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君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱるめりあ
第六部「二度目の恋」

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第41話 今の貴女に、もう一度

「今日は、私の方が遅れてしまいました」


 エリーゼは冬の庭園へ入るなり、申し訳なさそうに言った。


 濃紺の外套の肩には、細かな雪が残っている。


「公務が長引いたのでしょう」


「予定より、一時間ほど」


「では、別の日でも構いませんでした」


「私が、今日お会いしたかったのです」


 胸の奥が強く鳴った。


 エリーゼは自分の言葉に気づいたように、わずかに視線を逸らす。


「……話したいことがありましたから」


「僕もです」


 そう答えると、今度は彼女が僕を見た。


 クラリスは庭園の入口にいる。


 護衛も、声の届かない距離で待っていた。


 僕たちは以前と同じ小道を歩き始める。


 あの日、庭一面を覆っていた雪は薄くなっていた。


 白い隙間から、濡れた土と冬枯れの草が顔を出している。


「ここで初めて二人で話した日のことを、覚えていますか」


 エリーゼが尋ねた。


「忘れていません」


「私は、貴方が愛したエリーはもういないと言いました」


「はい」


「今も、その考えは変わりません」


 歩みが止まる。


 彼女は僕へ正面から向き直った。


「海辺にいた私は、過去の私です。もう、あの夏と同じようには生きられません」


「分かっています」


「王女としての責任も増えました。以前より自由になるどころか、選べないことも増えています」


「はい」


「これからも、貴方へ会いたい時に会えるとは限りません」


 エリーゼは一つずつ、確かめるように言う。


「公務のために約束を変えることもあります。貴方の国と意見が違えば、アルディナの立場を優先します」


「当然です」


「私は、以前より頑固になったとも言われます」


「それは以前からです」


「テオ」


「申し訳ありません」


「謝るくらいなら言わないでください」


 言葉は少し厳しかったが、目元がわずかに緩んでいる。


 それも、今の彼女だった。


「私は真剣に話しているのです」


「僕も真剣です」


「そうは見えません」


「では、もう少し真剣な顔をします」


「顔だけ変えても意味がありません」


 エリーゼは小さく息を吐いた。


 それから、再び歩き出す。


「貴方と話すと、用意してきた言葉どおりに進みません」


「用意されていたのですか」


「少しだけ」


「どのような言葉を?」


「言いません」


「なぜ?」


「もう使えなくなりましたから」


 夏の頃なら、その答えを聞いて何を隠しているのか不安になったかもしれない。


 今は、彼女にも迷いがあるのだと分かる。


 すべてを正しく話せる王女ではない。


 口にした後で、別の言葉を探すこともある。


「では、僕から話してもよいですか」


 尋ねると、エリーゼが足を止めた。


「はい」


 庭園の奥には、以前二人で立った東屋がある。


 雪を払われた長椅子。


 枯れた蔓の絡む柱。


 僕たちは中へ入ったが、座らなかった。


「アルディナへ来るまで、何度も考えました」


「私のことを?」


「はい」


 否定する必要はなかった。


「再会したら、以前と同じように話せるのか。貴女は、まだ僕を覚えているのか」


「忘れるはずがありません」


「そう言っていただける保証はありませんでした」


「公開会見で、あれほど」


「一年半前の言葉です」


 エリーゼが黙る。


「あの時の貴女が僕を愛していたことは、疑っていません」


 僕は続けた。


「だからこそ、それだけに頼ってはいけないと思いました」


「それだけ?」


「夏の思い出です」


 雨の日に食べた魚のスープ。


 初めて見た海。


 半分に分けた菓子。


 花火の音を避けて座った夜。


 テラスで踊ったこと。


 焦げた朝食。


 雨の停車場。


 どれも消したくない。


 僕にとって大切な時間だ。


「僕は、あの夏のエリーを探しに来たのではありません」


 エリーゼの瞳が、わずかに揺れた。


「それは……もう、いないから?」


「違います」


 すぐに答える。


「いなくなったから諦めたのではありません」


「では」


「夏のエリーを否定するつもりはありません。僕が愛した人です」


 エリーゼは黙って聞いている。


「けれど、過去の中にいる貴女だけを見つめて生きたいのではない」


 風が東屋を抜け、枯れた蔓が微かな音を立てた。


「今ここにいる貴女を、知りたいと思いました」


