第37話 エリーゼ王女殿下
王宮へ向かう馬車の中で、僕は自分の名を三度、声に出さず繰り返した。
テオ・レイン。
セレネ王国使節団書記官。
今日は、それ以外の何者でもない。
「緊張しているのか」
向かいに座る使節団長が尋ねた。
「はい」
「正直だな」
「アルディナ王宮へ入るのは初めてですので」
嘘ではなかった。
ただ、緊張の理由をすべて話していないだけだ。
馬車の窓から、冬の王都が流れていく。
石造りの建物には薄く雪が積もり、通りを歩く人々は厚い外套へ身を包んでいた。
遠くに見えていた王宮の尖塔が、少しずつ近づく。
あの中にエリーゼがいる。
そう考えるたび、胸の奥が強く鳴った。
けれど、彼女へ会いに来たのではない。
セレネ王国の使節団は、港湾と鉄道輸送に関する協議のために招かれた。
僕の仕事は、会談の記録、文書の照合、必要に応じた通訳補佐だ。
王女の恋人として認められたわけでもない。
一年半前の関係が、今も同じ形で続いていると確認できたわけでもなかった。
「書記官」
「はい」
「謁見では、求められない限り発言しなくてよい。紹介されたら名乗り、礼を取る。それだけだ」
「承知しています」
「なら、肩の力を抜け。国王陛下の前で倒れられては困る」
「倒れません」
返事をしながら、自分の手を見る。
手袋の下には、父のカフリンクスが留められていた。
袖口に隠れ、外からはほとんど見えない。
それでも、指で触れなくてもそこにあると分かった。
王宮の正門をくぐる。
馬車が速度を落とした。
窓の外に、濃紺の制服を着た近衛兵が並んでいる。
夏のセレネで見た護衛とは違う。
ここでは、エリーゼを守る制度そのものが、建物と人の配置になって目の前にあった。
馬車を降りる。
冷たい空気が頬へ触れた。
「セレネ王国使節団の皆様、こちらへ」
王宮の案内役に従い、大階段を上がる。
磨かれた石床。
高い天井。
壁には歴代国王の肖像画と、アルディナ各地方の風景を描いた絵が並んでいた。
絵の中には、夏にエリーゼから説明を聞いた土地もある。
けれど、あの頃の僕は彼女の国をほとんど知らなかった。
今は、輸送路や産業、法制度を資料の上では学んでいる。
それでも、実際の王宮へ立つと、自分の知識が紙の上のものでしかなかったと分かった。
謁見の間へ入る前、控えの広間で最終確認が行われた。
団長が上着の襟を直し、先任書記官が文書箱の封印を確認する。
僕は人員名簿を開き、紹介される順番をもう一度見た。
使節団長。
副使。
顧問官。
先任書記官。
そして、テオ・レイン。
名前は最後に近かった。
当然だ。
外交院を出てから、まだ一年にも満たない。
国外使節団へ加えられたこと自体、語学能力と港湾実務の経験によるものだ。
「レイン書記官」
王宮の儀典官に呼ばれる。
「はい」
「王女殿下は本日の謁見へ同席されます」
一瞬、呼吸が止まりかけた。
「承知しました」
「ご面識がおありだと伺っています」
「セレネご滞在中に、侯爵家の秘書としてご案内を務めました」
「では、通常の礼式で問題ありません」
「はい」
通常の礼式。
それ以外を選ぶ余地はない。
僕たちが停車場で互いの名を叫んだことは、この国でも知られている。
エリーゼが記者会見で僕への愛を公言したことも、公式記録に残っている。
だからといって、王宮で私的な関係が許されるわけではなかった。
恋を認めることと、婚姻を認めることは別。
国王の声明に書かれていた言葉を思い出す。
扉の向こうから、杖で床を打つ音がした。
「セレネ王国使節団、ご入場」
大扉が開く。
使節団長を先頭に、僕たちは謁見の間へ入った。
赤い絨毯の先に、アウグスト国王がいる。
その右側に王太子ルシアン。
左側に、第一王女。
僕の視線は、最初からそこへ向かいそうになった。
すぐに正面へ戻す。
国王の前まで進み、全員で礼を取った。
使節団長がセレネ国王からの挨拶を伝える。
アウグスト国王が、低く落ち着いた声で応じた。
正式な言葉が交わされている間、僕は顔を上げない。
許可が出てから、ようやく姿勢を戻した。
その時、初めてエリーゼを見た。
一年半ぶりだった。
銀白色の髪は高くまとめられ、青い宝石の髪飾りが留められている。
濃い青の正装には、アルディナ王家の紋章と勲章。
立ち姿には、一分の隙もなかった。
夏のセレネでも、彼女は公務の時には凛としていた。
