第26話 息子を好きになってくれて
「テオ、この花は曲がっていないかしら」
「三度目ですが、曲がっていません」
「テーブルクロスは?」
「先ほど僕とアンナで直しました」
「窓はきれい?」
「お母様、王女殿下は窓を調べに来るわけではありません」
アンナの言葉に、母はますます困った顔をした。
エリーゼが訪れる朝、我が家は落ち着きを失っていた。
以前、彼女がエリー・アルノーとして来た時には、料理の鍋が足りないだの、椅子をどこから持ってくるだのと騒いだ。
それでも、気軽な食卓だった。
今日は違う。
棚の上には母が選んだ白い花。
卓には、普段は使わない刺繍入りの布。
欠けた皿は奥へしまわれ、家にある中で一番よい茶器が並べられている。
玄関の外には、王女付きの護衛が立つ予定だった。
「本当に、ここへいらっしゃるのね」
母が胸元へ手を当てる。
「はい」
「アルディナの第一王女殿下が」
「はい」
「うちへ」
「昨日から何度も説明したでしょう」
「分かっているわ。でも、分かることと、落ち着けることは別なの」
その言葉には覚えがあった。
僕もエリーゼの事情を理解できたからといって、すぐに傷つかなくなったわけではない。
「兄さんも落ち着いていないでしょう」
アンナが僕を見る。
「そんなことはありません」
「さっきから時計を六回見ています」
「時間を確認しているだけです」
「王女殿下が早く到着するかもしれないから?」
「遅れないようにです」
「ここは兄さんの家なのに?」
言い返せなかった。
帰国前日。
今日を過ぎれば、エリーゼがセレネにいられるのは、もう一晩だけだった。
短い訪問であっても、少しでも早く会いたいと思っている。
同時に、家族の前で彼女とどう接すればよいのか迷っていた。
公には、僕は侯爵家の秘書。
彼女はアルディナ第一王女だ。
恋人として隣に立てる関係を、どこまで家族へ見せてよいのかは分からない。
玄関の外で馬車の音がした。
母が息を呑む。
アンナまで背筋を伸ばした。
「いらしたようです」
僕は立ち上がった。
脇腹にわずかな痛みが走る。
「兄さん」
「大丈夫です」
「ゆっくり歩いてくださいね」
母とアンナの両方から言われ、僕は歩調を落とした。
扉を開ける。
家の前には、王家の紋章を控えめに掲げた馬車が止まっていた。
先にクラリスが降りる。
続いて、エリーゼが姿を見せた。
淡い青灰色の外出着。
胸元にはアルディナ王家の紋章がある。
髪も正式な形に整えられていたが、公務服ほど堅い印象ではなかった。
僕と目が合う。
エリーゼの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
けれど、護衛とクラリスの前だ。
僕は一礼する。
「ようこそお越しくださいました、王女殿下」
「お迎えありがとうございます、レイン秘書」
正しい言葉を交わした後で、エリーゼは家の扉を見る。
以前来た時と同じ、小さな家。
けれど今日は、彼女も同じ気持ちでは入れないのだろう。
「どうぞ、中へ」
「失礼いたします」
母とアンナは居間の入口で待っていた。
エリーゼが部屋へ入ると、二人はそろって深く礼をする。
「アルディナ第一王女殿下をお迎えできましたこと、光栄に存じます」
母の声は、少し震えていた。
「どうかお顔を上げてください」
エリーゼが言う。
「本日は、私の願いを聞き入れてくださり、ありがとうございます」
「そのような。狭い家で、十分なおもてなしもできませんが」
「以前いただいたお食事は、とても温かいものでした」
エリーゼは部屋を見回した。
「またここへ来ることができて、嬉しく思います」
王女として整えられた言葉だった。
それでも、最後の一言だけは、僕が知っているエリーゼの声に聞こえた。
母が椅子を勧める。
エリーゼは卓の一方へ座り、クラリスは少し離れた場所に立った。
護衛は外に残っている。
僕はエリーゼの隣ではなく、斜め向かいへ座った。
アンナが茶を注ぐ。
普段より慎重すぎて、カップの縁へ一滴こぼれた。
「あっ」
「大丈夫です」
エリーゼは自分で布を取り、こぼれた茶を押さえた。
アンナが目を丸くする。
「王女殿下が、ご自分で」
「この程度のことでしたら」
「兄さんは、よく書類へお茶をこぼします」
「アンナ」
「本当でしょう」
「一度だけです」
「二度です」
エリーゼの口元がわずかに緩んだ。
「テオらしいですね」
私的な名前が自然に出た。
部屋が静かになる。
エリーゼ自身も気づき、少し目を見開いた。
母は僕とエリーゼを交互に見た。
アンナは何かを言いかけたが、母に視線で止められた。
「失礼しました」
エリーゼが姿勢を正す。
「いいえ」
母は穏やかに首を横へ振った。
