第40話 雪解けの名前
「試験の日より、結果を待つ三週間の方がつらかったです」
そう言うと、エリーゼは少し意外そうに目を瞬いた。
王宮図書室の窓辺には、午後の淡い光が落ちている。
前回、彼女に案内された机。
今日は向かい合って座り、僕の一年半について話していた。
「試験には、手応えがあったのではありませんか」
「ありませんでした」
「まったく?」
「翻訳で一文迷い、法律では例外規定を書き落としました。口頭試問では、最初に出した答えをその場で直されています」
「それでも合格したのでしょう」
「結果を知っている今なら、そう言えます」
僕は机の上の本へ指を置いた。
「待っている間は、朝、郵便が届く音がするたびに仕事を止めていました」
「毎日?」
「はい。侯爵家宛ての商会文書だと分かると、安心して、同時に落胆しました」
「安心したのですか」
「不合格の通知でないと分かりますから」
「でも、合格の通知でもない」
「そういうことです」
エリーゼは困ったように笑った。
「私なら、届く日を確認します」
「結果通知の日は決まっていませんでした」
「では、外交院へ問い合わせます」
「受験者が毎日問い合わせれば、仕事になりません」
「毎日とは言っていません」
「何日目に?」
「……五日目くらいに」
「かなり早いですね」
「待つのは得意ではありません」
知っていた。
けれど、夏の癖としてではなく、今も変わらない一面として聞けたことが嬉しかった。
「合格通知は、仕事中に届きました」
「最初に誰へ伝えたのですか」
「その場にいた侯爵夫妻です」
「伯母様が先だったのですね」
「勤務時間を調整していただいた雇用主ですから」
「次は?」
「母とアンナです」
「私は?」
問いかけの後、エリーゼ自身が口を閉じた。
手紙は送れなかった。
あの頃の僕たちには、伝える方法がなかった。
「対訳ノートへ書きました」
僕は答えた。
「送れない手紙の代わりに?」
「はい」
「何と?」
「合格した、とだけ」
「それだけですか」
「その後、何を書けばよいか分からなくなりました」
合格を喜んでほしかった。
彼女が信じた未来へ、少し近づいたと伝えたかった。
けれど、それが彼女のためだけの選択だと思わせることも怖かった。
「貴女の言葉に、背中を押されました」
僕は言った。
「ですが、外交官を目指すと決めたのは僕です」
エリーゼの指が、閉じた本の表紙をなぞる。
「私が公の場で愛していると言ったから、貴方がご自分の人生を変えたのではないかと、何度も考えました」
「変えたのではありません」
「では?」
「選び直しました」
その言葉を口にすると、不思議なくらい素直に胸へ収まった。
「大学を辞めたことには理由がありました。家族を支える必要もあった」
「はい」
「だから、諦めたことまで正しかったと思い込もうとしていました」
「後悔していたのですか」
「自分でも、分かっていませんでした」
外交官になりたかった。
けれど、できない理由を並べる方が楽だった。
失敗する前に、自分には選べない道だと決めていた。
「貴女が僕の可能性を信じたことで、初めて、僕も考え直しました」
「それは、私のためでは?」
「始まりは、そうだったかもしれません」
エリーゼは顔を上げた。
「今は違います」
「はい」
「アルディナへ来たのも?」
「希望先には書きました」
正直に答える。
「貴女がいる国だからです」
彼女の瞳が揺れた。
「ですが、配置されたのは語学と実務経験によるものです。王女殿下との関係を理由に、選ばれたわけではありません」
「もし別の国へ派遣されていたら?」
「そこで仕事をしていたと思います」
「私へ会えなくても?」
すぐに答えることはできなかった。
「残念には思ったでしょう」
「それでも?」
「自分で選んだ仕事ですから」
エリーゼは小さく息を吐いた。
落胆したようには見えなかった。
むしろ、肩に入っていた力が少し抜けたようだった。
「安心しました」
「僕が会えなくても仕事を続けるから?」
「はい」
「少し複雑です」
「私もです」
目が合う。
どちらからともなく、わずかに笑った。
「王女殿下は、あの会見の後、後悔されたことはありますか」
尋ねると、笑みが消えた。
「言葉そのものは、後悔していません」
「では」
「貴方を、私の言葉へ縛りつけたのではないかと思いました」
図書室の時計が、静かに針を刻んでいる。
「私が世界の前で愛していると言えば、貴方はもう、私を忘れることも、別の人生を選ぶことも難しくなる」
「それでも、言わなければ僕の名誉が」
「分かっています」
エリーゼは目を伏せた。
「だから話しました。自分の選択として」
「はい」
「でも、正しい選択が、誰も傷つけないとは限りません」
声は落ち着いていた。
けれど、膝の上で重ねられた手に力が入っている。
「怖かったですか」
僕が尋ねると、彼女は少し黙った。
「とても」
「会見の時も?」
「壇上へ出る前から、逃げたいと思っていました」
あの日の新聞には、凛然とした第一王女と書かれていた。
