第25話 王女様の朝食
厨房から、何かを落とした音がした。
続いて、焦げた匂いが廊下まで流れてくる。
「火を弱めてください、殿下!」
「弱めています!」
「それは強めています!」
扉の向こうから、厨房責任者の切迫した声が響いた。
僕は入ってよいものか迷い、半開きの扉から中を覗く。
朝の厨房は、普段よりも慌ただしかった。
料理人たちは壁際へ下がり、中央の作業台だけがエリーゼのために空けられている。
白い前掛けをつけたエリーゼは、片手に木べらを持ち、真剣な表情で鍋を見つめていた。
銀白色の髪は後ろで束ねられている。
額には、うっすら汗が浮かんでいた。
その右隣には厨房責任者。
左隣にはクラリス。
二人とも、エリーゼの手元から目を離していない。
「テオ」
僕に気づいたエリーゼが、顔を上げる。
その瞬間、鍋の中で卵が焦げる音がした。
「殿下、手を動かしてください」
「分かっています」
「今はレイン秘書をご覧になる時ではありません」
「見ていただけです」
「鍋を見てください」
クラリスの声は冷静だった。
けれど、彼女の両手はいつでも鍋を取り上げられる位置にある。
「おはようございます、王女殿下」
厨房には料理人たちもいる。
僕は公の呼び方で一礼した。
「おはようございます、レイン秘書」
エリーゼも背筋を伸ばして答える。
しかし、木べらを持ったままなので、王女らしい威厳は少し薄かった。
「順調ですか」
「はい」
「いいえ」
エリーゼと厨房責任者の返事が重なる。
「どちらでしょう」
「予定どおり進んでいます」
「殿下の予定が、我々には分かりません」
厨房責任者は焦げ始めた卵を皿へ移した。
形は崩れ、端が茶色くなっている。
「最初から、もう一度作りますか」
僕が尋ねると、エリーゼは首を横へ振った。
「食べられます」
厨房責任者が卵を確かめる。
「食べられないものではありません」
「では、成功です」
「成功と呼ぶには、いささか寛大かと」
「レイン秘書が判断します」
僕へ役目が回ってきた。
「食べてから決めます」
「味方をしてください」
「まだ味を知りません」
「そういう意味ではありません」
エリーゼは少し不満そうに眉を寄せた。
けれど、すぐに次の卵へ向き直る。
卵を割るだけなら、それほど難しくはないように見える。
エリーゼも、そう考えたのだろう。
殻を作業台の角へ打ちつけた。
力が強すぎた。
卵が手の中で割れ、白身が指の間から落ちる。
「……」
厨房が静まり返った。
「今のは、卵が弱かったのです」
エリーゼが言う。
「昨日仕入れたばかりです」
厨房責任者が答えた。
「新しい卵は殻が弱いのでは?」
「むしろ、しっかりしております」
「では、台の角が鋭すぎました」
「いつも使っている台です」
クラリスが布巾を差し出す。
「殿下。理由を探す前に、お手を拭いてください」
「分かっています」
エリーゼはおとなしく手を拭いた。
その横顔は真剣だった。
笑ってしまえば、彼女は怒るだろう。
それ以上に、これは冗談で始めたことではない。
好きな人へ朝食を作る。
王女として誰かに命じれば、いくらでも立派な料理を用意できる。
それでも彼女は、自分の手で作りたかった。
「手伝いましょうか」
僕が尋ねる。
エリーゼは少し迷ってから、首を振った。
「見ていてください」
「割り方だけ教わった方がよいのでは?」
「厨房責任者から、もう教わりました」
「先ほどの結果を見ると、もう一度聞いてもよさそうです」
「今度はできます」
新しい卵を取る。
今度は慎重すぎるほど、台へ小さく当てた。
殻には傷がつかない。
もう一度。
まだ割れない。
三度目で、ようやく細いひびが入った。
「そこへ指をかけて、左右へ」
