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君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱるめりあ
第四部「終わるはずではなかった夏」

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第23話 帰ってほしくない

「エリーゼに、会わせてください」


 僕がそう告げると、クラリスは手にしていた書類から顔を上げた。


 驚いた様子は一瞬だけだった。


「殿下は、南の庭にいらっしゃいます」


「お一人ですか」


「護衛はおりますが、お話を妨げる距離にはおりません」


 クラリスは書類を閉じる。


「お身体は大丈夫ですか」


「ゆっくり歩けば」


「無理をなさらないでください」


「エリーゼにも言われました」


「でしたら、私から申し上げる必要はございませんね」


 ほんの少しだけ声が柔らかくなった。


 それ以上は何も尋ねず、クラリスは庭へ続く廊下を示した。


 僕は一礼し、歩き出す。


 帰国まで、あと三日。


 侯爵邸では、特別列車へ積む荷物の確認が続いていた。


 廊下には木箱が並び、使用人たちが行き交っている。アルディナから来た護衛は駅までの経路を確かめ、ローデン伯爵は朝から電信室と会議室を往復していた。


 すべてが、エリーゼをここから連れ去るためではない。


 彼女を無事に国へ帰すために動いている。


 頭では分かっている。


 それでも、廊下を歩きながら耳へ届く一つ一つの音が、残された時間を削っているように感じた。


 南の庭へ出る。


 夏の夕日はまだ高く、白い花壇の上へ長い光を落としていた。


 エリーゼは噴水の近くに立っていた。


 濃紺の公務服ではなく、淡い灰青色のドレスを着ている。けれど、エリーと名乗っていた頃の簡素な服とも違った。


 胸元には、アルディナ王家の小さな紋章がある。


 隠していない。


 王女であることを消そうともしていない。


「エリーゼ」


 呼ぶと、彼女が振り返った。


 驚いたように目を見開く。


「テオ」


 その声を聞くだけで、胸の奥が強く鳴った。


 彼女は僕へ歩み寄りかけ、脇腹へ視線を落として足を止めた。


「歩いてきたのですか」


「庭までなら問題ありません」


「医師は?」


「許可は得ています」


「本当に?」


「部屋へ連れ戻しますか」


「そうしたい気持ちはあります」


「王女の命令で?」


「今は、ただの心配です」


 エリーゼは困ったように眉を下げた。


「座りましょう」


 噴水の近くにある長椅子を示す。


 僕たちは少し間を空けて腰を下ろした。


 水の音が続いている。


 庭の端には護衛が二人いたが、こちらへ顔を向けてはいない。


「話したいことがあります」


 僕が言うと、エリーゼの手が膝の上で重なった。


「はい」


「昨日、王女として仕事をするあなたを見ました」


「失望しましたか」


「どうして最初にそう考えるのですか」


「まだ、貴方に知られていないことが多いからです」


 エリーゼは噴水へ目を向けた。


「知るたびに、思っていた人とは違うと感じるかもしれません」


「違うとは思いました」


 彼女の指に力が入る。


「でも、別人ではありませんでした」


 エリーゼが僕を見る。


「菓子を選ぶのに迷った人も、町の人への補償を迷わず決めた人も、同じだった」


「はい」


「花火の音を怖がった人も、襲撃の後に立ち上がって命令した人も」


 あの夜の姿を思い出す。


 血のついた手。


 白い顔。


 それでも背筋を伸ばし、自分の警護より僕の命を優先しろと命じた声。


「僕へ真実を話せずに逃げた人も、自分の責任を父王へ報告しようとした人も、同じです」


「……はい」


「貴女は最初から、ずっとエリーゼだった」


 エリーゼの唇がわずかに開いた。


 すぐには声が出なかった。


「名前を偽っていたことまで、なかったことにするつもりはありません」


 僕は続ける。


「僕から選ぶ権利を奪ったことも、まだ完全に赦せたとは言えない」


「分かっています」


「でも、エリーと呼んでいた人が消えて、知らない王女が現れたわけではなかった」


 以前は、それが分からなかった。


 エリーという少女と、アルディナ第一王女が、どうしても同じ人間には見えなかった。


 今は違う。


「僕が知らなかっただけです」


「私が、見せなかったのです」


「そうですね」


 否定はしなかった。


