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君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱるめりあ
第四部「終わるはずではなかった夏」

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第24話 恋人になった朝

 目を覚ました瞬間、昨日の口づけを思い出した。


 次に浮かんだのは、帰国まであと二日という事実だった。


 幸福と寂しさは、どちらか一方を選んで感じられるものではないらしい。恋人になったからといって、国境も期限も消えなかった。


 寝台の上で目を閉じ直しても、エリーゼの声が耳に残っている。


『エリーゼとして、貴方を愛しています』


 あの言葉を夢ではなかったと確かめるように、僕は自分の唇へ指を触れた。


 何をしているのだろう。


 我に返り、すぐに手を下ろす。


 恋人になったからといって、朝から浮かれていてよいわけではない。


 今日も帰国の準備がある。


 エリーゼには王女としての仕事があり、僕にも侯爵家の秘書として処理すべき書類がある。


 そして明後日には、彼女は特別列車へ乗る。


 考えないようにすることはできなかった。


 けれど、残された時間を別れのためだけに使いたくもなかった。


「おはようございます、レイン秘書」


 廊下へ出ると、エリーゼが向こうから歩いてきた。


 濃紺の公務服。


 後ろにはクラリスと二人の護衛がいる。


 僕も足を止め、一礼した。


「おはようございます、王女殿下」


 呼び方は正しい。


 距離も、礼の深さも。


 それなのに顔を上げた瞬間、エリーゼと目が合った。


 青灰色の瞳がわずかに細くなる。


 口元にも、ごく小さな笑みが浮かんだ。


 昨夜までなら、その変化を見逃していたかもしれない。


 今は、それが僕だけに向けられたものだと思ってしまう。


「傷の具合はいかがですか」


「問題ありません。本日も文書補佐へ入れます」


「無理はしないでください」


「承知しております」


 公の会話だった。


 すれ違う直前、エリーゼの手が公務服の脇でわずかに動いた。


 触れたわけではない。


 ただ、指先が僕の方へ向けられた。


 僕も手を動かしかけ、廊下であることを思い出して止める。


 エリーゼは前を向いたまま通り過ぎた。


 それでも数歩先で、一度だけ振り返る。


 僕も同じことをしていた。


 目が合う。


 すぐに互いに前へ向き直った。


 後ろから、クラリスの足音だけが一定の速さで続いていた。


◇


 午前の仕事は、特別列車へ持ち込む文書の確認だった。


 アルディナ側が作成した乗客名簿と、セレネ側へ提出する通行許可書。


 王女一行が国境を越える際に必要な書類は多い。


「こちらの表記では、役職名が一段階低く見えます」


 僕はアルディナ語の原文を指した。


「セレネ語では、こちらの語へ変えた方がよいでしょう」


「外交上、問題は?」


 ローデン伯爵が尋ねる。


「ありません。権限を正確に示すための修正です」


「では、そのように」


 僕の向かいには、エリーゼが座っていた。


 公務中の彼女は、昨日と同じように判断が速い。


 何枚もの書類へ目を通し、確認が必要な箇所だけを簡潔に尋ねる。


「王女殿下。国境到着後の声明案です」


 僕は一枚の紙を差し出した。


「ありがとうございます、レイン秘書」


 受け取る時、指先が触れた。


 ほんの一瞬だった。


 偶然と言えるほど短い。


 けれど、エリーゼの手はすぐには離れなかった。


 僕も紙を放すのが遅れた。


 同じ書類の端を、二人で持ったままになる。


「殿下?」


 ローデン伯爵の声に、エリーゼが手を離した。


「失礼しました。紙が滑りました」


「そうでしたか」


 伯爵はそれだけ答え、次の書類へ視線を落とす。


 気づいていないとは思えなかった。


 それでも、何も言わない。


 僕も何事もなかったように翻訳へ戻った。


 机の下で、靴先が何かへ触れた。


 向かいに座るエリーゼの靴だった。


 反射的に引こうとすると、彼女の靴先が少しだけ追いかけてくる。


 顔を上げる。


 エリーゼは声明案を読み、真剣な表情を崩していない。


 机の下だけで、靴先が僕の靴へ触れていた。


 僕は小さく息を吐き、逃げるのをやめた。


 数秒後、彼女の足が離れる。


「この一文ですが」


 エリーゼが顔を上げる。


「襲撃後の対応について、私個人だけの判断に見えませんか」


「見えます」


