第34話 終わった婚姻交渉
『私が、テオ・レインを愛しました』
電信紙に打たれた一文を、僕は何度も読み返した。
文字は変わらない。
読み間違いでもない。
エリーゼは、王宮の記者会見で僕の名を口にした。
ローデン伯爵が持ってきた否定声明は、署名欄を空白のまま卓に置かれている。
僕の手には、まだインクのついたペンがあった。
「本当に……そう言ったのですか」
「電信には、そうあります」
ローデン伯爵の声にも、普段にはない揺れがあった。
マリアンヌ侯爵夫人が、彼の手から電信紙を受け取る。
「これだけでは、会見の全体が分からないわ」
「続報を待ちます」
「エリーゼは、用意された原稿を読まなかったのね」
「そのようです」
伯爵が、卓上の否定声明へ目を落とした。
僕も同じ紙を見る。
『エリーゼ王女殿下は、テオ・レイン氏に対して私的な恋愛感情を抱いた事実はない。』
つい先ほどまで、僕はその文章を認めようとしていた。
エリーゼの恋を、僕一人の勘違いに変えようとしていた。
彼女は、その反対を選んだ。
世界の前で、僕を愛したと公言した。
「止めなければ」
思わず立ち上がる。
「何をですか」
ローデン伯爵が尋ねた。
「会見を。これ以上話せば、エリーゼの立場が」
「会見場は国境の向こうです」
「分かっています」
「すでに発言はなされました」
「それも、分かっています」
分かっているのに、身体が動いた。
今から何かできるわけではない。
手紙すら送れない距離だ。
それでも、彼女が批判を引き受けている間に、僕だけが安全な部屋で座っていることに耐えられなかった。
「座りなさい、テオ」
マリアンヌ侯爵夫人が言う。
「ですが」
「今あなたが倒れれば、エリーゼの心配を増やすだけよ」
脇腹に鈍い痛みが走っていた。
僕はようやく、それに気づく。
椅子へ座り直すと、夫人は僕の前からペンを取り上げた。
「これは、もう必要ないでしょう」
ローデン伯爵が声明文を引き寄せる。
「王宮へ確認が取れるまで、公表は停止します」
「停止ではなく、撤回してください」
自分でも驚くほど強い声が出た。
伯爵は僕を見る。
「エリーゼが自分の言葉で認めたのです。僕が一人で誤解していたという声明を、もう使う理由はないでしょう」
「そのとおりです」
ローデン伯爵は静かに答えた。
「王女殿下の発言内容が正式に確認され次第、この案は撤回されます」
「正式な確認が必要なのですか」
「電信の一文だけで、王室文書を破棄することはできません」
制度を守る返答だった。
以前なら冷たく聞こえたかもしれない。
今は、彼もこの事態へ追いつこうとしているのだと分かった。
「伯爵は、エリーゼが会見へ出ることを知っていたのですか」
「知りませんでした」
「王室の侍従長なのに?」
「だからこそ、私宛てに緊急電信が届いたのでしょう」
伯爵は疲れたように額へ手を当てた。
「王女殿下は、私が反対することをご存じでした」
「反対したのですか」
「当然です」
返事に迷いはなかった。
「恋愛感情を公に認めれば、婚姻交渉、王室への信頼、外交関係のすべてへ影響します。侍従長として、賛成できるはずがありません」
「では、怒っていますか」
「はい」
「エリーゼに?」
「王女殿下と、自分自身に」
ローデン伯爵は否定声明を鞄へ戻した。
「私がセレネへ来たことで、王女殿下が自ら話す機会を作ってしまったとも言えます」
「伯爵の責任ではありません」
「そうかもしれません」
以前の彼なら、責任の所在をもっと明確にしただろう。
今は、短く息を吐いただけだった。
「それでも」
伯爵は続ける。
「王女殿下が、貴殿の名誉を守るためにご自身の立場を危うくしたことを、喜ばしいとは申しません」
「僕もです」
嬉しかった。
胸が熱くなるほど、誇らしかった。
同時に、痛かった。
エリーゼは僕を守るために、王女として受ける批判を自分へ引き寄せた。
僕が署名しようとしたのと、似ている。
けれど違う。
僕は彼女の選択を消そうとした。
エリーゼは、自分の選択を自分の名で引き受けた。
扉が再び叩かれた。
「続報です」
使用人が、数枚の電信紙を持って入ってくる。
ローデン伯爵が受け取り、上から順に読む。
「会見の要旨が届きました」
「読んでください」
伯爵は一度僕を見てから、紙へ視線を戻した。
「王女殿下は、貴殿が身分を知らなかったことを明言されています」
息を止める。
「偽名を用い、真実を告げるのを遅らせた責任は、ご自身にあると」
