第33話 私が彼を愛しました(エリーゼ視点)
――エリーゼ視点――
用意された原稿には、私の恋は存在しなかったと書かれていた。
『私は、テオ・レイン氏に対して、私的な恋愛感情を抱いた事実はございません』
その一文を目で追うたび、指先から力が抜けていく。
会見場へ入るまで、あと十分。
扉の向こうでは、新聞記者たちが席に着き始めていた。
椅子を動かす音。
紙をめくる音。
低く交わされる声。
私は控えの間で、否定原稿を両手に持っていた。
「殿下、お時間です」
王室広報官が告げる。
「もう少しだけ待ってください」
「承知いたしました」
広報官は一礼し、扉の前へ戻った。
部屋には、父とクラリスがいる。
机の上には、私が読むはずの原稿と同じものがもう一部置かれていた。
文章は慎重に作られている。
テオを野心家とは呼ばない。
彼が私を欺いたとも書かない。
ただ、私には恋愛感情がなく、彼が厚意を誤解したのだと説明する。
それだけで、私の立場は守られる。
国外で身分を忘れ、若い秘書との恋へ走った王女ではなくなる。
婚姻交渉に私情を持ち込んだという批判も、弱まるかもしれない。
けれど、そのためにはテオを、王女の微笑みを勝手に愛だと思い込んだ男にしなければならない。
「読めそうか」
父が尋ねた。
私は返事をせず、原稿を一枚めくった。
紙の端が震えている。
窓は閉まっていた。
震えているのは、私の手だった。
「ローデンは反対していました」
私は言った。
「会見そのものにではない」
「私が自分の言葉で話すことに、です」
ローデン伯爵がセレネへ向かう前、私は彼と長く話した。
あの時の声を思い出す。
『王女殿下が恋愛感情を公に認めれば、影響はお二人だけに留まりません』
彼は私を責めなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、起こり得ることを一つずつ挙げた。
マクシミリアン王子との婚姻交渉。
王室の威信。
私の公務に対する信頼。
セレネ王国との外交関係。
王女が国外の一私人と恋愛関係にあったと認めれば、あらゆる判断が私情と結びつけられる。
『殿下が真実を話せば、すべてが正しく理解されるとは限りません』
その言葉は正しかった。
私は真実を話せばよい。
その結果を引き受けるのは、私だけではない。
父も。
弟も。
王室に仕える者たちも。
そしてテオも。
『殿下がテオ・レインを愛しておられることを、私は疑っておりません』
ローデン伯爵はそう言った。
『だからこそ、公に認めることへ反対いたします』
彼は冷酷なのではなかった。
王女の恋より先に、守らなければならないものを数える役目を負っていた。
私には、その懸念を軽んじることはできない。
「ローデンの判断は、侍従長として妥当だ」
父が言う。
「はい」
「お前が原稿を読むという案にも、理由がある」
「分かっています」
「なら、何を迷っている」
私は原稿を見下ろした。
「この文章を読めば、テオが嘘をついたことになります」
「そこまでは書かれていない」
「同じです」
『彼が一方的に誤解した』
その一文が公表されれば、テオが何を言っても言い訳にされる。
私が彼の名前を呼んだことも。
私から愛していると告げたことも。
私が口づけを望んだことも。
すべて、彼の勘違いとして残る。
「テオの署名を得るため、ローデンをセレネへ向かわせたのは王室です」
「そうだ」
「彼は署名するでしょうか」
父はすぐに答えなかった。
「分からない」
「私は、すると思います」
言葉にした瞬間、胸の奥が冷たくなった。
テオは自分を守るためなら、ためらうかもしれない。
けれど、母親や妹、侯爵家、私を守れると考えたら。
自分だけが傷つけばよいと考えたら。
きっと、ペンを取る。
私が彼から選択する権利を奪った時と同じように。
守るためだと言いながら、相手の望みを自分で決めてしまう。
「父上」
「何だ」
「私は以前、テオへ真実を話しませんでした」
「聞いている」
「危険から守るためでした。初めは」
原稿の文字が滲んで見えた。
「でも途中からは、私が嫌われたくなかったからです」
父は黙って聞いている。
「私は、自分を守るために、彼が選ぶために必要なことを隠しました」
「それも聞いた」
「今度は彼の名誉を守るために、彼の恋をなかったことにしようとしています」
「お前の恋でもある」
「はい」
それでも、否定原稿を読むことはできる。
