第36話 自分で選んだ道
外交官になれると知った日より、外交官になろうと決めた日からの方が長かった。
結果通知が届くまでの三週間、僕は普段の仕事へ戻った。
朝、郵便物が運び込まれるたびに顔を上げた。侯爵家宛ての商会文書だと分かると安堵し、同時に落胆した。
夜には、試験で答えられなかった問題を対訳ノートへ書き出した。
不合格だった場合に備え、次の試験までに学び直す項目を整理する。
合格していると信じきることはできなかった。
それでも、結果を見る前から自分には無理だったと決めることだけはしなかった。
三週間目の午後、外国商会へ送る書簡を清書していると、扉が叩かれた。
「レイン秘書。王国外交院から書留が届いております」
差し出された封筒を見た瞬間、指からペンが滑りそうになった。
侯爵夫妻も、同じ執務室にいた。
「開けなさい」
マリアンヌ侯爵夫人が言う。
「一人で読みたいのですが」
「ここまで勤務時間を調整したのだから、結果くらいは一緒に待たせなさい」
封を切る。
最初の一行を読む。
文字が頭へ入らず、初めから読み直した。
『テオ・レイン殿。
貴殿を、セレネ王国外交官採用試験の合格者として認定する。』
息を吸った。
続きの文章が滲んで見えた。
「テオ?」
夫人に呼ばれ、ようやく声を出す。
「……合格しました」
侯爵が僕の肩へ手を置いた。
「そうか。よくやった」
「ありがとうございます」
「これでようやく、外交院で学ぶ資格を得たわけだな」
「はい」
「先は長いが、今日は入口へ立てたことを喜べばよい」
その言葉を聞いた途端、張りつめていた力が抜けた。
僕は通知を握ったまま、深く頭を下げた。
合格後、すぐに国外へ派遣されたわけではなかった。
春から始まった外交院の研修は、半年間続いた。
午前は外交儀礼と国際法。
午後は公文書の作成と翻訳。
着席順を一つ誤れば、相手国への敬意の示し方が変わる。国王名の書簡と外相名の書簡では、同じ謝意でも使う言葉が異なった。
夏になっても、僕は王都の研修室にいた。
アルディナ語の発音訓練では、日常会話で身につけた癖を何度も直された。
「意味は通じます」
指導官は言った。
「ですが、公式の場では、発音一つから教育歴や滞在地域まで推測されます」
「そこまで意識する必要があるのですか」
「外交官は、自分が口にした以上のことまで相手に読まれる仕事です」
秋には、法務部門の実務補助へ回された。
条約原文と翻訳を照合し、数字や地名、船舶名を一つずつ確認する。
一文字の誤りが、商船一隻分の関税へ影響することもあった。
研修を終えた冬、僕は港湾交渉を扱う国内使節団へ配属された。
会議では発言を許されず、記録を取る。
宿舎へ戻って議事録を清書すると、翌朝には修正の赤線で頁が埋まっていた。
春が来ても、僕の仕事は地味なままだった。
先任書記官が作成した文案を照合し、会議資料を運び、相手国の官職名を確認する。
以前の僕なら、能力が足りない証拠だと思ったかもしれない。
今は、直された箇所を対訳ノートへ書き写した。
エリーゼの文字の後ろへ、僕が実際の仕事で学んだ言葉が増えていった。
◇
夏が過ぎた。
彼女と別れた停車場の雨から、すでに一年が経っていた。
手紙は送れないままだった。
それでも僕は、朝には仕事へ向かい、夜には次の日の文書を読み返した。
秋の終わり、外交院の廊下へ国外派遣の人員表が掲示された。
僕は上から順に名前を追った。
『アルディナ王国派遣使節団
書記官 テオ・レイン』
その文字の前で、しばらく動けなかった。
使節団の中では、僕は最も経験の浅い書記官の一人だった。
希望先としてアルディナの名は書いた。
だが、希望だけで決まったわけではない。
語学試験の成績、研修記録、港湾交渉の実務経験をもとにした配属だと説明された。
王女の名は、どの書類にもなかった。
それでよかった。
別離から一年半。
冬の朝、僕はセレネを発った。
母から借りた父のカフリンクスを留め、対訳ノートと青い願い帳を鞄の奥へ入れた。
願い帳は、預かった時のままだ。
エリーゼが取りに来るまで、僕が書き足すことはしなかった。
国境を越える頃、窓の外には雪が見え始めた。
夏の海とは違う、白く静かな景色だった。
列車は内陸へ進み、いくつもの町を通り過ぎる。
終着のアルディナ王都へ到着した時、空は薄い灰色だった。
ホームへ降りる。
吐いた息が白くなる。
使節団の荷物が運び出され、上官から宿舎までの指示が飛ぶ。
僕も書記官として返事をし、鞄を持った。
停車場の外へ出る。
冬の街路の先、屋根の向こうに王宮の尖塔が見えた。
あそこにエリーゼがいる。
会えるとは、まだ決まっていない。
会えたとしても、以前と同じように名前を呼べるわけではない。
僕は王女の恋人として来たのではなかった。
セレネ王国使節団の、一人の若い書記官として立っている。
冷たい風が外套を揺らす。
遠くの王宮を見上げたまま、鞄の持ち手を握った。
ここまで来た。
誰かに運ばれたのではない。
僕自身が選んだ道を歩いて、ここまで来たのだ。
彼女に会うためだけではない。
彼女の前で、自分の人生を選んだ男として、もう一度名乗るために。