「私を?」


「はい」


 王宮の長い回廊。


 ルシアン王太子へ答えを渡したくなりながら、それでも自分で考える時間を残そうとしていた姿。


 王都を見下ろし、書類の数字の先に人がいることを忘れないようにしていた横顔。


 会見の壇上へ出る前、本当は逃げたいほど怖かったこと。


 合格通知を待つ僕の話を聞きながら、自分も迷っていたと打ち明けてくれた声。


「疲れている時は、肖像画と目を合わせずに回廊を歩く」


「それは忘れてくださいと言いました」


「覚えておくと答えました」


 エリーゼの頬がわずかに赤くなる。


「それから、砂糖を二杯で止められるようになりました」


「もっと、ほかにありませんか」


「重要な変化です」


「この場で話すことではないと思います」


「緊張されているようでしたので」


「貴方は緊張していないのですか」


「しています」


「まったく、そう見えません」


 僕は右手を上げた。


 指先がわずかに震えている。


「本当だったのですね」


「嘘をつかないことにしたので」


 エリーゼの口元に、短い笑みが浮かんだ。


 けれど、すぐに消える。


「貴方が知ったのは、まだ一部です」


「はい」


「これから、もっと嫌なところも知るかもしれません」


「僕も同じです」


「意見が合わないことも」


「あるでしょう」


「私が貴方を傷つけることも」


「僕が貴女を傷つけることもあります」


「それでも?」


「それでも、明日の貴女に会いたいと思いました」


 エリーゼの指が、外套の前で強く重なる。


 以前の僕なら、ここで優しい言葉だけを並べただろう。


 何があっても変わらない。


 すべてを受け入れる。


 永遠に愛する。


 けれど、まだ知らないものまで愛していると言い切るのは、今の彼女を見ないことと同じだ。


「今日の貴女を知るたびに、次の貴女を知りたくなった」


 僕は彼女の目を見る。


「夏の記憶が美しいからではありません」


 息を吸う。


 称号を外す。


「エリーゼ」


「……はい」


「今の貴女に、もう一度恋をしました」


 庭園が静かになる。


 遠くで雪の落ちる音がした。


 エリーゼは何も言わなかった。


 頬を伝う涙もない。


 ただ僕を見つめたまま、何度か唇を動かした。


「返事を急がなくても」


「急いでいません」


 彼女が遮る。


「一年半、考えました」


「ですが、僕たちは再会したばかりです」


「再会してからも、考えました」


 声が少し震える。


「貴方が、私の知っているテオとは違っていたから」


「はい」


「以前の貴方は、自分が選ばれるはずがないと、先に諦めようとしました」


「そのとおりです」


「私が正体を隠した時も、貴方は傷つきながら、最後には私が望む答えを探そうとしていました」


「そうだったかもしれません」


「今の貴方は違います」


 エリーゼが一歩、僕へ近づく。


「私に会えない国へ派遣されても、自分の仕事を続けると言いました」


「はい」


「失敗したことも、怖かったことも、隠さずに話してくれました」


「立派な話ではありません」


「立派である必要はありません」


 エリーゼは首を横へ振る。


「私のために人生を捨てる人ではなく、ご自分の人生を持つ人でいてほしかった」


「それを、以前の僕は分かっていませんでした」


「私もです」


 彼女はさらに一歩、近づいた。


 手を伸ばせば届く距離。


「私は、貴方を守るためなら、貴方の選択を奪ってもよいと思っていました」


「僕も同じことをしました」


「今は、選んでほしいのです」


「何を?」


「私を」


 エリーゼの声は小さかった。


 それでも、逃げずに僕を見ていた。


「王女ではない私だけではありません」


「はい」


「王女である私も。疲れて、間違えて、貴方の国と対立するかもしれない私も」


「はい」


「それを知ったうえで、選んでください」


「もう選びました」


 僕は答えた。


 エリーゼの目から、ようやく一滴だけ涙が落ちた。


「私も」


 彼女は息を整える。


「あの夏の貴方を待っていたのではありません」


 一年半前の僕。


 侯爵家の秘書として、彼女の案内役をしていた青年。


 自分の未来を最初から諦めていた僕。


「外交官としてここへ来た貴方を知りました」


 エリーゼが言う。


「自分の意思で道を選び、私がいなくても歩き続けられる貴方を」


「エリーゼ」


「今の貴方を愛しています、テオ」


 胸の奥にあったものが、ゆっくりとほどけた。


 一年半前の告白とは違う。


 あの時、僕たちは別れが近いことを知っていた。


 失う前に、互いの気持ちを確かめた。


 今は、戻るためではない。


