第22話 王女としての彼女
「治療費だけでは足りません。休業した日数も確認してください」
濃紺の公務服をまとったエリーゼが、町の代表へ向き直った。
「祭りの中止によって廃棄した品と、壊れた屋台についても補償します。申告の方法が分からない方には、町役場から書記を出してください」
町役場の応接室には、机を挟んで十人ほどが集まっていた。
エリーゼの隣にはローデン伯爵。
少し後ろにクラリス。
僕は向かいの端へ座り、セレネ語とアルディナ語で作られた書類を照合している。
傷はまだ完全には塞がっていない。
長く歩くことは禁止されていたが、椅子に座って文書を扱う程度なら、医師の許可が出た。
正確には、何度も頼んだ末に、条件つきで認められた。
「こちらの欄は、営業できなかった日数です」
僕は町の書記へ、アルディナ側が用意した申告書を示した。
「品物の損失は次の欄へ。治療を受けた方については、診療所の証明を添えてください」
「承知しました、レイン秘書」
肩書を呼ばれた僕へ、エリーゼが一瞬だけ視線を向ける。
公の場では、僕たちは互いに名前を呼ばない。
「王女殿下」
町長が慎重に口を開いた。
「祭りの警備については、町にも責任があります。全額を王室へ負担していただくわけには」
「町が通常の祭りを開いたことに、責任はありません」
エリーゼは穏やかに遮った。
「襲撃者が紛れ込んだ経緯は、現在調査中です。ですが、少なくとも私の身分と滞在が原因の一つとなったことは否定できません」
「しかし、殿下も被害を受けられた側です」
「だからといって、店を失った方の損害が軽くなるわけではありません」
町長は返す言葉を探すように口を閉じた。
エリーゼは机の上の一覧へ目を落とす。
「転倒して足を痛めた方が三名。硝子で手を切った方が一名。いずれも命に別状はないと聞いています」
「はい」
「今日中に見舞いの品を届けます。動けない方には、私が直接伺います」
ローデン伯爵が静かに口を挟んだ。
「殿下。警備上、御本人が各家を訪ねることは認められません」
「では、この建物まで来られない方については?」
「侯爵夫人と町側の代表者に、王室の使者を同行させます」
エリーゼは少し考えた。
「分かりました。私からの書簡を添えてください」
「承知しました」
反対されたからといって、彼女は感情的にならなかった。
自分が行くという希望を押し通さず、目的を果たす別の方法を選ぶ。
以前の僕なら、それを単に王族らしい振る舞いだと思ったかもしれない。
今は、彼女が何を優先し、どこで譲るのかを見ていた。
扉の外で、重い荷物が床へ落ちた。
激しい音が室内へ響く。
エリーゼの肩が跳ねた。
机の上に置いた指が、紙の端を強くつかむ。
クラリスがすぐに扉へ顔を向けた。
護衛の一人が廊下を確認する。
「書類箱を落としただけです」
扉の外から報告が入る。
「問題ありません」
「……分かりました」
エリーゼは一度、深く息を吐いた。
顔色はわずかに白くなっていた。
それでも、会議を中断するとは言わない。
「続けましょう」
紙をつかんでいた指をゆっくり離し、次の書類を取る。
僕と目が合った。
花火の夜のように、呼吸が乱れてはいない。
けれど、恐怖が消えたわけではないことは分かった。
僕は何も言わず、彼女が読む予定だった報告書を少し近くへ寄せた。
エリーゼは小さく頷く。
「次は、警備についてです」
ローデン伯爵が資料を開いた。
「当日、殿下の警護に当たっていた者から、報告書が提出されています」
「処分案は?」
「接近を許した責任として、現場責任者の任を解く案が出ています」
エリーゼの眉が寄った。
「本人だけの判断で配置を決めたのですか」
「いいえ。基本計画は私が承認しました」
「祭りの人出を想定した警護人数も?」
「私と侯爵家側で協議しております」
「では、一人へ責任を負わせるのは適切ではありません」
ローデン伯爵は反論しなかった。
「警護に不備がなかったとは言いません」
エリーゼは続ける。
