第29話 音が一つ減った屋敷
朝食の卓に、カップが一つ足りなかった。
正確には、最初から用意されていない。
それでも僕は、いつもエリーゼが座っていた席を見てしまった。
「レイン秘書。紅茶を」
「あ……ありがとうございます」
使用人からカップを受け取る。
砂糖壺は卓の中央に置かれていた。
僕は匙を一度だけ入れた。
白い粒が紅茶へ沈む。
向かいの席から、もう一杯だけ入れてはどうかと言う声は聞こえなかった。
「薄いですか?」
給仕をしていた使用人が尋ねる。
「いいえ。ちょうどよいです」
「そうですか」
使用人は一礼し、隣の席へ移った。
広い食堂では、侯爵夫妻が朝の予定について話している。
食器の触れ合う音も、椅子を引く音も、いつもと変わらない。
それなのに、静かだった。
彼女がいないだけで、世界から音が一つ減ったようだった。
エリーゼは、よく話す人ではない。
むしろ食事中は、周囲の作法を確かめるように静かにしていることが多かった。
それでも、カップへ砂糖を落とす音がした。
好みではない料理を前に、わずかに迷う間があった。
僕が昼食を忘れないよう、朝から念を押す声があった。
どれも特別な音ではない。
なくなって初めて、それが侯爵邸の日常に混じっていたことへ気づいた。
「テオ」
マリアンヌ侯爵夫人に呼ばれ、顔を上げる。
「パンを取ってもらえるかしら」
「失礼しました」
すぐ近くにある籠を、夫人の方へ寄せる。
「ありがとう」
それだけ言うと、夫人は再び夫と予定を確認し始めた。
何を考えていたのかは尋ねなかった。
気遣われていると分かるからこそ、助かった。
朝食を終え、仕事場へ向かう。
廊下の途中で、足が一度止まった。
庭へ続く扉。
以前なら、向こうからエリーゼが現れるかもしれないと思った場所だ。
淡い色の服を着ている日もあった。
公務服で、クラリスや護衛を従えて歩いてくる日もあった。
もう、どちらの姿も現れない。
扉の向こうにあるのは、朝露の残る庭だけだった。
「レイン秘書?」
後ろから書類を抱えた使用人が声をかける。
「すみません。通りますか」
「はい」
僕は道を譲った。
使用人は礼をし、急ぎ足で通り過ぎていく。
足音が廊下の奥へ消えた。
僕も仕事場へ向かった。
◇
机には、休んでいた間の書類が積まれていた。
侯爵家の支出報告。
外国商会から届いた照会。
祭りの補償に関する最終確認。
エリーゼの帰国に使われた特別列車の費用についても、セレネ側の負担分を整理する必要がある。
やるべきことは多かった。
椅子へ座り、最初の書類を開く。
数字を確認し、日付の誤りへ印をつける。
次の頁。
さらに次。
仕事をしている間だけは、余計なことを考えずに済むと思った。
けれど、机の右端に置かれた空の場所が目に入った。
そこには以前、対訳ノートが置かれていた。
エリーゼが作ったノート。
僕の机で使うようになってから、決まって右側へ置いていた。
今は引き出しの中にしまってある。
仕事に必要な時だけ取り出そうと思った。
だが、しまったことで空白の方が目立っていた。
「レイン秘書」
扉が叩かれる。
「どうぞ」
入ってきたのは、屋敷の若い使用人だった。
「王女殿下が使われていた部屋の整理について、侯爵夫人から確認が」
胸の奥が強く縮む。
「僕にですか」
「殿下が残された書類のうち、セレネ語のものをどう扱うか判断してほしいとのことです」
「分かりました。後で伺います」
「お願いいたします」
使用人は頭を下げる。
扉へ向かいかけた後、一度だけ足を止めた。
「どうしました」
「いえ」
少し迷ってから、彼は言った。
「屋敷が静かになりましたね」
「……そうですね」
「王女殿下は、廊下を走るような方ではなかったのですが」
「はい」
「不思議です」
それ以上は話さず、使用人は部屋を出た。
僕だけが感じていたのではないらしい。
けれど、屋敷の者たちは皆、普段の仕事へ戻っている。
泣き続ける者はいない。
エリーゼが使っていた部屋も整理され、食事の席も元へ戻り、公務の書類は次々に処理されていく。
日常は、誰かがいなくなったからといって止まらない。
それが残酷だとは思わなかった。
止まってしまえば、エリーゼが王女として帰国した意味まで失われる気がした。
僕も目の前の書類へ戻った。
昼食の鐘が鳴る。
反射的に、机の上を見回した。
パンは置かれていない。
当然だった。
以前、誰から届いたかも知らずに食べたパン。
あれを用意する人は、もう国境の向こうへ向かっている。
「今日は忘れません」
誰もいない部屋で呟く。
自分で立ち上がり、食堂へ向かった。
◇
午後、エリーゼが使っていた部屋へ入った。
窓は開けられ、夏の風が白いカーテンを揺らしている。
大きな荷物はすべて運び出されていた。
棚も机も、ほとんど空だ。
寝台の上には新しい覆いがかけられ、次の客を迎えられる状態へ戻りつつある。
部屋の中央に、書類箱が一つ残されていた。