「警護隊と町側の協力も入れてください」


「承知しました、王女殿下」


 僕が答えると、彼女の口元がほんの少しだけ緩んだ。


 恋人になったからといって、公務が変わるわけではない。


 それでも、同じ机に座っている時間の中へ、昨日までなかった小さな秘密が増えていた。


 昼前、ローデン伯爵が時計を確認した。


「殿下、次の警備会議まで十分です」


「レイン秘書と、声明案の修正を確認します」


「五分でお願いいたします」


「十分あるのでは?」


「移動に五分必要です」


 エリーゼが何か言おうとしたが、伯爵はすでに書類をまとめている。


「護衛は廊下で待機させます」


 それだけ告げて、ローデン伯爵は部屋を出た。


 クラリスも一礼し、扉の外へ下がる。


 完全に二人きりになった。


 けれど、与えられたのは五分だけだ。


「厳しいですね」


 僕が言う。


「いつも以上に厳しいです」


「気づかれているからでは?」


「何にですか」


 エリーゼは平然と尋ねた。


「先ほど、机の下で何をしていましたか」


「足を置いていました」


「僕の靴の上に?」


「位置を間違えました」


「二度も?」


「広い机ですから」


「机の広さと足元は関係ありません」


 エリーゼは少しだけ頬を赤くした。


「恋人になったのですから、少しくらいよいではありませんか」


 恋人。


 その言葉を、彼女の口から聞く。


 胸の奥が落ち着かなくなった。


「もう一度言ってください」


「何をですか」


「今の言葉を」


「足を置いたこと?」


「違います」


 エリーゼは分かっているはずなのに、首を傾げた。


「分かりません」


「では、結構です」


 書類へ視線を戻そうとすると、机の上へ置いた僕の手に、エリーゼの指が触れた。


「テオ」


 公務の声ではない。


「はい」


「私の恋人になった方は、少し意地悪です」


「誰の影響でしょう」


「私は意地悪ではありません」


「砂糖を四杯入れた理由を、紅茶のせいにした方が?」


「昔の話です」


「それほど前ではありません」


 エリーゼは僕の指先へ、自分の指を重ねた。


 手をつなぐほどではない。


 けれど、触れている場所だけが熱くなる。


「テオ」


「はい、エリーゼ」


 互いの名を呼ぶ。


 それだけで、公務中に保っていた距離が少しだけ消えた。


 扉が二度叩かれる。


「お時間です」


 クラリスの声だった。


 エリーゼの指が離れる。


「五分は短すぎます」


「警備会議を遅らせることはできません」


 扉越しの返答は淡々としていた。


「分かっています」


 エリーゼは立ち上がる。


 僕も続こうとしたが、彼女に片手で制された。


「テオは座っていてください」


「王女殿下のご命令ですか」


「恋人としてのお願いです」


「その使い分けは、少しずるくありませんか」


「聞いてくださいますか」


「……はい」


 エリーゼは満足そうに微笑んだ。


 扉を開ける直前、公の表情へ戻る。


「声明案の修正をお願いします、レイン秘書」


「承知しました、王女殿下」


 扉が開く。


 廊下にいたクラリスと護衛の前を、エリーゼは王女として歩き出した。


 クラリスは部屋へ一度だけ視線を向けたが、何も言わなかった。


◇


 午後、僕の書類の間に、小さく折られた紙が挟まっていた。


 王家の紋章も、正式な署名もない。


『夕食後、温室へ来られますか。』


 最後に、小さく本名の頭文字だけが書かれている。


 誰が置いたのかは聞くまでもなかった。


 返事を書く。


『医師に見つからない範囲で。』


 少し考え、書き足す。


『エリーゼへ。』


 紙を折り直し、廊下で待っていたクラリスへ渡した。


「お願いします」


「承知しました」


 中身を尋ねない。


 けれど受け取る前に、僕の顔と脇腹を一度ずつ見た。


「温室までは、ゆっくりお歩きください」


 完全に知られていた。


「読みましたか」


「いいえ」


「では、なぜ」


「殿下が同じような紙をお渡しになったからです」


 当然の答えだった。


「護衛は?」


「出入口に立たせます。お時間は十五分です」


「短くありませんか」


「昨日、庭で予定より長く過ごされましたので」


「見ていたのですか」


「警護対象のお姿が確認できない状態にはいたしません」


 クラリスの声に、責める調子はない。


 ただ、安全を譲るつもりもなかった。


「承知しました」


「ご理解いただき、ありがとうございます」


 恋人になったからといって、好きな時に二人きりになれるわけではない。


