第27話 最後の一日
「どこへ行きたいですか」
侯爵邸を出る前、僕はエリーゼに尋ねた。
彼女は青い願い帳を開き、書き並べた頁をしばらく見つめた。
「全部、と言ったら困りますか」
「日が暮れるまでに回りきれません」
「では、願いを急いでかなえるのはやめます」
エリーゼは帳面を閉じた。
「今日は願いを増やす日にします。テオと、何も急がず歩きたいです」
帰国前日の午後。
護衛を伴い、僕たちは町へ向かった。
エリーゼの正体はすでに広く知られている。以前のように、外国から来た令嬢として人混みへ紛れることはできない。
道の両側には護衛が立ち、通りには事前に知らされた町の警備員もいた。
人々はエリーゼに気づくと足を止め、帽子を取り、礼をする。
彼女もそのたびに歩みを止め、王女として応えた。
「王女殿下、お身体はもうよろしいのですか」
花を売る女性が尋ねる。
「はい。ご心配をおかけしました」
「レイン秘書も、ご無事で何よりです」
「ありがとうございます」
以前と同じ道なのに、呼ばれる名前も、周囲の距離も違っている。
僕たちは並んで歩いている。
けれど公の場で、手をつなぐことはできなかった。
「窮屈ですか」
人々から少し離れたところで、僕は小声で尋ねた。
「これが普段の私です」
エリーゼは前を向いたまま答える。
「ですが、今日は少しだけ残念です」
「何がですか」
「テオの手が近くにあるのに、触れられません」
僕は思わず彼女を見る。
エリーゼは何事もなかったように、通りの先へ視線を向けていた。
「王女殿下」
「何でしょう、レイン秘書」
「公の場で、そのようなことを言わないでください」
「誰にも聞こえない声でした」
「僕には聞こえました」
「テオへ言ったのですから、当然です」
返す言葉を探しているうちに、彼女の口元がわずかに緩んだ。
最初に立ち寄ったのは、市場の菓子店だった。
以前、エリーゼが初めて自分で菓子を選んだ店だ。
店主は僕たちを見ると、驚いて姿勢を正した。
「王女殿下。ようこそお越しくださいました」
「また、菓子を選びに来ました」
「もちろんでございます。どれでも、お好きなものを」
店主は慌てて棚の上を整える。
エリーゼは並んだ菓子を見つめた。
「今日は迷いません」
選んだのは、あの日と同じ柑橘の砂糖菓子だった。
「ほかのものもありますよ」
僕が言う。
「知っています」
「試さなくてよいのですか」
「今日は、これを選びたいのです」
店主から包みを受け取る。
代金を支払おうとすると、彼は何度も辞退した。
「先日のことで、ご迷惑をおかけしました。受け取ってください」
エリーゼが穏やかに言うと、店主は深く頭を下げ、ようやく硬貨を受け取った。
市場を抜けたところで、エリーゼが包みを開く。
一つ取り出し、僕へ差し出した。
「半分にしますか」
「最初から二つ買えばよかったのでは?」
「半分にすることに意味があります」
僕は菓子を受け取り、指で二つに割った。
完全な半分にはならなかった。
片方が少しだけ大きい。
「どちらを取りますか」
尋ねると、エリーゼは大きい方を見る。
「こちらを取れば、欲張りだと思いますか」
「思いません」
「では、こちらを」
迷わず大きい方を取った。
「以前なら、小さい方を選んだでしょう」
「そうかもしれません」
「変わりましたね」
「自分で選ぶことにしたのです」
そう言って、菓子を口に入れる。
「同じ味ですか」
「はい」
「甘いだけではなく?」
「少し苦いです」
エリーゼは笑った。
「でも、今はこの味が好きです」
僕も自分の分を食べる。
砂糖の甘さの後に、柑橘の皮の苦みが残った。
以前と変わらない味だった。
僕たちの方が変わったのだ。
◇
市場を出た後、雨の日に立ち寄った宿屋の前を通った。
昼食の時間は過ぎていたが、開いた窓から魚のスープの匂いが流れてくる。
エリーゼが足を止めた。
「覚えていますか」
「忘れません」
「パンを渡す順番を間違えました」
「間違えてはいません。ただ、止まっていただけです」
「分からなかったのです」
「知っています」
宿屋へ入る時間はなかった。
それでも二人でしばらく、窓の向こうから聞こえる食器の音を聞いた。
「また食べたいです」
エリーゼが言う。
「王宮の料理人に作らせれば、もっと立派なものができるでしょう」
