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君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱるめりあ
第三部「いちばん幸せな夏」

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第21話 嘘ではなかったもの

 扉を開けた。


 廊下の窓から差し込む朝の光の中に、エリーゼが立っていた。


 濃紺の王族服でも、王家の紋章を縫い取った手袋でもない。


 初めて停車場で会った頃のような、飾りの少ない淡色の服を着ていた。


 銀白色の髪も、簡素な形で背へ流している。


「……お身体は」


 エリーゼが言いかける。


 僕は扉の取っ手を握ったまま、その服を見た。


「その服を着れば、エリーへ戻れると思ったのですか」


 声が、自分で思ったより硬くなった。


 エリーゼは俯かなかった。


「いいえ」


 静かに首を横へ振る。


「戻れません」


 廊下の少し離れた場所には、クラリスが立っていた。


 僕たちの会話が聞こえないほど遠くはない。けれど、近づこうとはしなかった。


「では、なぜその服を?」


「王女としての服で来れば、貴方に答えを求めているように見えると思いました」


「この服なら違うと?」


「違わないかもしれません」


 エリーゼの指が、服の脇で重なる。


「ただ、貴方と最初に会った時に近い姿で、もう一度きちんと話したいと思いました」


「最初に会った時も、名前は偽りだった」


「はい」


 彼女の顔がわずかに強張る。


 それでも視線は逸れなかった。


「部屋へ入りますか」


 僕が尋ねる。


「よろしいのですか」


「話すために扉を開けました」


 エリーゼはすぐには動かなかった。


 僕が本当に入室を認めているのか、確かめるように見つめている。


「どうぞ、王女殿下」


 その呼び方に、彼女の睫毛が震えた。


「失礼します」


 エリーゼは一礼して部屋へ入った。


 クラリスは廊下に残る。


 扉を閉める直前、彼女と目が合った。


 何かを訴える様子も、エリーゼを頼むという表情もない。ただ静かに頭を下げた。


 僕は扉を閉じた。


 昨日まで閉ざしていた扉が、今度は僕たちを同じ部屋の中へ残した。


 卓の上には、青い糸の願い帳が置いてある。


 エリーゼはそれに気づいたが、手を伸ばさなかった。


「座ってください」


「はい」


 彼女が椅子へ腰を下ろす。


 僕は向かいへ座ろうとして、傷が引きつるのを感じた。


「テ――」


 エリーゼの身体が反射的に動く。


 けれど、すぐに立ち止まった。


 僕へ触れず、椅子の背へ手を置く。


「大丈夫です」


「医師は、もう歩いてよいと?」


「部屋の中だけなら」


「無理をしないでください」


「そのために座ります」


 僕が椅子へ腰を下ろすと、エリーゼも静かに座り直した。


 卓を挟んだ距離は、手を伸ばしても届かないほどだった。


「願い帳を読みました」


「はい」


「僕に読ませるために書いたのですか」


「違います」


 答えは早かった。


「初めは、自分のためだけに書いていました」


「途中から、僕のことばかり書いてあった」


 エリーゼの頬にわずかな赤みが差す。


「……そのようになってしまいました」


「僕が昼食を忘れたことまで」


「何度も忘れていましたから」


「パンを届けたのも、王女殿下だったのですね」


「クラリスに頼みました」


「なぜ、自分からだと言わなかったのですか」


「貴方は、私からだと知れば礼を言うために仕事を止めると思いました」


「それでは意味がないと」


「はい」


 以前なら、その気遣いを嬉しいと思っただろう。


 今も嬉しくないわけではない。


 だからこそ、単純に受け取れなかった。


「願い帳に書かれていたことは、本当ですか」


「すべて本当です」


「僕の名前を呼んだ日は、よい一日だった?」


 エリーゼの指が膝の上で動く。


「はい」


「好きな人と踊ったと書いた相手も、僕ですか」


「はい」


「王女である自分を知っても、愛してほしいと願った相手も?」


 今度は、答えまでに少し間があった。


 それでもエリーゼは、はっきり頷いた。


「貴方です」


 胸が強く鳴った。


 聞きたかった言葉だった。


 けれど、それだけで何もかもを元へ戻すことはできない。


「なら、教えてください」


 僕は願い帳へ手を置いた。


「どうして、これほど僕を見ていたのに、僕が何を選ぶかだけは信じてくれなかったのですか」


 エリーゼの顔から、わずかに残っていた色が消えた。


「王女である自分を愛してほしいと願いながら、どうして王女である自分を見せなかったのですか」


「……怖かったからです」


「何がですか」


「貴方を失うことが」


 小さな声だった。


「最初は、身分を明かすことを許されていませんでした。安全のために必要な偽名でした」


「それは理解しています」


「ですが、途中からは、それだけではありません」


 エリーゼは重ねていた手をほどいた。


 掌を上へ向ける。


 何も隠していないことを示すような仕草だった。


「貴方を守りたかったのは本当です。でも、嫌われたくなかったのも本当です」


 声が震える。


 それでも、彼女は言葉を止めなかった。


「私は、自分が傷つかないために、貴方から選ぶ権利を奪いました」


 部屋が静かになる。


 窓の外から、馬車の車輪が砂利を踏む音が聞こえた。


「王女だと知れば、貴方は離れるかもしれない。帰国の予定や婚姻の話を知れば、私を選ばないかもしれない。私はそれを恐れて、貴方が選ぶ前に、選ぶための事実を隠しました」