けれど、目の前の第一王女は、あの頃よりさらに静かだった。
周囲の動きや使節団の顔を、一人ずつ確かめている。
儀典官が進行を告げる前に視線を動かすこともなく、発言者へ身体の向きをわずかに変えるだけで、場の中心に立っていた。
頬の線が少し大人びたように見える。
表情から、私的な感情は何も読み取れなかった。
完璧な王女の微笑みだった。
僕の知っている少女を探すべきではないと思った。
彼女はこの一年半を、僕の知らない場所で生きた。
父王との対話。
記者会見。
婚姻交渉の終了。
王女としての日々。
手紙でわずかに知ったことはあっても、その後の時間を僕は見ていない。
僕が勉強し、試験を受け、研修をしていた間、彼女も同じ場所へ留まっていたわけではなかった。
「使節団の方々をご紹介いたします」
儀典官の声が響く。
一人ずつ名が呼ばれる。
団長が前へ出る。
副使。
顧問官。
先任書記官。
順番が近づくほど、心臓の音が大きくなった。
「使節団書記官、テオ・レイン殿」
一歩前へ出る。
国王と王族の前で礼を取る。
顔を上げた時、エリーゼと目が合った。
雨の停車場が浮かんだ。
窓越しに伸ばされた手。
動き出した列車。
届かなかった指先。
次に、夏の海が見えた。
岬の草地で、青い願い帳を預かった時のこと。
記憶は一瞬で押し寄せた。
けれど、目の前にあるのは冬の王宮だった。
僕は訓練で教えられたとおり、声の高さと速さを整えた。
「セレネ王国使節団書記官、テオ・レインです」
自分の名が、謁見の間へ響く。
一年半前、停車場で叫んだ時とは違う。
今日は、役職と責任を伴う名だった。
エリーゼは僕を見た。
目が合っていた時間は、礼式を外れないほど短かった。
「ようこそ、レイン書記官」
穏やかで、よく通る声だった。
「アルディナ王国は、セレネ王国使節団の皆様を歓迎いたします」
「お迎えいただき、光栄に存じます。エリーゼ王女殿下」
その呼び方を口にする。
エリーゼ。
けれど、以前のように名前だけでは呼べない。
王女殿下という称号が、二人の間へ正しく置かれる。
彼女の表情は変わらなかった。
僕も礼を崩さなかった。
儀典官が次の人物を呼ぶ。
僕は一歩下がり、列へ戻った。
それだけだった。
一年半待った再会は、名乗りと歓迎の言葉だけで終わった。
けれど、声を聞いた。
彼女の目を見た。
同じ場所に立っている。
胸の奥に喜びはあった。
同じくらい、痛みもあった。
会えれば以前へ戻れると、どこかで考えていたのかもしれない。
だが、僕は侯爵家の秘書ではなくなった。
彼女も、セレネで普通の選択を知ろうとしていた十九歳の少女のままではない。
夏に恋人だった二人が、冬の王宮で同じ名前を呼べば、それだけで続きへ戻れるわけではなかった。
謁見の後半では、使節団長が港湾輸送に関する国書を渡した。
エリーゼは王太子とともに文書を確認し、今後の協議への期待を述べる。
鉄道と港を結ぶ新たな輸送計画は、彼女の担当分野でもあるらしい。
説明する言葉は簡潔で、数字や地域名にも迷いがない。
僕が知らない一年半は、目の前の彼女の声や所作に残っていた。
それを寂しいと思うだけではいけない。
僕自身も、彼女の知らない時間を生きた。
試験に落ちることを恐れながら願書を書いたこと。
父のカフリンクスをつけて試験会場へ入ったこと。
何度も文書を修正され、赤い線を対訳ノートへ写したこと。
そのどれも、エリーゼは知らない。
僕たちは互いに、空白になった一年半を持っている。
昔の関係へ戻るのではなく、その空白を知るところから始めなければならないのだろう。
けれど、それを始められるかどうかさえ、まだ分からなかった。
「本日の謁見は、以上となります」
儀典官が告げる。
使節団はそろって礼を取った。
国王と王族が退場する。
僕たちは通路を空け、頭を下げたまま待つ。
衣擦れの音が近づいた。
最初に国王。
続いて王太子。
その後を、エリーゼが歩いてくる。
僕のすぐ横を通る。
視線を上げることは許されていた。
それでも、僕は正面だけを見た。
淡い香りが、一瞬だけ通り過ぎた。
足音は止まらない。
私的な言葉も、合図もなかった。
エリーゼ王女殿下は、使節団の書記官である僕の横を通り過ぎていく。
名前を呼べば、届く距離だった。
けれど僕は、彼女を呼び止めることができなかった。
一年半ぶりの再会は、名前ではなく、互いの肩書を守る沈黙から始まった。




