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君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱるめりあ
第五部「夏のない王宮」

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第32話 僕一人の勘違い

「お久しぶりです、レイン秘書」


 ローデン伯爵は、以前より痩せて見えた。


 目の下には薄い影があり、外套の肩には長旅の埃が残っている。


「遠路、お疲れさまでした」


「今回は、疲れた顔を隠す余裕もありません」


 侯爵邸の応接室。


 窓の外には、今日も記者が集まっていた。


 門の前から届く声を遮るため、厚いカーテンが閉められている。


 卓には、マリアンヌ侯爵夫人と僕。


 向かいに、ローデン伯爵が座っていた。


 護衛や随員は部屋の外だ。


「王女殿下は、お元気ですか」


 口にしてから、今聞くべきことではなかったかと思った。


 伯爵はすぐには答えなかった。


「公務には出ておられます」


「そうですか」


「それ以上を、私の口から申し上げることはできません」


「承知しました」


 元気です、とは言わなかった。


 だからといって、何かを決めつけることもできない。


「先に確認しておきます」


 ローデン伯爵が両手を膝の上で組む。


「私は、貴殿を責めるために来たのではありません」


「では、何のために?」


「事態を収めるためです」


 伯爵は革鞄を開いた。


 中から取り出したのは、王家の印が入った書類だった。


 複数枚ある。


 その一番上だけを卓へ置く。


「アルディナ王室が準備した公式声明案です」


 紙が滑る音が、妙に大きく聞こえた。


 マリアンヌ侯爵夫人が先に手を伸ばす。


 数行読んだところで、眉間に皺が寄った。


「これは」


「最終案ではありません」


 ローデン伯爵が言う。


「レイン秘書の同意と署名がなければ、公表できない内容です」


 夫人が僕へ書類を渡した。


 受け取る。


 最初の数行は、襲撃事件に関する説明だった。


 エリーゼが安全上の理由から身分を伏せて滞在していたこと。


 僕が侯爵家の秘書として案内と文書補佐を務めたこと。


 問題は、その先にあった。


『エリーゼ王女殿下は、テオ・レイン氏に対して私的な恋愛感情を抱いた事実はない。』


 指が止まる。


 続く文章を読む。


『滞在中の親しい交流は、王女殿下の厚意と、案内役に対する信頼によるものである。』


『停車場における発言も、負傷した者への感謝と別離の感情から生じたものであり、婚姻または恋愛関係を示すものではない。』


 最後の部分だけ、書き手が変わったように見えた。


 僕自身が認める形式になっている。


『私、テオ・レインは、王女殿下のご厚意を私的な好意と誤解し、一方的に特別な関係であると思い込んでいたことを認める。』


 文章を最後まで読んだ。


 署名欄は空白だった。


「要するに」


 マリアンヌ侯爵夫人の声が低くなる。


「エリーゼには何の感情もなく、テオが一人で勘違いしていたことにするのね」


「はい」


 ローデン伯爵は否定しなかった。


「ずいぶん都合のよい話ですこと」


「王室にとっては、そうです」