「僕を守るためだと考えていたのでは?」


「考えていました」


 エリーゼは認めた。


「危険へ巻き込みたくない。身分差で苦しませたくない。帰国後の事情を知らせれば、貴方を困らせる。そう考えたことも本当です」


「では、何が間違いだったのですか」


「貴方が何を苦しいと思うかを、私が決めたことです」


 僕は黙った。


「知れば離れると、貴方に尋ねる前から決めました。話さない方が貴方のためだと、自分に都合よく考えました」


「都合よく?」


「はい」


 エリーゼの目に涙が浮かぶ。


「話さなければ、私はもう少しだけエリーでいられました。貴方に名前を呼んでもらえました。町を歩き、同じものを食べ、隣にいられました」


 涙は落ちなかった。


 彼女は瞬きもせず、僕を見ていた。


「守るという言葉を使いながら、私は自分が失いたくないものを守っていました」


 言い訳ではなかった。


 安全上の必要と、自分自身の弱さを分けている。


 その区別を聞くために、僕は扉を開けた。


「もし、最初に王女だと知っていたら」


 僕はゆっくり言葉を探した。


「僕は本当に、案内役を断ったかもしれません」


 エリーゼの指が動く。


「怖くなって、必要以上に距離を置いたかもしれない。王女殿下と同じ食卓へ座ることも、海へ行くことも、自分には許されないと考えたでしょう」


「……はい」


「僕は、そういう人間です」


 夢を諦めた時もそうだった。


 できない理由を先に並べ、傷つく前に手を離した。


「選ばれるはずがないと思えば、選ばれる可能性を確かめる前に諦めます。王女だと知っていたら、あなたを好きになる前に逃げたかもしれません」


「では、私が隠したことは――」


「正しかったとは言っていません」


 エリーゼが口を閉じる。


「僕が逃げたかもしれないことと、殿下が選択を奪ったことは別です」


「はい」


「僕が臆病だからといって、僕へ真実を話さなくてよい理由にはならない」


「そのとおりです」


「僕が誤った選択をする可能性があっても、それは僕自身が引き受けるべきだった」


「はい」


 エリーゼは一度も否定しなかった。


 僕が本当に逃げたかもしれないと知っても、自分の判断を正当化しなかった。


「僕は、身分を知れば離れると思われていたことが苦しかった」


 ようやく、痛みを言葉にする。


「僕がそれほど信用されていなかったように感じた」


「信用していなかったわけではありません」


「そうでしょうか」


「貴方が秘密を漏らすとは、一度も思っていませんでした」


「それだけが信用ではありません」


 エリーゼの目が揺れる。


「王女だと知った僕が、それでもあなたのそばに立とうとする可能性を、殿下は信じなかった」


「……はい」


「僕があなたを選ぶかもしれないことを、信じてもらえなかった」


 言い切ると、胸の奥に残っていた形のない痛みが、少しだけ輪郭を持った。


 僕が欲しかったのは、秘密を任されることだけではない。


 真実を知った僕にも、彼女を選ぶ資格があると信じてほしかった。


「申し訳ありません」


 エリーゼが深く頭を下げる。


「私は、貴方が私を選ばない未来ばかりを恐れました」


「それほど、僕に選ばれたかったのですか」


 問いかけると、彼女は顔を上げた。


「はい」


 ためらいはなかった。


「だからこそ、私は最もしてはいけないことをしました」


 その声に、僕は答えられなかった。


 好きではない相手なら、これほど苦しくはない。


 恋が偽物だったなら、切り捨てることもできた。


 けれど、願い帳に書かれた言葉も、今ここで語られている弱さも、本物に見えた。


「前に聞きました」


 僕は言う。


「僕が恋をしたエリーは、最初から存在しなかったのかと」


「はい」


「あの時、どうして答えられなかったのですか」


 エリーゼは膝の上へ視線を落とした。


「違うと言えば、嘘を正当化するように思えました」


「では、存在しなかった?」


「名前としてのエリーは、存在しません」


 彼女はゆっくり顔を上げる。


「エリー・アルノーという名前も、語った家の事情も、偽りでした」


 言葉のたびに、彼女自身が傷ついているように見えた。


「でも」


 エリーゼは胸元へ手を添えた。


「エリーは嘘の名前でした。でも、貴方を好きになった私は、嘘ではありません」


 息が止まりそうになった。


「魚のスープを温かいと思ったのも、初めての海が嬉しかったのも、貴方の家へ帰りたいと思ったのも本当です」


 僕は彼女の言葉を遮らなかった。