「ですが、現場責任者は襲撃者を制圧し、市民の避難にも当たりました。計画そのものに問題があったなら、計画を承認した者を含めて検証すべきです」
「殿下御自身も含めると?」
「私の滞在方法と行動にも、危険を高めた部分があったでしょう」
クラリスが口を開く。
「殿下が町へ出ることを望まれたのは事実ですが、安全判断の責任は私どもにございます」
「私が強く希望したことも事実です」
「それでも、許可を出したのは警護側です」
「なら、どちらか一方だけの責任ではありません」
エリーゼは書類を閉じた。
「罰する者を先に決めるのではなく、何を見落としたかを明らかにしてください。再発を防げない処分に意味はありません」
「承知しました」
ローデン伯爵が頭を下げる。
その動きに、ためらいはなかった。
王女に逆らえないから従っただけには見えない。
彼女が自分も検証の外へ置かず、判断の責任を引き受けたからこそ、伯爵も答えたのだと思った。
「国王陛下への報告書は、こちらで清書いたします」
僕は下書きを持ち上げた。
昨夜までにアルディナ側の書記がまとめた文面だった。
事実関係は正しい。
だが、襲撃当時のエリーゼ自身の判断については、簡潔に整えられすぎている。
「いいえ」
エリーゼは首を横へ振った。
「父への報告は、私が書きます」
「殿下が御自ら?」
町長が驚いたように尋ねる。
「私の判断によって起きたこともあります。人に書かせた文章へ署名するだけでは、報告したことになりません」
「ですが、帰国準備もございます」
ローデン伯爵が言う。
「今夜中に仕上げます」
「睡眠時間を削ることは認められません」
「では、午後の予定を一つ減らしてください」
「何を減らされますか」
「衣装の確認を」
「それはクラリスと侍女たちだけでも進められます」
クラリスがすぐに答えた。
「では、お願いします」
「承知しました」
話が瞬く間に決まっていく。
誰かへすべてを押しつけるのではない。
自分がすべきことと、任せられることを分けている。
僕が知っていたエリーは、自分の好みを決めるだけでも迷うことがあった。
菓子を選ぶ時には、甘さや香りの違いを一つずつ確かめた。
共同の食卓では、パンを渡す順番に戸惑った。
僕が若い令嬢と話しているだけで、紅茶へ砂糖を四杯も入れた。
その少女と、目の前で補償や警備の責任を判断する第一王女。
どちらか一方が偽りだったわけではない。
選んだ経験の少ない少女が、国に関わる判断では迷わない。
矛盾しているようで、それが彼女の生きてきた人生なのだろう。
僕はまだ、その人生の一部しか知らない。
それでも初めて、王女という肩書の向こうではなく、王女として生きている彼女を見ている気がした。
◇
会議の後、足を痛めた町民の一人が家族に支えられて応接室へ入ってきた。
祭りの混乱で転び、足首を捻ったという老婦人だった。
エリーゼは椅子から立ち上がる。
「そのままお座りください」
老婦人が慌てて礼をしようとするのを止め、自分から歩み寄った。
「お加減はいかがですか」
「医者には、数日休めばよいと言われました」
「痛みは?」
「歩かなければ、それほど」
エリーゼは老婦人の足元へ目を向けた。
包帯が巻かれている。
「お仕事は何を?」
「洗濯の仕事をしております」
「足を使いますね」
「休めば、その分だけ稼ぎがなくなります」
老婦人は困ったように笑った。
「治療費に加えて、休業中の収入を補償します」
「ですが、王女様にそこまでしていただくような」
「私が王女だからするのではありません」
エリーゼは言った。
「私がこの町に滞在したことで生じた損失だからです」
老婦人は何度も礼を言った。
エリーゼは慰めの言葉を重ねず、必要な手続きだけを町の書記へ確認する。
帰り際、老婦人が振り返った。
「祭りでは、楽しそうに踊っていらっしゃいましたね」
エリーゼの顔に、一瞬だけ驚きが浮かぶ。
「見ていたのですか」
「ええ。何度も、お連れの方の足を踏んで」
室内に小さな笑いが起きた。
エリーゼの頬が赤くなる。