「こちらです」
マリアンヌ侯爵夫人が箱を示す。
夫人自身も、姪の部屋を見回していた。
「公務に関係するものは、すべて持ち帰ったはずです。ただ、セレネで集めた資料が少し残っているの」
僕は箱の蓋を開けた。
町の地図。
市場で配られていた品物の一覧。
鉄道の時刻表。
宿屋の献立。
どれも機密とは無縁のものだった。
「旅の記録ですね」
「ええ。本人は処分してもよいと言っていたわ」
「処分するのですか」
自分でも驚くほど早く尋ねていた。
夫人は僕を見る。
「テオは、どうしたい?」
「僕が決めることではありません」
「書類として必要かどうかを聞いているの」
僕はもう一度、箱の中を見る。
エリーゼが町を知るために集めたもの。
端には、彼女自身の筆跡で短い書き込みがある。
『この通りは午後から混雑する。』
『魚のスープは雨の日に向いている。』
『市場の菓子店は、柑橘のものがよい。』
最後の一文に、指が止まった。
「記録として、しばらく保管した方がよいと思います」
「では、そのようにしましょう」
夫人は反対しなかった。
「侯爵夫人」
「何かしら」
「王女殿下は、無事に国境を越えたでしょうか」
「今朝、途中駅から電信が届いたわ。予定どおり進んでいるそうよ」
胸の奥がわずかに緩む。
「そうですか」
「ただし、それ以上の知らせはまだないわ」
「分かっています」
手紙も、個人的な電信も届いていない。
昨日別れたばかりだ。
帰国の途中で、自由に便りを出せる状況でもない。
頭では理解している。
「テオ」
夫人が、空になった机へ手を置いた。
「無理に元気でいる必要はないのよ」
「無理はしていません」
「そう」
否定も追及もしない。
「でも、仕事だけで一日を埋めないように」
「仕事は溜まっています」
「休んでいたのだから当然です。それでも、傷は治りきっていないでしょう」
「医師からも言われています」
「エリーゼにも?」
「何度も」
「なら、聞きなさい」
夫人は少しだけ笑った。
その笑顔はすぐに消えた。
「私も、姪がいなくなって寂しいわ」
初めて、はっきりそう言った。
「はい」
「でも、帰るべき場所へ帰ったのよ」
「分かっています」
「分かっていても寂しいものは、寂しいわね」
「……はい」
夫人はそれ以上言わず、部屋を出ていった。
僕は一人で、空の部屋に残った。
カーテンが風に揺れる音。
庭から聞こえる鳥の声。
以前なら、そのどれかの間にエリーゼの声があった。
今はない。
思い出そうとしているわけではなかった。
窓辺を見れば、彼女が手紙を読んでいた姿が浮かぶ。
机を見れば、対訳ノートへ書き込む横顔を思い出す。
部屋そのものが、勝手に彼女を連れてくる。
僕は書類箱を閉じた。
抱えて仕事場へ戻る。
過去の中へ留まるためではない。
彼女が見た町の記録を、消さないために。
◇
夜。
仕事を終えた後も、すぐには部屋へ戻らなかった。
机の引き出しを開ける。
青い糸の願い帳と、対訳ノートが並んでいる。
願い帳は、エリーゼが取りに戻る理由として預けたものだ。
僕が書き足すべきではない。
そっと表紙へ触れ、そのまま引き出しへ残す。
代わりに、対訳ノートを取り出した。
表紙を開く。
最初の頁には、エリーゼの整った文字で、僕の名前が書かれている。
『テオ・レイン』
その下に、外交文書でよく使われる語句。
左頁にセレネ語。
右頁にアルディナ語。
余白には、彼女が加えた短い説明がある。
『この表現は、条約本文より書簡に向いています。』
『相手国へ断る際は、こちらの方が柔らかく聞こえます。』
『テオなら、もっと自然な訳を思いつくかもしれません。』
以前は、その言葉を読むたびに、失った夢を見透かされたようで落ち着かなかった。
今は違った。
エリーゼは、僕がいつか外交文書へ自分の名を書くことを願っていた。
それをかなえると約束したわけではない。
外交官試験を受けると決めたわけでもない。
家の負債は残っている。
母とアンナを支える必要もある。
僕が今いる場所から、どの道を選べるのかは分からなかった。
それでも、分からないからといって、最初から閉じる必要はない。
僕は書棚から、大学時代に使っていた文法書を取り出した。
埃が薄く積もっている。
布で拭き、対訳ノートの横へ置く。
最初の頁を開いた。
見覚えのある文章が並んでいる。
以前なら簡単に読めたはずなのに、忘れている部分も多かった。
鉛筆を取る。
対訳ノートの余白へ、セレネ語で一語を書いた。
『再開』
少し考えて、その隣へアルディナ語の訳を添える。
エリーゼの筆跡とは違う、不格好な文字だった。
それでも消さなかった。
誰もいない仕事場で、僕はもう一度、その一語を書き直した。
今度は少しだけ、まっすぐに。
再会と書くべきところを、最初は再開と書いた。
間違いではないと思った。彼女に会う前に、まず僕自身の人生を再び始めなければならなかった。