「あなたは、この内容が事実だと思っているの?」


「いいえ」


 返事はすぐだった。


 僕は伯爵を見る。


「では、なぜ持ってきたのですか」


「事実ではなくとも、事態を収める力があるからです」


「私の姪が嘘をついたことになるわ」


「王女殿下ご自身の声明ではありません」


「なら、なお悪いでしょう」


 夫人の声には怒りがあった。


 ローデン伯爵は受け止めるように、少しだけ頭を下げた。


「侯爵夫人のお怒りは理解しております」


「理解していれば、こんな紙を」


「それでも、持ってくる必要がありました」


 伯爵は僕へ向き直る。


「現在、王女殿下への批判は、国外で軽率な恋愛に及んだという方向へ強まっています」


「新聞で読みました」


「貴殿への攻撃も、同時に広がっている」


「はい」


「ご家族への取材、侯爵家への圧力についても報告を受けています」


「それも承知しています」


「この声明が出れば、少なくとも王女殿下が誘惑された、あるいは王女殿下が立場を忘れて恋愛へ走ったという批判は弱まる可能性があります」


 伯爵は、利点だけを並べなかった。


「貴殿が一方的に誤解したという話へ、世論が移るでしょう」


「僕への攻撃は強まるのでは?」


「一時的には」


 正直な答えだった。


「ですが、貴殿自身が認めれば、追及する材料は減ります。ご家族への取材も、侯爵家へ説明を求める声も、今よりは弱まると考えられます」


「考えられる、ですか」


「確約はできません」


 ローデン伯爵は視線を落とした。


「新聞を止めることはできません。人々が何を信じるかも。しかし、王室として示せる物語を一つに絞ることはできます」


「物語」


 その言葉が胸に引っかかった。


 僕たちの夏は、すでに新聞の物語へ変えられている。


 没落貴族が王女を誘惑した話。


 野心家が地位を得るために近づいた話。


 今度は王室が、別の物語へ書き換えようとしている。


 王女は何も知らず、僕だけが勘違いしていた話へ。


「なぜ、エリーゼは恋愛感情がなかったと言わなければならないのですか」


 僕は紙を見たまま尋ねた。


「僕が身分を知った後も、関係が続いていたことだけを否定する方法は?」


「それでは不十分です」


 伯爵が答える。


「停車場での言葉が残っています」


『テオ、愛しています!』


 あの声を、何人もの人が聞いた。


 新聞記者も。


 町の人々も。


 僕自身も。


「感謝の言葉だったと説明するのですか」


「感情が高ぶった中での表現だった、と」


「無理があります」


「承知しています」


「それでも?」


「それでも、公式の立場が必要なのです」


 ローデン伯爵の声には、以前のような硬さだけではなかった。


 疲労が滲んでいる。


「王女殿下の言葉を、王室がなかったことにするのは容易ではありません」


「なら、しなければよいでしょう」


 マリアンヌ侯爵夫人が言う。


「姪が自分で選んだ恋です」


「その恋が、王女殿下のすべてを傷つける材料にされています」


 伯爵の声が少し強くなった。


 すぐに息を整える。


「失礼しました」


「いいえ。続けて」


「王女殿下は現在、公務の一つ一つへ説明を求められています。判断に恋愛感情が影響していないか。婚姻交渉を私情で損ねていないか。国外滞在中の行動に、ほかの問題がなかったか」