王女として必要なのだと自分へ言い聞かせれば。
テオを守るためだと思えば。
私はまた、同じ間違いを選べる。
「何を話せば、王女として責任を果たせるでしょうか」
父へ尋ねた。
答えを求めたつもりだった。
国王の命令があれば、私は従える。
原稿を読めと言われれば読む。
真実を話せと言われれば話す。
自分で選ばずに済む。
父は椅子の背から身体を離し、私を見た。
「何を話せば、王女として責任を果たせるか、自分で決めなさい」
「父上」
「私は国王だ。お前の言葉が王室へ何をもたらすか、考えずにはいられない」
父の手は、机の上で強く握られていた。
「父親としても、お前がこれ以上傷つかない道を選ばせたい」
「では」
「だが、私が答えを命じれば、お前はまた、自分で選ばなかったことになる」
父の声は低かった。
「用意された原稿を読むなら、その責任を引き受けて読みなさい。読まないなら、話した言葉が国と人へ与える影響を引き受けなさい」
逃げ道を与えてくれたわけではない。
どちらを選んでも、責任は私に残る。
「怖いです」
初めて、そう口にした。
「そうだろう」
父は否定しなかった。
「私が話せば、王室へ批判が向くかもしれません」
「ああ」
「婚姻交渉も」
「影響を受ける」
「外交上の問題にも」
「なり得る」
父の答えは、どれも厳しかった。
「それでも、自分で決めろと?」
「王女である前に、お前が選んだ言葉でなければ、責任を果たしたことにはならない」
父は立ち上がった。
私の手にある原稿へ視線を落とす。
「私は、お前の選択を何でも許すとは言わない」
「はい」
「選んだ後には、国王として問う」
「はい」
「だが、今は選びなさい」
父は私の肩へ手を置かなかった。
抱きしめることもない。
ただ、答えを奪わずに、そこに立っていた。
私は原稿を閉じた。
「決めました」
「そうか」
「父上は、会見場へ?」
「行かない」
少し驚いて顔を上げる。
「私が隣に立てば、お前の言葉が国王の命令だと思われる」
「では、一人で」
「クラリスはいる」
後ろに立っていたクラリスを見る。
彼女はいつものように表情を崩さず、一礼した。
「会見場の扉まで、お供いたします」
「中には?」
「殿下がお望みでしたら」
私は少し考えた。
「扉の近くにいてください」
「承知いたしました」
父の横を通り過ぎる。
「エリーゼ」
本名で呼ばれ、足を止めた。
「はい」
「話した後で、怖くなってもよい」
父は私を見ていた。
「だが、話している間は、誰の後ろにも隠れるな」
「はい」
私は扉へ向かった。
◇
会見場へ入ると、無数の視線が一斉に向けられた。
光が瞬く。
写真師が発光粉を使ったのだと気づくまで、一瞬遅れた。
乾いた破裂音に、肩が跳ねる。
過去の記憶が身体を強張らせた。
息を吸う。
足は止めなかった。
壇上まで歩き、用意された席へ座る。
机の上には水と、原稿を置くための台がある。
正面には、国内外の新聞記者たち。
帳面を開いている者。
すでに鉛筆を構えている者。
私の顔だけを見つめている者。
後方には、王室広報官と警護担当者。
扉のそばにクラリスが立っていた。
私は閉じた原稿を机へ置いた。
「本日は、私のセレネ滞在中の行動と、報道されているテオ・レイン氏との関係について、王女殿下よりご説明いたします」
広報官が告げる。
「ご発言の後、質問を受け付けます」
室内が静まる。
私は原稿の表紙へ手を置いた。
ここで開けば、書かれたとおりに読むことができる。
王女として用意された、正しい言葉。
私を守るための言葉。
テオを、私の人生から消す言葉。
指を離した。
原稿は閉じたままにする。
「初めに、お願いがあります」
声が震えた。
記者たちの鉛筆が、一斉に動き始める。
私は息を吸い直した。
「私を守るために、私の恋をなかったことにしないでください。そして彼の人生を、私の失敗の代償にしないでください」
誰かが顔を上げた。
広報官がわずかに動く。
私は続けた。
「現在、テオ・レイン氏が、私の身分を利用して近づいた、あるいは私を誘惑したという報道があります」
喉が渇く。
水には手を伸ばさなかった。
「その内容は、事実ではありません」
会見場の空気が変わった。
「彼は私の身分を知りませんでした。私が偽名を使い、真実を話せなかったのです」
鉛筆が紙を走る音が強くなる。
「彼はロスウェル侯爵家の秘書として、外国から来た一令嬢だと信じていた私の案内を務めました」
