第42話 二人で選ぶ未来
「まず申し上げますが、祝福だけで済む話ではありません」
ローデン伯爵の言葉が、会議室へ落ちた。
「承知しています」
エリーゼは、僕の隣で答えた。
長い卓の中央にはアウグスト国王。
その右にルシアン王太子とエリーゼ、左にローデン伯爵と王室評議会の代表者が並んでいる。
僕はセレネ王国使節団長とともに、向かい側の席へ座っていた。
結婚を望んでいる。
僕たちがそう伝えたのは、三日前のことだった。
今日は祝意を受けるための場ではない。
その望みを、二人だけの約束から、国と制度の中へ置くための最初の会議だった。
「エリーゼ王女殿下は、アルディナ王国の第一王女です」
ローデン伯爵が続ける。
「婚姻後も称号と公務を維持されるのか。王位継承上の位置づけをどうするのか。セレネ王国の外交官を王女の夫として迎えることで、政治的な権限が生じないか」
机上の文書へ指を置く。
「感情だけでは、答えられない問題です」
「感情だけで認めていただこうとは思っていません」
エリーゼの声は静かだった。
「私は、第一王女の称号を返上しません。現在担っている公務も、婚姻を理由に辞めるつもりはありません」
「生活の拠点を国外へ移しても?」
評議会の一人が尋ねた。
「すべての公務を、王都に常駐しなければ果たせない形にはしません」
「それでは、王女殿下のご都合に制度を合わせることになります」
「いいえ」
エリーゼはすぐに否定した。
「すでに地方訪問や国外滞在中も、公文書の確認と決裁を分担してきました。私が担う役割を、王都に残すものと、国外から継続できるものへ整理します」
「具体的には?」
「国内の恒常的な行政監督からは外れます」
彼女は手元の計画書を開いた。
「その代わり、両国の王室外交、文化交流、教育機関の連携を担当します。アルディナへは定期的に帰国し、必要な会議と地方訪問へ出席します」
「頻度は?」
「平時は年に四度を基本とします。長期の案件がある場合は、滞在期間を延ばします」
「それでも足りないと判断された場合は?」
「職務を見直します」
「婚姻を?」
問われた瞬間、僕の指がわずかに動いた。
エリーゼは僕を見なかった。
王女として、正面から答える。
「婚姻を守るために、国へ必要な公務を形式だけ残すつもりはありません」
胸の奥が少し痛んだ。
けれど、彼女が続けるのを待った。
「同時に、公務を守るためなら、話し合いもせず夫との生活を諦めればよいとも考えていません」
「では、どちらを優先されるのですか」
「一方を先に捨てるのではなく、両立できる形を作ります」
評議会の代表者が眉を寄せる。
「理想論です」
「はい」
エリーゼは認めた。
「ですから、理想のままではなく、予定と責任の所在を書面へ落とします」
用意していた資料を差し出す。
「半年ごとに公務実績を確認し、王室評議会へ報告します。必要な帰国を私の私情で拒むことはしません。ただし、滞在地を王都へ固定することも求めません」
ローデン伯爵が文書へ目を落とす。
「生活拠点は、セレネ南部を希望されている」
「はい」
「なぜ王都ではないのですか」
今度は僕が答えた。
「亡き王妃陛下の故郷に近く、アルディナへの鉄道経路も確保できます。海路と陸路の双方を使えます」
「それだけですか」
「僕の家族が暮らす地域からも、遠すぎません」
母とアンナ。
僕が外交官になったからといって、支える責任が消えるわけではない。
「王女殿下のために、家族を切り離すつもりはありません」
「テオ」
エリーゼが、低く僕の名を呼んだ。
公的な場だった。
すぐに言い直す。
「レイン書記官の家族についても、私から条件を出すつもりはありません」
「王女の夫となれば、これまでと同じ生活はできません」
ローデン伯爵が言う。
「警護も必要です。家族との接触も、公的な意味を持つ場合があります」
「承知しています」
「それでも、扶養を続けると?」
「はい」
「王室から十分な手当を受けられるとしても?」
「王室の手当で、僕が家族へ果たしてきた責任を置き換えるつもりはありません」
使節団長が横から口を開く。
「セレネ側としても、レイン書記官が婚姻を理由に職を離れることは望んでいません」
「王女の夫でありながら、外国の外交官を続けることに懸念があります」
評議会側から声が上がる。
「当然です」
僕は答えた。
「アルディナ王室と直接利害が衝突する案件からは外れます」
「どこまでを直接の利害としますか」
「王室財産、王族の婚姻、王位継承、軍事同盟、アルディナとの二国間交渉です」
「それでは、外交官として扱える案件が大きく制限される」
「はい」
「昇進にも影響します」
「承知しています」
言葉にすると、重さが増した。
それでも、迷いはなかった。
「僕は、王女の夫という肩書だけで生きるつもりはありません」
アウグスト国王が、初めて僕を見る。
何も言わない。
その視線を受けたまま、続けた。
「ですが、自分の職業を守るために、婚姻から生じる利益相反を見ないふりもしません」
