第23話 帰ってほしくない
「エリーゼに、会わせてください」
僕がそう告げると、クラリスは手にしていた書類から顔を上げた。
驚いた様子は一瞬だけだった。
「殿下は、南の庭にいらっしゃいます」
「お一人ですか」
「護衛はおりますが、お話を妨げる距離にはおりません」
クラリスは書類を閉じる。
「お身体は大丈夫ですか」
「ゆっくり歩けば」
「無理をなさらないでください」
「エリーゼにも言われました」
「でしたら、私から申し上げる必要はございませんね」
ほんの少しだけ声が柔らかくなった。
それ以上は何も尋ねず、クラリスは庭へ続く廊下を示した。
僕は一礼し、歩き出す。
帰国まで、あと三日。
侯爵邸では、特別列車へ積む荷物の確認が続いていた。
廊下には木箱が並び、使用人たちが行き交っている。アルディナから来た護衛は駅までの経路を確かめ、ローデン伯爵は朝から電信室と会議室を往復していた。
すべてが、エリーゼをここから連れ去るためではない。
彼女を無事に国へ帰すために動いている。
頭では分かっている。
それでも、廊下を歩きながら耳へ届く一つ一つの音が、残された時間を削っているように感じた。
南の庭へ出る。
夏の夕日はまだ高く、白い花壇の上へ長い光を落としていた。
エリーゼは噴水の近くに立っていた。
濃紺の公務服ではなく、淡い灰青色のドレスを着ている。けれど、エリーと名乗っていた頃の簡素な服とも違った。
胸元には、アルディナ王家の小さな紋章がある。
隠していない。
王女であることを消そうともしていない。
「エリーゼ」
呼ぶと、彼女が振り返った。
驚いたように目を見開く。
「テオ」
その声を聞くだけで、胸の奥が強く鳴った。
彼女は僕へ歩み寄りかけ、脇腹へ視線を落として足を止めた。
「歩いてきたのですか」
「庭までなら問題ありません」
「医師は?」
「許可は得ています」
「本当に?」
「部屋へ連れ戻しますか」
「そうしたい気持ちはあります」
「王女の命令で?」
「今は、ただの心配です」
エリーゼは困ったように眉を下げた。
「座りましょう」
噴水の近くにある長椅子を示す。
僕たちは少し間を空けて腰を下ろした。
水の音が続いている。
庭の端には護衛が二人いたが、こちらへ顔を向けてはいない。
「話したいことがあります」
僕が言うと、エリーゼの手が膝の上で重なった。
「はい」
「昨日、王女として仕事をするあなたを見ました」
「失望しましたか」
「どうして最初にそう考えるのですか」
「まだ、貴方に知られていないことが多いからです」
エリーゼは噴水へ目を向けた。
「知るたびに、思っていた人とは違うと感じるかもしれません」
「違うとは思いました」
彼女の指に力が入る。
「でも、別人ではありませんでした」
エリーゼが僕を見る。
「菓子を選ぶのに迷った人も、町の人への補償を迷わず決めた人も、同じだった」
「はい」
「花火の音を怖がった人も、襲撃の後に立ち上がって命令した人も」
あの夜の姿を思い出す。
血のついた手。
白い顔。
それでも背筋を伸ばし、自分の警護より僕の命を優先しろと命じた声。
「僕へ真実を話せずに逃げた人も、自分の責任を父王へ報告しようとした人も、同じです」
「……はい」
「貴女は最初から、ずっとエリーゼだった」
エリーゼの唇がわずかに開いた。
すぐには声が出なかった。
「名前を偽っていたことまで、なかったことにするつもりはありません」
僕は続ける。
「僕から選ぶ権利を奪ったことも、まだ完全に赦せたとは言えない」
「分かっています」
「でも、エリーと呼んでいた人が消えて、知らない王女が現れたわけではなかった」
以前は、それが分からなかった。
エリーという少女と、アルディナ第一王女が、どうしても同じ人間には見えなかった。
今は違う。
「僕が知らなかっただけです」
「私が、見せなかったのです」
「そうですね」
否定はしなかった。
「だから、これから知りたいと思っています」
エリーゼの瞳が揺れる。
「王女である貴女を、僕はまだ全部知りません」
十九年の人生。
王族として受けてきた教育。