 僕は紙を握る手へ力を入れた。


「それは、僕が何も言わなくても?」


「はい」


「この声明を出せば、止まるのですか」


「すべては止まりません」


 伯爵はまた、できない約束をしなかった。


「ですが、王女殿下が恋愛関係を否定したという形を作れば、少なくとも公務と私情を切り離すことはできます」


「エリーゼ本人は、この声明を?」


「内容を知っています」


「賛成していますか」


 ローデン伯爵は黙った。


「答えられないのですか」


「王女殿下のご意向を、私が代わりに申し上げることはできません」


「では、反対している可能性もある」


「否定しません」


 胸の奥に、わずかな希望が生まれかける。


 けれど、すぐに抑えた。


 エリーゼが反対していたとしても、状況は変わらない。


 彼女の立場が危うくなっている。


 母とアンナは家から出られない。


 侯爵家へは取引を見直すという圧力が届いている。


「署名すれば、僕の家族は?」


「報道機関へ、これ以上ご家族へ接触しないよう正式に要請します」


「今も要請はできます」


「できます。すでにしています」


「効果がない」


「十分には」


 ローデン伯爵は目を伏せた。


「声明があれば、取材を続ける理由は減ります」


「侯爵家への圧力も?」


「王女殿下との関係を侯爵家が取り持ったという疑いは、弱まるでしょう」


「僕が一人で思い込んでいただけなら」


「はい」


 すべてが、僕一人へ集まる。


 王女は厚意を示しただけ。


 侯爵家は秘書を派遣しただけ。


 家族は何も知らなかった。


 僕だけが、身分違いの夢を見た。


 新聞が望む悪者とまではいかなくても、愚かな男にはなれる。


「テオ」


 マリアンヌ侯爵夫人が呼ぶ。


「すぐに決めないで」


「ですが」


「これは、あなたの名誉だけの問題ではないわ」


「分かっています」


「分かっていない」


 夫人の指が、声明文の一節を叩く。


「ここへ署名すれば、エリーゼの言葉まで否定することになる」


 僕も、そこを読んでいた。


『エリーゼ王女殿下は、テオ・レイン氏に対して私的な恋愛感情を抱いた事実はない。』


 署名するのは僕だ。


 エリーゼではない。


 それでも僕が同意すれば、彼女が停車場で叫んだ言葉を、僕自身が誤解だったと認めることになる。


 彼女が選んだ恋を。


 王女としてではなく、一人の女性として僕を愛したことを。


「彼女は、僕を愛していました」


 声にすると、喉が痛んだ。


「はい」


 ローデン伯爵が答える。


 意外だった。


「伯爵も、そう思うのですか」


「思う、ではありません」


 伯爵は僕をまっすぐ見た。


「私は、王女殿下ご本人から伺っています」


 胸が強く鳴る。


「いつ?」


「それは申し上げられません」


「何と?」


「同じです」


「では、なぜこんな声明を」


「愛していることと、守れることは同じではないからです」


 ローデン伯爵の声は静かだった。


「王女殿下は、貴殿を愛しておられる。だからこそ、この騒動によって貴殿とご家族が傷ついていることも苦しんでおられる」


「なら、僕が署名すれば」


「王女殿下が喜ばれるとは申しません」


「それでも、守れるものがある」


「可能性はあります」


 可能性。


 確実ではない。


 けれど、何もしなければ被害は続く。


「伯爵は、僕に署名してほしいのですか」


 問いかけると、ローデン伯爵はすぐには答えなかった。


 組んだ手をほどき、卓の上へ置く。


「侍従長としては、署名をいただきたい」


「個人としては?」


「お答えすべきではありません」


「ここには、僕たちしかいません」


「それでもです」


 伯爵は一度目を閉じた。


「私は、王女殿下の公的立場を守る責任があります。その責任を離れた言葉を、今ここで口にすることはできません」


 冷酷なのではない。


 自分の役割を崩せないのだ。


「この声明は、命令ではありません」


「断ることもできる?」


「できます」


「その場合は?」


「現状が続きます」


「王室は、別の声明を?」


「検討します」


「エリーゼに、恋愛感情はなかったと言わせる可能性は?」


「それについても、お答えできません」


 僕が署名しなければ、彼女自身が否定を求められるかもしれない。


 そう考えた瞬間、胸が冷たくなった。


「署名します」


「テオ」


 マリアンヌ侯爵夫人が立ち上がる。


「待ってください」


「考える時間を取りなさい」


「考えました」


「今、この場で数分でしょう」


