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君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱるめりあ
第四部「終わるはずではなかった夏」

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第28話 雨の停車場

 雨が、停車場の屋根を強く叩いていた。


 濡れた線路の上に白い蒸気が流れ、ホームの端では護衛たちが何度も周囲を確認している。


 出会った日と同じような雨だった。


 けれど今日は、彼女を迎えるためではなく、送り出すためにここへ来た。


「レイン秘書。こちらから先へは、許可された方のみです」


 セレネ側の警備員に言われ、僕は胸元の通行証を見せた。


 ホームへ入るだけでも、三度確認を受けている。


 通常の旅客は立ち入りを禁じられ、改札口には柵が設けられていた。屋根の下にも、セレネとアルディナ双方の護衛が一定の間隔で立っている。


 特別列車は、すでに一番線へ入っていた。


 濃紺の車体。


 窓の下には、小さなアルディナ王家の紋章。


 先頭の機関車から吐き出される蒸気が、雨の中へ溶けていく。


 あの列車が動けば、エリーゼは帰る。


 何度考えても、まだ実感がなかった。


「兄さん」


 アンナが僕の袖を引いた。


「傷、痛む?」


「大丈夫です」


「さっきから、ずっと同じ場所を押さえているけど」


 言われて初めて、脇腹へ手を当てていたことに気づいた。


 傷そのものは、もう強く痛まない。


 ただ、身体のどこかへ力を入れていなければ、立っていられない気がした。


「無理をしたら、王女殿下に叱られるわよ」


 母が言う。


「今日くらいは、叱られてもよいです」


「よくありません」


 母の声はいつもどおりだった。


 けれど、傘を持つ手がわずかに震えている。


 侯爵夫妻も、少し離れた場所に立っていた。


 マリアンヌ侯爵夫人は、雨で霞む列車を見つめている。隣にいる侯爵は、何も言わず彼女の肩へ手を添えていた。


 町からも、見送りのために何人かが来ている。


 宿屋の夫婦。


 祭りの補償について話した町長。


 足を痛めた老婦人は来られなかったが、代わりに家族が花を預かってきていた。


 市場の菓子店の店主も、雨除けの帽子を両手で握っている。


 柵の向こうには、新聞記者と写真師の姿があった。


 警備員に止められ、こちらへ近づくことはできない。それでも帳面を濡れないよう胸へ抱え、ホームの様子を見ている。


 昨日までなら、その視線が気になっただろう。


 今日は、どうでもよかった。


「王女殿下がお見えになります」


 護衛の声が飛ぶ。


 停車場の入口から、一行が現れた。


 先頭にローデン伯爵。


 その後ろを、濃紺の外套をまとったエリーゼが歩いてくる。


 髪は公務の時と同じように整えられていた。胸元には王家の紋章があり、雨除けの手袋まで正式な装いだった。


 クラリスと随員たちが続く。


 エリーゼは集まった人々の前へ立ち、一人ずつ顔を見た。


「このたびは、私の帰国に際し、お見送りいただきありがとうございます」


 雨音の中でも、声はよく通った。


「滞在中、皆様には多くのご厚意をいただきました。また、私のためにご迷惑とご心配をおかけしたことを、改めてお詫び申し上げます」


 王女としての挨拶だった。


 言葉は整い、姿勢も崩れない。


 僕は、その姿を以前より知っている。


 公務服を脱いだ後、肩を落として息を吐くこと。


 物音に身体が強張ること。


 甘い紅茶を飲み、卵を焦がし、カードで負けること。


 目の前にいる第一王女は、そのすべてと同じ人だった。


 町長が代表して礼を述べる。


「王女殿下の道中のご無事を、町を挙げてお祈りしております」


「ありがとうございます」


 宿屋の夫婦が前へ出る。


「また、魚のスープを食べに来てください」


 女将が言った。


 隣の主人が、慌てて肘でつつく。


「王女殿下へ、そのような言い方は」


「構いません」


 エリーゼは小さく笑った。


「忘れられない味です」


「次は、もっとよい魚を用意します」


「同じものでお願いします」


 店主夫妻は何度も頭を下げた。


 市場の菓子店主も、包みを一つ差し出した。


「道中でお召し上がりください」


「ありがとうございます」


 エリーゼは自分で受け取った。


「今度は、代金を受け取っていただけますか」


「これは見送りの品ですから」


「では、ありがたくいただきます」


 その包みの中身が、柑橘の砂糖菓子だと分かった。


 昨日、二人で半分にした味。


 甘さの後に、少しだけ苦みが残る菓子。


 エリーゼの視線が一瞬だけ僕へ向く。


 僕も、ほんのわずかに頷いた。


 それだけで、昨日の時間が二人の間へ戻った。


 次に、エリーゼは侯爵夫妻の前へ立った。