マリアンヌ侯爵夫人が目を閉じた。
「それから?」
「貴殿が王女殿下を誘惑したのではない、と」
伯爵の指が、紙の途中で止まる。
「『私が彼を見つめました。私が彼の名前を呼びたいと願いました』」
エリーゼの言葉が、無機質な電信文字を通して届く。
停車場で聞いた声が、耳の奥に戻ってきた。
『テオ、愛しています!』
僕は顔を伏せた。
泣きたくはなかった。
それでも、目の奥が熱くなる。
「最後に」
ローデン伯爵が読み上げる。
「すぐに婚姻を認めるよう求めるものではない、と。第一王女として、王家と国、交渉相手に対する責任があることも認められました」
その一文に、胸が少しだけ静まった。
エリーゼは、僕を選ぶために責務を捨てたのではない。
恋を認めることと、すべてを恋だけで決めることを分けている。
「否定声明は撤回します」
ローデン伯爵が言った。
「王室から正式な指示が届く前ですが、もはや内容が成立しません」
鞄から書類を取り出し、署名欄のある頁を二つに破る。
紙の裂ける音がした。
僕一人の勘違いだったという文章が、卓上で二つに分かれた。
嬉しいはずだった。
けれど、手放しでは喜べなかった。
「新聞は、これで僕を信じるでしょうか」
「少なくとも、王女殿下が恋愛感情を否定したとは書けません」
「全員が記事を訂正するとは限らない」
「はい」
伯爵は正直だった。
「王女殿下が貴殿を愛しておられることは、今度は別の批判に使われるでしょう。身分差、王室の判断、婚姻交渉への影響について」
「僕への攻撃も?」
「完全には止まりません」
名誉が回復することと、社会の全員から受け入れられることは違う。
エリーゼが真実を話したからといって、昨日の記事がすべて消えるわけではない。
けれど、僕たちの夏が野心と誘惑だけで書き換えられることはなくなった。
少なくとも、彼女自身の言葉が残った。
◇
翌朝、会見の詳しい記録が新聞に載った。
見出しは各紙で違っていた。
『第一王女、国外での恋を認める』
『王女自ら秘書への愛を公言』
『王室を揺るがす身分差の恋』
昨日まで僕を野心家と呼んでいた新聞の一つは、小さな訂正文を載せた。
『テオ・レイン氏が王女の身分を事前に把握していたとの確証はない』
謝罪ではない。
見出しに比べれば、目立たない場所だった。
別の新聞は、エリーゼの会見を勇気ある行動だと称賛した。
一方で、王女として無責任だと批判する記事もあった。
門の前の記者は、半分ほどに減った。
母の家の前からも、取材者がいなくなったと連絡が届いた。
侯爵家へ届く抗議文も、すぐには止まらなかった。
代わりに、僕を支える手紙がいくつか混じり始めた。
停車場にいた町の者。
宿屋の夫婦。
市場の店主。
短い言葉だった。
『王女殿下がご自分で選ばれたことを、私たちは見ています。』
それだけで、救われる気がした。
「テオ。少しいいかしら」
午後、マリアンヌ侯爵夫人に呼ばれた。
応接室の卓には、アルディナ王室から届いた正式文書が置かれている。
「否定声明の撤回ですか」
「それもあるわ」
夫人は文書の一枚目を渡した。
王室は、エリーゼの会見内容を公式記録として認める。
テオ・レインが身分を利用して接近したとの根拠は確認されていない。
報道機関へ、僕の家族に対する過度な取材を控えるよう改めて求める。
そこまでは、予想していた。
「次を読んで」
二枚目を開く。
マクシミリアン王子の名があった。
「婚姻交渉からの……辞退?」
「ええ」
文書には、王子側から交渉終了の申し入れがあり、アルディナ王室がそれを受け入れたと記されていた。
「会見の後ですか」
「正式な申し入れは、その日のうちに」
「エリーゼと話したのでしょうか」
「おそらく。でも、ここに書かれている以上のことは分からないわ」
僕が知ることのできるのは、正式に伝えられた内容だけだ。
王子とエリーゼがどのような顔で、何を話したのかは書かれていない。
「王子からの声明も添えられているわ」
夫人が、別の紙を差し出す。
『婚姻は、国と王家の責任を伴うものであると同時に、当事者双方の人生に関わる選択でもあります。』
端正な文章だった。
『私は、義務だけを理由に選ばれる夫にはなりたくありません。また、私自身も、相手の心を無視して国益だけで人生を決めることを望みません。』
そこで指が止まる。
『また、王女殿下が別の方を愛していると知りながら、国の都合のみで夫となることはできません。』
王子は僕に敗れたのではない。
誰かに奪われたわけでもない。