「だから、これから知りたいと思っています」


 エリーゼの瞳が揺れる。


「王女である貴女を、僕はまだ全部知りません」


 十九年の人生。


 王族として受けてきた教育。


 公務で向き合ってきた人々。


 国や家族への責任。


 僕が知っているのは、この夏に見せてもらった一部だけだ。


「これから知れば、意見が合わないこともあるでしょう。僕には理解できない判断をすることもあるかもしれない」


「あります」


 エリーゼは、ためらいながら認めた。


「私は、いつでも正しいわけではありません」


「昨日、少し分かりました」


「どの場面ですか」


「衣装の確認を後回しにしようとした時です」


「報告書の方が大切でした」


「クラリスさんは困っていました」


「任せられると判断しました」


「そのようなところも、これから知っていきます」


 エリーゼが、かすかに笑った。


 すぐにその笑みは消え、真剣な表情へ戻る。


「それでも、よいのですか」


「よいかどうかを、誰に尋ねているのですか」


「テオに」


「なら、僕が決めます」


 彼女は言葉を失った。


 その顔を見て、ようやく気づく。


 僕は今まで、選ばれる可能性がないと自分で決めてきた。


 大学を辞めた時も。


 外交官の夢を諦めた時も。


 彼女が高位貴族令嬢だと思っていた時も。


 王女だと知った後も。


 始める前に、できない理由を探していた。


 だからこそ、選択権を奪われたことが苦しかった。


 彼女にだけでなく、自分自身にも、何度も同じことをしてきたからだ。


「真実を知れば、僕は逃げたかもしれません」


「はい」


「今も、怖くないわけではありません」


 婚姻交渉。


 国境。


 王女と没落男爵家の次男という身分差。


 考えれば、逃げる理由はいくらでもあった。


「ですが、知らないまま失う方が怖い」


 声に出すと、胸の奥が震えた。


 エリーゼは瞬きもせず、僕を見ていた。


「失う、と言ってくださるのですか」


「もう、何度も失いかけました」


 偽名だと知った時。


 扉を閉ざした時。


 七日後に帰ると告げられた時。


 会わなければ傷つかずに済むと思った。


 けれど、会えなくなることの方が苦しかった。


「エリーゼ」


「はい」


「帰ってほしくない」


 彼女の呼吸が止まった。


 自分でも、ひどく幼い願いだと思った。


 国王の命令も、再襲撃の危険も、王女としての責任も無視した言葉だった。


 それでも、言わなければならなかった。


「帰国命令に背いてほしいという意味ではありません」


 僕はすぐに続けた。


「王女を辞めてほしいとも思っていません。危険を冒して、ここに残ってほしいわけでもない」


「はい」


「帰るべきだと分かっています」


 エリーゼは国へ帰らなければならない。


 襲撃後の報告をし、公務へ戻り、婚姻交渉にも自分の意思で向き合う必要がある。


 僕のために、それらを捨ててほしいとは思わなかった。


「でも、僕は貴女と離れたくない」


 初めて、自分の望みだけを口にした。


 正しいかどうかではない。


 かなうかどうかでもない。


「帰ってほしくないと思っています」


 エリーゼの目から、涙が一滴落ちた。


 彼女はすぐに拭わなかった。


「ずっと、その言葉を聞きたかったのかもしれません」


「困らせましたか」


「はい」


 エリーゼは泣きながら微笑んだ。


「とても」


「すみません」


「謝らないでください」


 膝の上に置かれた彼女の手が、僕の方へ少し動く。


 けれど、途中で止まった。


「私も、帰りたくありません」


 声は小さかった。


「ですが、帰ります」


「はい」


「父へ話さなければなりません。今回起きたことも、私がしたことも。婚姻の話にも、逃げずに向き合います」


「はい」


「それでも、テオに帰ってほしくないと言ってもらえたことが……嬉しいです」


 彼女は指先で涙を拭った。


「私は、エリーとして貴方を好きになりました」


 胸の鼓動が大きくなる。


「エリーゼとして、とは違うのですか」


「最初は、王女ではない自分だけを見てほしいと思っていました」


 エリーゼは自分の胸元にある紋章へ触れた。


「王女である私を知られれば、貴方の気持ちは変わると思っていたからです」


「変わりました」


 彼女の表情が固くなる。


「以前より、知らなければならないことが増えました」


「……はい」


「簡単には考えられなくなった」


「はい」


「でも、気持ちがなくなったわけではありません」