「対訳ノートを作ったのも、花火の夜にそばにいてほしいと思ったのも、テラスで抱きしめたのも、すべて私です」


「王女殿下としてのあなたも?」


 尋ねると、エリーゼの声が止まった。


「それも、本当のあなたですか」


「はい」


 今度の返事には、少し時間がかかった。


「王女として公務を行う私も、国のことを考える私も、婚姻について責任を負わなければならない私も、すべて私です」


「エリーと呼ばれていた時には、見せなかった部分です」


「はい」


「僕が恋をしたのは、そこを知らないままのあなたです」


「分かっています」


 エリーゼの目から、ついに涙が落ちた。


「だから、今すぐ同じように愛してほしいとは言いません」


「願い帳には書いてありました」


「願うことと、相手へ義務として求めることは違います」


 頬を伝った涙を、彼女は自分で拭った。


「王女である私を知っても愛してほしい。それは私の願いです。でも、貴方にかなえる義務はありません」


 僕は願い帳へ視線を落とす。


 未達成の印。


 あの願いをかなえるかどうかは、僕が選ばなければならない。


「まだ、赦せるとは言えません」


「はい」


「願い帳を読んで、恋が本物だったことは分かりました。でも、傷ついたことまでなくなったわけではない」


「分かっています」


「王女殿下を見ると、今も知らない人のように感じます」


 エリーゼの指が震える。


「それでも、話を聞いてくださったことに感謝します」


「感謝されるために開けたのではありません」


「はい」


「僕自身が、知らないまま別れたくなかっただけです」


 朝の岬で、僕が口にした言葉だった。


 知らないまま離れるよりはいい。


 あの時は、知った後の痛みを想像できていなかった。


 それでも、今も同じだった。


「一つ、お願いしてもよいですか」


 エリーゼが尋ねる。


「内容によります」


「もう一度、テオと呼んでもよいですか」


 部屋の時計が、小さな音を立てた。


 返事ができない。


 その名前は、彼女の声で何度も呼ばれた。


 呼ばれるたび、僕は自分が彼女にとって特別な人間になったように感じていた。


 だからこそ、真実を知った後、その呼び方に耐えられなくなった。


「すぐに以前と同じようにとは思っていません」


 エリーゼが続ける。


「嫌なら、もう呼びません」


「それでよいのですか」


「よくはありません」


 正直な答えだった。


「ですが、私が呼びたいことより、貴方が呼ばれたくないことの方を尊重します」


 また、沈黙が落ちる。


 僕は彼女を見る。


 エリーと呼んでいた少女の面影がある。


 同時に、僕の知らない王女の姿もある。


 どちらかを消して、都合のよい方だけを見ることはできない。


「以前と同じには、まだ戻れません」


「はい」


「僕も、前と同じようには答えられないと思います」


「それでも構いません」


 エリーゼは待った。


 僕へ返事を急がせない。


 僕は何度か息を整えた。


「……呼んでください」


 エリーゼの目が大きくなる。


「よいのですか」


「一度だけ」


 彼女は両手を握り、声を出す前に唇を湿らせた。


「テオ」


 胸が痛んだ。


 けれど、扉越しに拒んだ時とは違う痛みだった。


 僕は彼女の名を呼ばなければならないと思った。


 偽りの名前ではなく。


 王女という称号だけでもなく。


 目の前にいる、本当の彼女の名前を。


「……エリーゼ」


 彼女の頬を、新しい涙が伝った。


 声を上げて泣きはしなかった。


 ただ、胸元で握った指をほどけないまま、僕を見つめていた。


 僕は立ち上がらなかった。


 手を伸ばしもしなかった。


 今ここで抱きしめれば、言葉にした傷まで曖昧になってしまう気がした。


「まだ、話さなければならないことがあります」


 僕が言う。


「はい」


「僕も、自分がどうしたいのか分かっていません」


「はい」


「それでも、もう扉は閉めません」


 エリーゼは涙を拭い、静かに頷いた。


 僕たちは卓を挟み、向かい合って座っていた。


 まだ赦しには届いていない。


 以前の二人へ戻ったわけでもない。


 けれどその朝、僕は初めて、エリーという嘘の名前の向こうにいた彼女と話し始めた。


 元に戻るためではない。真実を知った後の二人として、もう一度関係を作り直すために。

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