「どうぞ、そのままお呼びください」
僕の胸が強く鳴る。
エリーゼはすぐには返事をしなかった。
「……ありがとうございます」
小さく答え、膝の上で手を重ねた。
「本日は、お二人へ直接お伝えしたいことがあり、参りました」
声が公務のものへ戻る。
母とアンナも姿勢を正した。
「先日の襲撃により、テオは負傷しました」
エリーゼの視線が僕の脇腹へ落ちる。
「私の警護が十分でなかったこと、そして私の身分を伏せたまま行動をともにさせたことで、ご家族にも大きなご心配をおかけしました」
「殿下も、襲われた側です」
母が静かに言う。
「はい。ですが、私の立場に伴う危険を知らせず、テオを近くに置いたことは事実です」
「それは、安全のためだったと伺っています」
「初めは、そのためでした」
エリーゼは目を逸らさない。
「けれど、途中からは私自身の弱さによって、真実を伝えるのを遅らせました」
アンナの指が、膝の上で動く。
母は何も挟まず、エリーゼの言葉を待った。
「私は、テオに嫌われることを恐れました。そのために、彼が真実を知ったうえで選ぶ機会を奪いました」
家族へまで、そこを話すとは思っていなかった。
僕はエリーゼを見る。
彼女は王女として責任を述べながら、自分を必要以上に貶めてはいなかった。
「そのことで、テオを深く傷つけました」
声が少し揺れる。
「申し訳ありませんでした」
エリーゼは椅子に座ったまま、深く頭を下げた。
「殿下」
母が立ち上がる。
「どうか、お顔を上げてください」
「ですが」
「息子が傷ついたことは、息子自身と殿下が向き合うことです」
母は卓を回り、エリーゼの近くまで歩いた。
「私は母親ですから、息子が刺されたと聞いた時には、生きた心地がしませんでした」
「……はい」
「けれど、テオが殿下を庇ったのは、命じられたからではないでしょう」
母が僕を見る。
僕は頷いた。
「身体が勝手に動きました」
「この子は、昔からそういうところがあります」
「褒められている気がしません」
「褒めていません。自分を後回しにする癖は、直してほしいと思っています」
母は僕を一度だけ厳しく見てから、エリーゼへ向き直った。
「ですから、殿下お一人がすべての責任を負う必要はありません」
「それでも、私がしたことは」
「なくなりません」
母は優しく、しかしはっきりと言った。
「けれど、それとは別に、私から申し上げたいことがあります」
エリーゼが顔を上げる。
母は胸の前で両手を重ねた。
「息子を好きになってくださったことだけは、母としてお礼を言わせてください」
エリーゼの瞳が大きく見開かれた。
「テオは、自分の望みを口にするのが得意な子ではありません」
「お母さん」
「本当のことでしょう」
母は僕へ振り返らない。
「家族のためだと言って大学を辞めた時も、自分が何を失ったのかは、ほとんど話しませんでした」
僕は卓の下で拳を握った。
エリーゼは黙って聞いている。
「諦めることを、我慢強さだと思ってしまうところがあります」
「はい」
エリーゼが小さく頷く。
「私も、そう思います」
「そこは同意しなくてよいでしょう」
「ですが、事実です」
母の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「そんな息子が、帰ってほしくないと誰かへ言えたのなら」
僕は思わずエリーゼを見る。
彼女もこちらを見た。
「どうして知っているのですか」
「先ほどの顔を見れば分かります」
「何も言っていません」
「言わなくても分かることはあります」
母は再びエリーゼへ向き直る。
「殿下が息子を選んでくださったから、この子も自分の気持ちを選べたのでしょう」
エリーゼの目に涙が浮かぶ。
「私は、選んだだけではありません。選ばせないようなこともしました」
「それでも今は、二人で話しているのでしょう」
「はい」
「なら、私はそれ以上を決めません」
母は結婚も将来も口にしなかった。
二人の恋が必ず報われるとも言わない。
ただ、ここにある気持ちだけを受け止めてくれていた。
「テオを好きになってくださって、ありがとうございます」
エリーゼの頬を、涙が伝った。
王女として町の代表へ向き合った時も、父王への報告を書いた時も崩さなかった姿勢が、わずかに揺れる。
「私の方こそ」
エリーゼは涙を拭わず、母を見る。
「テオを育ててくださって、ありがとうございます」
母の目にも涙が浮かんだ。
「それは、母親ですから」
「それでも、ありがとうございます」
二人は向かい合ったまま、しばらく何も言わなかった。
僕は立ち上がれなかった。
間へ入る必要はないと思った。
エリーゼは王女として謝罪に来た。
