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君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱるめりあ
第四部「終わるはずではなかった夏」

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第26話 息子を好きになってくれて

「テオ、この花は曲がっていないかしら」


「三度目ですが、曲がっていません」


「テーブルクロスは?」


「先ほど僕とアンナで直しました」


「窓はきれい?」


「お母様、王女殿下は窓を調べに来るわけではありません」


 アンナの言葉に、母はますます困った顔をした。


 エリーゼが訪れる朝、我が家は落ち着きを失っていた。


 以前、彼女がエリー・アルノーとして来た時には、料理の鍋が足りないだの、椅子をどこから持ってくるだのと騒いだ。


 それでも、気軽な食卓だった。


 今日は違う。


 棚の上には母が選んだ白い花。


 卓には、普段は使わない刺繍入りの布。


 欠けた皿は奥へしまわれ、家にある中で一番よい茶器が並べられている。


 玄関の外には、王女付きの護衛が立つ予定だった。


「本当に、ここへいらっしゃるのね」


 母が胸元へ手を当てる。


「はい」


「アルディナの第一王女殿下が」


「はい」


「うちへ」


「昨日から何度も説明したでしょう」


「分かっているわ。でも、分かることと、落ち着けることは別なの」


 その言葉には覚えがあった。


 僕もエリーゼの事情を理解できたからといって、すぐに傷つかなくなったわけではない。


「兄さんも落ち着いていないでしょう」


 アンナが僕を見る。


「そんなことはありません」


「さっきから時計を六回見ています」


「時間を確認しているだけです」


「王女殿下が早く到着するかもしれないから?」


「遅れないようにです」


「ここは兄さんの家なのに?」


 言い返せなかった。


 帰国前日。


 今日を過ぎれば、エリーゼがセレネにいられるのは、もう一晩だけだった。


 短い訪問であっても、少しでも早く会いたいと思っている。


 同時に、家族の前で彼女とどう接すればよいのか迷っていた。


 公には、僕は侯爵家の秘書。


 彼女はアルディナ第一王女だ。


 恋人として隣に立てる関係を、どこまで家族へ見せてよいのかは分からない。


 玄関の外で馬車の音がした。


 母が息を呑む。


 アンナまで背筋を伸ばした。


「いらしたようです」


 僕は立ち上がった。


 脇腹にわずかな痛みが走る。


「兄さん」


「大丈夫です」


「ゆっくり歩いてくださいね」


 母とアンナの両方から言われ、僕は歩調を落とした。


 扉を開ける。


 家の前には、王家の紋章を控えめに掲げた馬車が止まっていた。


 先にクラリスが降りる。


 続いて、エリーゼが姿を見せた。


 淡い青灰色の外出着。


 胸元にはアルディナ王家の紋章がある。


 髪も正式な形に整えられていたが、公務服ほど堅い印象ではなかった。


 僕と目が合う。


 エリーゼの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


 けれど、護衛とクラリスの前だ。


 僕は一礼する。


「ようこそお越しくださいました、王女殿下」


「お迎えありがとうございます、レイン秘書」


 正しい言葉を交わした後で、エリーゼは家の扉を見る。


 以前来た時と同じ、小さな家。


 けれど今日は、彼女も同じ気持ちでは入れないのだろう。


「どうぞ、中へ」


「失礼いたします」


 母とアンナは居間の入口で待っていた。


 エリーゼが部屋へ入ると、二人はそろって深く礼をする。


「アルディナ第一王女殿下をお迎えできましたこと、光栄に存じます」


 母の声は、少し震えていた。


「どうかお顔を上げてください」


 エリーゼが言う。


「本日は、私の願いを聞き入れてくださり、ありがとうございます」


「そのような。狭い家で、十分なおもてなしもできませんが」


「以前いただいたお食事は、とても温かいものでした」


 エリーゼは部屋を見回した。


「またここへ来ることができて、嬉しく思います」


 王女として整えられた言葉だった。


 それでも、最後の一言だけは、僕が知っているエリーゼの声に聞こえた。


 母が椅子を勧める。


 エリーゼは卓の一方へ座り、クラリスは少し離れた場所に立った。


 護衛は外に残っている。


 僕はエリーゼの隣ではなく、斜め向かいへ座った。


 アンナが茶を注ぐ。


 普段より慎重すぎて、カップの縁へ一滴こぼれた。


「あっ」


「大丈夫です」


 エリーゼは自分で布を取り、こぼれた茶を押さえた。


 アンナが目を丸くする。


「王女殿下が、ご自分で」


「この程度のことでしたら」


「兄さんは、よく書類へお茶をこぼします」


「アンナ」


「本当でしょう」


「一度だけです」


「二度です」


 エリーゼの口元がわずかに緩んだ。


「テオらしいですね」


 私的な名前が自然に出た。


 部屋が静かになる。