恐れを見せず、王室の原稿を退けた勇敢な女性。
「父上に、怖いと申しました」
「国王陛下へ?」
「はい」
「意外です」
「私も、言うつもりはありませんでした」
「陛下は何と?」
「話した後で怖くなってもよい、と」
エリーゼの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「話している間は、誰の後ろにも隠れるなとも言われました」
「国王陛下らしいお言葉ですね」
「父上のことを、まだほとんどご存じないでしょう」
「では、王女殿下がそう感じた言葉ですね」
「……そうです」
彼女の一年半にも、僕の知らない恐怖があった。
勇敢だったから怖くなかったのではない。
怖いまま、自分の言葉を選んだ。
「僕は、会見の速報が届いた時、否定声明へ署名しようとしていました」
「聞いています」
「ローデン伯爵から?」
「帰国後に」
「怒られましたか」
「とても」
「王女殿下が?」
「私にも、貴方にも」
想像して、少しだけ納得した。
「署名しようとしたことを、今も責めていますか」
「はい」
即答だった。
「そこは少しくらい迷ってください」
「嫌です」
「僕は貴女を守ろうと」
「私の恋を、勝手に勘違いへ変えて?」
返す言葉がない。
「申し訳ありません」
「私も同じことをしました」
エリーゼの声が少し柔らかくなる。
「だから、責める資格がないとは思いません。よく似ているからこそ、腹が立ちます」
「僕も、王女殿下が真実を隠した時は腹が立ちました」
「今も?」
「以前ほどではありません」
「許したからですか」
「少し違います」
僕は考えながら答えた。
「貴女がなぜ隠したのかを、前より理解できるようになったからです」
「理解すれば、正しくなるわけではありません」
「はい」
「そこは譲らないのですね」
「譲れば、また同じことをします」
エリーゼは僕を見つめた後、静かに頷いた。
「そうですね」
図書室を出る時間になった。
今日話せたのは、僕の一年半のほんの一部だ。
彼女の一年半も、まだ入り口しか知らない。
けれど、立派だった出来事だけではなく、怖かったことや迷ったことを共有できた。
「次は、研修の失敗について聞かせてください」
「今日もかなり話しました」
「議事録を赤い線で埋められた話は、まだ詳しく聞いていません」
「あまり楽しい話ではありません」
「私は楽しみにしています」
「なぜですか」
「完璧ではない貴方を知るためです」
「王女殿下に言われると、複雑ですね」
「お互いさまでしょう」
彼女は少しだけ得意そうに微笑んだ。
◇
それから数日後。
王宮の温室で茶を飲む約束の日に、朝から雪が降った。
硝子屋根へ細かな雪が当たり、柔らかな音を立てている。
外の庭は白く霞み、王宮の建物も輪郭が薄い。
「馬車を出すのは、少し待った方がよいそうです」
クラリスが告げた。
「使節団の宿舎へ戻る頃には、弱まる見込みです」
「では、予定より長くお引き止めすることになります」
エリーゼが僕を見る。
「ご迷惑ですか、レイン書記官」
「使節団へ連絡が届くのであれば、問題ありません」
「すでに送っております」
クラリスはそう言い、温室の入口近くへ下がった。
公務の予定を勝手に変えたわけではない。
必要な連絡も済んでいる。
それでも、雪が僕たちへ少し長い時間を与えたように感じた。
「研修の話でしたね」
エリーゼが茶を注ぐ。
「本当に聞くのですか」
「約束しました」
「僕は見栄を張って、別の話をすることもできます」
「嘘をつかないことにしたのでしょう」
「覚えていたのですね」
「忘れていません」
僕は観念して、研修初日のことから話した。
席次表を一段ずらして写し、指導官に全員分を書き直させられたこと。
公式書簡で丁寧な表現を重ねすぎ、何を求めているのか分からないと返されたこと。
アルディナ語の発音から、セレネ沿岸部で覚えた癖を指摘されたこと。
「意味は通じていたのですか」
「はい」
「なら、そこまで直す必要が?」
「外交官は、発音から教育歴や滞在地域まで読まれるそうです」
「確かに、貴方のアルディナ語には少し癖がありました」
「以前から気づいていたのですか」
「初めて会った時から」
「言ってください」
「一生懸命話していたので」
「子ども扱いしていませんか」
「していません」
エリーゼは平然と答え、砂糖壺へ手を伸ばした。
一杯。
二杯。
匙が三杯目をすくいかけたところで、手が止まる。
彼女は紅茶と砂糖壺を交互に見た。
僕は何も言わず、壺を自分の側へ少しだけ移動させた。
エリーゼの視線が僕の手を追う。
「何も言わないのですね」
「何をでしょう」
「二杯です、とか」
「ご自分で止められましたから」
「三杯目を入れなかっただけです」
「大きな進歩です」
「やはり、子ども扱いしています」
「していません」
「本当に?」
「はい」
エリーゼは疑うように僕を見た後、二杯入りの紅茶を口へ運んだ。
「少し苦いです」
「砂糖壺を戻しましょうか」