公務で向き合ってきた人々。
国や家族への責任。
僕が知っているのは、この夏に見せてもらった一部だけだ。
「これから知れば、意見が合わないこともあるでしょう。僕には理解できない判断をすることもあるかもしれない」
「あります」
エリーゼは、ためらいながら認めた。
「私は、いつでも正しいわけではありません」
「昨日、少し分かりました」
「どの場面ですか」
「衣装の確認を後回しにしようとした時です」
「報告書の方が大切でした」
「クラリスさんは困っていました」
「任せられると判断しました」
「そのようなところも、これから知っていきます」
エリーゼが、かすかに笑った。
すぐにその笑みは消え、真剣な表情へ戻る。
「それでも、よいのですか」
「よいかどうかを、誰に尋ねているのですか」
「テオに」
「なら、僕が決めます」
彼女は言葉を失った。
その顔を見て、ようやく気づく。
僕は今まで、選ばれる可能性がないと自分で決めてきた。
大学を辞めた時も。
外交官の夢を諦めた時も。
彼女が高位貴族令嬢だと思っていた時も。
王女だと知った後も。
始める前に、できない理由を探していた。
だからこそ、選択権を奪われたことが苦しかった。
彼女にだけでなく、自分自身にも、何度も同じことをしてきたからだ。
「真実を知れば、僕は逃げたかもしれません」
「はい」
「今も、怖くないわけではありません」
婚姻交渉。
国境。
王女と没落男爵家の次男という身分差。
考えれば、逃げる理由はいくらでもあった。
「ですが、知らないまま失う方が怖い」
声に出すと、胸の奥が震えた。
エリーゼは瞬きもせず、僕を見ていた。
「失う、と言ってくださるのですか」
「もう、何度も失いかけました」
偽名だと知った時。
扉を閉ざした時。
七日後に帰ると告げられた時。
会わなければ傷つかずに済むと思った。
けれど、会えなくなることの方が苦しかった。
「エリーゼ」
「はい」
「帰ってほしくない」
彼女の呼吸が止まった。
自分でも、ひどく幼い願いだと思った。
国王の命令も、再襲撃の危険も、王女としての責任も無視した言葉だった。
それでも、言わなければならなかった。
「帰国命令に背いてほしいという意味ではありません」
僕はすぐに続けた。
「王女を辞めてほしいとも思っていません。危険を冒して、ここに残ってほしいわけでもない」
「はい」
「帰るべきだと分かっています」
エリーゼは国へ帰らなければならない。
襲撃後の報告をし、公務へ戻り、婚姻交渉にも自分の意思で向き合う必要がある。
僕のために、それらを捨ててほしいとは思わなかった。
「でも、僕は貴女と離れたくない」
初めて、自分の望みだけを口にした。
正しいかどうかではない。
かなうかどうかでもない。
「帰ってほしくないと思っています」
エリーゼの目から、涙が一滴落ちた。
彼女はすぐに拭わなかった。
「ずっと、その言葉を聞きたかったのかもしれません」
「困らせましたか」
「はい」
エリーゼは泣きながら微笑んだ。
「とても」
「すみません」
「謝らないでください」
膝の上に置かれた彼女の手が、僕の方へ少し動く。
けれど、途中で止まった。
「私も、帰りたくありません」
声は小さかった。
「ですが、帰ります」
「はい」
「父へ話さなければなりません。今回起きたことも、私がしたことも。婚姻の話にも、逃げずに向き合います」
「はい」
「それでも、テオに帰ってほしくないと言ってもらえたことが……嬉しいです」
彼女は指先で涙を拭った。
「私は、エリーとして貴方を好きになりました」
胸の鼓動が大きくなる。
「エリーゼとして、とは違うのですか」
「最初は、王女ではない自分だけを見てほしいと思っていました」
エリーゼは自分の胸元にある紋章へ触れた。
「王女である私を知られれば、貴方の気持ちは変わると思っていたからです」
「変わりました」
彼女の表情が固くなる。
「以前より、知らなければならないことが増えました」
「……はい」
「簡単には考えられなくなった」
「はい」
「でも、気持ちがなくなったわけではありません」