「王室評議会の議席は?」
「求めません」
「軍事指揮権は?」
「必要ありません」
「政治決裁権も?」
「持つべきではないと考えています」
評議会の一人が確認する。
「王女殿下の夫となっても、アルディナの統治へ直接関与しない?」
「はい」
「王女殿下を通じて、非公式に意見を通すことも?」
「僕が夫として意見を話すことはあるでしょう」
「テオ」
エリーゼが止めようとしたのではない。
慎重に、僕の答えを待っていた。
「ですが、それを公的な決定へ変える権限は持ちません」
僕は言った。
「エリーゼが王女として判断する時、僕の意見を選ぶ義務もありません」
公の場で名前を口にした。
すぐに室内の空気が少し変わる。
それでも、言い直さなかった。
「私も、そう考えています」
エリーゼが応じる。
「夫の意見だから採用することも、夫の国だから譲ることもしません」
「それで婚姻生活が成り立つのですか」
問いかけに、エリーゼはわずかに僕を見る。
「意見が同じでなければ成り立たない婚姻なら、私たちには難しいでしょう」
「王女殿下」
「ですが、違う意見を隠さず話せるなら、成り立たせることはできると思います」
僕も頷いた。
「僕たちは、一致することより、相手へ選ばせないまま決めないことを約束しました」
「それは制度ではありません」
ローデン伯爵が言う。
「はい」
「約束は破られることがあります」
「あります」
「愛情が薄れれば、現在の覚悟も変わるかもしれない」
厳しい言葉だった。
エリーゼの手が、卓の下でわずかに動く。
僕たちの間には距離があり、触れることはできない。
「だから、約束だけで認めてほしいとは申し上げていません」
エリーゼが答えた。
「役割と権限を明文化してください。互いの善意がなくても、国が損なわれない形にします」
王女としての声だった。
「そのうえで、善意が続くよう努力することは、私たち自身の責任です」
アウグスト国王がゆっくりと息を吐いた。
「王位継承については、どう考える」
初めての問いだった。
「ルシアンと、その子孫が中心となるべきです」
エリーゼは迷わなかった。
「私が婚姻した後も、第一王女としての地位は保ちます。しかし、通常の継承順位では、王太子であるルシアンとその系統を優先します」
「将来、そなたに子が生まれた場合も?」
「はい」
声は静かだった。
「例外的な事態まで、今ここで決めることはできません。ですが、私の婚姻によってルシアンの立場を揺らすつもりはありません」
「そなたの子を、最初から遠ざけることになる」
「遠ざけるのではありません」
エリーゼの指が、資料の端を押さえる。
「継承を争わせないためです」
ルシアン王太子が姉を見る。
「姉上」
「これは、貴方を庇うためだけではありません」
「分かっています」
「本当に?」
「僕を、子どもだと思っていませんか」
「少しだけ」
「姉上」
張りつめていた室内に、ほんの少しだけ別の空気が混じった。
けれど、ルシアン王太子はすぐに父へ向き直る。
「父上」
「何だ」
「僕は、この婚姻に賛成です」
「理由を述べよ」
「姉上が幸せになるからです」
「それだけなら、評議会で発言する理由にはならない」
国王の声は厳しかった。
ルシアン王太子の表情が固くなる。
「それだけではありません」
彼は一度、エリーゼを見る。
「姉上は、王女であることを捨てるとは言っていません。公務を減らして逃げるとも」
「計画どおりに進む保証はない」
「はい」
「そなたが王位を継いだ後、その負担を引き受けることになるかもしれない」
「分かっています」
「本当に分かっているのか」
ルシアン王太子は、膝の上で手を握った。
「姉上が愛を捨てなければ守れない王室なら、僕はそんな王室を継ぎたくありません」
エリーゼが息を呑む。
「ルシアン」
「ですが、愛のために姉上が責任を捨てても、僕は賛成しません」
弟は姉から目を逸らさなかった。
「姉上が国外に住むことで、僕の負担が増えるなら、先に何が増えるのかを決めてください。僕にもできないことがあります」
「ええ」
「姉上が帰国しなかった時に、黙って代わるつもりもありません」
「それでよいのです」
「でも、最初から別れればすべて解決するという話にはしたくありません」
アウグスト国王は、すぐに答えなかった。
ルシアンの一言で、何かが決まるわけではない。
ただ、王位を継ぐ本人が、姉の婚姻によって生じる負担を自分の問題として受け止めた。
それは、評議会の文書にはなかった答えだった。
◇
最初の会議だけでは、何一つ決まらなかった。
それから幾度も、文書が両国の間を往復した。
王室評議会は、エリーゼの公務を具体的に分けるよう求めた。
セレネ外務当局は、僕が担当できない案件の範囲と、任地の変更条件を提示した。
アルディナ側は、僕へ王族としての儀礼上の地位を与えながら、政治権限を持たせない方法を検討した。
言葉を一つ変えるたび、別の箇所に問題が生じた。