「伯母様」


 公の場だったが、その呼び方を選んだ。


 マリアンヌ侯爵夫人の顔が歪む。


「無事に帰りなさい」


「はい」


「お父様へ、きちんと自分の言葉で話すのですよ」


「はい」


「また、黙って一人で抱えないこと」


「努力します」


「そこは、約束なさい」


 どこかで聞いたようなやり取りだった。


 エリーゼも気づいたのか、少しだけ笑う。


「約束します」


 侯爵夫人はエリーゼを抱きしめた。


 王女と侯爵夫人ではなく、姪を送る伯母として。


 その間だけ、護衛も誰も止めなかった。


 身体を離した後、エリーゼは母とアンナの前へ来た。


 母は深く礼をする。


「エリーゼ王女殿下。どうか、お気をつけて」


「ありがとうございます」


 エリーゼの声が少し揺れた。


「先日は、温かく迎えてくださり、本当にありがとうございました」


「こちらこそ」


 母は顔を上げる。


「また、お会いできることを願っています」


 約束にはしない。


 それでも、昨日と同じ言葉を選んだ。


「はい」


 エリーゼは頷く。


「私も願っています」


 アンナは、何かを両手で握っていた。


「王女殿下」


「何でしょう」


「これを」


 差し出したのは、一枚の遊戯札だった。


 以前の勝負で、最後にエリーゼの手元へ残っていた札と同じ絵柄だった。


「続きを忘れないためです」


「札が一枚足りなくなりませんか」


「古い組から持ってきました」


「用意がよいですね」


「次も私が勝ちますから」


 エリーゼは札を受け取った。


「次は、負けません」


「待っています」


 アンナは笑った。


 けれど、目には涙が溜まっていた。


 エリーゼは札を胸元へ大切にしまう。


 そして、最後に僕の前へ来た。


 雨音が、急に遠くなったように感じた。


「レイン秘書」


 エリーゼが呼ぶ。


 公の場だ。


 町の人々も、護衛も、記者も見ている。


「王女殿下」


 僕も正しい呼び方を返した。


 昨日までなら、二人きりになれる瞬間があった。


 今日はない。


 このホームで交わす言葉は、すべて誰かに見られ、聞かれている。


「滞在中は、私の案内と文書の補佐を務めてくださり、ありがとうございました」


「職務を果たしたまでです」


「それだけではありません」


 エリーゼの声が、わずかに低くなる。


「貴方がいなければ、私はこの夏に知りたかったことを、何一つ知ることができませんでした」


 公の挨拶としては、少し個人的すぎる。


 ローデン伯爵がこちらを見た。


 それでも、止めなかった。


「私も、王女殿下から多くのことを学びました」


「何をですか」


「まだ言葉にできません」


 僕は正直に答えた。


「これから考えます」


「そうしてください」


 エリーゼは微笑んだ。


 目元はもう赤くなっている。


「お身体を大切に」


「王女殿下も」


「昼食を忘れないでください」


「努力します」


「約束してください」


「……約束します」


 最後まで、そこを心配するらしい。


「紅茶の砂糖は?」


「一杯で十分です」


「時々は、二杯でも」


「王女殿下がいない間に、甘党へ変えるつもりはありません」


 周囲から、小さな笑い声が起きた。


 エリーゼも笑った。


 それから、外套の陰で手を動かす。


 僕の指先へ、彼女の手袋が触れた。


 握ることはできない。


 抱きしめることも。


 ほんの一瞬、指先が重なる。


 触れていた時間は、数秒にも満たなかった。


 けれど、エリーゼが手を離した後まで、その感触が残った。


「殿下」


 ローデン伯爵が懐中時計を確認する。


「ご乗車ください」


「はい」


 エリーゼは返事をした。


 けれど、僕から目を逸らさなかった。


「王女殿下」


 僕も、ほかの言葉を探した。


 何を言っても足りない。


 愛しているとは、ここで言えない。


 行かないでとも言えない。


 昨日、言うべきことは話した。


 未来を約束できないことも。


 この恋を後悔しないことも。


 それでも、別れの前に言葉が必要だった。


「どうか、ご無事で」


 結局、出てきたのはそれだけだった。


「レイン秘書も」


 エリーゼは頭を下げた。


 第一王女として、完璧な礼だった。


 顔を上げる。


 目に溜まった涙は、まだ落ちなかった。


「さようなら」


 胸の奥へ、その言葉が深く沈んだ。


「さようなら、王女殿下」


 僕も一礼する。


 顔を上げた時、エリーゼは列車へ向かって歩き始めていた。


 クラリスが後ろへ続く。


 ローデン伯爵と護衛たちも乗車する。


 一段目。


 二段目。


 エリーゼが車両の入口で振り返った。


 僕たちの間には、もう何人もの護衛と、濡れたホームの距離がある。


 エリーゼは何か言いかけた。


 けれど声にはせず、列車の中へ入った。


