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君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱるめりあ
第六部「二度目の恋」

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第40話 雪解けの名前

「試験の日より、結果を待つ三週間の方がつらかったです」


 そう言うと、エリーゼは少し意外そうに目を瞬いた。


 王宮図書室の窓辺には、午後の淡い光が落ちている。


 前回、彼女に案内された机。


 今日は向かい合って座り、僕の一年半について話していた。


「試験には、手応えがあったのではありませんか」


「ありませんでした」


「まったく?」


「翻訳で一文迷い、法律では例外規定を書き落としました。口頭試問では、最初に出した答えをその場で直されています」


「それでも合格したのでしょう」


「結果を知っている今なら、そう言えます」


 僕は机の上の本へ指を置いた。


「待っている間は、朝、郵便が届く音がするたびに仕事を止めていました」


「毎日?」


「はい。侯爵家宛ての商会文書だと分かると、安心して、同時に落胆しました」


「安心したのですか」


「不合格の通知でないと分かりますから」


「でも、合格の通知でもない」


「そういうことです」


 エリーゼは困ったように笑った。


「私なら、届く日を確認します」


「結果通知の日は決まっていませんでした」


「では、外交院へ問い合わせます」


「受験者が毎日問い合わせれば、仕事になりません」


「毎日とは言っていません」


「何日目に?」


「……五日目くらいに」


「かなり早いですね」


「待つのは得意ではありません」


 知っていた。


 けれど、夏の癖としてではなく、今も変わらない一面として聞けたことが嬉しかった。


「合格通知は、仕事中に届きました」


「最初に誰へ伝えたのですか」


「その場にいた侯爵夫妻です」


「伯母様が先だったのですね」


「勤務時間を調整していただいた雇用主ですから」


「次は?」


「母とアンナです」


「私は?」


 問いかけの後、エリーゼ自身が口を閉じた。


 手紙は送れなかった。


 あの頃の僕たちには、伝える方法がなかった。


「対訳ノートへ書きました」


 僕は答えた。


「送れない手紙の代わりに?」


「はい」


「何と?」


「合格した、とだけ」


「それだけですか」


「その後、何を書けばよいか分からなくなりました」


 合格を喜んでほしかった。


 彼女が信じた未来へ、少し近づいたと伝えたかった。


 けれど、それが彼女のためだけの選択だと思わせることも怖かった。


「貴女の言葉に、背中を押されました」


 僕は言った。


「ですが、外交官を目指すと決めたのは僕です」


 エリーゼの指が、閉じた本の表紙をなぞる。


「私が公の場で愛していると言ったから、貴方がご自分の人生を変えたのではないかと、何度も考えました」


「変えたのではありません」


「では?」


「選び直しました」


 その言葉を口にすると、不思議なくらい素直に胸へ収まった。


「大学を辞めたことには理由がありました。家族を支える必要もあった」


「はい」


「だから、諦めたことまで正しかったと思い込もうとしていました」


「後悔していたのですか」


「自分でも、分かっていませんでした」


 外交官になりたかった。


 けれど、できない理由を並べる方が楽だった。


 失敗する前に、自分には選べない道だと決めていた。


「貴女が僕の可能性を信じたことで、初めて、僕も考え直しました」


「それは、私のためでは?」


「始まりは、そうだったかもしれません」


 エリーゼは顔を上げた。


「今は違います」


「はい」


「アルディナへ来たのも?」


「希望先には書きました」


 正直に答える。


「貴女がいる国だからです」


 彼女の瞳が揺れた。


「ですが、配置されたのは語学と実務経験によるものです。王女殿下との関係を理由に、選ばれたわけではありません」


