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君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱるめりあ
第四部「終わるはずではなかった夏」

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第27話 最後の一日

「どこへ行きたいですか」


 侯爵邸を出る前、僕はエリーゼに尋ねた。


 彼女は青い願い帳を開き、書き並べた頁をしばらく見つめた。


「全部、と言ったら困りますか」


「日が暮れるまでに回りきれません」


「では、願いを急いでかなえるのはやめます」


 エリーゼは帳面を閉じた。


「今日は願いを増やす日にします。テオと、何も急がず歩きたいです」


 帰国前日の午後。


 護衛を伴い、僕たちは町へ向かった。


 エリーゼの正体はすでに広く知られている。以前のように、外国から来た令嬢として人混みへ紛れることはできない。


 道の両側には護衛が立ち、通りには事前に知らされた町の警備員もいた。


 人々はエリーゼに気づくと足を止め、帽子を取り、礼をする。


 彼女もそのたびに歩みを止め、王女として応えた。


「王女殿下、お身体はもうよろしいのですか」


 花を売る女性が尋ねる。


「はい。ご心配をおかけしました」


「レイン秘書も、ご無事で何よりです」


「ありがとうございます」


 以前と同じ道なのに、呼ばれる名前も、周囲の距離も違っている。


 僕たちは並んで歩いている。


 けれど公の場で、手をつなぐことはできなかった。


「窮屈ですか」


 人々から少し離れたところで、僕は小声で尋ねた。


「これが普段の私です」


 エリーゼは前を向いたまま答える。


「ですが、今日は少しだけ残念です」


「何がですか」


「テオの手が近くにあるのに、触れられません」


 僕は思わず彼女を見る。


 エリーゼは何事もなかったように、通りの先へ視線を向けていた。


「王女殿下」


「何でしょう、レイン秘書」


「公の場で、そのようなことを言わないでください」


「誰にも聞こえない声でした」


「僕には聞こえました」


「テオへ言ったのですから、当然です」


 返す言葉を探しているうちに、彼女の口元がわずかに緩んだ。


 最初に立ち寄ったのは、市場の菓子店だった。


 以前、エリーゼが初めて自分で菓子を選んだ店だ。


 店主は僕たちを見ると、驚いて姿勢を正した。


「王女殿下。ようこそお越しくださいました」


「また、菓子を選びに来ました」


「もちろんでございます。どれでも、お好きなものを」


 店主は慌てて棚の上を整える。


 エリーゼは並んだ菓子を見つめた。


「今日は迷いません」


 選んだのは、あの日と同じ柑橘の砂糖菓子だった。


「ほかのものもありますよ」


 僕が言う。


「知っています」


「試さなくてよいのですか」


「今日は、これを選びたいのです」


 店主から包みを受け取る。


 代金を支払おうとすると、彼は何度も辞退した。


「先日のことで、ご迷惑をおかけしました。受け取ってください」


 エリーゼが穏やかに言うと、店主は深く頭を下げ、ようやく硬貨を受け取った。


 市場を抜けたところで、エリーゼが包みを開く。


 一つ取り出し、僕へ差し出した。


「半分にしますか」


「最初から二つ買えばよかったのでは?」


「半分にすることに意味があります」


 僕は菓子を受け取り、指で二つに割った。


 完全な半分にはならなかった。


 片方が少しだけ大きい。


「どちらを取りますか」


 尋ねると、エリーゼは大きい方を見る。


「こちらを取れば、欲張りだと思いますか」


「思いません」


「では、こちらを」


 迷わず大きい方を取った。


「以前なら、小さい方を選んだでしょう」


「そうかもしれません」


「変わりましたね」


「自分で選ぶことにしたのです」


 そう言って、菓子を口に入れる。


「同じ味ですか」


「はい」


「甘いだけではなく?」


「少し苦いです」


 エリーゼは笑った。


「でも、今はこの味が好きです」


 僕も自分の分を食べる。


 砂糖の甘さの後に、柑橘の皮の苦みが残った。


 以前と変わらない味だった。


 僕たちの方が変わったのだ。


◇


 市場を出た後、雨の日に立ち寄った宿屋の前を通った。


 昼食の時間は過ぎていたが、開いた窓から魚のスープの匂いが流れてくる。


 エリーゼが足を止めた。


「覚えていますか」


「忘れません」


「パンを渡す順番を間違えました」


「間違えてはいません。ただ、止まっていただけです」


「分からなかったのです」


「知っています」


 宿屋へ入る時間はなかった。


