第30話 書けない手紙
「テオ。貴方宛てよ」
マリアンヌ侯爵夫人が、僕の机へ白い封筒を置いた。
封蝋には王家の紋章がない。
差出人の名も、表には書かれていなかった。
それでも、裏返す前から誰の手紙か分かった。
「開けても?」
「もちろん。私は運んだだけよ」
夫人は扉へ向かいかけ、振り返る。
「ただし、読み終わったら、保管場所には気をつけなさい」
「はい」
扉が閉じる。
僕はしばらく、封筒へ触れられなかった。
別れの日から、何度も便りを想像した。
無事に着いたのか。
父王と話せたのか。
王宮へ戻った彼女が、どのような日々を送っているのか。
知りたいことはいくらでもあった。
けれど、実際に手紙が届くと、開けば距離まで形になる気がした。
封を切る。
中には、数枚の便箋が入っていた。
整った筆跡。
対訳ノートと同じ、見慣れた文字だった。
『テオへ。
無事に王宮へ戻りました。
停車場でのことを思い出すと、今でも顔が熱くなります。
ですが、叫んだことを後悔してはいません。』
最初の数行だけで、胸の奥が熱くなった。
手紙の中では、王女殿下でも、レイン秘書でもない。
エリーゼとテオだった。
『父とは、到着した日の夜に話しました。
身分を隠したこと、貴方へ真実を告げるのを遅らせたこと、襲撃の後に貴方を傷つけたこと。
父は、国王として私の判断を厳しく問い、父親としては、最後まで話を聞いてくれました。』
何を言われたのか、すべては書かれていない。
エリーゼも、書ける範囲を選んでいるのだろう。
『ルシアンは、私の顔を見るなり泣きました。
その後で、なぜ自分には何も知らせなかったのかと怒りました。
私は、弟からも選ぶ権利を奪っていたのだと思います。』
王太子ルシアン。
彼女の弟。
名前と立場しか知らなかった人物が、手紙の中では姉を心配して泣き、怒る少年として書かれていた。
『翌朝には、何事もなかったように公務の予定表を持ってきました。
心配と容赦のなさは、同時に存在できるようです。』
その一文に、少し笑った。
エリーゼも、手紙を書きながら笑ったのだろうか。
そう想像してから、断定してはいけないと自分へ言い聞かせる。
最後の頁には、短くこうあった。
『テオは、昼食を忘れていませんか。
私は、朝食を焦がしていません。
そもそも、厨房へ入れてもらえていません。
エリーゼ』
僕は便箋を読み終え、もう一度最初から読み直した。
それから、すぐに返事を書いた。
『エリーゼへ。
昼食は忘れていません。
侯爵夫人と母とアンナの三人に確認されるので、忘れる方が難しくなりました。』
仕事のこと。
母が以前より頻繁に手紙を寄こすこと。
アンナが、次のカード勝負のために新しい遊び方を覚えたこと。
侯爵邸の廊下が、まだ少し静かに感じられること。
そして、勉強を再開したこと。
『外交官試験を受けると決めたわけではありません。
けれど、以前使っていた文法書を開きました。
対訳ノートにも、少しずつ書き足しています。
貴女が信じた未来を、そのまま信じられるほど強くはありません。
ただ、最初から諦めるのはやめようと思います。』
書き終えた手紙は、マリアンヌ侯爵夫人へ預けた。
王宮へ直接送るのではない。
夫人から、限られた経路を通じてエリーゼへ届けられる。
何日後に届くのかも、誰の手を経るのかも聞かなかった。
安全のために必要なことだった。
◇
それから、手紙は何通か往復した。
多くはなかった。
届く間隔も一定ではない。
それでも、白い封筒が机へ置かれるたび、離れていた日々が少しだけつながった。
『テオへ。
今日は、北部の農業報告について会議がありました。
数字ばかりの書類でしたが、現地ではその数字の分だけ生活があります。
以前の私なら、報告書を正確に処理すればよいと思っていたかもしれません。