「……あれは、踊り方が少し複雑だったのです」
「そういうことにしておきましょう」
老婦人は笑いながら、家族とともに部屋を出ていった。
エリーゼは扉が閉まるまで見送る。
それから、僕の方を見た。
「笑いましたね」
「笑っていません」
「左の眉が下がっていました」
願い帳に書かれていた僕の癖だ。
「見ていたのですか」
「見なくても分かります」
以前にも聞いたような返事だった。
それでも、二人とも笑いはしなかった。
以前と同じ会話に戻ろうとすれば、かえって違いがはっきりする。
「王女殿下」
町の書記が次の書類を持ってきた。
エリーゼはすぐに公の表情へ戻る。
「ありがとうございます」
書類を受け取り、署名欄を確認する。
僕も翻訳へ戻った。
まだ、何もかもが自然というわけではない。
けれど、同じ卓で仕事をすることはできた。
◇
すべての面会が終わったのは、夕方だった。
町の代表たちが退出し、ローデン伯爵も警備会議のために部屋を出る。
クラリスは書類を届けるため、廊下へ向かった。
僕とエリーゼだけが残った。
扉が閉じた瞬間、彼女の肩が落ちた。
背もたれへ身体を預け、長く息を吐く。
公務中には一度も崩れなかった姿勢が、ようやく緩んだ。
「疲れましたか」
僕が尋ねる。
「少しだけ」
「少しだけ、には見えません」
「では、かなり」
エリーゼは目を閉じた。
「物音がした時も、怖かったでしょう」
彼女の睫毛が動く。
「はい」
「休んでもよかったのでは?」
「休めば、怖くなくなるわけではありません」
「無理をして倒れれば、仕事もできません」
「テオに言われたくありません」
目を開け、僕の脇腹を見る。
「傷が治りきっていないのに、仕事へ戻った方に」
「僕は座っていただけです」
「長い時間、座るのもよくないと医師が言っていました」
「聞いていたのですか」
「確認しました」
以前なら、素直に心配されていると思えた。
今は、その気遣いを受け取るにも少し時間が必要だった。
「ありがとうございます」
僕が言うと、エリーゼはわずかに目を見開いた。
「何がですか」
「心配してくれたことです」
「……はい」
短い返事だった。
それだけで十分だった。
「今日、初めて見た気がします」
「何を?」
「王女として仕事をしているエリーゼを」
彼女の身体が少し固くなる。
「どう見えましたか」
声に緊張が混じった。
僕はすぐには答えなかった。
「まだ、全部は分かりません」
「はい」
「判断が正しいかどうかも、僕には分からないことがあります」
「はい」
「ですが、責任から逃げない人だと思いました」
エリーゼは視線を落とした。
「逃げたこともあります」
「僕へ真実を話すことから?」
「はい」
「それと、今日見たことは別です」
彼女が顔を上げる。
「同じ人の中に、両方あるのだと思います」
エリーゼは何も言わなかった。
目の奥に、わずかな光が揺れた。
「テオ」
私的な声で呼ばれる。
「はい、エリーゼ」
今度は、それほど長く迷わず名前を返せた。
彼女は小さく息を吐き、椅子へ深く座り直す。
僕が知っていた、普通のことに戸惑い、笑い、嫉妬する少女。
会議の途中、ローデン伯爵から襲撃犯の取り調べ結果も報告された。
男は三年前の王都爆破事件と同じ急進共和派に属していた亡命者だった。港の荷役名簿に残った王室随行員の名から一行を追い、祭りでエリーゼの顔を確認したらしい。組織的な追加犯行の証拠はなく、単独犯と判断された。それでも、彼女の身分を隠す必要が現実の危険に根ざしていたことだけは、疑いようがなかった。
僕が知らなかった、判断し、命じ、責任を引き受ける第一王女。
一人になった途端、疲れたように肩を落とす十九歳の女性。
その日の僕は、彼女のすべてを理解したわけではない。
ただ、どれか一つだけが本当なのではなく、そのすべてを初めて同じ人の中に見た。
恋をした少女を理解するには、王女を知らなければならない。王女を知るには、疲れた十九歳の女性から目を逸らしてはいけなかった。