 これからを選ぶための言葉だった。


 僕は彼女へ手を伸ばす。


 頬に触れる寸前で止めた。


「触れても?」


 エリーゼは、小さく頷いた。


「はい」


 手袋を外し、彼女の頬へ触れる。


 冬の空気に冷えた肌。


 けれど、触れた場所から熱が伝わってくる。


 エリーゼの指が、僕の外套をつかんだ。


 このまま口づければいい。


 そう思った。


 けれど、その前に、彼女へ尋ねなければならないことがあった。


「エリーゼ」


「はい」


「もう一つ、聞いてください」


 僕は彼女の頬から手を離した。


 一歩、距離を取る。


 彼女の表情に、不安が浮かぶ。


「どうしました?」


「今、貴女へ伝えたいことです」


「テオ?」


 国王の許しはない。


 両国の承認も、僕が彼女の隣に立つための条件も、まだ何一つ整っていない。


 どこで暮らすのか。


 僕が外交官としてどのような立場を保てるのか。


 彼女の王女としての責務と、僕の仕事をどう両立するのか。


 決めなければならないことはいくつもある。


 それでも、制度の話を始める前に、まず彼女自身へ尋ねたかった。


 王女としてではなく。


 国と国との問題でもなく。


 僕と彼女の人生として。


 僕は東屋の石床へ片膝をついた。


「テオ」


 エリーゼが息を呑む。


「何を……」


「まだ、何も整っていません」


 見上げて言う。


「国王陛下のお許しも、セレネ側の承認もありません。僕がどの立場で貴女の隣に立てるのかも、分かっていません」


「はい」


「簡単な道ではないと思います」


「分かっています」


「僕は、貴女に王女であることを捨ててほしいとは思いません」


 エリーゼの瞳から、もう一滴、涙が落ちる。


「僕も、自分の人生を捨てて、ただ貴女の後ろを歩くつもりはありません」


「はい」


「互いに守りたいものを持ったまま、意見が違えば話し合い、迷えば一緒に考えたい」


 声が震えた。


 けれど、目を逸らさなかった。


「疲れた日に、貴女が帰りたいと思える場所になりたい」


 エリーゼの唇が震える。


「そして僕も、貴女の隣へ帰りたい」


 夏の終わりには、言えなかった。


 迎えに行くとも、待っていてほしいとも。


 未来を約束するには、僕たちは互いの人生を知らなさすぎた。


 今も、すべてを知っているわけではない。


 だからこそ、これから知っていきたい。


「エリーゼ」


 彼女の手を取る。


「僕と結婚してください」


 言葉の後に、静寂が落ちた。


 雪の匂い。


 指先に触れる彼女の手袋。


 自分の鼓動だけが、ひどく大きく聞こえる。


「私は」


 エリーゼの声が震える。


「王女であることを、捨てられません」


「分かっています」


「貴方の仕事を、私のために失わせたくもありません」


「それも、二人で考えます」


「父上がお許しにならないかもしれません」


「その時は、なぜ認められないのかを聞きます」


「両国が、厳しい条件を出すかもしれない」


「受け入れられるものと、受け入れられないものを、二人で決めます」


「私は、貴方を選びながら、国を優先しなければならない時があります」


「僕も、セレネの外交官として譲れないことがあります」


「それでも?」


「それでも、貴女と生きたい」


 エリーゼが目を閉じる。


 涙が頬を伝った。


 しばらくして、彼女は目を開いた。


「……はい」


 声は小さかった。


 けれど、今まで聞いたどの言葉より、はっきり届いた。


「私も、貴方と生きたいです」


 彼女の指が、僕の手を強く握る。


「貴方と結婚したいです、テオ」


 息が詰まった。


 胸の奥からこみ上げたものを、言葉にできなかった。


「立ってください」


 エリーゼが、涙のまま笑う。


「いつまで跪いているのですか」


「返事を、もう一度聞いてもよいですか」


「欲張りですね」


「一度では、信じきれなくて」


「以前の貴方に戻っています」


「今日だけは許してください」


 エリーゼは僕の手を引いた。


 立ち上がると、彼女はもう逃げなかった。


「テオ・レイン」


 僕の正式な名を呼ぶ。


「はい」


「私は、貴方と結婚したいです」


 今度こそ、胸の奥へまっすぐ届いた。


「ありがとうございます」


「そこは、お礼なのですか」


「ほかに、何と言えば」


「分かりません」


 エリーゼが泣きながら笑う。


「私も、このように申し込まれたことはありませんから」


「正式な縁談はあったのでしょう」


「それとは違います」


「僕も、そう思います」


 僕はもう一度、彼女の頬へ手を添えた。


「口づけてもよいですか」


「プロポーズの後でも聞くのですね」


「返事をいただいたからこそです」


