第24話 恋人になった朝
目を覚ました瞬間、昨日の口づけを思い出した。
次に浮かんだのは、帰国まであと二日という事実だった。
幸福と寂しさは、どちらか一方を選んで感じられるものではないらしい。恋人になったからといって、国境も期限も消えなかった。
寝台の上で目を閉じ直しても、エリーゼの声が耳に残っている。
『エリーゼとして、貴方を愛しています』
あの言葉を夢ではなかったと確かめるように、僕は自分の唇へ指を触れた。
何をしているのだろう。
我に返り、すぐに手を下ろす。
恋人になったからといって、朝から浮かれていてよいわけではない。
今日も帰国の準備がある。
エリーゼには王女としての仕事があり、僕にも侯爵家の秘書として処理すべき書類がある。
そして明後日には、彼女は特別列車へ乗る。
考えないようにすることはできなかった。
けれど、残された時間を別れのためだけに使いたくもなかった。
「おはようございます、レイン秘書」
廊下へ出ると、エリーゼが向こうから歩いてきた。
濃紺の公務服。
後ろにはクラリスと二人の護衛がいる。
僕も足を止め、一礼した。
「おはようございます、王女殿下」
呼び方は正しい。
距離も、礼の深さも。
それなのに顔を上げた瞬間、エリーゼと目が合った。
青灰色の瞳がわずかに細くなる。
口元にも、ごく小さな笑みが浮かんだ。
昨夜までなら、その変化を見逃していたかもしれない。
今は、それが僕だけに向けられたものだと思ってしまう。
「傷の具合はいかがですか」
「問題ありません。本日も文書補佐へ入れます」
「無理はしないでください」
「承知しております」
公の会話だった。
すれ違う直前、エリーゼの手が公務服の脇でわずかに動いた。
触れたわけではない。
ただ、指先が僕の方へ向けられた。
僕も手を動かしかけ、廊下であることを思い出して止める。
エリーゼは前を向いたまま通り過ぎた。
それでも数歩先で、一度だけ振り返る。
僕も同じことをしていた。
目が合う。
すぐに互いに前へ向き直った。
後ろから、クラリスの足音だけが一定の速さで続いていた。
◇
午前の仕事は、特別列車へ持ち込む文書の確認だった。
アルディナ側が作成した乗客名簿と、セレネ側へ提出する通行許可書。
王女一行が国境を越える際に必要な書類は多い。
「こちらの表記では、役職名が一段階低く見えます」
僕はアルディナ語の原文を指した。
「セレネ語では、こちらの語へ変えた方がよいでしょう」
「外交上、問題は?」
ローデン伯爵が尋ねる。
「ありません。権限を正確に示すための修正です」
「では、そのように」
僕の向かいには、エリーゼが座っていた。
公務中の彼女は、昨日と同じように判断が速い。
何枚もの書類へ目を通し、確認が必要な箇所だけを簡潔に尋ねる。
「王女殿下。国境到着後の声明案です」
僕は一枚の紙を差し出した。
「ありがとうございます、レイン秘書」
受け取る時、指先が触れた。
ほんの一瞬だった。
偶然と言えるほど短い。
けれど、エリーゼの手はすぐには離れなかった。
僕も紙を放すのが遅れた。
同じ書類の端を、二人で持ったままになる。
「殿下?」
ローデン伯爵の声に、エリーゼが手を離した。
「失礼しました。紙が滑りました」
「そうでしたか」
伯爵はそれだけ答え、次の書類へ視線を落とす。
気づいていないとは思えなかった。
それでも、何も言わない。
僕も何事もなかったように翻訳へ戻った。
机の下で、靴先が何かへ触れた。
向かいに座るエリーゼの靴だった。
反射的に引こうとすると、彼女の靴先が少しだけ追いかけてくる。
顔を上げる。
エリーゼは声明案を読み、真剣な表情を崩していない。
机の下だけで、靴先が僕の靴へ触れていた。
僕は小さく息を吐き、逃げるのをやめた。
数秒後、彼女の足が離れる。
「この一文ですが」
エリーゼが顔を上げる。
「襲撃後の対応について、私個人だけの判断に見えませんか」
「見えます」
「警護隊と町側の協力も入れてください」
「承知しました、王女殿下」
僕が答えると、彼女の口元がほんの少しだけ緩んだ。
恋人になったからといって、公務が変わるわけではない。
