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君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱるめりあ
第六部「二度目の恋」

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第38話 エリーはもういません

 冬の庭園には、海の音がなかった。


 雪の残る小道を踏むたび、靴の下で乾いた音がする。


 夏の岬では風が髪を揺らし、波が沈黙を埋めてくれた。


 今、僕たちの間にあるのは、冷たい空気と、言葉を待つ静けさだけだった。


「お時間は、二十分です」


 庭園の入口でクラリスが言った。


「承知しました」


 僕が答えると、彼女はエリーゼへ視線を向ける。


「私は入口におります。何かございましたら、お呼びください」


「ありがとう、クラリス」


 エリーゼは濃紺の外套をまとい、王家の紋章を胸元につけていた。


 公務の合間に庭へ出てきたのだろう。


 銀白色の髪はきちんとまとめられ、手には革の手袋。


 夏の海辺で見た、淡い色の服を着た少女の姿とは重ならなかった。


「お招きいただき、ありがとうございます。王女殿下」


 僕は礼を取った。


「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます。レイン書記官」


 数日前の謁見と同じ呼び方だった。


 周囲に人はいない。


 それでも、どちらも名前だけでは呼ばなかった。


「少し歩きませんか」


「はい」


 僕たちは並んで小道を進んだ。


 距離は、腕を伸ばしても触れないほど空いている。


 庭木の枝には雪が残り、花壇の大半は土だけになっていた。


 硝子張りの温室だけが、曇った壁の向こうに緑を抱えている。


「アルディナの冬はいかがですか」


 エリーゼが尋ねる。


「寒さには、まだ慣れません」


「セレネより冷えますから」


「ですが、建物の中は暖かいですね」


「王宮は、特に」


 会話は途切れた。


 天候について話すために、ここへ呼ばれたのではない。


 それでも、何から始めればよいのか分からなかった。


「使節団のお仕事は?」


「昨日から、輸送資料の照合へ入っています」


「鉄道側の数字に、不明な点はありませんでしたか」


「いくつか。午後の会議で確認する予定です」


「そうですか」


 エリーゼは前を向いたまま頷く。


 公務の話なら、いくらでも続けられそうだった。


 けれど、それだけでは今日ここへ来た意味がない。


「王女殿下」


 僕が呼ぶと、彼女の歩みが止まった。


「はい」


「先日の謁見では、ご挨拶しかできませんでした」


「公式の場でしたから」


「今日も、王宮の中です」


「ええ」


「それでも、二人で話す機会をいただいたのは」


「私からお願いしました」


 エリーゼが振り返る。


 完璧な微笑みはなかった。


 代わりに、少し強張った表情があった。


「お伝えしておかなければならないことがあります」


「伺います」


 エリーゼはすぐには話さなかった。


 手袋をした指が、外套の前で重なる。


「貴方が愛したエリーは、もういません」


 息が止まった。


「私は王女へ戻りました」


 風が庭木を揺らし、枝から雪が落ちる。


 白い塊が地面で崩れた。


「その言葉は」


「聞いたままの意味です」


 エリーゼの声は静かだった。


「セレネで過ごした夏の私は、王女であることから少しだけ離れていました。偽名を使い、誰にも知られずに市場を歩き、海を見ました」


「はい」


「料理もしました」


「焦げた朝食でした」


 思わず言うと、エリーゼの口元がわずかに動いた。


 笑いかけたように見えたが、すぐに消える。


「失敗した朝食を作る余裕も、今はほとんどありません」


「厨房へ入れてもらえないからですか」


「それもあります」


 エリーゼは雪の残る花壇へ視線を落とした。


「帰国後、私が恋を公に認めたことで、王室の中には強く反対する者もいました」


 僕は口を挟まず、続きを待った。


「王女が国外で一私人へ恋をしたことを、軽率だと見る者もいます。会見で個人的な感情を語ったことが、王室の威信を損ねたと言われたこともあります」


「新聞で、一部は読みました」


「新聞に出ていないこともあります」


 声に苦しさはあった。


 けれど、被害を訴えるような言い方ではなかった。


「マクシミリアン王子との交渉が終わったことで、別の縁談を急ぐべきだという意見も出ました」


「現在も?」


「正式な交渉はありません」


 エリーゼは僕を見る。


「ただ、私が誰を愛しているかを公にしたからといって、王女としての婚姻問題が消えたわけではありません」


「分かっています」


「本当に?」


 問い返す声が、少し鋭くなった。


「恋を認められたことと、貴方との未来を認められたことは違います」


「はい」


「王女の立場を捨てるつもりもありません」


「それも承知しています」


「なら」


 エリーゼは言葉を止めた。


 青灰色の瞳が、僕の顔を確かめるように動く。


「なぜ、ここへ来たのですか」


「使節団の任務です」


「それだけですか」


 答えを急がなかった。


 アルディナを希望先に書いた。


 彼女のいる国だと知っていた。


 再会を望まなかったと言えば嘘になる。


 けれど、それだけで一年半を歩いたわけではない。


「王女殿下に会いたいと思っていました」


 正直に言う。


「ですが、会うためだけに外交官になったのではありません」


「そうですか」


「信じられませんか」


「分かりません」


 エリーゼの返事も正直だった。


「私は、貴方がこの国へ来たと知った時、嬉しかったです」


 胸の奥が強く鳴る。


「同時に、怖くなりました」


「何がですか」


「貴方が会いたいと思っていたのは、記憶の中のエリーではないかと」


 彼女は自分の胸元へ手を置いた。


「海を見て喜び、菓子を半分にして、貴方の家族とカードをした私です」


「それも貴女です」


「過去の私です」


