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君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱるめりあ
第六部「二度目の恋」

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第39話 今度は、私が案内します

「セレネでは、貴方に多くの場所を案内していただきました」


 エリーゼは、王宮の長い回廊の入口でそう言った。


「今日は、私の番です。レイン書記官」


 窓の外では、朝から降っていた雪がようやく止み始めている。


 僕は礼を取った。


「光栄です、王女殿下」


「ただし、観光客へお見せする場所ではありません」


「では、何を?」


「今の私が、日々を過ごしている場所を」


 エリーゼの後ろにはクラリスがいる。


 さらに少し離れて、王宮の護衛が二人。


 二人きりではない。


 今日の時間も、王宮の許可を得た正式なものだった。


 それでも、謁見でも会議でもなく、エリーゼ自身が僕を招いた時間だった。


「参りましょう」


「はい」


 僕たちは並んで歩き始めた。


 セレネでは、僕が彼女の半歩前を歩くことが多かった。


 道を知っているのが僕だったからだ。


 今日は違う。


 王宮の曲がり角を知っているのはエリーゼで、僕は彼女の案内に従う。


「この回廊は、王族の居住区と執務区画をつないでいます」


「長いですね」


「雨の日でも、外へ出ずに移動できるよう作られたそうです」


「雪の日ではなく?」


「建てられた時代は、今より雨が多かったと記録にあります」


 壁には、歴代の王族を描いた肖像画が並んでいる。


 どの人物も正面を向き、重い衣装をまとっていた。


「毎日、ここを通られるのですか」


「少なくとも二度は」


「これだけ多くの方に見られながら?」


 僕が肖像画へ視線を向けると、エリーゼも足を緩めた。


「子どもの頃は、叱られているようで苦手でした」


「今は?」


「見慣れました」


 少し間がある。


「……疲れている時は、今でも目を合わせないように歩きます」


 王女の返答ではなく、エリーゼ自身の言葉に聞こえた。


「それは、今日もですか」


「今日は見ています」


「僕がいるから?」


「案内役が俯いていては、不自然でしょう」


 整った答えだった。


 けれど、最後のところで彼女の視線がわずかに逸れた。


 僕は追及しなかった。


 回廊の途中にある扉の前で、エリーゼが立ち止まる。


「ここは図書室です」


 中へ入ると、高い天井まで書棚が続いていた。


 窓際の机には数冊の本と、書き込みのある地図が広げられている。


「王宮にも図書室があるのですね」


「王立図書館ほど大きくはありません。王室の記録や、公務に必要な資料が中心です」


「よく利用されるのですか」


「以前よりは」


 エリーゼは一つの机へ近づいた。


「ルシアンと、週に二度ここで資料を読みます」


「王太子殿下と?」


「はい。以前は、私が先に要点をまとめて渡していました」


「今は違うのですか」


「同じ資料を別々に読みます。その後で、互いの考えを話すようにしています」


「時間がかかりそうですね」


「とても」


 エリーゼは小さく息を吐いた。


「ルシアンは、分からないところがあっても、私が先に答えると不機嫌になります」


「ご自分で考えたいのでしょう」


「分かっています」


「それでも、先に答えたくなる?」


「……はい」


 素直な返事だった。


「間違えそうだと、特に」


「では、どうされるのですか」


「本当に危険な場合だけ止めます。それ以外は、間違えた理由を後で一緒に確認します」


「以前の王女殿下なら、最初から正しい答えを渡していたかもしれませんね」


「そうでしょうね」


 彼女は否定しなかった。


「その方が早いですから」


「今は、早さより大切なものがある?」


「そう思うようになりました」


 窓辺に積もった雪へ、冬の日差しが反射している。


 エリーゼはその光を見つめた。


「人を守ることと、その人の代わりに生きることは違うのだと」


 僕たちの間に、短い沈黙が落ちた。


 一年半前なら、その言葉を聞いて胸が痛んだだろう。


 今は、彼女がその違いを自分の日々の中で学んできたことが分かった。


「王太子殿下は、王女殿下が変わられたと感じているでしょうか」


「どうでしょう」


「尋ねたことは?」


「ありません」


「怖いですか」


「少し」


 エリーゼは机の上の本を閉じた。


「よくなったと言われるとは限りませんから」


「僕も、研修後に母から、以前より理屈っぽくなったと言われました」


「それは、以前からでは?」


「母も同じことを言いました」


 エリーゼが声を立てずに笑う。


 王女の微笑みではない。


 けれど、すぐに図書室の扉が開いた。


「姉上?」


 入ってきたのは、ルシアン王太子だった。


 僕はすぐに姿勢を正し、礼を取る。


「王太子殿下」


「セレネの……レイン書記官ですね」


「はい。テオ・レインと申します」


 ルシアン王太子は、僕の顔を確かめるように見た。


「新聞より、普通の方に見えます」


「ルシアン」


 エリーゼの声が低くなる。


「失礼でしたか」


「とても」