 扉が閉じる。


 窓の向こうに、彼女の姿が現れた。


 硝子には雨粒が流れている。


 だが、銀白色の髪と青灰色の瞳は分かった。


 僕は窓のそばへ近づこうとした。


 すぐに護衛が片手を上げる。


「これ以上は危険です」


 発車準備が始まっている。


 僕は止まった。


 エリーゼが窓へ手を置く。


 僕も、自分の手を上げた。


 硝子と距離を隔て、二つの掌が重なる。


 触れてはいない。


 彼女の手の温度は分からない。


 それでも互いに、指の形まで確かめるように手を伸ばした。


 鋭い汽笛が鳴った。


 エリーゼの身体がわずかに震える。


 けれど、手は窓から離れなかった。


 車輪の下で、金属が軋む。


 蒸気がホームへ広がる。


「出発します!」


 駅員の声が響いた。


 列車が、ゆっくりと動き始めた。


 窓の中のエリーゼも、僕の前を少しずつ流れていく。


 僕は列車に合わせて歩いた。


 手を上げたまま。


 彼女も、窓へ掌を押し当てている。


 届かない。


 あと少しなのに、絶対に届かない。


「エリーゼ」


 小さく呼んだ。


 窓越しには聞こえない。


 列車は速度を上げていく。


 僕も歩調を速めた。


「レイン秘書、下がってください!」


 護衛の声が飛ぶ。


 けれど足を止められなかった。


 エリーゼの口が動く。


 何かを言っている。


 雨と車輪の音で聞こえない。


 僕は列車を追った。


 傷が引きつる。


 息が苦しくなる。


 けれど、窓の中の彼女から目を離せなかった。


 その時、エリーゼが窓を開けた。


 クラリスが後ろから何か言っている。


 風と雨が車内へ吹き込む。


 エリーゼは窓から身を乗り出すほどではない。


 それでも顔を外へ向け、ホームへ声を投げた。


「テオ! 王女ではなく、エリーでもなく、私が貴方を愛しています!」


 停車場中へ響いた。


 王女殿下でも、レイン秘書でもない。


 僕の名前だった。


 町の人々も。


 護衛も。


 新聞記者も。


 全員が聞いた。


 それでもエリーゼは、もう隠さなかった。


 僕の足が止まりかける。


 胸の奥で、何かが壊れた。


 身分も、周囲の目も、正しい別れの言葉も、すべて消えた。


「エリーゼ!」


 声の限り叫んだ。


 出会った日には、知らなかった名前。


 呼ぶことを拒んだ時もあった名前。


 今は、世界中に聞かれても構わなかった。


「エリーゼ!」


 列車を追って走る。


 脇腹が痛む。


 雨で足元が滑る。


 それでも何度も、彼女の本当の名前を呼んだ。


 窓の中で、エリーゼが泣いていた。


 口元が動く。


 もう一度、僕の名を呼んだように見えた。


 彼女の手が伸びる。


 僕も手を伸ばす。


 けれど、線路と車体と雨が二人の間にある。


 指先は最後まで届かなかった。


「エリーゼ!」


 列車がホームの端を過ぎる。


 僕はそれ以上、追えなかった。


 護衛に止められたのではない。


 ホームそのものが終わった。


 足元に砂利が広がり、その先には濡れた線路だけが続いている。


 特別列車は雨の中を進んでいく。


 窓辺に見えていた銀白色の髪が、小さくなる。


 やがて、車両の輪郭も蒸気と雨に霞んだ。


 最後尾の灯りが遠ざかる。


 小さな赤い点になり。


 それも、線路の先へ消えた。


 汽笛の音だけが、しばらく空に残った。


 僕は線路の前に立っていた。


 上げていた手を下ろせない。


 あの窓の向こうに、まだ彼女の掌があるような気がした。


 雨が髪から頬へ流れる。


 泣いているのかどうか、自分でも分からなかった。


「兄さん」


 背後でアンナの声がした。


 振り返ることができない。


 誰かの手が肩へ触れかけ、途中で止まった。


 慰められたくなかったわけではない。


 ただ、今は言葉を返せなかった。


 空になった線路を見つめる。


 もう列車は見えない。


 それでも、目を離せば本当に終わってしまう気がした。


「エリーゼ……」


 今度は、叫びではなかった。


 名前を口にした瞬間、息が崩れた。


 喉の奥から、自分でも知らない声が出た。


 僕は顔を覆った。


 雨の中で、初めて声を上げて泣いた。


 もう追いつけない。


 手も届かない。


 愛していると叫んでくれた人は、線路の先へ行ってしまった。


 それでも、最後に呼んだのは偽りの名前ではなかった。


 僕は何度も、彼女の本当の名前を呼んだ。


 返事のない線路へ。


 雨に消えた列車の後へ。


 そこに誰もいなくなっても、声が出なくなるまで。


 列車は彼女を連れていった。


 けれど最後に残ったのは、別れの言葉ではなかった。世界の前で叫ばれた、本当の名前と、本当の愛だった。

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