今は、その先にいる人の食卓を想像するようになりました。』
僕は返事に、侯爵家で扱った港湾商会の文書について書いた。
『エリーゼへ。
同じ商品でも、翻訳する言葉によって受け取られ方が変わります。
正確であるだけでは足りず、相手が何を恐れているかを考えなければならない。
以前学んだことを、今になって思い出しています。』
彼女からは、ルシアンの話も届いた。
『弟は、私が手紙を書いていることに気づいています。
誰へとは尋ねませんでした。
ただ、便箋を一枚余分に置いていきました。
私たちは、言葉にしないことで相手を守ったつもりになる姉弟なのかもしれません。
今度は、きちんと話そうと思います。』
僕はアンナのことを書いた。
『アンナは、王女殿下から返事が来たのかと毎回尋ねます。
来たとだけ答えると、内容までは聞きません。
ただし、カード勝負の約束だけは忘れないよう伝えろと言っています。』
手紙の中では、離れていることを忘れられる瞬間があった。
エリーゼの公務。
僕の仕事。
王宮の朝。
侯爵邸の夜。
同じ場所にはいない。
けれど、互いの日々を少しずつ知ることができた。
ある手紙には、マクシミリアン王子のことも書かれていた。
『婚姻についての話し合いは、まだ結論に至っていません。
マクシミリアン王子は、襲撃後の混乱が収まるまで、正式な判断を急ぐべきではないと父へ申し出てくださいました。
私自身の考えを整理する時間も必要だと。
誠実な方です。
だからこそ、曖昧な態度を続けることはできないと思っています。』
僕はその部分を何度も読んだ。
安心した、とだけ書くのは違う気がした。
相手が悪人なら、僕にとって都合がよかったわけではない。
誠実な人物であるからこそ、エリーゼも正面から向き合わなければならない。
返事には、こう書いた。
『マクシミリアン王子が、貴女の意思を尊重する方でよかったと思います。
僕が言うべきことではないかもしれません。
それでも、誰か一人を悪者にしなければ選べない未来でないことに、少し安心しました。』
書いた後で、気取りすぎたように思えた。
けれど、書き直さなかった。
エリーゼへは、正しい答えではなく、今の僕が考えたことを伝えたかった。
◇
変化に気づいたのは、侯爵家へ届く新聞が増え始めた頃だった。
最初は、襲撃事件の続報だった。
外国王女の身分秘匿。
祭りでの騒動。
警備体制への批判。
僕の名前は、王女を庇った侯爵家秘書として小さく載っているだけだった。
数日後、別の新聞が夏祭りの写真を掲載した。
人混みの向こうで、エリーゼと僕が踊っている。
顔は小さい。
だが、銀白色の髪と僕の姿は見分けられた。
記事には、祭りにいた者の証言が添えられていた。
『王女殿下は、若い秘書と親しく言葉を交わしていた』
『二人は同じ菓子を分けていた』
『襲撃時、秘書は迷わず王女の前へ出た』
さらに、停車場での別れを見ていた記者の記事が出た。
見出しには、王女が僕の名を叫んだことが書かれていた。
僕がエリーゼの本名を呼びながら列車を追ったことも。
事実だった。
だからこそ、否定できなかった。
「読まない方がよいわ」
マリアンヌ侯爵夫人が、新聞を畳んだ。
「まだ、事実を並べているだけです」
「事実は、並べ方で意味を変えるのよ」
夫人の声は静かだった。
机の上には、今日届いた三紙がある。
一紙は恋物語のように書き。
一紙は王女の軽率な行動として扱い。
もう一紙は、侯爵家の秘書が身分を利用して近づいた可能性へ触れていた。
断定はしていない。
だが、疑いを残す書き方だった。
「停車場に記者がいたことは知っていました」
「ええ」
「見られていることも」
「それでも、あの場で二人とも名前を呼んだ」
「はい」
「後悔している?」
すぐに首を振った。
「していません」
「なら、それでよいわ」
夫人は新聞をまとめ、机の端へ寄せる。