それでも、同じ机に座っている時間の中へ、昨日までなかった小さな秘密が増えていた。
昼前、ローデン伯爵が時計を確認した。
「殿下、次の警備会議まで十分です」
「レイン秘書と、声明案の修正を確認します」
「五分でお願いいたします」
「十分あるのでは?」
「移動に五分必要です」
エリーゼが何か言おうとしたが、伯爵はすでに書類をまとめている。
「護衛は廊下で待機させます」
それだけ告げて、ローデン伯爵は部屋を出た。
クラリスも一礼し、扉の外へ下がる。
完全に二人きりになった。
けれど、与えられたのは五分だけだ。
「厳しいですね」
僕が言う。
「いつも以上に厳しいです」
「気づかれているからでは?」
「何にですか」
エリーゼは平然と尋ねた。
「先ほど、机の下で何をしていましたか」
「足を置いていました」
「僕の靴の上に?」
「位置を間違えました」
「二度も?」
「広い机ですから」
「机の広さと足元は関係ありません」
エリーゼは少しだけ頬を赤くした。
「恋人になったのですから、少しくらいよいではありませんか」
恋人。
その言葉を、彼女の口から聞く。
胸の奥が落ち着かなくなった。
「もう一度言ってください」
「何をですか」
「今の言葉を」
「足を置いたこと?」
「違います」
エリーゼは分かっているはずなのに、首を傾げた。
「分かりません」
「では、結構です」
書類へ視線を戻そうとすると、机の上へ置いた僕の手に、エリーゼの指が触れた。
「テオ」
公務の声ではない。
「はい」
「私の恋人になった方は、少し意地悪です」
「誰の影響でしょう」
「私は意地悪ではありません」
「砂糖を四杯入れた理由を、紅茶のせいにした方が?」
「昔の話です」
「それほど前ではありません」
エリーゼは僕の指先へ、自分の指を重ねた。
手をつなぐほどではない。
けれど、触れている場所だけが熱くなる。
「テオ」
「はい、エリーゼ」
互いの名を呼ぶ。
それだけで、公務中に保っていた距離が少しだけ消えた。
扉が二度叩かれる。
「お時間です」
クラリスの声だった。
エリーゼの指が離れる。
「五分は短すぎます」
「警備会議を遅らせることはできません」
扉越しの返答は淡々としていた。
「分かっています」
エリーゼは立ち上がる。
僕も続こうとしたが、彼女に片手で制された。
「テオは座っていてください」
「王女殿下のご命令ですか」
「恋人としてのお願いです」
「その使い分けは、少しずるくありませんか」
「聞いてくださいますか」
「……はい」
エリーゼは満足そうに微笑んだ。
扉を開ける直前、公の表情へ戻る。
「声明案の修正をお願いします、レイン秘書」
「承知しました、王女殿下」
扉が開く。
廊下にいたクラリスと護衛の前を、エリーゼは王女として歩き出した。
クラリスは部屋へ一度だけ視線を向けたが、何も言わなかった。
◇
午後、僕の書類の間に、小さく折られた紙が挟まっていた。
王家の紋章も、正式な署名もない。
『夕食後、温室へ来られますか。』
最後に、小さく本名の頭文字だけが書かれている。
誰が置いたのかは聞くまでもなかった。
返事を書く。
『医師に見つからない範囲で。』
少し考え、書き足す。
『エリーゼへ。』
紙を折り直し、廊下で待っていたクラリスへ渡した。
「お願いします」
「承知しました」
中身を尋ねない。
けれど受け取る前に、僕の顔と脇腹を一度ずつ見た。
「温室までは、ゆっくりお歩きください」
完全に知られていた。
「読みましたか」
「いいえ」
「では、なぜ」
「殿下が同じような紙をお渡しになったからです」
当然の答えだった。
「護衛は?」
「出入口に立たせます。お時間は十五分です」
「短くありませんか」
「昨日、庭で予定より長く過ごされましたので」
「見ていたのですか」
「警護対象のお姿が確認できない状態にはいたしません」
クラリスの声に、責める調子はない。
ただ、安全を譲るつもりもなかった。
「承知しました」
「ご理解いただき、ありがとうございます」
恋人になったからといって、好きな時に二人きりになれるわけではない。
相手は第一王女だ。