「過去であっても、別人ではありません」


「ですが、同じでもありません」


 エリーゼははっきりと言った。


「この一年半で、私は多くのことを決めました。間違えたこともあります。王室の中で反対されても、公務を続けました」


 声に、以前にはなかった硬さがある。


「私の判断で、誰かの要望を退けたこともあります。国民から批判を受ける政策へ署名したことも」


「はい」


「貴方の知っている私は、好きな菓子を一つ選ぶだけで喜んでいた」


「それは今も変わりませんか」


 エリーゼは少し黙った。


「今は、選んだ菓子がどこの商会のものかまで考えます」


「王女殿下らしいですね」


「そういうところです」


「何がでしょう」


「貴方は、まだ優しい言葉で受け止めようとする」


 責められているのかもしれない。


 けれど、声の奥にあるものを勝手に決めることはできなかった。


「私は以前より、扱いにくい人間になりました」


「以前も、十分に扱いにくい方でした」


 エリーゼが目を見開く。


「失礼ではありませんか」


「申し訳ありません」


「謝るなら、言わなければよいのです」


「ですが、事実です」


「どのあたりが?」


「紅茶の砂糖を増やした理由を認めないところや、カードで負けても記録がないと言い張るところです」


 エリーゼの唇が震えた。


 今度は、はっきり笑った。


 短い笑いだった。


 すぐに視線を落とす。


「そういう話をされると、戻れるような気がしてしまいます」


「戻りたいのですか」


 尋ねると、彼女は首を横へ振った。


「戻ることはできません」


「戻りたくない?」


「それも分かりません」


 彼女は歩き出した。


 僕も隣へ並ぶ。


 雪の上へ、二人分の足跡が続く。


「私は、海辺の少女へ戻れないことを悲しいと思う時があります」


 エリーゼが言う。


「でも、あの夏を繰り返すために王女である今を捨てることはできません」


「捨ててほしいとは思っていません」


「貴方がそう言うことは知っています」


「では、なぜ」


「言葉だけでは、まだ信じきれないからです」


 胸に痛みが走った。


 けれど、責めることはできなかった。


 一年半、僕たちは互いの日々を知らない。


 僕が変わったことを、願書や合格通知だけで証明できるわけではない。


「貴方は、夏の私を愛してくれました」


「はい」


「公開会見の後も、その記憶を支えに努力したのでしょう」


「支えにはなりました」


「なら、今の私を見て失望するかもしれません」


 エリーゼは立ち止まった。


「私は、貴方の望む王女ではないかもしれない」


「僕が望む王女とは?」


「貴方へ会うためなら、何でも捨てられる女性」


「そんなことを望んだことはありません」


「記憶の中では、望んでいなくても」


 言葉を返しかけて、やめた。


 否定するだけなら簡単だ。


 僕は貴女のすべてを愛している。


 何が変わっても同じだ。


 そう言えば、彼女を安心させられるかもしれない。


 だが、それは今の彼女をまだ知らない僕が言う言葉ではなかった。


 謁見で見た王女。


 今日聞いた批判や判断。


 それだけで、一年半を理解したことにはならない。


「なら、今の貴女を知るところから始めます」


 エリーゼが顔を上げた。


「……何を?」


「今の王女殿下を」


「貴方が愛した人とは違うかもしれません」


「違うところを知ります」


「知った結果、もう愛せないと思うかもしれません」


「その可能性も、僕が選ぶことです」


 エリーゼの瞳が揺れた。


「以前の僕は、結果を知る前に諦めました」


「はい」


「王女殿下も、僕が離れると決めつけて真実を隠した」


「……はい」


「同じことを、もう一度する必要はありません」


 彼女が外套の前で手を握る。


「私は、王女としての私を知ってほしいと言いながら、嫌われるのが怖いのです」


「僕も、知った後で拒まれるのは怖いです」


「外交官になっても?」


「外交官は、恐怖を感じなくなる職業ではありません」


 エリーゼはまた、かすかに笑った。


「以前より、少し話し方が変わりました」


「研修で何度も直されました」


「そうではなく」


 彼女は続きを言わなかった。


「王女殿下も変わりました」


「どこが?」


「まだ、それを説明できるほど知りません」


「正直ですね」


「嘘をつかないことにしたので」


 エリーゼの視線が僕へ戻る。


 夏に何度か交わした言葉だった。


 けれど、名前を呼ぶことはなかった。


「王女としての私を知れば、貴方と意見が違うこともあります」


「当然だと思います」


「セレネに不利な判断をすることも」


「その時は、書記官として反対します」


「私が不快になるかもしれません」


「僕も、不快にさせられるかもしれません」


「それでも?」


「それを知るために来ました」


 エリーゼは黙った。


 風が外套の裾を揺らす。


 遠くで王宮の鐘が鳴った。


 二十分の終わりを知らせるものではない。


 それでも、入口にいるクラリスが懐中時計を確認する姿が見えた。


「そろそろ戻らなければなりません」


 エリーゼが言う。


「はい」


「午後の会議で、お会いします」


「公務として」


「ええ」


 彼女は数歩進み、また足を止めた。


「レイン書記官」


「はい、王女殿下」


「今日のような時間を、もう一度いただいてもよいでしょうか」


 それは恋人としての約束ではなかった。


 夏へ戻るためでもない。


 互いの知らない一年半を、少しずつ埋めるための次の会話だった。


「喜んで」


「では、日程はクラリスを通して」


「承知しました」


 礼を取る。


 エリーゼも王女として頷いた。


 距離は残ったままだった。


 名前も呼ばない。


 手にも触れない。


 それでも僕たちは、過去へ戻るのではなく、今の相手を知るために、次の時間を選んだ。


 エリーが消えたのではない。


 僕がまだ、エリーゼの中にいる彼女まで見つけられていないだけだった。

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