 それでも二人でしばらく、窓の向こうから聞こえる食器の音を聞いた。


「また食べたいです」


 エリーゼが言う。


「王宮の料理人に作らせれば、もっと立派なものができるでしょう」


「同じものにはなりません」


 あの日は、雨で身体が冷えていた。


 身分も名前も知らず、偶然同じ卓へ座った。


 同じ鍋から分けられたスープを飲み、少しずつ互いを知った。


「では、いつか」


 言いかけて、僕は口を閉じた。


 いつか。


 簡単に使える言葉ではなかった。


 エリーゼも続きを求めなかった。


「行きましょうか」


「はい」


 僕たちは再び歩き出した。


 すべての場所へ行くことはしなかった。


 舞踏会のあった屋敷も、花火を見た場所も、祭りの広場も通らない。


 思い出を数えるために、今日があるわけではない。


 夕方近くになって、海へ向かった。


 警備の都合で、人の少ない岬側の道を選ぶ。


 潮の匂いが強くなり、やがて青い海が見えた。


 最初に来た時、エリーゼは波を見るだけで目を輝かせていた。


 今日は静かに立ち、沖を進む船を見つめている。


「海は、変わりませんね」


「昨日と今日で変わったら困ります」


「そういう意味ではありません」


「分かっています」


 波が岩へ当たり、白く砕ける。


 護衛たちは、少し離れた道で待っていた。


 この距離なら、小声で話す必要はない。


 僕たちは砂浜へ下りず、岬の草地へ腰を下ろした。


 エリーゼが靴の先を揃える。


「願い帳には、まだ印のないものがあります」


「すべてかなえなくてよいのですか」


「はい」


 彼女は膝の上へ帳面を置いた。


「かなえられなかった願いも、私が何を望んだかという記録です」


「無理に印をつければ、意味が変わりますね」


「それに、今日一日で全部かなえてしまったら」


 エリーゼは青い表紙を撫でた。


「明日が来ないように、必死になっている気がします」


 僕も同じことを考えていた。


 市場から宿屋へ走り、海へ行き、思い出の場所をすべて巡る。


 そうして忙しくしていれば、別れを考えずに済んだかもしれない。


 けれど日が沈むことは止められない。


「座っているだけでも、よいですか」


 エリーゼが尋ねる。


「もちろんです」


 それからしばらく、僕たちは話さなかった。


 隣にいる。


 同じ海を見ている。


 それだけでよかった。


 風がエリーゼの髪を揺らす。


 僕が手を伸ばすより先に、彼女は自分で乱れた髪を耳へかけた。


「テオ」


「はい」


「私は、待っていてとは言えません」


 海を見たまま、エリーゼが言った。


「分かっています」


「帰れば、父へすべて話します。婚姻交渉にも向き合います」


「はい」


「どうなるかは、まだ分かりません」


 彼女の声は落ち着いていた。


 けれど、帳面を持つ指には力が入っている。


「私が望むだけで決められないこともあります。国の状況も、王家の判断も、相手の意思もある」


「マクシミリアン王子の意思も」


「はい」


 エリーゼは頷いた。


「だから、いつまで待っていてとは言えません」


「待つと約束してほしいとは?」


「思っています」


 正直な答えだった。


「でも、言えません」


 恋人なら、待っていると言うべきなのかもしれない。


 どれほど離れても、必ず迎えに行くと誓えば、美しい言葉になる。


 けれど、それを言うだけの力が今の僕にはなかった。


「僕も、必ず迎えに行くとは、今の僕には言えません」


 エリーゼの横顔が、わずかに強張る。


「僕はまだ、侯爵家の秘書です。家族を支える責任があります」


「はい」


「外交官でもなければ、アルディナ王宮へ自由に会いに行ける立場でもない」


「はい」


「明日から何をすれば、エリーゼの隣へたどり着けるのかも分かっていません」


 言葉にするたび、自分の無力さがはっきりする。


 それでも、できない約束で彼女を縛りたくなかった。


「だから、必ずとは言えません」


「分かっています」


 エリーゼは下を向いた。


「少しだけ、残念です」


「僕もです」


「そこは、必ずと言ってくださってもよかったのではありませんか」


「嘘をつかないことにしたでしょう」


「正直さが、いつも嬉しいとは限りません」


「知っています」


 エリーゼが小さく息を吐く。


「それでも、テオが約束できないことを約束しない人で、よかったと思います」


「王女として?」


「恋人としてです」


 僕は草の上へ置かれた彼女の手へ、自分の手を重ねた。


 エリーゼも指を返し、強く握る。


「一つだけ、約束できます」


「何ですか」


「エリーゼを愛したことを、後悔しません」


 彼女が顔を上げる。


「明日、別れても?」


「はい」


「会えない時間が長くなっても?」


