第31話 王女を誘惑した男
『王女を誘惑した没落貴族――身分差の恋か、野心か』
新聞の一面に、僕の名前があった。
『侯爵家秘書テオ・レインは、身分を伏せて滞在していたアルディナ第一王女へ意図的に接近した疑いがある。』
その下には、夏祭りで撮られた写真が載っている。
エリーゼと僕が、踊りの輪の中で向かい合っていた。
あの日、彼女は何度も僕の足を踏んだ。
僕たちは声を上げて笑った。
写真の中にも、その笑顔は残っている。
けれど記事には、こう書かれていた。
『王女の好意を利用し、将来の地位を得ようとした可能性は否定できない。』
指先に力が入り、紙が音を立てた。
「レイン秘書」
扉の外から、使用人が呼ぶ。
「どうぞ」
入ってきた彼は、さらに三紙の新聞と、紐でまとめた封書を抱えていた。
「今朝届いた分です」
「新聞は、そこへ」
「こちらの封書は?」
「侯爵家宛てですか」
「はい。すべて、レイン秘書の件についてと」
使用人は困ったように紐の束を見る。
「抗議文もございます」
「分かりました。僕が確認します」
「侯爵夫人からは、直接お渡しするようにと言われています」
「では、受け取ります」
机の上へ置かれた封書の束は、仕事の書類より厚かった。
差出人のないもの。
商会や貴族家の印があるもの。
新聞記事を切り抜き、封筒へ入れただけのもの。
すべて開く必要があるのか、迷った。
その時、屋敷の正門の方から大きな声が響いた。
「テオ・レイン氏に取材を!」
「王女殿下との関係について、一言お願いします!」
「侯爵家は、彼を解雇しないのですか!」
窓へ近づく。
鉄柵の向こうに、記者が何人も集まっていた。
雨ではない。
それでも帽子をかぶり、帳面と鉛筆を持って、門が開くのを待っている。
警備の者が押し返しても、離れようとはしなかった。
「いつからですか」
僕は使用人へ尋ねた。
「夜明け前から、二人ほど。新聞が出てから増えました」
「侯爵夫妻は?」
「裏門から外出されました。警備会議のため、王都へ」
「僕の件で?」
「詳しくは伺っておりません」
使用人は言葉を選んでいるようだった。
「母とアンナの家にも、警備を送ってください」
「すでに侯爵夫人が手配しております」
「そうですか」
安心するには早い。
記者がここへ来ているなら、家族の住所を調べる者がいても不思議ではなかった。
「何かあれば、すぐ知らせてください」
「承知しました」
使用人が退出する。
僕は机へ戻り、新しい新聞を開いた。
『出世を狙った野心家』
『王女の滞在中、案内役という立場を悪用』
『身を挺した救出も、計算された行動か』
どの記事も、断定を避ける言葉を使っている。
疑い。
可能性。
関係者の証言。
それでも、見出しだけを読めば、僕が何をした男なのかは決まっていた。
没落貴族。
侯爵家の秘書。
若い第一王女へ近づき、恋心を抱かせ、地位を得ようとした野心家。
停車場で列車を追ったことも、僕が王女へ執着していた証拠に変えられている。
『帰国する王女の特別列車を追い、繰り返し本名を叫んだ』
事実だけを切り取れば、間違ってはいない。
僕は列車を追った。
何度もエリーゼの名を叫んだ。
けれど、その前にあった時間は何も書かれていない。
雨の日の魚のスープも。
半分にした菓子も。
花火を怖がる彼女のそばで座っていた夜も。
真実を隠されたことで傷つき、扉を閉ざしたことも。
それでも彼女を知りたいと選び直したことも。
すべてが、王女を手に入れるための計算へ書き換えられていた。
新聞を畳む。
腹が立っているのか、悲しいのか、自分でも分からなかった。
僕について何を書かれても、耐えられると思っていた。
没落貴族であることは事実だ。
地位が低いことも、王女に釣り合わないことも。
けれど、エリーゼと過ごした夏まで醜い野心として扱われることには耐えられなかった。
◇
昼前、母の家へ送った護衛から連絡が届いた。
記者が三人、家の前へ来たという。
母は扉を開けず、アンナも外へ出ていない。
実害はない。
そう報告されたが、僕はすぐに馬車を出してもらった。
家へ近づくと、通りの角に記者らしい男が二人残っていた。
侯爵家の馬車に気づき、こちらへ走ってくる。
「レイン氏!」
「王女殿下との交際は事実ですか!」
「婚姻を狙っていたのですか!」
御者が速度を落とさず、家の前まで進む。
護衛が記者を遮った。
僕は馬車を降り、玄関へ入る。
扉が閉じた途端、アンナが飛び出してきた。
「兄さん」