「結構です」
即答だった。
僕は笑わないように茶へ口をつけた。
「以前なら、数えたでしょう」
「覚えてはいます」
「懐かしいですか」
硝子屋根へ当たる雪の音が、少し強くなった。
「はい」
正直に答える。
「ですが、懐かしいだけではありません」
エリーゼの指が、カップの取っ手で止まる。
「今の王女殿下が、三杯目を我慢されたことも覚えておきます」
「我慢したわけではありません」
「では?」
「自分で二杯にすると決めました」
「それなら、なおさら」
「何がですか」
「今の貴女の選択です」
彼女は何かを言い返そうとしたようだった。
結局、カップへ視線を落とす。
「貴方は、以前より細かい言葉を選ぶようになりました」
「仕事ですから」
「今は公務ではありません」
「癖になりました」
「直した方がよいと思います」
「外交院では評価されています」
「私との会話では減点です」
「厳しいですね」
「王女ですから」
少し前なら、その言葉に距離を感じただろう。
今は、彼女自身が半分冗談として口にしていると分かった。
「王女殿下は、この一年半で変わられました」
「また、その話ですか」
「以前なら、砂糖を三杯入れた後で理由をつけていました」
「今日は入れていません」
「はい」
「ほかには?」
「ご自分が怖かったことを、話してくださいました」
エリーゼの表情が少し静かになる。
「貴方も話したでしょう」
「だから、僕も以前とは違います」
「どこが?」
「失敗した話を、王女殿下へ聞かせています」
「以前なら隠しましたか」
「よく見られたい相手には」
口にしてから、空気が変わった。
エリーゼが僕を見る。
僕も、自分が何を言ったのか理解した。
よく見られたい相手。
それ以上は言えなかった。
まだ、今の感情へ名前をつける時ではない。
「今は、よく見られたくないのですか」
エリーゼが尋ねる。
「見られたいです」
「では、なぜ?」
「立派な部分だけを見せて好かれても、それは僕ではありませんから」
彼女はしばらく黙った。
「私も、同じです」
声は小さかった。
「海辺にいた私だけを愛されても、今の私はそこへ戻れません」
「はい」
「ですが、今の私を見せて、失望されるのも怖い」
「僕もです」
「貴方も?」
「外交官になれば、以前より立派な人間になれると思っていたのかもしれません」
「なれませんでしたか」
「失敗の種類が変わっただけです」
エリーゼが笑う。
「では、安心しました」
「ひどくありませんか」
「私だけではないと分かりましたから」
「先日、僕も同じようなことを言いました」
「似ているのですね」
「そのせいで、以前は大変でした」
「今も大変です」
笑い声が重なった。
雪に閉ざされた温室。
海も、市場も、夏の風もない。
それでも、一年半前より自然に話せている瞬間があった。
「レイン書記官は」
エリーゼが言いかける。
少し考えるように間を置いた。
「テオは、アルディナへ来たことを後悔していませんか」
名前が、会話の中へ落ちた。
彼女は謝らなかった。
言い直すこともしない。
僕も、それを特別な出来事として止めたくなかった。
「していません、エリーゼ」
名前を返す。
青灰色の瞳が、ゆっくりと細められた。
「そうですか」
「はい」
「仕事が大変でも?」
「大変です」
「寒くても?」
「とても寒いです」
「王宮の礼式が多くても?」
「まだ道に迷います」
「それでも?」
「来てよかったと思っています」
理由は言わなかった。
彼女も尋ねなかった。
僕たちはまだ、恋人ではない。
一年半前の約束が、そのまま続いているとも決めていない。
けれど、王女殿下とレイン書記官ではなく、今ここにいるエリーゼとテオとして同じ卓を囲んでいた。
やがて雪の音が弱くなった。
クラリスが温室の外を確認する。
「殿下。使節団の馬車を正門へ回せるそうです」
「分かりました」
エリーゼは答えたが、すぐには立ち上がらなかった。
僕も、空になったカップを置いたまま待つ。
「次は、何を話しましょう」
彼女が尋ねる。
「今日あったことを」
「今日?」
「次に会う日までに、貴女に何があったのかを」
「試験や会見の話ではなく?」
「はい」
「特別なことがなくても?」
「その方がよいです」
エリーゼは少し考え、頷いた。
「では、私も聞きます」
「僕の今日を?」
「書記官として何をしたのか。昼食を忘れなかったか。誰に叱られたか」
「最後のものは、毎回あるとは限りません」
「本当に?」
「努力しています」
立ち上がる。
温室の外では、雲の切れ間から薄い光が差していた。
「では、次の時間はクラリスから」
「はい、テオ」
「お待ちしています、エリーゼ」
名前を呼ぶことは、夏へ戻ることではなかった。
僕が次に会いたいと思ったのは、記憶の中で海を見て笑う少女ではない。
今日、自分で砂糖を二杯にすると決め、僕の失敗を聞いて笑ったエリーゼだった。
雪解けとは、昔へ戻ることではない。
凍っていた時間の下から、今の相手へ続く道を見つけることなのだ。