「では、謝ります」


 王太子は僕へ向き直った。


「申し訳ありません、レイン書記官」


「お気になさらないでください」


「新聞には、もっと野心的な顔で描かれていました」


「謝罪の後へ、追加しないでください」


 エリーゼが額へ手を当てる。


 ルシアン王太子は、ようやく少し笑った。


「姉上が王宮をご案内するのは珍しいですね」


「以前、セレネを案内していただきましたから」


「今度は姉上が?」


「そうです」


「では、あの場所も?」


 王太子の問いに、エリーゼの表情がわずかに固まった。


「どの場所ですか」


「母上の」


「今日は、そこまでは」


 言葉を止める。


 ルシアン王太子は姉を見た後、それ以上続けなかった。


「失礼しました。私は本を取りに来ただけです」


「午後の資料は読みましたか」


「これからです」


「会議まで一時間しかありません」


「分かっています」


「要点だけでも」


 エリーゼが言いかけ、口を閉じた。


 少しの間の後、机の上から一冊を選び、弟へ渡す。


「この章が、今日の議題に関係します」


「答えは?」


「書いてありません」


「姉上の考えです」


「会議で聞かせてください」


 ルシアン王太子が不満そうに本を受け取る。


 それでも、もう尋ねなかった。


「では、後ほど」


「遅れないように」


「姉上も、案内を楽しんでください」


 王太子は僕へ軽く会釈し、図書室を出ていった。


 扉が閉まる。


「弟君は、王女殿下をよく見ておられますね」


「何を言われるか分からないので、緊張します」


「新聞より普通だと言っていただけました」


「喜ぶところではありません」


「少なくとも、野心家には見えなかったようです」


「今度会った時には、もっと礼儀を教えておきます」


「王女殿下が答えまで教えないようにお気をつけください」


 エリーゼが僕を見る。


「意地が悪くなりましたね、レイン書記官」


「以前からです」


「それは私の言葉です」


 図書室を出る。


 次に案内されたのは、王宮の西側にある細い回廊だった。


 人通りは少なく、窓の外には雪に覆われた中庭が見える。


「ここは、公的な場所ではありません」


「入ってよいのですか」


「王族と許可を受けた者だけです」


 エリーゼは歩みを緩めた。


「会議の後、少しだけ一人になりたい時に通ります」


「庭へ出るのではなく?」


「冬は寒いので」


「現実的ですね」


「王女が毎回雪の中へ出ていたら、クラリスに叱られます」


 後ろからクラリスの声がする。


「叱る前に、外套をご用意いたします」


「結局、止めてはくれないのですね」


「殿下がお決めになることですから」


 エリーゼが少し驚いたように振り返る。


 クラリスは何事もなかったように歩いている。


「皆、以前より答えをくれなくなりました」


「王女殿下が、ご自分で決めたいと仰るからでは?」


「決めたいことと、迷わないことは別です」


「迷った時は?」


「この回廊を歩きます」


 足音が石床へ静かに響く。


「ここで、何を考えるのですか」


「言わなければならないことと、言ってはいけないことを」


「答えは出ますか」


「出ないこともあります」


「その場合は?」


「もう一往復します」


 回廊の先に、細い扉があった。


 エリーゼが開ける。


 冷たい風が流れ込み、僕は思わず目を細めた。


 扉の向こうは、王宮の一角に作られた小さなテラスだった。


 眼下に、アルディナ王都が広がっている。


 雪を被った屋根。


 煙を上げる煙突。


 遠くを走る鉄道の線路。


「ここから、王都を見るのが好きなのですか」


「好きというより、確認します」


「何を?」


「私が判断したことの先に、人がいることを」


 エリーゼは石の手すりへ近づいた。


「書類を読んでいると、数字だけに見える時があります」


 王女としての言葉だった。


 けれど、声は少し疲れていた。


「ここから見える方々が、王女殿下の判断を知っているとは限りません」


「はい」


「感謝されないことも」


「多いです」


「批判されることも?」


「あります」


「それでも、ここへ来るのですか」


 エリーゼは王都を見下ろしたまま頷いた。


「見えなくしたくないので」


 海辺の少女へ戻れないと、彼女は言った。


 その理由が少し分かった。


 夏のエリーは、自分が選べなかったものを知ろうとしていた。


 今のエリーゼは、自分の選択によって動く他人の生活を、見失わないようにしている。


「王女殿下」


「何でしょう」


「僕が知らなかった場所ばかりです」


「退屈ですか」


「いいえ」


「市場も海もありません」


「その代わり、王女殿下がどこで迷っているのかを知ることができました」


 彼女がこちらを見る。


「迷っているところばかりですね」


「迷わない方を案内していただいても、今の貴女を知ったことにはなりません」


「失望しませんでしたか」


「まだ、失望できるほど知っていません」


「もう少し優しく答えてください」


「今日だけでは足りない、という意味です」


 エリーゼの青灰色の瞳が、わずかに見開かれる。


「まだ足りませんか」


「はい」


「王宮は広いですからね」


「建物の話ではありません」


 口にしてから、少し強すぎたかと思った。