 エリーゼは目を閉じた。


「はい」


 身体をかがめる。


 唇が触れる。


 最初の口づけは、互いがここにいることを確かめるように短かった。


 一度離れる。


 エリーゼが目を開いた。


 その瞳の中に、自分の姿が見える。


「もう一度」


 彼女が言った。


「はい」


 二度目は、先ほどよりゆっくりと唇を重ねた。


 急ぐ理由はなかった。


 誰かに奪われる前に確かめるためでもない。


 過去へ戻るためでもない。


 これから同じ人生を望むと、互いに約束した後の口づけだった。


 唇が離れても、エリーゼは僕の外套をつかんだままだった。


 僕も、頬へ添えた手をすぐには下ろせなかった。


「テオ」


「はい」


「何も準備していなかったのですね」


「貴女へ気持ちを伝えるつもりではいました」


「結婚を申し込むことも?」


「いいえ」


 正直に答える。


「ここで貴女と話しているうちに、今、尋ねなければならないと思いました」


「今日の私を見て?」


「はい」


「一時間も遅れた私を?」


「それも含めて」


「公務を優先したのに?」


「だからです」


 彼女は少しだけ俯いた。


「……嬉しいです」


 整えられた言葉でも、用意された演出でもなかった。


 夏の記憶へ誓うために準備してきたのでもない。


 今日ここにいる彼女を見て、その場で人生を申し込んだ。


 それでよかった。


「次は、どうすればよいでしょう」


 エリーゼが尋ねる。


 幸せのすぐ隣に、現実があった。


 国王は、僕たちの婚姻を認めていない。


 僕はセレネ王国の外交官。


 エリーゼはアルディナの第一王女。


 今日ここで婚姻を約束したからといって、何も整ってはいない。


「まず、国王陛下へお話しします」


「はい」


「僕は使節団長へ報告し、セレネ側の手続きも確認します」


「別々に進めるのですか」


「いいえ」


 僕は首を横へ振った。


「互いに何を願い、何を譲れないのか、先に話し合いましょう」


「どちらか一人が、相手のために勝手な約束をしないように?」


「はい」


 エリーゼが少し笑う。


「私たちには、必要な決まりですね」


「相手を守るために、自分だけが不利な条件を受け入れない」


「重要です」


「何かを諦める時は、先に相談する」


「それも」


「返事が怖くても、真実を隠さない」


「必ず」


 互いに、過去の失敗を数えているようだった。


 それでも、笑うことができた。


「父上へは、私から面会を願い出ます」


「僕も同席させていただけますか」


「もちろんです」


「いつですか」


「できるだけ早く」


「今日ではなく?」


「今の顔で父上の前へ出るのは、少し」


 エリーゼが自分の頬へ触れる。


「何か問題が?」


「おそらく、赤くなっています」


「先ほどからです」


「なぜ言わなかったのですか」


「可愛らしかったので」


 口にした途端、彼女の顔がさらに赤くなる。


「テオ」


「申し訳ありません」


「まったく反省していない顔です」


「半分ほどは」


「残りは?」


「結婚したいと答えてくださった方を、もう少し見ていたいと思っています」


 エリーゼは困ったように俯いた。


 けれど、手は離さなかった。


「では、父上へお話しするまで、私たちだけの約束ですね」


「はい」


「隠し続けるためではなく」


「認めていただくための約束です」


 エリーゼは僕の手を両手で包んだ。


「今度は、一人で守ろうとしないでください」


「エリーゼも」


「はい」


 庭園の入口で、クラリスが懐中時計を確認している。


 そろそろ時間だった。


 王宮へ戻れば、また王女と書記官になる。


 公に手をつないで歩くことも、婚姻を約束したと告げることも、まだできない。


「戻らなければなりません」


 エリーゼが言う。


「はい」


「ここを出たら、手を離します」


「分かっています」


「ですが」


 彼女の指に、少しだけ力が入る。


「今日の約束まで、なかったことにはしません」


「僕もです」


 僕たちは東屋を出るまで、手をつないだまま歩いた。


 誰にも見せるためではない。


 逃げ出すためでもない。


 次は、この手を隠さずに済む未来を願うために。


 冬の庭園の出口で、エリーゼの手が離れた。


 だが、もう不安はなかった。


 僕たちは別々の立場へ戻りながら、同じ答えを王へ伝えに行く。


 今度は、離れるためではない。


 同じ家へ帰る未来を、二人で選ぶために。


 これは、あの夏の恋のやり直しではない。


 今の貴女に、今の僕が、もう一度恋をした答えだった。

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