「『王室外交を統括する』では、権限が広すぎます」
ローデン伯爵が赤い線を引く。
「では、『国王の委任を受けて担当する』へ変更します」
エリーゼが答える。
「委任を撤回された場合は?」
「担当から外れます」
「婚姻後も?」
「公務と婚姻は別です」
僕が口を挟む。
「それで構いません」
エリーゼが僕を見る。
「私が役割を失うことを心配しているのですか」
「少し」
「先に相談する約束でしょう」
「今、相談しました」
「相談というより、心配を口にしただけです」
「では、公務から外された時は?」
「理由を確認します。必要なら異議を申し立てます。それでも決定が変わらなければ、別の役割を探します」
「僕へ相談しますか」
「もちろんです」
ローデン伯爵が咳払いをする。
「私的な相談は、会議後にお願いします」
「申し訳ありません」
僕たちは同時に頭を下げた。
別の日には、生活拠点について議論した。
「セレネ南部に王女のための新しい宮殿を建設する案があります」
評議会側の提案に、エリーゼが首を横へ振る。
「必要ありません」
「第一王女の滞在先として、相応の警備と格式が必要です」
「既存の王室別邸を改修してください」
「規模が小さすぎます」
「私と夫が暮らすには十分です」
夫、という言葉に、僕の手が止まる。
エリーゼは平静な顔を保っていた。
「公式行事の際は、近隣の王室施設を使用します。日常の住居まで、外国の王女の格式を示すために大きくする必要はありません」
「使用人の数は?」
「必要な警護と、公務を支える人数に限ります」
「生活の不便が生じます」
「料理を自分でするつもりはありません」
僕は思わず彼女を見る。
エリーゼも僕を見た。
「何ですか」
「いえ」
「何か言いたそうですね」
「賢明なご判断だと思います」
「テオ」
ローデン伯爵が再び咳払いをした。
会議が終わる頃には、エリーゼの頬が少し赤くなっていた。
その横で僕は、笑わないよう資料へ目を落としていた。
話し合いは重かった。
けれど、すべてが重苦しいわけではなかった。
住む家の広さ。
帰国の回数。
どちらの国で、どの祝日を過ごすのか。
家族を招く時、どの警備が必要か。
紙の上では制度だった。
僕にとっては、彼女との暮らしを初めて形にしていく時間だった。
やがて、最終案が卓上へ置かれた。
エリーゼは第一王女の称号を維持する。
公務は、両国の王室外交と文化交流を中心に再編する。
定期的にアルディナへ帰国し、実績は評議会へ報告する。
王位継承はルシアン王太子とその系統を通常の中心とし、将来、僕たちに子がいても、その原則を優先する。
僕には王室評議会の議席も、軍事指揮権も、政治決裁権も与えない。
外交官としての職は続けるが、アルディナ王室と直接利害が衝突する案件からは外れる。
生活拠点は、亡き王妃の故郷に近いセレネ南部の海辺。
完全な答えではない。
将来、見直さなければならない条件もある。
けれど、どちらか一人の人生を消して作った案ではなかった。
「レイン書記官」
ローデン伯爵が、文書を閉じた。
「私は、今も懸念をすべて解消できたとは考えていません」
「はい」
「王女殿下が公務と生活を両立できる保証もない。貴方が職務と王室との距離を守り続けられる保証もありません」
「承知しています」
「では、なぜ認めるのか」
伯爵は僕とエリーゼを順に見た。
「恋を守るために責任を捨てるお二人なら、私は最後まで反対しました」
エリーゼの背筋が伸びる。
「責任を守るために恋を捨てないというのなら、私も制度の側から道を探しましょう」
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
「ありがとうございます、ローデン伯爵」
エリーゼが深く頭を下げる。
僕も続いた。
「まだ礼を言われる段階ではありません」
伯爵の声は変わらず厳しい。
「条件が守られなければ、最初に異議を唱えるのは私です」
「その時は、理由を伺います」
エリーゼが答える。
「すぐに反発せず?」
「努力します」
「努力では困ります」
「では、必ず」
「王女殿下は、約束を増やしすぎる傾向があります」
「伯爵も、以前より遠慮がなくなりましたね」
「以前からです」
どこかで聞いたような返事だった。
僕とエリーゼは、同時に少し笑った。
評議会の条件付き同意。
セレネ外務当局の承認。
両国政府間の覚書。
一つずつ署名が揃った。
最後に残った欄だけが、空白だった。
アルディナ国王の最終承認。
その日の夕方。
使節団の宿舎へ、王宮から封書が届いた。
僕は自室で封を切る。
簡潔な文面だった。
『セレネ王国使節団書記官、テオ・レイン。
明朝九時、国王私室へ参内せよ。
同伴者は認めない。』
読み終えても、しばらく紙から手を離せなかった。
エリーゼではなく。
使節団長でもなく。
僕一人だけが、呼ばれていた。
制度の最後に残ったのは、一人の父親へ答えることだった。