「昨日から考えていたのです」


 自分一人が悪者になれば収まるのではないか。


 昨夜から、その考えを手放せずにいた。


「僕が認めれば、少なくともエリーゼ本人が否定する必要はなくなるかもしれない」


「かもしれない、よ」


「母とアンナへの取材も減る」


「確実ではないわ」


「侯爵家への圧力も弱まる」


「あなたが自分を切り捨てれば、私たちが楽になると思うの?」


「少なくとも、今よりは」


 夫人の顔が歪んだ。


「あなたは何も変わっていないのね」


 胸を突かれたようだった。


「変わろうとしています」


「傷つく前に諦める代わりに、今度は皆が傷つく前に自分を差し出すの?」


「同じではありません」


「形が違うだけよ」


 反論しようとした。


 けれど、言葉が出なかった。


 以前の僕なら、選ばれる可能性を信じずに退いた。


 今の僕は、エリーゼが僕を選んだことを知っている。


 それでも、その選択を自分の手で消そうとしている。


「それでも」


 僕は声明文を見る。


「何もしないよりはよいです」


「テオ」


「エリーゼは王女です」


 言いながら、胸が痛んだ。


「僕との恋のために、公務も家族も国も傷つけることを望まない」


「それを決めるのは、エリーゼでは?」


「今、彼女は自由に決められる状況ではありません」


「だから、あなたが代わりに奪うの?」


 その言葉に、息が止まった。


 エリーゼが、僕から選択権を奪った。


 僕はそれを責めた。


 今度は僕が、彼女の恋をなかったことにしようとしている。


「違います」


 そう言った声は弱かった。


「守るためです。僕一人が嘘つきになれば済む」


「エリーゼも、同じことを言ったでしょう」


 何も答えられなかった。


 ローデン伯爵は口を挟まない。


 ただ、疲れた目で僕を見ている。


「署名は、今日中でなくてもよいのですね」


 侯爵夫人が尋ねる。


「本日中にいただければ、明朝の公表に間に合います」


「数時間はある」


「はい」


「なら」


「今、書きます」


 僕は言った。


 待てば、迷う。


 迷えば、エリーゼの声を思い出す。


 愛しています、と叫んだ声を。


 願い帳へ書かれた言葉を。


 王女である私を知っても、愛してもらう。


 それを思い出せば、署名できなくなる。


 けれど、彼女を守るためには書かなければならない。


 そう思った。


 卓上のペンを取る。


 ローデン伯爵がインク壺を僕の方へ寄せた。


 その手は、わずかに震えていた。


「伯爵」


「何でしょう」


「僕を軽蔑していますか」


「いいえ」


「愚かだとは?」


「思っております」


 思わず顔を上げる。


 伯爵は真剣だった。


「貴殿も、王女殿下もです」


「両方?」


「相手を守るためなら、自分の意思を消してよいと考えるところが、よく似ておられる」


 マリアンヌ侯爵夫人が目を伏せた。


「それでも、署名を求めるのですね」


「はい」


「侍従長だから」


「はい」


 僕はペン先をインクへ浸した。


 署名欄を見る。


 テオ・レイン。


 ただ名前を書くだけだ。


 その下にある文章を、僕が認めた証として。


『私、テオ・レインは、王女殿下のご厚意を私的な好意と誤解し、一方的に特別な関係であると思い込んでいたことを認める。』


 僕一人の勘違い。


 そうすればよい。


 エリーゼは恋をしていなかった。


 停車場の言葉も、感謝だった。


 キスも、手紙も、願い帳も。


 すべて、僕が意味を取り違えただけだった。


 ペンを紙へ近づける。


 署名欄の最初の位置へ、先端を置こうとした。


 その時、廊下を走る足音が聞こえた。


 扉が強く叩かれる。


「侯爵夫人! 緊急電信です!」


 僕の手が止まる。


「入りなさい」


 マリアンヌ侯爵夫人が答える。


 使用人が息を切らして入ってきた。


 手には、細長い電信紙がある。


「アルディナ王宮より、ローデン伯爵閣下宛てです」


 伯爵が立ち上がり、紙を受け取る。


 目を走らせた瞬間、表情が変わった。


「何が?」


 侯爵夫人が尋ねる。


 ローデン伯爵は答えず、電信紙を僕たちへ向けた。


 短い文だった。


『エリーゼ王女殿下、公式記者会見へ出席。予定原稿を閉じ、自らの言葉で発言を開始。』


 ペン先は、紙へ触れる寸前で止まっていた。


 国境の向こうで彼女が選ぼうとしている言葉を、僕が先回りして消すことはできなかった。

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