 けれどエリーゼは目を逸らさなかった。


「では、何の話ですか」


「王女殿下が、この一年半をどのように過ごされたのか」


 冷たい風が、彼女の外套の裾を揺らす。


「今日、少しだけ知ることができました」


「少しだけ?」


「ルシアン王太子へ答えを渡さないことが、王女殿下にとって簡単ではないこと」


 エリーゼは黙る。


「疲れた時、肖像画に見られないよう歩くこと」


「それは忘れてください」


「もう覚えました」


「やはり、案内するのではありませんでした」


「後悔されていますか」


「少しだけ」


 彼女の口元が緩む。


 僕も笑った。


 風が強くなり、テラスの床へ残っていた粉雪が舞い上がった。


「中へ戻りましょう」


 エリーゼが扉へ向かう。


 その途中、薄く凍った石の上で靴が滑った。


「王女殿下」


 反射的に手を伸ばす。


 彼女の手を取り、もう片方の腕で肩を支えた。


 身体が触れそうな距離で止まる。


 手袋越しに、指が強く握られた。


「お怪我は?」


「ありません」


 エリーゼの声が近い。


 一年半前なら、すぐに名前を呼んでいた。


 今は、互いの呼吸が聞こえる距離にいても、王女殿下と書記官だった。


「足元を確認してください」


「案内役の私が転びかけるとは思いませんでした」


「案内役も転びます」


「貴方は、セレネで転びませんでした」


「海へ落ちかけました」


「それは私のせいではありません」


「王女殿下が魚を捕まえようとされたからです」


「捕まえました」


「偶然です」


「結果がすべてです」


 言い合いながら、僕たちは姿勢を戻した。


 エリーゼの手は、まだ僕の手の中にある。


 どちらが先に気づいたのかは分からない。


 指の力が同時に緩んだ。


 手を離す。


 手袋をしていたのに、離れた後の方が手のひらを冷たく感じた。


「ありがとうございました、レイン書記官」


「当然のことです、王女殿下」


 また正しい距離へ戻る。


 クラリスは近づいてきたが、何も言わなかった。


 僕たちは回廊へ戻った。


 案内の最後は、冬庭園だった。


 雪の庭の中央に、小さな温室が建っている。


 中へ入ると、湿った土と緑の匂いがした。


 冬でも咲く白い花が、窓辺に並んでいる。


「ここだけは、少しセレネに似ています」


 エリーゼが言う。


「どこがですか」


「季節を忘れられるところが」


「セレネでは、夏でした」


「ええ」


 彼女は白い花へ指を近づける。


 触れることはせず、その形を確かめるように見た。


「私は、貴方が王宮を見て、どう思うのか知りたかったのです」


「どう思うとは?」


「息苦しいと感じるか」


「正直に申し上げても?」


「そのために案内しました」


「礼式が多く、道が分かりにくいです」


「ほかには?」


「肖像画が多い」


「それは聞きました」


「ですが」


 僕は温室の外に見える王宮を振り返った。


「ここが貴女を閉じ込めているだけの場所だとは、思わなくなりました」


 エリーゼの指が止まる。


「以前は、そう思っていたのですか」


「少しだけ」


「私を救い出したいと?」


「そこまでは」


「本当に?」


「僕は、自分が貴女をどこへ連れ出せるのかさえ分かっていませんでした」


 夏の終わり。


 帰ってほしくないと伝えた。


 けれど、王女である彼女の人生を理解していたわけではない。


「今日、分かったことがあります」


「何ですか」


「貴女は、この王宮で生きている」


 逃げる場所としてではない。


 誰かに決められた檻としてだけでもない。


 迷いながら、ここで自分の役割を選んでいる。


「だから僕は、この場所にいる貴女を知らなければならない」


 告白ではない。


 未来を約束する言葉でもない。


 今のエリーゼを知ると決めた、その続きを口にしただけだった。


「今日だけでは、まだ足りません」


 エリーゼはしばらく黙っていた。


 やがて、少し困ったように笑う。


「王宮の案内は、これで終わりです」


「では、次は?」


「次は……」


 彼女は僕を見る。


「貴方の一年半を聞かせてください」


「僕の?」


「試験のことも、研修のことも、手紙には書かれていませんでした」


 手紙の交換が禁じられた後。


 僕がどのような夜を過ごし、どのようにここまで来たのかを、エリーゼは知らない。


「立派な話ばかりではありません」


「今日の私は、立派な場所ばかりをお見せしましたか」


「いいえ」


「では、お互いさまです」


 クラリスが懐中時計を確認する。


「殿下。次のご予定のお時間です」


「分かりました」


 エリーゼは白い花から手を離した。


「日程は、クラリスを通してお知らせします」


「承知しました、王女殿下」


「今度は、私が聞く番です」


「はい」


 温室を出る。


 外の雪は止んでいた。


 僕たちの足跡が、白い庭の上へ別々に続いていく。


 まだ、隣り合ってはいない。


 それでも次は、彼女が知らない僕の一年半を話す。


 夏の続きを取り戻すためではなく。


 冬の王宮で出会った今の二人として、もう一度互いを知るために。


 今度は彼女の国で、彼女の歩幅に合わせて。

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