厨房責任者が指示する。
エリーゼは言われたとおりに殻を開いた。
白身と黄身が、無事に器へ落ちる。
小さな殻の欠片も一緒に入った。
「取ります」
クラリスが手を伸ばす。
「私がします」
エリーゼは匙を使い、欠片を追いかけた。
逃げる殻を何度も器の縁へ追い込み、ようやくすくい上げる。
たったそれだけのことで、彼女の顔が明るくなった。
「できました」
「はい」
僕も頷く。
「今度は成功です」
その言葉に、エリーゼは満足そうに笑った。
次はパンだった。
薄く切ったものを焼き網へ載せる。
厨房責任者から、色が変わる前に裏返すよう説明を受けていた。
エリーゼは火の前へ立ち、パンを見つめる。
真剣すぎるほどだった。
「そろそろ裏返してください」
クラリスが言う。
「まだ早いのでは?」
「今です」
「もう少しだけ」
「殿下」
その時、僕が咳をした。
エリーゼが振り返る。
「傷が痛みますか」
「いいえ。ただの咳です」
「本当に?」
「パンを見てください」
焦げた匂いが強くなる。
エリーゼが慌てて焼き網へ戻った時には、片面が黒くなっていた。
「……表面だけです」
「その表面を食べるのですが」
厨房責任者の言葉に、エリーゼは黙る。
「削れば食べられます」
僕が言う。
エリーゼがこちらを見た。
「本当に?」
「焦げた部分を少し落とせば」
「では、削ります」
「焼き直した方が早いです」
「これは私が焼いたパンです」
譲るつもりはないらしい。
厨房責任者が小さな刃物を渡し、エリーゼは焦げた表面を慎重に削った。
削りすぎて、パンはずいぶん薄くなった。
それでも、最初の一枚は皿へ載せられた。
紅茶だけは、失敗しないだろうと思っていた。
茶葉の量と湯の温度は、厨房責任者が確認している。
エリーゼはポットから二つのカップへ紅茶を注いだ。
香りもよい。
問題は、その後だった。
「砂糖は?」
エリーゼが尋ねる。
「僕は一杯で」
「傷の回復には、甘い方がよいのでは?」
「関係ありません」
「少しくらい多くても」
「一杯です」
僕のカップへ、砂糖が一杯入る。
エリーゼは続けて匙を持ち上げた。
「今、一杯と言いました」
「これは小さな一杯です」
「同じ匙です」
「では、半分だけ」
「戻してください」
エリーゼは不満そうに、砂糖を器へ戻した。
今度は自分のカップへ砂糖を入れる。
一杯。
二杯。
三杯。
「多くありませんか」
「今日は疲れましたから」
「朝が始まったばかりです」
「朝食を作ったので疲れました」
四杯目へ手を伸ばす。
クラリスが、黙って砂糖壺を遠ざけた。
「三杯までになさってください」
「なぜですか」
「パンにも砂糖を添える予定です」
「では、仕方ありません」
エリーゼは諦めた。
以前、嫉妬を隠すために砂糖を四杯入れた時とは違う。
今日は単に、失敗続きの朝を甘くしたかったのかもしれない。
◇
朝食は、温室に近い小さな食堂へ運ばれた。
厨房責任者が安全を確認し、クラリスが給仕する。
卓の上には、形の崩れた卵料理。
焦げを削って薄くなったパン。
少し甘い紅茶。
見た目だけなら、侯爵家の朝食には到底及ばない。
「ここからは、二人でよいでしょうか」
エリーゼがクラリスへ尋ねる。
「十五分です」
「朝食に十五分は短くありませんか」
「帰国準備の予定がございます」
「二十分」
「十七分です」
「中途半端ですね」
「譲歩いたしました」
クラリスは一礼し、扉の外へ下がった。
二人きりになった途端、エリーゼの肩から少し力が抜ける。
「テオ」
「はい、エリーゼ」
「食べてください」
皿へ視線を落とす。
卵の端は焦げ、中央は少し柔らかすぎる。
僕は一口食べた。
塩が多い。
さらに焦げた苦みもある。