自分がどのような夫になりたいか。
どのような人生を選びたいか。
その尊厳のために、自ら交渉から退いた。
『王女殿下の誠実なご発言に敬意を表し、今後も両国の友好が損なわれないことを願います。』
最後まで、僕への非難はなかった。
「立派な方ですね」
「ええ」
マリアンヌ侯爵夫人も頷く。
「エリーゼも、そう書いていたわね」
「はい」
手紙にあった言葉を思い出す。
『誠実な方です。だからこそ、曖昧な態度を続けることはできないと思っています。』
王子も同じように、曖昧なまま交渉を続けることを拒んだ。
「これで、エリーゼとの結婚が認められたのでしょうか」
尋ねながら、そうではないと分かっていた。
「いいえ」
夫人は即座に答えた。
文書の最後の頁を開く。
そこには、国王の名で明確な線引きが記されていた。
『王女殿下の恋愛感情を事実として認めることと、王女殿下とテオ・レイン氏との婚姻を承認することは別である。』
続いて、王族の婚姻には身分、職責、外交上の影響、将来の公務に関する検討が必要だと記されている。
「国王陛下は、僕を認めていない」
「まだ判断していない、が正しいでしょうね」
「同じでは?」
「違うわ」
夫人は僕の前へ、文書をまっすぐ置いた。
「拒絶されるのが怖い人には、同じに見えるでしょうけれど」
胸を突かれる。
「エリーゼは世界の前であなたを選んだ」
「はい」
「マクシミリアン王子も、自分の人生を選んだ」
「はい」
「では、あなたは?」
僕は答えられなかった。
今までの僕は、選ばれる側でいようとしていた。
エリーゼが王女として何を決めるのか。
国王が僕を認めるのか。
侯爵家が支えてくれるのか。
自分ではどうにもならない理由を数え、拒まれる前に立ち止まろうとしていた。
「僕には、何ができますか」
「それを私に決めさせるの?」
夫人の問いは厳しかった。
「いいえ」
机の上には、王室の正式文書がある。
エリーゼの恋を認める言葉。
婚姻をまだ認めない言葉。
その間にある距離を、誰かが消してくれるわけではない。
僕は侯爵家の秘書だ。
家族を支えなければならない。
外交官ですらない。
それらは事実だった。
けれど、事実を理由に何も選ばないことと、事実を受け入れて進むことは違う。
「侯爵夫人」
「何かしら」
「外交官試験を受けたいと思います」
口にすると、身体の奥が震えた。
簡単な道ではない。
仕事を続けながら勉強する必要がある。
受けても合格できるとは限らない。
合格しても、エリーゼとの結婚が認められるわけではない。
「エリーゼに会うためだけではありません」
僕は続けた。
「以前から、外交の仕事をしたかった。家族のために大学を辞めたことを、後悔していないつもりでした」
「つもり?」
「諦めたことまで、正しい選択だったと思い込もうとしていました」
夫人は黙って聞いている。
「エリーゼが僕を選ばなかったとしても、王女ではなかったとしても、本当はもう一度学びたかったのだと思います」
「そう」
「だから、自分のために受けます」
それが今の僕に言える、精いっぱいの答えだった。
王女の隣へ立てる男になると誓うことはできない。
必ず認められるとも言えない。
ただ、自分の人生を最初から閉じないことは選べる。
「仕事の時間について、相談させてください」
「支援してほしいの?」
「特別扱いは求めません」
「給与を受け取りながら、勉強の時間だけ減らすのは特別扱いになるわ」
「その分は減額してください」
「家族への仕送りは?」
言葉に詰まる。
現実は、決意だけで動いてはくれない。
「そこも含めて、考えます」
「そうしなさい」
夫人は、すぐに助け船を出さなかった。
「ただし、受験に必要な勤務調整については、侯爵と相談します。侯爵家にも、語学に秀でた外交官が増える利点はあるもの」
「ありがとうございます」
「感謝するのは、条件を聞いてからにして」
「厳しいのですか」
「当然でしょう」
夫人はようやく、少し笑った。
僕は文書をもう一度見た。
『恋愛感情を事実として認めることと、婚姻を承認することは別である。』
道は開いたのではない。
閉じられなかっただけだ。
その先へ進めるかどうかは、まだ何も決まっていない。
それでもエリーゼが、世界の前で自分の人生を選んだのなら。
僕も、自分の人生を誰かの判断へ預けたままにはできなかった。
彼女に選ばれるだけでは足りない。僕自身が、彼女のいる未来へ進むと選ばなければならない。