「もし別の国へ派遣されていたら?」


「そこで仕事をしていたと思います」


「私へ会えなくても?」


 すぐに答えることはできなかった。


「残念には思ったでしょう」


「それでも?」


「自分で選んだ仕事ですから」


 エリーゼは小さく息を吐いた。


 落胆したようには見えなかった。


 むしろ、肩に入っていた力が少し抜けたようだった。


「安心しました」


「僕が会えなくても仕事を続けるから?」


「はい」


「少し複雑です」


「私もです」


 目が合う。


 どちらからともなく、わずかに笑った。


「王女殿下は、あの会見の後、後悔されたことはありますか」


 尋ねると、笑みが消えた。


「言葉そのものは、後悔していません」


「では」


「貴方を、私の言葉へ縛りつけたのではないかと思いました」


 図書室の時計が、静かに針を刻んでいる。


「私が世界の前で愛していると言えば、貴方はもう、私を忘れることも、別の人生を選ぶことも難しくなる」


「それでも、言わなければ僕の名誉が」


「分かっています」


 エリーゼは目を伏せた。


「だから話しました。自分の選択として」


「はい」


「でも、正しい選択が、誰も傷つけないとは限りません」


 声は落ち着いていた。


 けれど、膝の上で重ねられた手に力が入っている。


「怖かったですか」


 僕が尋ねると、彼女は少し黙った。


「とても」


「会見の時も?」


「壇上へ出る前から、逃げたいと思っていました」


 あの日の新聞には、凛然とした第一王女と書かれていた。


 恐れを見せず、王室の原稿を退けた勇敢な女性。


「父上に、怖いと申しました」


「国王陛下へ?」


「はい」


「意外です」


「私も、言うつもりはありませんでした」


「陛下は何と?」


「話した後で怖くなってもよい、と」


 エリーゼの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


「話している間は、誰の後ろにも隠れるなとも言われました」


「国王陛下らしいお言葉ですね」


「父上のことを、まだほとんどご存じないでしょう」


「では、王女殿下がそう感じた言葉ですね」


「……そうです」


 彼女の一年半にも、僕の知らない恐怖があった。


 勇敢だったから怖くなかったのではない。


 怖いまま、自分の言葉を選んだ。


「僕は、会見の速報が届いた時、否定声明へ署名しようとしていました」


「聞いています」


「ローデン伯爵から?」


「帰国後に」


「怒られましたか」


「とても」


「王女殿下が?」


「私にも、貴方にも」


 想像して、少しだけ納得した。


「署名しようとしたことを、今も責めていますか」


「はい」


 即答だった。


「そこは少しくらい迷ってください」


「嫌です」


「僕は貴女を守ろうと」


「私の恋を、勝手に勘違いへ変えて?」


 返す言葉がない。


「申し訳ありません」


「私も同じことをしました」


 エリーゼの声が少し柔らかくなる。


「だから、責める資格がないとは思いません。よく似ているからこそ、腹が立ちます」


「僕も、王女殿下が真実を隠した時は腹が立ちました」


「今も?」


「以前ほどではありません」


「許したからですか」


「少し違います」


 僕は考えながら答えた。


「貴女がなぜ隠したのかを、前より理解できるようになったからです」


「理解すれば、正しくなるわけではありません」


「はい」


「そこは譲らないのですね」


「譲れば、また同じことをします」


 エリーゼは僕を見つめた後、静かに頷いた。


「そうですね」


 図書室を出る時間になった。


 今日話せたのは、僕の一年半のほんの一部だ。


 彼女の一年半も、まだ入り口しか知らない。


 けれど、立派だった出来事だけではなく、怖かったことや迷ったことを共有できた。


「次は、研修の失敗について聞かせてください」


「今日もかなり話しました」


「議事録を赤い線で埋められた話は、まだ詳しく聞いていません」


「あまり楽しい話ではありません」


「私は楽しみにしています」