「無事ですか」
「私たちは大丈夫。でも、外が」
「見ました」
母は居間に座っていた。
卓の上には、折り畳まれた新聞が一部ある。
「読んだのですか」
「向かいの家の方が、心配して持ってきてくださったの」
「読まなくてよかったのに」
「知らないままでいる方が怖いわ」
母は新聞へ手を置いた。
「テオ。これは本当なの?」
胸が強く縮んだ。
母が疑っているのではない。
それでも一瞬、そう聞こえた。
「どの部分ですか」
「王女殿下が、停車場であなたに愛していると叫んだこと」
「……はい」
母の表情が少しだけ緩む。
「そこは本当なのね」
「僕も、エリーゼの名前を叫びました」
「記事には、王女殿下があなたに惑わされたと書いてあります」
「それは違います」
すぐに答えた。
「エリーゼは、自分の意思で僕を愛してくれました」
「分かっています」
母は静かに頷く。
「先日、あの方から直接聞きましたから」
胸の奥に溜まっていた息が抜ける。
「なら、なぜ」
「あなたが、自分を守るために否定しすぎないか心配なの」
「どういう意味ですか」
「王女殿下を守るためなら、自分だけが勝手に恋をしたことにしそうだから」
言葉が出なかった。
アンナも、横から僕を見る。
「兄さんなら、やりそう」
「僕はそこまで」
「します」
母とアンナの声が重なった。
「記事の内容は嘘です」
僕は言った。
「僕が身分を知ったのは、襲撃の日でした。それまで王女だとは知らなかった」
「それを新聞へ話せば?」
「話せません」
母の目が細くなる。
「なぜ?」
「身分秘匿の事情や、襲撃後のことまで説明する必要が出ます」
「事実を話すだけでしょう」
「僕が何を話しても、次はエリーゼへ確認を求めます」
王女は本当に恋をしていたのか。
婚姻交渉をどうするのか。
国外で偽名を使い、平民に近い生活をしていたことを、どう考えているのか。
僕が口を開けば、彼女の言葉を求める声はさらに大きくなる。
「今、エリーゼは王女として公務へ戻っています」
僕は続けた。
「婚姻交渉もある。僕との関係を説明させれば、彼女の立場を悪くするかもしれません」
「だから、何も言わないの?」
「今は、その方がよいと思います」
「兄さんが悪く書かれても?」
「僕だけで済むなら」
母が小さく息を吐いた。
「ほら、やはり」
「ですが、母さんとアンナへまで記者が来るとは思っていませんでした」
「私たちは平気よ」
「平気ではありません」
アンナが外へ出られない。
母も、近所へ買い物に行くだけで記者につかまるかもしれない。
侯爵家には、僕を雇い続ける理由を問う抗議が届いている。
僕一人の問題ではなくなっていた。
「しばらく、侯爵邸へ移ってください」
「それはできないわ」
「安全のためです」
「記者がいるからといって、家を捨てるように逃げたくありません」
「母さん」
「護衛をつけていただいているのでしょう」
「はい」
「なら、ここにいます」
母は穏やかだが、譲るつもりはないらしい。
「ただし、アンナの学校へ影響が出るなら考えます」
「今日は休みました」
アンナが言う。
「明日も?」
「先生から、数日は家で勉強してよいと」
僕のせいで、アンナの日常まで変わっている。
「ごめんなさい」
口にすると、母が眉を寄せた。
「あなたが謝ることではないでしょう」
「でも」
「恋をしたことを謝るの?」
その言葉に、停車場の雨が戻ってきた。
エリーゼを愛したことを後悔しない。
僕たちはそう約束した。
「……いいえ」
「なら、今は謝らないで」
母は新聞を裏返した。
「この紙に書かれた人と、私の息子は別です」
アンナも頷く。
「王女殿下も、こんな記事を読んだら怒ると思う」
「読んでいるかもしれません」
「では、余計に一人で全部背負わないでください」
アンナの言葉に、返事はできなかった。
エリーゼへ手紙を書くことは禁じられている。
彼女がこの記事を読んだかどうかも分からない。
読んだとして、何を考えているのかも。
僕たちは同じ新聞に傷ついていても、それを伝え合うことすらできなかった。
◇
侯爵邸へ戻ると、マリアンヌ侯爵夫人が執務室で待っていた。
机の上には、朝より多くの封書が積まれている。
「ご家族は?」
「無事です。護衛を続けてください」
「もちろんよ」
「費用は、僕の給与から」
「その必要はありません」
「ですが」
「侯爵家の使用人と、その家族の安全を守るのは雇用主の責任です」
夫人は僕へ座るよう示した。
「こちらも、見ておいた方がよいでしょう」