「同じものにはなりません」
あの日は、雨で身体が冷えていた。
身分も名前も知らず、偶然同じ卓へ座った。
同じ鍋から分けられたスープを飲み、少しずつ互いを知った。
「では、いつか」
言いかけて、僕は口を閉じた。
いつか。
簡単に使える言葉ではなかった。
エリーゼも続きを求めなかった。
「行きましょうか」
「はい」
僕たちは再び歩き出した。
すべての場所へ行くことはしなかった。
舞踏会のあった屋敷も、花火を見た場所も、祭りの広場も通らない。
思い出を数えるために、今日があるわけではない。
夕方近くになって、海へ向かった。
警備の都合で、人の少ない岬側の道を選ぶ。
潮の匂いが強くなり、やがて青い海が見えた。
最初に来た時、エリーゼは波を見るだけで目を輝かせていた。
今日は静かに立ち、沖を進む船を見つめている。
「海は、変わりませんね」
「昨日と今日で変わったら困ります」
「そういう意味ではありません」
「分かっています」
波が岩へ当たり、白く砕ける。
護衛たちは、少し離れた道で待っていた。
この距離なら、小声で話す必要はない。
僕たちは砂浜へ下りず、岬の草地へ腰を下ろした。
エリーゼが靴の先を揃える。
「願い帳には、まだ印のないものがあります」
「すべてかなえなくてよいのですか」
「はい」
彼女は膝の上へ帳面を置いた。
「かなえられなかった願いも、私が何を望んだかという記録です」
「無理に印をつければ、意味が変わりますね」
「それに、今日一日で全部かなえてしまったら」
エリーゼは青い表紙を撫でた。
「明日が来ないように、必死になっている気がします」
僕も同じことを考えていた。
市場から宿屋へ走り、海へ行き、思い出の場所をすべて巡る。
そうして忙しくしていれば、別れを考えずに済んだかもしれない。
けれど日が沈むことは止められない。
「座っているだけでも、よいですか」
エリーゼが尋ねる。
「もちろんです」
それからしばらく、僕たちは話さなかった。
隣にいる。
同じ海を見ている。
それだけでよかった。
風がエリーゼの髪を揺らす。
僕が手を伸ばすより先に、彼女は自分で乱れた髪を耳へかけた。
「テオ」
「はい」
「私は、待っていてとは言えません」
海を見たまま、エリーゼが言った。
「分かっています」
「帰れば、父へすべて話します。婚姻交渉にも向き合います」
「はい」
「どうなるかは、まだ分かりません」
彼女の声は落ち着いていた。
けれど、帳面を持つ指には力が入っている。
「私が望むだけで決められないこともあります。国の状況も、王家の判断も、相手の意思もある」
「マクシミリアン王子の意思も」
「はい」
エリーゼは頷いた。
「だから、いつまで待っていてとは言えません」
「待つと約束してほしいとは?」
「思っています」
正直な答えだった。
「でも、言えません」
恋人なら、待っていると言うべきなのかもしれない。
どれほど離れても、必ず迎えに行くと誓えば、美しい言葉になる。
けれど、それを言うだけの力が今の僕にはなかった。
「僕も、必ず迎えに行くとは、今の僕には言えません」
エリーゼの横顔が、わずかに強張る。
「僕はまだ、侯爵家の秘書です。家族を支える責任があります」
「はい」
「外交官でもなければ、アルディナ王宮へ自由に会いに行ける立場でもない」
「はい」
「明日から何をすれば、エリーゼの隣へたどり着けるのかも分かっていません」
言葉にするたび、自分の無力さがはっきりする。
それでも、できない約束で彼女を縛りたくなかった。
「だから、必ずとは言えません」
「分かっています」
エリーゼは下を向いた。
「少しだけ、残念です」
「僕もです」
「そこは、必ずと言ってくださってもよかったのではありませんか」
「嘘をつかないことにしたでしょう」
「正直さが、いつも嬉しいとは限りません」
「知っています」
エリーゼが小さく息を吐く。
「それでも、テオが約束できないことを約束しない人で、よかったと思います」
「王女として?」
「恋人としてです」
僕は草の上へ置かれた彼女の手へ、自分の手を重ねた。
エリーゼも指を返し、強く握る。
「一つだけ、約束できます」
「何ですか」
「エリーゼを愛したことを、後悔しません」
彼女が顔を上げる。
「明日、別れても?」
「はい」
「会えない時間が長くなっても?」