 相手は第一王女だ。


 その現実も含めて知ろうと決めたのだから、護衛を疎ましく思うのは違う気がした。


 夕食後、温室へ向かう。


 硝子越しに夕暮れの光が入り、植木の葉へ淡く残っていた。


 エリーゼは奥の長椅子へ座っている。


 僕を見つけると、すぐに立ち上がった。


「テオ」


「エリーゼ」


 出入口にはクラリスがいるが、温室の中には入ってこない。


「座ってください」


 エリーゼが隣を示す。


 僕たちは肩が触れない程度の距離で腰を下ろした。


「何か話が?」


「お願いがあります」


「またですか」


「嫌ですか」


「内容を聞いてから決めます」


 エリーゼは膝の上へ両手を置いた。


 少し緊張しているように見える。


「願い帳に、まだかなえていないことがあります」


「本当の名前を話すことと、王女である自分を愛してもらうことですか」


「それは……」


 彼女の頬が赤くなる。


「昨日、かなえていただきました」


「では、印をつけられますね」


「はい」


 嬉しそうに答えた後、エリーゼは一度息を整えた。


「もう一つあります」


「何でしょう」


「好きな人へ、朝食を作る」


 予想していなかった願いだった。


「作るのですか」


「はい」


「エリーゼが?」


「ほかに誰が作るのですか」


「厨房の料理人が、エリーゼの指示で」


「それは私が作ったことになりません」


「料理をした経験は?」


 エリーゼは黙った。


「ありますか」


「見たことはあります」


「作った経験を聞いています」


「切ったことなら」


「何を?」


「花の茎を」


「料理ではありません」


「形は似ています」


「まったく違います」


 エリーゼは不満そうに僕を見る。


「できないと決めるのですか」


 その問いに、僕は言葉を止めた。


 彼女から選択権を奪われたことを、僕は何度も責めた。


 それなのに、経験がないという理由だけで、今度は僕が彼女の望みを否定しようとしている。


「心配しているだけです」


「分かっています」


「刃物も火も使います」


「一人で作るとは言っていません」


「監督をつける?」


「厨房の責任者と、クラリスに見てもらいます」


 すでに考えていたらしい。


「危険な作業は?」


「教えていただいた範囲で行います。無理なことはしません」


「厨房の責任者が止めたら?」


「従います」


「クラリスさんも?」


「はい」


 条件としては、反対する理由がなかった。


「分かりました」


 僕が言うと、エリーゼの顔が明るくなる。


「作ってください」


「本当に?」


「エリーゼが選んだことですから」


「失敗するかもしれません」


「その可能性は高いと思います」


「そこは否定してください」


「料理経験がないのでしょう」


「ですが、最初から失敗すると決めるのもよくありません」


「では、成功を期待しています」


「急に重くなりました」


「どう言えばよいのですか」


 エリーゼは少し考え、それから笑った。


「何ができても、食べてくださいますか」


「安全に食べられるものなら」


「条件が多いです」


「傷が治りかけている人間へ、食べられないものを出さないでください」


「分かりました」


 エリーゼの手が、長椅子の上で僕の方へ動く。


 僕も指を伸ばした。


 誰にも見えないようにする必要はなかった。


 それでも、手をつなぐのではなく、小指だけを重ねる。


「明日では、遅いと思いました」


 エリーゼが言う。


「帰国する日の朝でも?」


「その朝は、きっと慌ただしくなります」


「そうですね」


「だから、今決めたことを先延ばしにしたくありません」


 僕たちは昨日、恋人になった。


 残された時間が短いからこそ、できることを後へ回したくないのだろう。


「何時に起きれば?」


「いつもどおりで構いません」


「エリーゼは?」


「少し早く起きます」


「夜更かしはしないでください」


「朝食の話をしているのに、夜の心配をするのですか」


「対訳ノートの前例があります」


「覚えていたのですね」


「忘れません」


 エリーゼは重ねた小指へ、少しだけ力を込めた。


 温室の外から、クラリスの足音が近づいてくる。


 十五分が終わる。


 エリーゼは小指を離し、立ち上がった。


「では、テオ」


「はい」


 彼女は期待と不安の混じった顔で微笑んだ。


「明日の朝、私が選んだ最初の朝食を、待っていてください」

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