差し出されたのは、ある貴族家からの書簡だった。
内容は簡潔だった。
王女との醜聞を起こした秘書を雇い続けることは、侯爵家の信用を損なう。
公的な取引を見直さざるを得ない。
言葉は丁寧だが、要求は明らかだった。
「僕を解雇してください」
読み終える前に口から出た。
マリアンヌ侯爵夫人が僕を見る。
「それが、あなたの望み?」
「侯爵家へ迷惑をかけられません」
「質問に答えて」
僕は書簡を机へ戻す。
「望みではありません」
「なら、今すぐ解雇はしません」
「しかし、このままでは」
「圧力があることは事実よ」
夫人は隠さなかった。
「取引を見直すという書簡は、これだけではありません。王都の社交界でも、我が家があなたとエリーゼの関係を意図的に作ったのではないかという噂が出ているそうよ」
「侯爵夫人は、何も」
「私は、二人が親しくなることを止めなかった」
「王女殿下の身分を知っていたのに?」
「ええ」
「なら、責任は」
「誰か一人へまとめる話ではないわ」
エリーゼと同じようなことを言う。
誰か一人を罰して終わらせれば、問題の原因は見えなくなる。
「私は事実を知っています」
夫人は続けた。
「あなたがエリーゼの身分を利用して近づいたのではないことも、正体を知った後、すぐに受け入れたわけではないことも」
「それを公表できますか」
「簡単ではないわ」
「なら、僕を雇い続けることで、侯爵家まで疑われます」
「そうね」
夫人は否定しなかった。
「だからといって、虚偽の記事に合わせてあなたを切れば、新聞が正しかったように見える」
「僕が自主的に辞めれば?」
「同じことよ」
「少なくとも、侯爵家への圧力は弱まります」
「弱まるかもしれない」
夫人の声が重くなる。
「でも、完全になくなるとは限らない。次は、あなたをどこへ逃がしたのかと書かれるでしょう」
どちらを選んでも、記事の材料になる。
「今は仕事を続けなさい」
「よいのですか」
「よいとは言っていません」
夫人は封書の束へ目を向ける。
「苦しい状況よ。侯爵にも、王都から説明を求める連絡が来ている。あなたを守ることと、家を守ることの両方を考えなければならない」
「僕のせいです」
「その言い方はやめなさい」
「ですが」
「テオ」
名前で呼ばれ、口を閉じる。
「あなたは今、自分が悪者になれば、ほかの人を守れると考えているでしょう」
見抜かれていた。
「違いますか」
「……分かりません」
「分からないなら、決めないこと」
「時間をかければ、圧力が増えるかもしれません」
「だからといって、傷つく前に自分を切り捨てないで」
胸の奥へ、その言葉が刺さった。
以前の僕なら、迷わず辞職願を書いていた。
侯爵家のため。
家族のため。
エリーゼのため。
そう理由を並べ、自分が何を失うかは考えなかっただろう。
「今日は帰りなさい」
夫人が言う。
「部屋へ戻って休むという意味ですか」
「そうよ。正門には記者がいるから、仕事場から出る必要はないわ」
「抗議文の整理が」
「私がします」
「侯爵夫人が?」
「私宛ての手紙です」
反論できなかった。
「明日、また話しましょう」
「はい」
僕は立ち上がる。
扉へ向かいかけた時、夫人の声がした。
「一人で結論を出さないで」
「努力します」
「約束して」
僕は少し迷った。
「……今日は、何も決めません」
「それでよいわ」
執務室を出る。
廊下には、正門から届く記者の声がかすかに響いていた。
「テオ・レインは説明を!」
「侯爵家は責任を取るべきだ!」
部屋へ戻る。
机の上には、封をしていない手紙が残っていた。
『エリーゼへ』
宛名だけを書いた封筒。
僕は椅子へ座り、それを手に取った。
エリーゼの立場を守りたい。
母とアンナを守りたい。
侯爵家へ迷惑をかけたくない。
僕が反論すれば、彼女にも説明を求める声が向かう。
僕が沈黙すれば、記事は事実として広がっていく。
ならば、僕が新聞の書くとおりの男だったことにすれば。
王女が騙されたのだと、僕一人が認めれば。
エリーゼも侯爵家も、被害を受けた側になれるのではないか。
そう考えた瞬間、自分でも恐ろしいほど、簡単な答えに思えた。
封筒を握る指へ力が入る。
僕一人が悪者になれば、収まるのではないか。
その考えを、すぐには手放すことができなかった。
相手を守るために、自分だけで結末を決める。
それが彼女を責めた時と同じ過ちだと気づきながらも、僕はまだ正しさの顔をした自己犠牲に縋っていた。