「なぜですか」


「完璧ではない貴方を知るためです」


「王女殿下に言われると、複雑ですね」


「お互いさまでしょう」


 彼女は少しだけ得意そうに微笑んだ。


◇


 それから数日後。


 王宮の温室で茶を飲む約束の日に、朝から雪が降った。


 硝子屋根へ細かな雪が当たり、柔らかな音を立てている。


 外の庭は白く霞み、王宮の建物も輪郭が薄い。


「馬車を出すのは、少し待った方がよいそうです」


 クラリスが告げた。


「使節団の宿舎へ戻る頃には、弱まる見込みです」


「では、予定より長くお引き止めすることになります」


 エリーゼが僕を見る。


「ご迷惑ですか、レイン書記官」


「使節団へ連絡が届くのであれば、問題ありません」


「すでに送っております」


 クラリスはそう言い、温室の入口近くへ下がった。


 公務の予定を勝手に変えたわけではない。


 必要な連絡も済んでいる。


 それでも、雪が僕たちへ少し長い時間を与えたように感じた。


「研修の話でしたね」


 エリーゼが茶を注ぐ。


「本当に聞くのですか」


「約束しました」


「僕は見栄を張って、別の話をすることもできます」


「嘘をつかないことにしたのでしょう」


「覚えていたのですね」


「忘れていません」


 僕は観念して、研修初日のことから話した。


 席次表を一段ずらして写し、指導官に全員分を書き直させられたこと。


 公式書簡で丁寧な表現を重ねすぎ、何を求めているのか分からないと返されたこと。


 アルディナ語の発音から、セレネ沿岸部で覚えた癖を指摘されたこと。


「意味は通じていたのですか」


「はい」


「なら、そこまで直す必要が?」


「外交官は、発音から教育歴や滞在地域まで読まれるそうです」


「確かに、貴方のアルディナ語には少し癖がありました」


「以前から気づいていたのですか」


「初めて会った時から」


「言ってください」


「一生懸命話していたので」


「子ども扱いしていませんか」


「していません」


 エリーゼは平然と答え、砂糖壺へ手を伸ばした。


 一杯。


 二杯。


 匙が三杯目をすくいかけたところで、手が止まる。


 彼女は紅茶と砂糖壺を交互に見た。


 僕は何も言わず、壺を自分の側へ少しだけ移動させた。


 エリーゼの視線が僕の手を追う。


「何も言わないのですね」


「何をでしょう」


「二杯です、とか」


「ご自分で止められましたから」


「三杯目を入れなかっただけです」


「大きな進歩です」


「やはり、子ども扱いしています」


「していません」


「本当に?」


「はい」


 エリーゼは疑うように僕を見た後、二杯入りの紅茶を口へ運んだ。


「少し苦いです」


「砂糖壺を戻しましょうか」


「結構です」


 即答だった。


 僕は笑わないように茶へ口をつけた。


「以前なら、数えたでしょう」


「覚えてはいます」


「懐かしいですか」


 硝子屋根へ当たる雪の音が、少し強くなった。


「はい」


 正直に答える。


「ですが、懐かしいだけではありません」


 エリーゼの指が、カップの取っ手で止まる。


「今の王女殿下が、三杯目を我慢されたことも覚えておきます」


「我慢したわけではありません」


「では?」


「自分で二杯にすると決めました」


「それなら、なおさら」


「何がですか」


「今の貴女の選択です」


 彼女は何かを言い返そうとしたようだった。


 結局、カップへ視線を落とす。


「貴方は、以前より細かい言葉を選ぶようになりました」


「仕事ですから」


「今は公務ではありません」


「癖になりました」


「直した方がよいと思います」


「外交院では評価されています」


「私との会話では減点です」


「厳しいですね」


「王女ですから」


 少し前なら、その言葉に距離を感じただろう。


 今は、彼女自身が半分冗談として口にしていると分かった。


「王女殿下は、この一年半で変わられました」


「また、その話ですか」


「以前なら、砂糖を三杯入れた後で理由をつけていました」


「今日は入れていません」


「はい」


「ほかには?」