 エリーゼ自身も気づき、少し目を見開いた。


 母は僕とエリーゼを交互に見た。


 アンナは何かを言いかけたが、母に視線で止められた。


「失礼しました」


 エリーゼが姿勢を正す。


「いいえ」


 母は穏やかに首を横へ振った。


「どうぞ、そのままお呼びください」


 僕の胸が強く鳴る。


 エリーゼはすぐには返事をしなかった。


「……ありがとうございます」


 小さく答え、膝の上で手を重ねた。


「本日は、お二人へ直接お伝えしたいことがあり、参りました」


 声が公務のものへ戻る。


 母とアンナも姿勢を正した。


「先日の襲撃により、テオは負傷しました」


 エリーゼの視線が僕の脇腹へ落ちる。


「私の警護が十分でなかったこと、そして私の身分を伏せたまま行動をともにさせたことで、ご家族にも大きなご心配をおかけしました」


「殿下も、襲われた側です」


 母が静かに言う。


「はい。ですが、私の立場に伴う危険を知らせず、テオを近くに置いたことは事実です」


「それは、安全のためだったと伺っています」


「初めは、そのためでした」


 エリーゼは目を逸らさない。


「けれど、途中からは私自身の弱さによって、真実を伝えるのを遅らせました」


 アンナの指が、膝の上で動く。


 母は何も挟まず、エリーゼの言葉を待った。


「私は、テオに嫌われることを恐れました。そのために、彼が真実を知ったうえで選ぶ機会を奪いました」


 家族へまで、そこを話すとは思っていなかった。


 僕はエリーゼを見る。


 彼女は王女として責任を述べながら、自分を必要以上に貶めてはいなかった。


「そのことで、テオを深く傷つけました」


 声が少し揺れる。


「申し訳ありませんでした」


 エリーゼは椅子に座ったまま、深く頭を下げた。


「殿下」


 母が立ち上がる。


「どうか、お顔を上げてください」


「ですが」


「息子が傷ついたことは、息子自身と殿下が向き合うことです」


 母は卓を回り、エリーゼの近くまで歩いた。


「私は母親ですから、息子が刺されたと聞いた時には、生きた心地がしませんでした」


「……はい」


「けれど、テオが殿下を庇ったのは、命じられたからではないでしょう」


 母が僕を見る。


 僕は頷いた。


「身体が勝手に動きました」


「この子は、昔からそういうところがあります」


「褒められている気がしません」


「褒めていません。自分を後回しにする癖は、直してほしいと思っています」


 母は僕を一度だけ厳しく見てから、エリーゼへ向き直った。


「ですから、殿下お一人がすべての責任を負う必要はありません」


「それでも、私がしたことは」


「なくなりません」


 母は優しく、しかしはっきりと言った。


「けれど、それとは別に、私から申し上げたいことがあります」


 エリーゼが顔を上げる。


 母は胸の前で両手を重ねた。


「息子を好きになってくださったことだけは、母としてお礼を言わせてください」


 エリーゼの瞳が大きく見開かれた。


「テオは、自分の望みを口にするのが得意な子ではありません」


「お母さん」


「本当のことでしょう」


 母は僕へ振り返らない。


「家族のためだと言って大学を辞めた時も、自分が何を失ったのかは、ほとんど話しませんでした」


 僕は卓の下で拳を握った。


 エリーゼは黙って聞いている。


「諦めることを、我慢強さだと思ってしまうところがあります」


「はい」


 エリーゼが小さく頷く。


「私も、そう思います」


「そこは同意しなくてよいでしょう」


「ですが、事実です」


 母の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。


「そんな息子が、帰ってほしくないと誰かへ言えたのなら」


 僕は思わずエリーゼを見る。


 彼女もこちらを見た。


「どうして知っているのですか」


「先ほどの顔を見れば分かります」


「何も言っていません」


「言わなくても分かることはあります」


 母は再びエリーゼへ向き直る。


「殿下が息子を選んでくださったから、この子も自分の気持ちを選べたのでしょう」


 エリーゼの目に涙が浮かぶ。


「私は、選んだだけではありません。選ばせないようなこともしました」


「それでも今は、二人で話しているのでしょう」


「はい」


「なら、私はそれ以上を決めません」


 母は結婚も将来も口にしなかった。


 二人の恋が必ず報われるとも言わない。


 ただ、ここにある気持ちだけを受け止めてくれていた。


「テオを好きになってくださって、ありがとうございます」


 エリーゼの頬を、涙が伝った。


 王女として町の代表へ向き合った時も、父王への報告を書いた時も崩さなかった姿勢が、わずかに揺れる。


「私の方こそ」


 エリーゼは涙を拭わず、母を見る。


「テオを育ててくださって、ありがとうございます」


 母の目にも涙が浮かんだ。


「それは、母親ですから」


「それでも、ありがとうございます」


 二人は向かい合ったまま、しばらく何も言わなかった。


 僕は立ち上がれなかった。


 間へ入る必要はないと思った。


 エリーゼは王女として謝罪に来た。