「はい」
「この恋が、私たちの望む形にならなくても?」
胸が痛んだ。
それでも、目を逸らさなかった。
「それでもです」
エリーゼの瞳に涙が浮かぶ。
「僕を愛したことを、後悔しますか」
「しません」
返事は、すぐに返ってきた。
「苦しくなっても?」
「はい」
「僕が何もできなかったとしても?」
「それでも、しません」
エリーゼは僕の手を両手で包んだ。
「テオを愛したことを、なかったことにはしません」
未来を約束する言葉ではなかった。
けれど、今までの時間を守る約束だった。
僕たちはいつか互いを忘れるために、恋をしたのではない。
明日離れるからといって、今日までの気持ちまで間違いにはならない。
日が海へ近づき、光が赤く変わる。
「そろそろ戻らなければ」
僕が言う。
「もう少しだけ」
「帰国準備が残っています」
「今だけ、王女であることを忘れても?」
「忘れない方がよいと思います」
「テオは厳しいですね」
「王女であるエリーゼを愛しているので」
彼女が黙った。
頬が少し赤くなる。
「そう言われると、反論できません」
「では、戻りましょう」
「その前に」
エリーゼは膝の上にあった願い帳を、僕へ差し出した。
「これを預かってください」
青い糸で綴じられた、小さな帳面。
「アルディナへ持って帰らないのですか」
「はい」
「大切なものでしょう」
「だから、テオに預けます」
僕はすぐには受け取れなかった。
そこには、亡くなった母親の言葉も、この夏の願いも、僕への気持ちも書かれている。
「失くしたらどうするのですか」
「失くさないでください」
「責任が重すぎます」
「外交文書より大切に扱ってください」
「それは当然です」
僕が両手で受け取ると、エリーゼは表紙へ最後に一度触れた。
「これを取りに帰る理由が、私にも必要だから」
胸の奥が熱くなる。
「帰ると約束しているように聞こえます」
「帰りたいという理由を残すだけです」
「同じでは?」
「違います」
エリーゼは、少し寂しそうに笑った。
「帰れると決まったわけではありません。ですが、帰りたい場所があることまで諦めたくないのです」
僕は願い帳を胸元へ抱えた。
「預かります」
「はい」
「エリーゼが取りに来るまで」
必ずとは言わなかった。
彼女も、必ず取りに来るとは答えなかった。
けれど、青い帳面が僕たちの間に残った。
◇
夜、侯爵邸へ戻ってから、僕たちは小さな応接室で最後の茶を飲んだ。
扉の外にはクラリスと護衛がいる。
卓の上には、砂糖壺が一つ。
「何杯ですか」
僕が尋ねる。
「二杯にします」
「珍しいですね」
「甘すぎると、味が分からなくなりますから」
エリーゼは自分で二杯入れ、匙でゆっくりかき混ぜた。
「テオは?」
「一杯で」
「半分ではなく?」
「朝食の時も一杯でした」
「覚えています」
僕の紅茶へ、エリーゼが一杯だけ砂糖を入れた。
匙がカップへ触れ、小さな音を立てる。
会話は途切れがちだった。
今日見た市場のこと。
カードでアンナに負けたこと。
焦げたパンの表面を、次はどう焼けばよいか。
どれも明日の別れには触れない話だった。
やがて時計が夜を告げる。
クラリスが扉を叩いた。
「殿下。明朝は早いため、そろそろお休みください」
「はい」
エリーゼは答えたが、立ち上がらなかった。
僕も動けなかった。
「明日、停車場へ来ますか」
「行きます」
「傷は?」
「医師の許可を得ました」
「無理をしていませんか」
「見送りに行かない方が、無理です」
エリーゼは視線を落とした。
「来てほしいです」
「はい」
それだけ確認して、僕たちは立ち上がった。
抱きしめることもできた。
口づけをすることも。
けれど、今は向かい合っているだけでよかった。
今日一日、何度も彼女へ触れた。
手をつなぎ、同じ菓子を分けた。
それ以上の何かで、別れを遠ざけることはできない。
「おやすみなさい、テオ」
「おやすみなさい、エリーゼ」
互いの名を、一度だけ呼んだ。
扉が開く。
クラリスが廊下で待っている。
エリーゼは部屋を出る前に振り返った。
僕もその姿を見つめた。
まだ、別れではない。
けれど次に会う時、僕たちを待っているのは、特別列車が出る停車場だった。
最後の一日は終わった。僕たちはまだ、次の季節を約束する言葉を持っていなかった。