僕は長椅子の上で、彼女へ向き直った。
「むしろ、知らなかった貴女をもっと知りたいと思っています」
エリーゼの手が、また少し僕へ近づく。
「私は、エリーとして貴方を好きになりました」
彼女は同じ言葉を、今度はまっすぐ僕へ向けた。
「でも、エリーゼとして、貴方を愛しています」
世界から音が消えたように感じた。
噴水の水音は続いている。
庭の木々も風に揺れている。
けれど、その言葉以外は何も聞こえなかった。
「愛しています、テオ」
僕はすぐに答えられなかった。
言葉が見つからないのではない。
口にすれば、もう引き返せなくなると分かっていた。
けれど、引き返したいとは思わなかった。
「まだ、すべてを赦したわけではありません」
先に、そう告げた。
「それでも?」
「それでも、貴女を愛しています」
エリーゼの目から、また涙がこぼれた。
「エリーと呼んでいた貴女も、僕の知らなかった王女である貴女も」
すべてを理解しているとは言えない。
これから知る中で、傷つくこともあるだろう。
「今の貴女を、愛しています」
エリーゼの手が、今度こそ僕へ届いた。
長椅子の上へ置かれた僕の手に、指先が触れる。
僕は掌を返し、彼女の手を取った。
朝の岬でつないだ時よりも、彼女の指は強く僕の指へ重なった。
「テオ」
「はい」
「一つ、お願いしてもよいですか」
「何ですか」
エリーゼは答えず、僕の顔を見つめた。
視線が一度、唇へ落ちる。
それだけで、何を望んでいるのか分かった。
僕も同じことを考えていた。
けれど、思い込みで距離を越えたくはなかった。
「口づけても?」
尋ねると、エリーゼの頬が赤くなる。
「はい」
小さく、それでもはっきりと答えた。
僕は傷へ負担をかけないよう、ゆっくり身体を寄せる。
エリーゼも少しだけ近づいた。
互いの息が触れる距離で、一度止まる。
彼女が目を閉じた。
僕も目を閉じ、唇を重ねた。
短い口づけだった。
触れた瞬間、彼女の手が僕の指を強く握る。
唇を離しても、すぐには距離を戻せなかった。
エリーゼが目を開く。
青灰色の瞳が、すぐ近くにある。
「……もう終わりですか」
囁くような声だった。
「初めてですから」
「私もです」
「それなら、これくらいがよいでしょう」
「テオは、やはり慎重ですね」
「不満ですか」
「少しだけ」
そう言いながら、彼女は泣いた跡の残る顔で笑った。
僕も笑う。
その笑顔を見てから、もう一度だけ口づけた。
先ほどよりも短く、確かめるように。
離れた後も、僕たちは手をつないだままだった。
「傷ついたことを、忘れたわけではありません」
僕は言う。
「はい」
「今後、また不安になることもあると思います」
「はい」
「その時は、話します」
エリーゼが僕の手を握り直す。
「私も、貴方のためだと勝手に決めません」
「簡単ではないでしょう」
「努力します」
「僕も、諦める前に話すようにします」
「約束できますか」
「努力します」
「そこは約束してください」
「エリーゼも努力と言ったでしょう」
「私はよいのです」
「相変わらずですね」
「何がですか」
「自分に都合のよい理屈を使うところです」
エリーゼは少し眉を寄せ、それから笑った。
以前と同じ笑顔だった。
けれど今、僕が呼んでいるのはエリーではない。
彼女も、王女であることを隠してはいない。
真実を知らなかった頃へ戻ったのではなかった。
傷ついた場所を消さず、そこを二人で確かめながら、僕たちは初めて同じところから歩き始めたのだと思った。
遠くで時計の鐘が鳴った。
夕刻を告げる音だった。
帰国まで、あと三日。
その現実は、口づけを交わしても消えなかった。
やがて立ち上がれば、エリーゼは帰国の準備へ戻り、僕も残された仕事と療養へ戻る。
国境も、身分も、婚姻交渉も、そのまま待っている。
それでも今だけは、つないだ手を離さなかった。
「テオ」
「はい」
「もう一度、呼んでください」
僕は彼女の本当の名前を呼ぶ。
「エリーゼ」
彼女は嬉しそうに目を細めた。
残された三日を数える代わりに、僕たちはしばらく、互いの名前だけを何度も呼び合った。




