第35話 彼女が信じた未来
願書の学歴欄で、ペンが止まった。
『最終学歴――セレネ王立大学、外交法学科中途退学』
書き終えると、そこだけが紙の上で重く見えた。
「事実なのだから、隠す必要はないわ」
机の向かいで、マリアンヌ侯爵夫人が言う。
「隠すつもりはありません」
「では、なぜ止まったの?」
「大学を出ていない人間が、本当に受験できるのかと思いまして」
夫人は願書と一緒に届いた受験要項を開いた。
「大学卒業資格がなくても、所定の学力試験に合格し、二年以上の関連実務経験が認められれば受験できる。ここに書いてあるでしょう」
「学力試験を通過できれば、です」
「語学と法律なら、大学へ戻るより先に勉強を始めているではないの」
「以前学んだ内容を、かなり忘れていました」
「思い出せばよいわ」
簡単に言われた。
けれど、夫人が簡単に考えているわけではないことも分かっていた。
受験要項の隣には、侯爵家での勤務記録が置かれている。
外国商会との書簡翻訳。
港湾契約の文書補佐。
アルディナ王女滞在中の通訳と外交文書の作成。
どれも僕が実際に担当した仕事だった。
「侯爵の推薦状は、どこまで影響しますか」
「身元保証だけよ」
「合否には?」
「関係させないと、担当官から明言されているわ」
夫人は僕を見る。
「不満?」
「安心しました」
「エリーゼとの関係で合格したと思われたくない?」
「それもあります」
僕は願書へ視線を戻した。
「僕自身が、そう思いたくありません」
王女に愛されたから得た地位では意味がない。
彼女に釣り合う称号を、急いで手に入れたいわけでもない。
僕が一度諦めた道を、自分の意思で選び直したかった。
「侯爵からの推薦は、あなたが侯爵家で働いた事実を証明するものです」
夫人が言う。
「受験資格を得た後は、自分で通りなさい」
「はい」
僕は最後の欄へ名前を書いた。
『テオ・レイン』
その文字は、以前より少しだけまっすぐになっていた。
◇
朝は、屋敷の者たちが起きる前に文法書を開いた。
昼は侯爵家の仕事をする。
夜は法律と外交史を読み、週の終わりに母とアンナへ仕送りを届けた。
言葉にすれば、それだけだった。
実際には、毎日少しずつ何かを失敗した。
「レイン秘書、この数字は昨年度のものです」
商会との打ち合わせで指摘され、書類を見直す。
「申し訳ありません」
日付は今年になっているのに、輸送量だけ前年の表から写していた。
昨夜、睡眠を削って学力試験の問題集を解いたせいだ。
「今日はもう帰りなさい」
打ち合わせ後、侯爵夫人に言われた。
「まだ翻訳が二通残っています」
「その状態で訳して、明日すべて直す方が時間の無駄よ」
「問題ありません」
「今、輸送量を間違えたでしょう」
反論できない。
「仕事を減らしていただいているのに」
「時間を減らした分、給与も減っているわ」
「承知しています」
「なら、その時間を倒れるために使わないこと」
夫人の言い方は厳しかった。
僕は書類を閉じる。
屋敷の廊下を歩く途中で、昼食を取っていないことに気づいた。
以前なら、誰かがパンを届けてくれた。
今は自分で覚えていなければならない。
「また忘れたの?」
その夜、母の家でアンナに言われた。
「夕方には食べました」
「それは昼食ではありません」
「勉強は進んでいるの?」
「少しずつ」
答えながら、食卓の横へ教科書を置く。
母がそれを見た。
「夕食の間くらい、閉じておきなさい」
「食べ終わったら、すぐ戻らないと」
「今読んでも、頭に入らないでしょう」
「試験まで時間がありません」
「試験の日に倒れたら、もっと時間がなくなるわ」
母と侯爵夫人が同じようなことを言うようになった。
アンナがスープを僕の前へ置く。
「今日は全部食べてください」
「食べます」
「約束?」
「約束します」
約束という言葉へ、以前より慎重になった。
それでも、守れることまで避ける必要はない。
匙を取り、温かいスープを飲んだ。
夜遅く侯爵邸へ戻り、机へ向かう。
眠気で同じ行を三度読んだところで、本を閉じた。
代わりに引き出しを開ける。
対訳ノートを取り出した。
エリーゼの筆跡と、僕が書き足した文字が並んでいる。
頁を進めるほど、僕の文字が増えていた。
外交書簡で使われる婉曲な断り方。
関税の例外規定。
同じ単語でも、条約と私信では異なる訳を選ぶこと。
最後の頁に近づいたところで、まだ読んでいなかった文章を見つけた。
欄外へ、小さく書かれている。
『貴方がこのページを読む頃、私は隣にいないかもしれません。
それでも、貴方が先へ進んでくれたなら、私は自分の恋を後悔しません。』
しばらく、その文字から目を離せなかった。