その現実も含めて知ろうと決めたのだから、護衛を疎ましく思うのは違う気がした。
夕食後、温室へ向かう。
硝子越しに夕暮れの光が入り、植木の葉へ淡く残っていた。
エリーゼは奥の長椅子へ座っている。
僕を見つけると、すぐに立ち上がった。
「テオ」
「エリーゼ」
出入口にはクラリスがいるが、温室の中には入ってこない。
「座ってください」
エリーゼが隣を示す。
僕たちは肩が触れない程度の距離で腰を下ろした。
「何か話が?」
「お願いがあります」
「またですか」
「嫌ですか」
「内容を聞いてから決めます」
エリーゼは膝の上へ両手を置いた。
少し緊張しているように見える。
「願い帳に、まだかなえていないことがあります」
「本当の名前を話すことと、王女である自分を愛してもらうことですか」
「それは……」
彼女の頬が赤くなる。
「昨日、かなえていただきました」
「では、印をつけられますね」
「はい」
嬉しそうに答えた後、エリーゼは一度息を整えた。
「もう一つあります」
「何でしょう」
「好きな人へ、朝食を作る」
予想していなかった願いだった。
「作るのですか」
「はい」
「エリーゼが?」
「ほかに誰が作るのですか」
「厨房の料理人が、エリーゼの指示で」
「それは私が作ったことになりません」
「料理をした経験は?」
エリーゼは黙った。
「ありますか」
「見たことはあります」
「作った経験を聞いています」
「切ったことなら」
「何を?」
「花の茎を」
「料理ではありません」
「形は似ています」
「まったく違います」
エリーゼは不満そうに僕を見る。
「できないと決めるのですか」
その問いに、僕は言葉を止めた。
彼女から選択権を奪われたことを、僕は何度も責めた。
それなのに、経験がないという理由だけで、今度は僕が彼女の望みを否定しようとしている。
「心配しているだけです」
「分かっています」
「刃物も火も使います」
「一人で作るとは言っていません」
「監督をつける?」
「厨房の責任者と、クラリスに見てもらいます」
すでに考えていたらしい。
「危険な作業は?」
「教えていただいた範囲で行います。無理なことはしません」
「厨房の責任者が止めたら?」
「従います」
「クラリスさんも?」
「はい」
条件としては、反対する理由がなかった。
「分かりました」
僕が言うと、エリーゼの顔が明るくなる。
「作ってください」
「本当に?」
「エリーゼが選んだことですから」
「失敗するかもしれません」
「その可能性は高いと思います」
「そこは否定してください」
「料理経験がないのでしょう」
「ですが、最初から失敗すると決めるのもよくありません」
「では、成功を期待しています」
「急に重くなりました」
「どう言えばよいのですか」
エリーゼは少し考え、それから笑った。
「何ができても、食べてくださいますか」
「安全に食べられるものなら」
「条件が多いです」
「傷が治りかけている人間へ、食べられないものを出さないでください」
「分かりました」
エリーゼの手が、長椅子の上で僕の方へ動く。
僕も指を伸ばした。
誰にも見えないようにする必要はなかった。
それでも、手をつなぐのではなく、小指だけを重ねる。
「明日では、遅いと思いました」
エリーゼが言う。
「帰国する日の朝でも?」
「その朝は、きっと慌ただしくなります」
「そうですね」
「だから、今決めたことを先延ばしにしたくありません」
僕たちは昨日、恋人になった。
残された時間が短いからこそ、できることを後へ回したくないのだろう。
「何時に起きれば?」
「いつもどおりで構いません」
「エリーゼは?」
「少し早く起きます」
「夜更かしはしないでください」
「朝食の話をしているのに、夜の心配をするのですか」
「対訳ノートの前例があります」
「覚えていたのですね」
「忘れません」
エリーゼは重ねた小指へ、少しだけ力を込めた。
温室の外から、クラリスの足音が近づいてくる。
十五分が終わる。
エリーゼは小指を離し、立ち上がった。
「では、テオ」
「はい」
彼女は期待と不安の混じった顔で微笑んだ。
「明日の朝、私が選んだ最初の朝食を、待っていてください」