「ご自分が怖かったことを、話してくださいました」


 エリーゼの表情が少し静かになる。


「貴方も話したでしょう」


「だから、僕も以前とは違います」


「どこが?」


「失敗した話を、王女殿下へ聞かせています」


「以前なら隠しましたか」


「よく見られたい相手には」


 口にしてから、空気が変わった。


 エリーゼが僕を見る。


 僕も、自分が何を言ったのか理解した。


 よく見られたい相手。


 それ以上は言えなかった。


 まだ、今の感情へ名前をつける時ではない。


「今は、よく見られたくないのですか」


 エリーゼが尋ねる。


「見られたいです」


「では、なぜ?」


「立派な部分だけを見せて好かれても、それは僕ではありませんから」


 彼女はしばらく黙った。


「私も、同じです」


 声は小さかった。


「海辺にいた私だけを愛されても、今の私はそこへ戻れません」


「はい」


「ですが、今の私を見せて、失望されるのも怖い」


「僕もです」


「貴方も?」


「外交官になれば、以前より立派な人間になれると思っていたのかもしれません」


「なれませんでしたか」


「失敗の種類が変わっただけです」


 エリーゼが笑う。


「では、安心しました」


「ひどくありませんか」


「私だけではないと分かりましたから」


「先日、僕も同じようなことを言いました」


「似ているのですね」


「そのせいで、以前は大変でした」


「今も大変です」


 笑い声が重なった。


 雪に閉ざされた温室。


 海も、市場も、夏の風もない。


 それでも、一年半前より自然に話せている瞬間があった。


「レイン書記官は」


 エリーゼが言いかける。


 少し考えるように間を置いた。


「テオは、アルディナへ来たことを後悔していませんか」


 名前が、会話の中へ落ちた。


 彼女は謝らなかった。


 言い直すこともしない。


 僕も、それを特別な出来事として止めたくなかった。


「していません、エリーゼ」


 名前を返す。


 青灰色の瞳が、ゆっくりと細められた。


「そうですか」


「はい」


「仕事が大変でも?」


「大変です」


「寒くても?」


「とても寒いです」


「王宮の礼式が多くても?」


「まだ道に迷います」


「それでも?」


「来てよかったと思っています」


 理由は言わなかった。


 彼女も尋ねなかった。


 僕たちはまだ、恋人ではない。


 一年半前の約束が、そのまま続いているとも決めていない。


 けれど、王女殿下とレイン書記官ではなく、今ここにいるエリーゼとテオとして同じ卓を囲んでいた。


 やがて雪の音が弱くなった。


 クラリスが温室の外を確認する。


「殿下。使節団の馬車を正門へ回せるそうです」


「分かりました」


 エリーゼは答えたが、すぐには立ち上がらなかった。


 僕も、空になったカップを置いたまま待つ。


「次は、何を話しましょう」


 彼女が尋ねる。


「今日あったことを」


「今日?」


「次に会う日までに、貴女に何があったのかを」


「試験や会見の話ではなく?」


「はい」


「特別なことがなくても?」


「その方がよいです」


 エリーゼは少し考え、頷いた。


「では、私も聞きます」


「僕の今日を?」


「書記官として何をしたのか。昼食を忘れなかったか。誰に叱られたか」


「最後のものは、毎回あるとは限りません」


「本当に?」


「努力しています」


 立ち上がる。


 温室の外では、雲の切れ間から薄い光が差していた。


「では、次の時間はクラリスから」


「はい、テオ」


「お待ちしています、エリーゼ」


 名前を呼ぶことは、夏へ戻ることではなかった。


 僕が次に会いたいと思ったのは、記憶の中で海を見て笑う少女ではない。


 今日、自分で砂糖を二杯にすると決め、僕の失敗を聞いて笑ったエリーゼだった。


 雪解けとは、昔へ戻ることではない。


 凍っていた時間の下から、今の相手へ続く道を見つけることなのだ。

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