いつ書いたのかは分からない。
僕が外交官を目指すと決める前だ。
彼女は、僕が必ず進むとは書いていない。
進んでほしいと願っているだけだった。
「エリーゼ」
呼んでも、返事はない。
手紙の交換が止まってから、彼女の言葉を直接受け取ることはできなかった。
けれど、過去に書かれた文字が今の僕へ届いた。
僕は余白へ返事を書こうとした。
やめた。
この頁は、送れない手紙ではない。
言葉で返す代わりに、明日の朝も机へ向かうことにした。
文法書を閉じ、灯りを消す。
その夜は久しぶりに、日付が変わる前に眠った。
学力試験では、語学と歴史は通過した。
法律の点数は、合格線をわずかに上回っただけだった。
その結果を見た僕は安心したが、マリアンヌ侯爵夫人は違った。
「本試験までに、ここを埋めなさい」
点数表の法律欄を指で叩く。
「合格したのですが」
「受験する資格を得ただけでしょう」
「少しくらい喜んでいただいても」
「夕食の時に喜びます。今は不足を確認しているの」
実務経歴の審査では、侯爵家で作成した翻訳文書の写しを提出した。
担当官からは、王女滞在中の仕事だけでなく、それ以前の商会文書についても質問された。
「アルディナ王女殿下との関係は、審査へ影響しますか」
僕から尋ねた。
担当官は眼鏡を上げ、淡々と答えた。
「王女殿下との私的関係を審査する試験ではありません」
「では」
「提出された文書が、あなた自身の実務によるものかを確認します」
それだけだった。
少し拍子抜けした。
同時に、ありがたかった。
ここでは、王女に愛された男ではない。
必要な能力を持つかどうかを測られる一受験者だった。
本試験の日。
家を出ようとすると、母に呼び止められた。
「少し待って」
母は古い木箱を持っていた。
「何ですか」
「お父様のものよ」
蓋を開く。
中には、銀色のカフリンクスが一組入っていた。
飾りは小さく、表面に細かな傷がある。
「父の?」
「事業に失敗する前、式典や大切な商談で使っていたもの」
母は片方を手に取り、布で軽く磨いた。
「あなたが大学へ入った頃、お父様はよく言っていたわ。テオがいつか外交の仕事へ進むなら、これを渡したいと」
「僕に?」
「ええ」
「聞いたことがありません」
「言う前に、いろいろなことが起きてしまったから」
家の負債。
父の失敗。
大学を辞める決断。
あの頃は、受け取る日が来るとは誰も思わなかったのだろう。
「どうして今日まで」
「あなたが、本当に自分でこの道を選ぶまで待っていたの」
母が僕の袖へカフリンクスを留める。
「お父様の代わりに合格しなさい、という意味ではないわ」
「分かっています」
「王女殿下のためだけでもなく」
「はい」
「あなたが選んだ日に、使ってほしかったの」
袖口へ、父の残した銀が収まった。
新しいものではない。
今の上着にも、少し古めかしく見える。
それでも、不思議と重くはなかった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
アンナが玄関から顔を出す。
「兄さん」
「何ですか」
「昼食を忘れないで」
「試験会場へ持っていきます」
「中身は?」
「パンと果物です」
「確認しました」
「いつの間に?」
「母さんと一緒に入れました」
僕は鞄を開けるのをやめた。
「ありがとうございます」
「合格してから返してください」
アンナがカフリンクスを指す。
「これは僕のものになったのでは?」
「では、落とさず帰ってきてください」
「努力します」
「約束して」
「約束します」
本試験は二日間続いた。
一日目は外国語の翻訳と外交法。
二日目は情勢分析の論述と口頭試問。
翻訳では、最後の一文の解釈に迷った。
法律では、条約の例外規定を一つ書き落としたことに、退出後に気づいた。
口頭試問では、相手国の要求を拒否する文案を問われた。
僕は正しさを優先しすぎ、試験官から「その文章で相手は次の交渉へ来ると思いますか」と聞き返された。
答えを直した。
試験会場を出た時、合格の感触はなかった。
「どうだった?」
家へ戻ると、アンナがすぐ尋ねた。
「分かりません」
「できたか、できなかったかです」
「できなかった部分は分かります」
「では、できた部分は?」
「……いくつかは」
「なら、結果を待ちましょう」
母が温かい茶を差し出した。
「砂糖は?」
「一杯で」
答えた後、少し考える。
「今日は二杯にします」
アンナが笑った。
結果は、まだ誰にも分からない。
それでもその夜、僕は不合格を先回りして、自分の人生を諦めることだけはしなかった。
封筒を開くその日まで、僕の未来はまだ決まっていない。