 けれど今、母が受け入れているのは、称号ではなく、僕を愛した一人の女性だった。


 母がそっと、彼女の手へ触れる。


「明日、お帰りになるのですね」


「はい」


「道中のご無事を祈っています」


「ありがとうございます」


 母は一度息を整えた。


 それから、今日初めて彼女の本当の名前を呼んだ。


「エリーゼ様」


 その一言に、エリーゼの涙がまたこぼれた。


「……はい」


 王女殿下でも、アルノー嬢でもない。


 エリーゼ様。


 母が呼んだ名前を、彼女は両手で大切に受け取るように頷いた。


「泣いているところで申し訳ないのですが」


 アンナの声がした。


 皆が振り返る。


 アンナは棚の上から、古いカードの箱を取り出していた。


「以前の勝負が途中でした」


 エリーゼが瞬きをする。


「カードの?」


「はい。王女殿下は、最後に私へ負けたままです」


「アンナ」


「だって、このままでは気になるでしょう」


 過剰な静けさが、少しだけ崩れた。


 エリーゼは涙を拭い、カードの箱を見る。


「最後の一回は、私が勝ったと思います」


「いいえ。兄さんに確認してください」


「テオ」


 二人の視線が僕へ向く。


「僕を巻き込まないでください」


「記録係だったでしょう」


 アンナが言う。


「記録はしていません」


「では、今から決着をつけましょう」


 エリーゼはクラリスへ視線を向けた。


「時間はありますか」


 クラリスが懐中時計を確認する。


「二十分でしたら」


「短いですね」


「帰国準備がございます」


「では、一勝負だけ」


「一勝負で終わりますか?」


「終わらせます」


 エリーゼとアンナが卓の上へカードを並べ始める。


 母は涙を拭いながら、新しい茶を用意した。


 僕も札を配るのを手伝う。


 王女の訪問のために整えた部屋が、少しずつ以前の食卓へ戻っていく。


「王女殿下、その札は先ほど出せました」


 アンナが指摘する。


「分かっています。今出す方が有利だと判断しました」


「本当ですか」


「もちろんです」


「公務と同じ顔をしても、カードは強くなりませんよ」


「次の札を見てから言ってください」


 エリーゼは真剣だった。


 補償や警備を決める時と同じくらい、真剣に見える。


「エリーゼ」


 僕が呼ぶと、彼女が顔を上げた。


「その札を残す意味はありません」


「テオは、どちらの味方ですか」


「記録係です」


「記録していないと言ったでしょう」


「今から記録します」


「兄さん、助かります」


「二人とも、私を負かそうとしていませんか」


 母が笑った。


 エリーゼも、やがて笑った。


 その声が小さな部屋へ広がる。


 以前と同じようで、以前とは違う時間だった。


 僕たちは彼女の名前も、身分も、明日帰る理由も知っている。


 それでも同じ卓を囲み、カードを並べ、くだらない言い争いをしていた。


 勝負は、アンナが勝った。


「これで二勝です」


「一勝一敗です」


「最初の勝負も私が勝ちました」


「記録がありません」


「兄さん」


「今回はアンナの勝ちです」


「今回は、ですね」


 エリーゼは納得していない顔でカードを箱へ戻した。


「次は負けません」


 次。


 その言葉に、誰もすぐには答えなかった。


 明日、彼女は帰る。


 もう一度この卓を囲める日があるかは、誰にも分からない。


 クラリスが静かに時間を告げた。


「殿下。そろそろお戻りください」


「はい」


 エリーゼが立ち上がる。


 母とアンナも玄関まで見送った。


 外では馬車と護衛が待っている。


「本日は、本当にありがとうございました」


 エリーゼが母へ頭を下げる。


「こちらこそ、お越しくださりありがとうございました」


 母は礼を返した。


 アンナがカードの箱を胸へ抱える。


「次は、最初から勝負しましょう」


「望むところです」


「アンナ」


 母がたしなめる。


「王女殿下へ、その言い方は」


「この方がよいです」


 エリーゼは微笑んだ。


「また、お会いできた時に」


 母が一瞬だけ言葉に詰まる。


 けれど、笑顔を崩さなかった。


「ええ。また」


「また来てください、王女殿下」


 アンナも続ける。


「必ずとは言えません」


 エリーゼは正直に答えた。


「それでも、また来たいと思っています」


「では、待っています」


 約束ではなかった。


 いつになるかも、実現するかも分からない。


 それを全員が知っていた。


 それでも母とアンナは、もう一度言った。


「また」


 エリーゼは涙をこらえるように唇を結び、深く頷いた。


「はい。また」


 馬車が走り出す。


 僕たちは家の前に立ち、その姿が道の先へ消えるまで見送った。


 母とアンナの間に立ちながら、僕は胸の奥へ残る温かさと、明日という期限を同時に抱えていた。


 エリーゼが欲しかったのは、王宮から逃げる場所ではない。王女のままでも「帰ってきた」と言ってもらえる場所なのだと、ようやく分かり始めていた。

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