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君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱるめりあ
第五部「夏のない王宮」

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第35話 彼女が信じた未来

 願書の学歴欄で、ペンが止まった。


『最終学歴――セレネ王立大学、外交法学科中途退学』


 書き終えると、そこだけが紙の上で重く見えた。


「事実なのだから、隠す必要はないわ」


 机の向かいで、マリアンヌ侯爵夫人が言う。


「隠すつもりはありません」


「では、なぜ止まったの?」


「大学を出ていない人間が、本当に受験できるのかと思いまして」


 夫人は願書と一緒に届いた受験要項を開いた。


「大学卒業資格がなくても、所定の学力試験に合格し、二年以上の関連実務経験が認められれば受験できる。ここに書いてあるでしょう」


「学力試験を通過できれば、です」


「語学と法律なら、大学へ戻るより先に勉強を始めているではないの」


「以前学んだ内容を、かなり忘れていました」


「思い出せばよいわ」


 簡単に言われた。


 けれど、夫人が簡単に考えているわけではないことも分かっていた。


 受験要項の隣には、侯爵家での勤務記録が置かれている。


 外国商会との書簡翻訳。


 港湾契約の文書補佐。


 アルディナ王女滞在中の通訳と外交文書の作成。


 どれも僕が実際に担当した仕事だった。


「侯爵の推薦状は、どこまで影響しますか」


「身元保証だけよ」


「合否には?」


「関係させないと、担当官から明言されているわ」


 夫人は僕を見る。


「不満?」


「安心しました」


「エリーゼとの関係で合格したと思われたくない?」


「それもあります」


 僕は願書へ視線を戻した。


「僕自身が、そう思いたくありません」


 王女に愛されたから得た地位では意味がない。


 彼女に釣り合う称号を、急いで手に入れたいわけでもない。


 僕が一度諦めた道を、自分の意思で選び直したかった。


「侯爵からの推薦は、あなたが侯爵家で働いた事実を証明するものです」


 夫人が言う。


「受験資格を得た後は、自分で通りなさい」


「はい」


 僕は最後の欄へ名前を書いた。


『テオ・レイン』


 その文字は、以前より少しだけまっすぐになっていた。


◇


 朝は、屋敷の者たちが起きる前に文法書を開いた。


 昼は侯爵家の仕事をする。


 夜は法律と外交史を読み、週の終わりに母とアンナへ仕送りを届けた。


 言葉にすれば、それだけだった。


 実際には、毎日少しずつ何かを失敗した。


「レイン秘書、この数字は昨年度のものです」


 商会との打ち合わせで指摘され、書類を見直す。


「申し訳ありません」


 日付は今年になっているのに、輸送量だけ前年の表から写していた。


 昨夜、睡眠を削って学力試験の問題集を解いたせいだ。


「今日はもう帰りなさい」


 打ち合わせ後、侯爵夫人に言われた。


「まだ翻訳が二通残っています」


「その状態で訳して、明日すべて直す方が時間の無駄よ」


「問題ありません」


「今、輸送量を間違えたでしょう」


 反論できない。


「仕事を減らしていただいているのに」


「時間を減らした分、給与も減っているわ」


「承知しています」


「なら、その時間を倒れるために使わないこと」


 夫人の言い方は厳しかった。


 僕は書類を閉じる。


 屋敷の廊下を歩く途中で、昼食を取っていないことに気づいた。


 以前なら、誰かがパンを届けてくれた。


 今は自分で覚えていなければならない。


「また忘れたの?」


 その夜、母の家でアンナに言われた。


「夕方には食べました」


「それは昼食ではありません」


「勉強は進んでいるの?」


「少しずつ」


 答えながら、食卓の横へ教科書を置く。


 母がそれを見た。


「夕食の間くらい、閉じておきなさい」


「食べ終わったら、すぐ戻らないと」


「今読んでも、頭に入らないでしょう」


「試験まで時間がありません」


「試験の日に倒れたら、もっと時間がなくなるわ」


 母と侯爵夫人が同じようなことを言うようになった。


 アンナがスープを僕の前へ置く。


「今日は全部食べてください」


「食べます」


「約束?」


「約束します」


 約束という言葉へ、以前より慎重になった。


 それでも、守れることまで避ける必要はない。


 匙を取り、温かいスープを飲んだ。


 夜遅く侯爵邸へ戻り、机へ向かう。


 眠気で同じ行を三度読んだところで、本を閉じた。


 代わりに引き出しを開ける。


 対訳ノートを取り出した。


 エリーゼの筆跡と、僕が書き足した文字が並んでいる。


 頁を進めるほど、僕の文字が増えていた。


 外交書簡で使われる婉曲な断り方。


 関税の例外規定。


 同じ単語でも、条約と私信では異なる訳を選ぶこと。


 最後の頁に近づいたところで、まだ読んでいなかった文章を見つけた。


 欄外へ、小さく書かれている。


『貴方がこのページを読む頃、私は隣にいないかもしれません。


