ触れた。
そんな癖があるとは知らなかった。
帳面は願いの一覧ではなくなっていた。
頁を追うごとに、僕と過ごした日の記録が増えていく。
『初めて海へ入る。』
『水は思っていたより冷たかった。
波に足を取られた時、テオが受け止めてくれた。
すぐに離れたのに、腰へ触れた手の温度が長く残った。』
そこまで読んで、帳面を閉じかける。
海辺で彼女を受け止めたのは、転ばないようにとっさに手を伸ばしただけだった。
それでも僕は、あの時の近さを意識していた。
彼女も同じように覚えていたとは知らなかった。
次の頁には、僕の家を訪ねた日のことが書かれている。
『家族と同じ食卓を囲む。』
『テオのお母様は、私の皿が空く前に料理を足してくださった。
アンナさんは、テオが幼い頃に木へ登って降りられなくなった話を教えてくれた。
テオは何度もやめてほしいと言っていた。
でも、本当に嫌なら、あのようには笑わないと思う。』
その下に、一行だけある。
『あの家の明かりを、帰る時に何度も振り返った。』
胸の奥が締めつけられた。
彼女が僕の家を懐かしいと言ったことを思い出す。
王女の生活を知らなかった僕は、その言葉の重さをほとんど理解していなかった。
頁をめくる。
『テオは今日も昼食を忘れた。』
日付が変わる。
『今日も昼食を忘れた。』
さらに次の日。
『今日はクラリスに頼み、パンを届けてもらった。
私からだとは言わないでもらった。
テオは仕事をしながら全部食べた。』
僕は記憶を探った。
書類の束の横に、いつの間にか置かれていたパン。
厨房の者が気を利かせたのだと思っていた。
『テオは自分のことには、あまり注意を払わない。
人の困り事にはすぐ気づくのに、自分が疲れていることには気づかない。』
書かれているのは、立派な行動ばかりではない。
昼食を忘れること。
眠い時に目をこすること。
難しい文章を読む時、唇がわずかに動くこと。
考え込むと、持っている鉛筆を二度回すこと。
僕自身が知らない僕を、彼女は見ていた。
『名前を呼ぶと、少し困ったように笑う。』
『人前ではレイン秘書と呼ばなければならない。
二人の時にテオと呼ぶと、声が少し柔らかくなる。気のせいかもしれない。』
『彼が私の名前を呼んだ日は、よい一日だった。』
その一文を、何度も読み返した。
エリー。
偽りの名前だった。
けれど、呼ばれるたびに彼女は喜んでいた。
嘘の名前を守るためだけなら、こんなことは書かない。
そう思いかけて、手を止める。
帳面に書かれた言葉が本心でも、僕へ真実を隠した事実はなくならない。
恋が本物だったことと、嘘が正しかったことは別だ。
彼女自身も、手紙でそう書いていた。
赦さなくても、傷つけた責任は消えない。
僕はまた頁をめくった。
対訳ノートを受け取った日の記録がある。
『テオへ、勉強に使うノートを渡す。』
願いの横には印がついていた。
『夜更かしを叱られた。
でも、使ってもらえた。
最初の頁に、テオ・レインと書いていた。
あの名前が、いつか外交文書の下へ署名されればよいと思う。』
胸の奥に、小さな熱が生まれる。
彼女は僕を、暇つぶしの相手として見ていたのではなかった。
夏が終われば忘れる人間でもない。
僕が諦めた未来まで、彼女は見ていた。
さらに頁を進める。
花火の夜。
『怖いと言う。』
短い願いだった。
横には、少し滲んだ印がついている。
『テオは理由を聞かなかった。
怖くなくなるまでいると言った。
袖をつかんだ。
本当は、もう少し長くつかんでいたかった。』
舞踏会の日。
『好きな人と踊る。』
印がある。
『テラスで、一曲だけ踊った。
曲が終わっても離れたくなかった。
私から抱きしめた。
嫌ではないと言ってくれた。
テオの心臓は、とても速かった。私も同じだったと思う。』
好きな人。
そこには、はっきりそう書かれていた。
誰のことか、迷う余地はない。
僕が尋ねた時、彼女は言葉にできなかった。