「はい」


「この恋が、私たちの望む形にならなくても?」


 胸が痛んだ。


 それでも、目を逸らさなかった。


「それでもです」


 エリーゼの瞳に涙が浮かぶ。


「僕を愛したことを、後悔しますか」


「しません」


 返事は、すぐに返ってきた。


「苦しくなっても?」


「はい」


「僕が何もできなかったとしても?」


「それでも、しません」


 エリーゼは僕の手を両手で包んだ。


「テオを愛したことを、なかったことにはしません」


 未来を約束する言葉ではなかった。


 けれど、今までの時間を守る約束だった。


 僕たちはいつか互いを忘れるために、恋をしたのではない。


 明日離れるからといって、今日までの気持ちまで間違いにはならない。


 日が海へ近づき、光が赤く変わる。


「そろそろ戻らなければ」


 僕が言う。


「もう少しだけ」


「帰国準備が残っています」


「今だけ、王女であることを忘れても?」


「忘れない方がよいと思います」


「テオは厳しいですね」


「王女であるエリーゼを愛しているので」


 彼女が黙った。


 頬が少し赤くなる。


「そう言われると、反論できません」


「では、戻りましょう」


「その前に」


 エリーゼは膝の上にあった願い帳を、僕へ差し出した。


「これを預かってください」


 青い糸で綴じられた、小さな帳面。


「アルディナへ持って帰らないのですか」


「はい」


「大切なものでしょう」


「だから、テオに預けます」


 僕はすぐには受け取れなかった。


 そこには、亡くなった母親の言葉も、この夏の願いも、僕への気持ちも書かれている。


「失くしたらどうするのですか」


「失くさないでください」


「責任が重すぎます」


「外交文書より大切に扱ってください」


「それは当然です」


 僕が両手で受け取ると、エリーゼは表紙へ最後に一度触れた。


「これを取りに帰る理由が、私にも必要だから」


 胸の奥が熱くなる。


「帰ると約束しているように聞こえます」


「帰りたいという理由を残すだけです」


「同じでは?」


「違います」


 エリーゼは、少し寂しそうに笑った。


「帰れると決まったわけではありません。ですが、帰りたい場所があることまで諦めたくないのです」


 僕は願い帳を胸元へ抱えた。


「預かります」


「はい」


「エリーゼが取りに来るまで」


 必ずとは言わなかった。


 彼女も、必ず取りに来るとは答えなかった。


 けれど、青い帳面が僕たちの間に残った。


◇


 夜、侯爵邸へ戻ってから、僕たちは小さな応接室で最後の茶を飲んだ。


 扉の外にはクラリスと護衛がいる。


 卓の上には、砂糖壺が一つ。


「何杯ですか」


 僕が尋ねる。


「二杯にします」


「珍しいですね」


「甘すぎると、味が分からなくなりますから」


 エリーゼは自分で二杯入れ、匙でゆっくりかき混ぜた。


「テオは?」


「一杯で」


「半分ではなく?」


「朝食の時も一杯でした」


「覚えています」


 僕の紅茶へ、エリーゼが一杯だけ砂糖を入れた。


 匙がカップへ触れ、小さな音を立てる。


 会話は途切れがちだった。


 今日見た市場のこと。


 カードでアンナに負けたこと。


 焦げたパンの表面を、次はどう焼けばよいか。


 どれも明日の別れには触れない話だった。


 やがて時計が夜を告げる。


 クラリスが扉を叩いた。


「殿下。明朝は早いため、そろそろお休みください」


「はい」


 エリーゼは答えたが、立ち上がらなかった。


 僕も動けなかった。


「明日、停車場へ来ますか」


「行きます」


「傷は?」


「医師の許可を得ました」


「無理をしていませんか」


「見送りに行かない方が、無理です」


 エリーゼは視線を落とした。


「来てほしいです」


「はい」


 それだけ確認して、僕たちは立ち上がった。


 抱きしめることもできた。


 口づけをすることも。


 けれど、今は向かい合っているだけでよかった。


 今日一日、何度も彼女へ触れた。


 手をつなぎ、同じ菓子を分けた。


 それ以上の何かで、別れを遠ざけることはできない。


「おやすみなさい、テオ」


「おやすみなさい、エリーゼ」


 互いの名を、一度だけ呼んだ。


 扉が開く。


 クラリスが廊下で待っている。


 エリーゼは部屋を出る前に振り返った。


 僕もその姿を見つめた。


 まだ、別れではない。


 けれど次に会う時、僕たちを待っているのは、特別列車が出る停車場だった。


 最後の一日は終わった。僕たちはまだ、次の季節を約束する言葉を持っていなかった。

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