エリーゼは、僕の表情をじっと見ていた。
「どうですか」
「食べられます」
「おいしいとは言わないのですね」
「嘘をつかないことにしたので」
エリーゼの眉が下がる。
「では、残しても構いません」
「それとこれとは別です」
僕はもう一口食べた。
「おいしくないのに?」
「エリーゼが作ったものですから」
「それでは、無理をさせているようです」
「食べたいから食べています」
パンを取る。
削りきれなかった焦げが少し残っている。
噛むと、苦い。
それでも、飲み込む。
「本当に全部食べるのですか」
「そのつもりです」
「身体によくないかもしれません」
「厨房責任者が確認したのでしょう」
「はい」
「なら問題ありません」
エリーゼも自分の卵を口へ運んだ。
すぐに動きが止まる。
「……塩が多いですね」
「多いです」
「先ほどは言いませんでした」
「聞かれなかったので」
「苦くもあります」
「焦げていますから」
「テオは、これを全部食べるのですか」
「はい」
エリーゼは困ったように笑った。
嬉しそうにも見えた。
「次は、もう少し上手に作ります」
その言葉の後、彼女の視線がわずかに落ちる。
次。
少なくとも、セレネで同じ朝を迎える機会は、もうほとんど残っていない。
帰国は明後日だ。
僕は何も言わず、パンの焦げた端まで食べた。
「紅茶はどうですか」
「甘くありません」
「一杯しか入れていませんから」
「エリーゼの紅茶は?」
「ちょうどよいです」
「三杯入っています」
「疲れた朝には必要です」
「朝食作りは大仕事でしたか」
「外交文書より難しいです」
「卵は交渉できませんからね」
「パンも、待ってくれません」
「火も指示に従いません」
「それが問題です」
エリーゼは真剣に頷いた。
僕たちは同時に笑った。
笑えば脇腹が少し痛んだ。
けれど、止めようとは思わなかった。
皿は空になった。
「全部、食べてしまいました」
エリーゼが言う。
「残してよかったのですか」
「よくありません」
「先ほどと話が違います」
「恋人へ無理をさせるのはよくありません。でも、全部食べてもらえたのは嬉しいです」
「正直ですね」
「嘘をつかないことにしましたから」
僕の言葉を、そのまま返された。
エリーゼは椅子の横に置いていた願い帳を取り出す。
青い糸の表紙を開き、頁をめくった。
『好きな人へ朝食を作る。』
その横に、小さな印をつける。
しばらく考えてから、下へ文章を書き加えた。
『卵は少し焦げた。
パンはかなり焦げた。
テオは、おいしいとは言わなかった。
それでも、すべて食べてくれた。』
「少しではありません」
覗き込んで言う。
「何がですか」
「卵も、かなり焦げていました」
「願い帳には、私が感じたことを書くのです」
「事実を曲げてはいけません」
「では、少しとかなりの間です」
「その表現も曖昧です」
エリーゼは僕を見て、頁の端へ小さく書き足した。
『次は、焦がさない。』
その一文を見たまま、僕は何も言えなかった。
扉の外から、クラリスの声がする。
「お時間です」
「もうですか」
「十七分経ちました」
エリーゼは名残惜しそうに願い帳を閉じた。
卓の上には、空になった皿と、わずかに残った紅茶がある。
特別な料理ではなかった。
むしろ、失敗ばかりの朝食だった。
だが、こんな朝を毎日迎えられたらと思った。
焦げたパンを食べ、甘すぎる紅茶へ困り、次は上手に作るという言葉を聞く。
そんな何でもない朝を、何度でも。
けれど僕は、その願いを口にはしなかった。
明後日の朝には、彼女は帰国する。
今はただ、エリーゼがつけた小さな印を見つめていた。
完璧ではない朝だった。だからこそ、僕には失いたくない未来の形に見えた。