一人の記者が手を上げかける。
広報官が、まだ質問の時間ではないと制した。
「私は、安全上の理由から身分を隠していました。それは王室の判断を伴うものであり、必要な措置でもありました」
責任をすべて王室へ押しつけるつもりはない。
「ですが、彼へ真実を告げるのを遅らせたことは、私自身の選択です」
あの閉ざされた扉を思い出す。
『今は、その名前で呼ばないでください』
私はテオへ、そう言わせた。
「私は、身分を知られれば嫌われるかもしれないと恐れました。彼が真実を知ったうえで選ぶ機会を、私の恐れによって奪いました」
壇上で言葉にするには、あまりにも私的な過ちだった。
それでも隠せば、また同じことになる。
「襲撃の日、彼は初めて私が第一王女であると知りました」
会場の奥で、誰かが息を呑んだ。
「彼が私を庇ったのは、王女だと知って地位を得ようとしたからではありません。彼は、私の身分を知らないまま、私の前へ立ちました」
その事実だけでも、彼の名誉を守るには十分かもしれない。
けれど、それだけでは私の恋を隠すことになる。
「彼が私を誘惑したのではありません」
指先が冷たい。
机の下で、膝が震えている。
私は記者たちから目を逸らさなかった。
「私が彼を見つめました」
夏祭りの踊りの輪で、何度も彼を探した。
市場で菓子を選びながら、彼の顔を見た。
海を前にしても、隣にいる彼を確かめた。
「私が彼の名前を呼びたいと願いました」
アルノー嬢ではなく、エリーと呼んでほしいと望んだ。
テオと呼ぶことを許してほしいと頼んだ。
正体が明らかになった後も、もう一度その名を呼びたいと願った。
「私が彼へ手を伸ばしました」
机の下で触れた指。
岬でつないだ手。
列車の窓越しに、最後まで届かなかった掌。
すべて私が選んだ。
「停車場で彼の名を叫んだことも、誰かに命じられたものではありません」
あの時、周囲には何人もの人がいた。
王女らしく別れなければならないと分かっていた。
それでも、私は叫んだ。
「感謝を恋愛の言葉と取り違えたのではありません。混乱して言葉を誤ったのでもありません」
何を言うのか、すでに誰もが分かっているはずだった。
けれど、私自身の口で言わなければならない。
テオが一人で勘違いしたのではないと。
私が選んだのだと。
唇が震えた。
私は一度だけ息を吸った。
「私が、テオ・レインを愛しました。彼が私を選ぶより先に、私が彼を選びました」
鉛筆の音が止まった。
咳払いも。
椅子の軋みも。
会見場から、すべての音が消えたようだった。
胸の奥で、心臓だけが激しく鳴っている。
「この発言によって、すぐに私の望む結論を認めていただきたいと求めるものではありません」
声を保つ。
「私はアルディナの第一王女です。婚姻については、王家、国、交渉相手の方に対する責任があります」
マクシミリアン王子を、私の恋のための障害として扱うことはできない。
「私の恋愛感情だけで、すべてを決められるとは考えておりません」
王女として向き合わなければならない問題は残っている。
今日の言葉だけで、それらが消えるわけではない。
「ですが、責任があるからこそ、事実ではない説明で一人の名誉を傷つけることはできません」
閉じた原稿へ視線を落とす。
「彼は、王女を誘惑した男ではありません」
顔を上げる。
「私が彼を選びました」
また、音が戻り始める。
誰かが息を吐く。
紙の上で、鉛筆が動く。
いくつもの手が上がった。
「王女殿下、それは婚姻を望まれているという意味ですか!」
「マクシミリアン王子との交渉はどうなるのです!」
「国王陛下は、このご発言を承認されているのですか!」
「テオ・レイン氏とは現在も関係が続いているのですか!」
質問が重なった。
広報官が静粛を求める。
警護担当者が一歩前へ出る。
私は椅子から立たなかった。
原稿へも手を伸ばさない。
怖かった。
今の言葉が、どこまで広がるのか分からない。
父が国王として、私へ何を問うのかも。
婚姻交渉がどうなるのかも。
テオへ、どのような新しい批判が向かうのかも。
それでも私は、目の前の記者たちを見返した。
もう、誰かを守るという理由で、その人の選択を消さない。
王女として負うべき責任からも逃げない。
私は閉じた否定原稿の前で、静寂の向こうにいるすべての人へ、自分の選んだ言葉を渡した。
届くかどうかは分からない。それでも、今度こそ彼の答えを奪わないために、私の真実を先に差し出した。