けれど帳面の中では、すでに僕を選んでいた。
その事実に嬉しさを覚える自分がいた。
同時に、怒りも消えなかった。
これほど僕を好きだったのなら、なぜ話さなかった。
僕が離れると恐れたから。
今の時間を失いたくなかったから。
理由は聞いている。
だが、それでも僕には、選ぶための真実が与えられなかった。
頁の後半は、書かれた日付が新しくなるにつれ、空白が増えていた。
岬へ行った朝の記録。
『本当のことを話すと約束する。』
その横に、印はない。
『テオは、知る前から逃げないと言ってくれた。
何を知っても変わらないとは言わなかった。
それが嬉しかった。
都合のよい約束ではなく、本当に私を知ろうとしてくれたのだと思う。』
僕はそこで目を閉じた。
彼女は分かっていた。
僕が欲しかったのは、何を聞いても無条件に受け入れるという誓いではない。
本当の彼女を知り、そのうえで選ぶことだった。
分かっていたのに、最後まで話すのを遅らせた。
その矛盾が、彼女自身の弱さなのだろう。
次の頁には、祭りの日のことが途中まで書かれていた。
『テオと、もう一度同じ菓子を分ける。』
『町の踊りを一緒に踊る。』
『祭りが終わったら、すべて話す。』
最後の一つだけ、印がない。
文章も、そこで途切れていた。
襲撃の後に書かれたものは、ほとんどない。
ただ、最後に近い頁へ、二つの願いが並んでいる。
『本当の名前を、好きな人へ話す。』
未達成。
その下。
『王女である私を知っても、愛してもらう。』
こちらにも、印はなかった。
文字は整っていたが、最後の方だけ筆圧が強い。
僕は指先で、紙の上をなぞりかけてやめた。
彼女が欲しかったのは、エリーだけを愛してもらうことではなかった。
最終的には、王女である自分まで知ってほしいと思っていた。
けれど、その願いをかなえるには、僕へ王女である自分を見せなければならない。
その一歩を恐れ、先延ばしにした。
結果として僕は、最も残酷な形で真実を知った。
願い帳は、彼女の恋が本物だったことを証明していた。
同時に、嘘の免罪符にはならなかった。恋が真実でも、選択を奪った過ちは消えない。
これを読んだからといって、傷つけられた事実を忘れることはできない。
帳面へ書かれた一途な言葉だけを選び、彼女が僕から選択を奪ったことを見ないふりもできない。
けれど、僕が問いかけたことへの答えは、少しだけ見えた。
僕が恋をしたエリーは、最初から存在しなかったのか。
名前は存在しなかった。
身分も、語られた家の事情も、本当ではなかった。
それでも、魚のスープを温かいと感じた少女も、海で笑った少女も、僕の家の明かりを振り返った少女もいた。
僕の癖を見つけ、昼食を心配し、名前を呼べた日を喜んだ人もいた。
それを帳面だけで結論にしてはいけない。
本人へ聞かなければならない。
なぜ、ここまで僕を見ていたのに、僕が何を選ぶかだけは信じてくれなかったのか。
なぜ王女である自分を愛してほしいと願いながら、王女である自分を僕に見せなかったのか。
その答えを聞いた後で、僕自身が決める。
赦すのか。
まだ赦せないのか。
それでも失いたくないと思うのか。
窓の外は、いつの間にか暗くなっていた。
帰国まで、あと六日。
僕は願い帳を閉じた。
青い糸を指で押さえ、しばらく卓の前へ座っていた。
廊下に足音はない。
王女殿下は、もう扉の前へ来ない。
僕が静かに休めるように。
僕が自分で選べるように。
立ち上がると、傷がわずかに引きつった。
急がずに扉まで歩く。
取っ手へ手をかけた。
開ければ、今すぐ会えるとは限らない。
今夜、話せるとも限らない。
それでも、閉じたまま待つのはやめようと思った。
明日、王女殿下と話す。
願い帳に答えを求めるのではなく、僕から選択を奪った本人の言葉を聞くために。
取っ手を握ったまま、僕はそう決めた。
扉を開けることは、赦すことではない。自分の答えを、自分で選ぶための一歩だった。