 僕は長椅子の上で、彼女へ向き直った。


「むしろ、知らなかった貴女をもっと知りたいと思っています」


 エリーゼの手が、また少し僕へ近づく。


「私は、エリーとして貴方を好きになりました」


 彼女は同じ言葉を、今度はまっすぐ僕へ向けた。


「でも、エリーゼとして、貴方を愛しています」


 世界から音が消えたように感じた。


 噴水の水音は続いている。


 庭の木々も風に揺れている。


 けれど、その言葉以外は何も聞こえなかった。


「愛しています、テオ」


 僕はすぐに答えられなかった。


 言葉が見つからないのではない。


 口にすれば、もう引き返せなくなると分かっていた。


 けれど、引き返したいとは思わなかった。


「まだ、すべてを赦したわけではありません」


 先に、そう告げた。


「それでも?」


「それでも、貴女を愛しています」


 エリーゼの目から、また涙がこぼれた。


「エリーと呼んでいた貴女も、僕の知らなかった王女である貴女も」


 すべてを理解しているとは言えない。


 これから知る中で、傷つくこともあるだろう。


「今の貴女を、愛しています」


 エリーゼの手が、今度こそ僕へ届いた。


 長椅子の上へ置かれた僕の手に、指先が触れる。


 僕は掌を返し、彼女の手を取った。


 朝の岬でつないだ時よりも、彼女の指は強く僕の指へ重なった。


「テオ」


「はい」


「一つ、お願いしてもよいですか」


「何ですか」


 エリーゼは答えず、僕の顔を見つめた。


 視線が一度、唇へ落ちる。


 それだけで、何を望んでいるのか分かった。


 僕も同じことを考えていた。


 けれど、思い込みで距離を越えたくはなかった。


「口づけても?」


 尋ねると、エリーゼの頬が赤くなる。


「はい」


 小さく、それでもはっきりと答えた。


 僕は傷へ負担をかけないよう、ゆっくり身体を寄せる。


 エリーゼも少しだけ近づいた。


 互いの息が触れる距離で、一度止まる。


 彼女が目を閉じた。


 僕も目を閉じ、唇を重ねた。


 短い口づけだった。


 触れた瞬間、彼女の手が僕の指を強く握る。


 唇を離しても、すぐには距離を戻せなかった。


 エリーゼが目を開く。


 青灰色の瞳が、すぐ近くにある。


「……もう終わりですか」


 囁くような声だった。


「初めてですから」


「私もです」


「それなら、これくらいがよいでしょう」


「テオは、やはり慎重ですね」


「不満ですか」


「少しだけ」


 そう言いながら、彼女は泣いた跡の残る顔で笑った。


 僕も笑う。


 その笑顔を見てから、もう一度だけ口づけた。


 先ほどよりも短く、確かめるように。


 離れた後も、僕たちは手をつないだままだった。


「傷ついたことを、忘れたわけではありません」


 僕は言う。


「はい」


「今後、また不安になることもあると思います」


「はい」


「その時は、話します」


 エリーゼが僕の手を握り直す。


「私も、貴方のためだと勝手に決めません」


「簡単ではないでしょう」


「努力します」


「僕も、諦める前に話すようにします」


「約束できますか」


「努力します」


「そこは約束してください」


「エリーゼも努力と言ったでしょう」


「私はよいのです」


「相変わらずですね」


「何がですか」


「自分に都合のよい理屈を使うところです」


 エリーゼは少し眉を寄せ、それから笑った。


 以前と同じ笑顔だった。


 けれど今、僕が呼んでいるのはエリーではない。


 彼女も、王女であることを隠してはいない。


 真実を知らなかった頃へ戻ったのではなかった。


 傷ついた場所を消さず、そこを二人で確かめながら、僕たちは初めて同じところから歩き始めたのだと思った。


 遠くで時計の鐘が鳴った。


 夕刻を告げる音だった。


 帰国まで、あと三日。


 その現実は、口づけを交わしても消えなかった。


 やがて立ち上がれば、エリーゼは帰国の準備へ戻り、僕も残された仕事と療養へ戻る。


 国境も、身分も、婚姻交渉も、そのまま待っている。


 それでも今だけは、つないだ手を離さなかった。


「テオ」


「はい」


「もう一度、呼んでください」


 僕は彼女の本当の名前を呼ぶ。


「エリーゼ」


 彼女は嬉しそうに目を細めた。


 残された三日を数える代わりに、僕たちはしばらく、互いの名前だけを何度も呼び合った。

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