「ただし、この先は二人だけの問題ではなくなるかもしれない」
その意味を、僕はまだ十分に理解していなかった。
数日後。
エリーゼから届いた封筒は、いつもより薄かった。
マリアンヌ侯爵夫人は、手渡した後も部屋を出なかった。
「読んでよいのですか」
「ええ」
「何かあったのですね」
「まず読みなさい」
僕は封を切った。
便箋は一枚だけだった。
『テオへ。
新聞の記事が、こちらにも届き始めました。
夏祭りの写真と、停車場でのことが、さまざまな言葉で書かれています。
私たちの手紙についても、存在を探ろうとする動きがあるそうです。』
指先が冷たくなる。
『父と王室の判断により、当面、個人的な手紙の交換をやめることになりました。
内容が流出すれば、貴方や侯爵家だけでなく、セレネとの関係や婚姻交渉に利用される可能性があるためです。
私自身も、その危険を否定できませんでした。』
エリーゼの気まぐれではない。
僕から離れたいからでもない。
彼女も、王女として判断に加わったのだろう。
そう理解しても、紙を持つ手の震えは止まらなかった。
『貴方へ書きたいことは、まだあります。
今日の公務のこと。
ルシアンが、また勝手に便箋を置いていったこと。
朝食のパンを、少しだけ焦がさずに焼けたこと。』
そこで一度、文字の間が広くなっている。
『貴方を忘れたのではありません。
忘れないために、今は書けないのです。』
最後に、本名があった。
『エリーゼ』
何度読んでも、その先はなかった。
「いつまでですか」
僕は尋ねた。
「分からないわ」
マリアンヌ侯爵夫人が答える。
「王室からの正式な連絡では、状況が落ち着くまで、としか」
「僕から送るのも?」
「やめた方がよいでしょう」
「侯爵夫人を通しても?」
「今は、私が介在したこと自体が問題にされかねない」
責める口調ではなかった。
けれど、続けられないことは明確だった。
「手紙を書くだけなら、誰にも危険はありません」
「送らなければね」
僕は便箋を見つめる。
「返事を渡せないと、伝えることは?」
「それも返事になるわ」
夫人の言葉は正しかった。
一通だけ。
短い言葉だけ。
そうやって例外を作れば、交換をやめたことにはならない。
「エリーゼは、これが最後になると知って書いたのですね」
「ええ」
「だから、書けないと」
「そうだと思うわ」
僕は手紙を折り直した。
封筒へ戻そうとして、やめる。
もう一度読みたかった。
夫人は僕の肩へ手を置き、すぐに離した。
「今夜は、仕事を早く切り上げなさい」
「できるか分かりません」
「命令よ」
「侯爵夫人の?」
「エリーゼの伯母としての」
それだけ言い残し、部屋を出ていった。
◇
夜。
僕は机へ白い便箋を広げた。
送れないと分かっている。
けれど、書かずにはいられなかった。
『エリーゼへ。
手紙を読みました。
僕も、交換を続ければ貴女を困らせることは分かっています。
だから、送りません。』
そこで手が止まる。
今日の仕事を書こうとした。
母とアンナのことも。
文法書を一章進めたことも。
新聞を読んでも、停車場で名前を呼んだことを後悔していないことも。
書きたいことは、いくらでもあった。
けれど、送れない手紙へ何を書けばよいのか分からなかった。
返事を求める言葉は書けない。
待っているとも、迎えに行くとも、まだ約束できない。
忘れないと書けば、彼女と同じ言葉を返すだけになる気がした。
何度か書きかけ、紙を取り替えた。
最後には、何も書かれていない便箋だけが残った。
僕は封筒を一枚取り出す。
中へ入れる手紙はない。
封蝋も使わない。
ただ表に、宛名だけを書いた。
『エリーゼへ』
その封筒を、封をしないまま机の上へ置いた。
書けないのは言葉がないからではない。約束できない未来を、美しい言葉で埋めたくなかったからだ。