けれど今、母が受け入れているのは、称号ではなく、僕を愛した一人の女性だった。
母がそっと、彼女の手へ触れる。
「明日、お帰りになるのですね」
「はい」
「道中のご無事を祈っています」
「ありがとうございます」
母は一度息を整えた。
それから、今日初めて彼女の本当の名前を呼んだ。
「エリーゼ様」
その一言に、エリーゼの涙がまたこぼれた。
「……はい」
王女殿下でも、アルノー嬢でもない。
エリーゼ様。
母が呼んだ名前を、彼女は両手で大切に受け取るように頷いた。
「泣いているところで申し訳ないのですが」
アンナの声がした。
皆が振り返る。
アンナは棚の上から、古いカードの箱を取り出していた。
「以前の勝負が途中でした」
エリーゼが瞬きをする。
「カードの?」
「はい。王女殿下は、最後に私へ負けたままです」
「アンナ」
「だって、このままでは気になるでしょう」
過剰な静けさが、少しだけ崩れた。
エリーゼは涙を拭い、カードの箱を見る。
「最後の一回は、私が勝ったと思います」
「いいえ。兄さんに確認してください」
「テオ」
二人の視線が僕へ向く。
「僕を巻き込まないでください」
「記録係だったでしょう」
アンナが言う。
「記録はしていません」
「では、今から決着をつけましょう」
エリーゼはクラリスへ視線を向けた。
「時間はありますか」
クラリスが懐中時計を確認する。
「二十分でしたら」
「短いですね」
「帰国準備がございます」
「では、一勝負だけ」
「一勝負で終わりますか?」
「終わらせます」
エリーゼとアンナが卓の上へカードを並べ始める。
母は涙を拭いながら、新しい茶を用意した。
僕も札を配るのを手伝う。
王女の訪問のために整えた部屋が、少しずつ以前の食卓へ戻っていく。
「王女殿下、その札は先ほど出せました」
アンナが指摘する。
「分かっています。今出す方が有利だと判断しました」
「本当ですか」
「もちろんです」
「公務と同じ顔をしても、カードは強くなりませんよ」
「次の札を見てから言ってください」
エリーゼは真剣だった。
補償や警備を決める時と同じくらい、真剣に見える。
「エリーゼ」
僕が呼ぶと、彼女が顔を上げた。
「その札を残す意味はありません」
「テオは、どちらの味方ですか」
「記録係です」
「記録していないと言ったでしょう」
「今から記録します」
「兄さん、助かります」
「二人とも、私を負かそうとしていませんか」
母が笑った。
エリーゼも、やがて笑った。
その声が小さな部屋へ広がる。
以前と同じようで、以前とは違う時間だった。
僕たちは彼女の名前も、身分も、明日帰る理由も知っている。
それでも同じ卓を囲み、カードを並べ、くだらない言い争いをしていた。
勝負は、アンナが勝った。
「これで二勝です」
「一勝一敗です」
「最初の勝負も私が勝ちました」
「記録がありません」
「兄さん」
「今回はアンナの勝ちです」
「今回は、ですね」
エリーゼは納得していない顔でカードを箱へ戻した。
「次は負けません」
次。
その言葉に、誰もすぐには答えなかった。
明日、彼女は帰る。
もう一度この卓を囲める日があるかは、誰にも分からない。
クラリスが静かに時間を告げた。
「殿下。そろそろお戻りください」
「はい」
エリーゼが立ち上がる。
母とアンナも玄関まで見送った。
外では馬車と護衛が待っている。
「本日は、本当にありがとうございました」
エリーゼが母へ頭を下げる。
「こちらこそ、お越しくださりありがとうございました」
母は礼を返した。
アンナがカードの箱を胸へ抱える。
「次は、最初から勝負しましょう」
「望むところです」
「アンナ」
母がたしなめる。
「王女殿下へ、その言い方は」
「この方がよいです」
エリーゼは微笑んだ。
「また、お会いできた時に」
母が一瞬だけ言葉に詰まる。
けれど、笑顔を崩さなかった。
「ええ。また」
「また来てください、王女殿下」
アンナも続ける。
「必ずとは言えません」
エリーゼは正直に答えた。
「それでも、また来たいと思っています」
「では、待っています」
約束ではなかった。
いつになるかも、実現するかも分からない。
それを全員が知っていた。
それでも母とアンナは、もう一度言った。
「また」
エリーゼは涙をこらえるように唇を結び、深く頷いた。
「はい。また」
馬車が走り出す。
僕たちは家の前に立ち、その姿が道の先へ消えるまで見送った。
母とアンナの間に立ちながら、僕は胸の奥へ残る温かさと、明日という期限を同時に抱えていた。
エリーゼが欲しかったのは、王宮から逃げる場所ではない。王女のままでも「帰ってきた」と言ってもらえる場所なのだと、ようやく分かり始めていた。