 それでも、貴方が先へ進んでくれたなら、私は自分の恋を後悔しません。』


 しばらく、その文字から目を離せなかった。


 いつ書いたのかは分からない。


 僕が外交官を目指すと決める前だ。


 彼女は、僕が必ず進むとは書いていない。


 進んでほしいと願っているだけだった。


「エリーゼ」


 呼んでも、返事はない。


 手紙の交換が止まってから、彼女の言葉を直接受け取ることはできなかった。


 けれど、過去に書かれた文字が今の僕へ届いた。


 僕は余白へ返事を書こうとした。


 やめた。


 この頁は、送れない手紙ではない。


 言葉で返す代わりに、明日の朝も机へ向かうことにした。


 文法書を閉じ、灯りを消す。


 その夜は久しぶりに、日付が変わる前に眠った。


 学力試験では、語学と歴史は通過した。


 法律の点数は、合格線をわずかに上回っただけだった。


 その結果を見た僕は安心したが、マリアンヌ侯爵夫人は違った。


「本試験までに、ここを埋めなさい」


 点数表の法律欄を指で叩く。


「合格したのですが」


「受験する資格を得ただけでしょう」


「少しくらい喜んでいただいても」


「夕食の時に喜びます。今は不足を確認しているの」


 実務経歴の審査では、侯爵家で作成した翻訳文書の写しを提出した。


 担当官からは、王女滞在中の仕事だけでなく、それ以前の商会文書についても質問された。


「アルディナ王女殿下との関係は、審査へ影響しますか」


 僕から尋ねた。


 担当官は眼鏡を上げ、淡々と答えた。


「王女殿下との私的関係を審査する試験ではありません」


「では」


「提出された文書が、あなた自身の実務によるものかを確認します」


 それだけだった。


 少し拍子抜けした。


 同時に、ありがたかった。


 ここでは、王女に愛された男ではない。


 必要な能力を持つかどうかを測られる一受験者だった。


 本試験の日。


 家を出ようとすると、母に呼び止められた。


「少し待って」


 母は古い木箱を持っていた。


「何ですか」


「お父様のものよ」


 蓋を開く。


 中には、銀色のカフリンクスが一組入っていた。


 飾りは小さく、表面に細かな傷がある。


「父の?」


「事業に失敗する前、式典や大切な商談で使っていたもの」


 母は片方を手に取り、布で軽く磨いた。


「あなたが大学へ入った頃、お父様はよく言っていたわ。テオがいつか外交の仕事へ進むなら、これを渡したいと」


「僕に?」


「ええ」


「聞いたことがありません」


「言う前に、いろいろなことが起きてしまったから」


 家の負債。


 父の失敗。


 大学を辞める決断。


 あの頃は、受け取る日が来るとは誰も思わなかったのだろう。


「どうして今日まで」


「あなたが、本当に自分でこの道を選ぶまで待っていたの」


 母が僕の袖へカフリンクスを留める。


「お父様の代わりに合格しなさい、という意味ではないわ」


「分かっています」


「王女殿下のためだけでもなく」


「はい」


「あなたが選んだ日に、使ってほしかったの」


 袖口へ、父の残した銀が収まった。


 新しいものではない。


 今の上着にも、少し古めかしく見える。


 それでも、不思議と重くはなかった。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 アンナが玄関から顔を出す。


「兄さん」


「何ですか」


「昼食を忘れないで」


「試験会場へ持っていきます」


「中身は?」


「パンと果物です」


「確認しました」


「いつの間に?」


「母さんと一緒に入れました」


 僕は鞄を開けるのをやめた。


「ありがとうございます」


「合格してから返してください」


 アンナがカフリンクスを指す。


「これは僕のものになったのでは?」


「では、落とさず帰ってきてください」


「努力します」


「約束して」


「約束します」


 本試験は二日間続いた。


 一日目は外国語の翻訳と外交法。


 二日目は情勢分析の論述と口頭試問。


 翻訳では、最後の一文の解釈に迷った。


 法律では、条約の例外規定を一つ書き落としたことに、退出後に気づいた。


 口頭試問では、相手国の要求を拒否する文案を問われた。


 僕は正しさを優先しすぎ、試験官から「その文章で相手は次の交渉へ来ると思いますか」と聞き返された。


 答えを直した。


 試験会場を出た時、合格の感触はなかった。


「どうだった?」


 家へ戻ると、アンナがすぐ尋ねた。


「分かりません」


「できたか、できなかったかです」


「できなかった部分は分かります」


「では、できた部分は?」


「……いくつかは」


「なら、結果を待ちましょう」


 母が温かい茶を差し出した。


「砂糖は?」


「一杯で」


 答えた後、少し考える。


「今日は二杯にします」


 アンナが笑った。


 結果は、まだ誰にも分からない。


 それでもその夜、僕は不合格を先回りして、自分の人生を諦めることだけはしなかった。


 封筒を開くその日まで、僕の未来はまだ決まっていない。

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