第43話 国王の問い
銀のカフリンクスが、うまく留まらなかった。
指先に力が入りすぎている。
僕は一度手を離し、息を吐いてから、父の形見を袖口へ通し直した。
「緊張されていますか」
国王私室の前で待つ侍従が尋ねた。
「はい」
「陛下は、お一人でお待ちです」
「それが、余計に」
冗談のつもりだったが、声が硬い。
身分の差が怖いのではなかった。
没落した男爵家の次男が、国王の前へ立つ。
それだけなら、外交官として礼を守り、尋ねられたことへ答えればよい。
今日、問われるのは別のことだ。
僕が、エリーゼの人生を本当に引き受けられるのか。
制度へ署名するだけでは答えられない問いだった。
「テオ・レイン書記官、参りました」
侍従が扉の向こうへ告げる。
「通せ」
低い声が返った。
扉が開く。
室内には、大きな机と二脚の椅子がある。
壁には地図も勲章もなく、一枚の肖像画だけが飾られていた。
亡き王妃だった。
アウグスト国王は机の向こうに座り、僕を見ている。
「セレネ王国使節団書記官、テオ・レイン。お召しにより参りました」
深く礼を取る。
「座りなさい」
「失礼いたします」
向かいの椅子へ腰を下ろす。
机の上に、婚姻条件をまとめた文書が置かれている。
最後の署名欄は、まだ空白だった。
「評議会は同意した」
国王が言う。
「セレネ側も条件を受け入れた。ローデンも、制度上は成立させられると報告している」
「はい」
「それでも、私はまだ署名していない」
「承知しています」
「理由を聞かないのか」
「陛下が、僕へ直接お尋ねになりたいことがあるのだと思っています」
「外交官らしい答えだ」
褒められたようには聞こえなかった。
「今日は、外交官として呼んだのではない」
「はい」
「娘と結婚したいという男として、答えなさい」
膝の上で手を握る。
「承知しました」
国王はすぐには質問しなかった。
僕の袖口へ、一度だけ目を向ける。
「そのカフリンクスは?」
「亡き父のものです」
「父親から受け継いだのか」
「外交官を目指すなら渡すようにと、母へ預けていたそうです」
「父親になる覚悟も、そこから受け継いだか」
答えに詰まった。
「分かりません」
正直に言う。
「父と僕は、違う人間です」
「では、何を受け継いだ」
「簡単に諦めないでほしいという願いを」
国王の視線が、僕の顔へ戻る。
「そなたは、娘へ王女を辞めろとは言わないのか」
「言いません」
迷う必要はなかった。
「王女であることは、彼女が背負ってきた人生そのものです」
「背負わされた人生とは考えないのか」
「選べなかった部分は、あると思います」
「なら、そこから救いたいとは?」
「思いません」
国王の眉がわずかに動く。
「言葉が足りませんでした」
僕は息を整えた。
「苦しみから救いたくないという意味ではありません。けれど、王女である彼女を消すことで救えるとは思っていません」
「王宮を離れれば、娘は自由になれる」
「自由になる部分もあるでしょう」
「それでも、辞めさせない?」
「僕が決めることではありません」
「娘が、そなたのために辞めると言ったら」
「理由を聞きます」
「受け入れないのか」
「すぐには」
国王の目が厳しくなる。
「愛する女が、自分を選ぶと言っても?」
「僕を選ぶことと、自分の人生を捨てることが同じなのかを、一緒に考えます」
「答えは出ないかもしれない」
「それでも、僕だけで決めません」
エリーゼは、人を守るために選択を奪った。
僕も、彼女のためだと思いながら、否定声明へ署名しようとした。
もう、同じことはしない。
「私は彼女を王宮から救い出したいのではありません」
国王の目を見る。
「王女として生きる彼女が、疲れた時に帰りたいと思える場所になりたいのです」
室内が静かになる。
暖炉の薪が、小さく音を立てた。
「美しい答えだ」
国王は言った。
「はい」
「用意してきたのか」
「いいえ」
「では、自分の答えに酔っているのか」
胸を刺すような問いだった。
「その可能性はあります」
「認めるのか」
「今の言葉だけなら、誰にでも言えます」
僕は握っていた手を開いた。
「本当に帰りたい場所になれるかは、これからの僕の行動でしか示せません」
「娘が、公務を理由に約束を破っても?」
「破られれば、悲しいと思います」
「理解ある夫として、笑って許すのではないのか」
「毎回笑って許せるとは思いません」
「では、責める?」
「理由を聞きます。納得できなければ、そう伝えます」
「王女の公務だ」
「公務であっても、何も言わずに傷つかない人間にはなれません」
国王は、少しだけ椅子へ背を預けた。
「妻が、そなたより国家を選ぶ日がある」
「はい」
「耐えられるか」
「分かりません」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「分からない?」
「傷つくと思います。嫉妬もするでしょう。僕より国を選んだのだと、悔しくなるかもしれません」
「それで、娘へ王女を辞めさせるのか」
「いいえ」
「なぜだ」
「僕が傷ついたことと、彼女の選択が間違っていることは同じではないからです」
「常に分けられるか」
「できない時もあると思います」
国王の目を逸らさない。
「その時は、時間を置いてでも話します。勝手に身を引いたり、彼女のためだと決めつけたりはしません」
「そなたが批判された時は?」
「自分で答えます」
「娘が批判された時は?」
「僕がすべて引き受けるとは言いません」
「守らないのか」
「エリーゼ自身が答える権利を奪いたくありません」
国王の指が、机の上の文書を一度叩く。
「新聞は、娘を容赦しない」
「知っています」
「そなたとの婚姻によって、王女としての判断まで疑われるだろう」
「僕の存在が理由で生じた批判から、逃げるつもりはありません」
「だが、そなたが前へ出れば、娘の声を覆う」
「だから、何を僕が話し、何を彼女が話すのかを、先に相談します」
「相談、相談か」
国王の声に、わずかな苛立ちが混じる。
「夫婦は、すべてを相談して決められるほど整ったものではない」
「はい」
「怒りに任せて言葉をぶつけることもある。聞く前に決めつけることも」
「あると思います」
「その時、どうする」
「謝ります」
「簡単だな」
「簡単ではありません」
僕は少しだけ笑った。
「僕は、自分が間違っていると認めるのが得意ではありません」
「穏やかそうな顔をしているが」
「傷つく前に諦めることで、正しいように見せていただけです」
「娘は頑固だ」
「知っています」
「強い。そなたが守らなくとも、一人で立つ」
「はい」
「では、そなたは必要ないのではないか」
胸が痛んだ。
以前の僕なら、その言葉を肯定したかもしれない。
彼女は王女だ。
僕がいなくても生きられる。
だから、自分は選ばれない。
「必要かどうかを、僕が決めるつもりはありません」
「娘が、必要だと言ったからか」
「はい」
「それだけでよいのか」
「僕も、彼女と生きたいからです」
言葉にすると、恐怖が少しだけ薄れた。
「互いに一人でも生きられるからこそ、一緒に生きることを選びたい」
国王は黙った。
「娘の弱さだけを愛しているのではないか」
「違います」
「そなたに涙を見せ、助けを求める娘は愛せる。だが、そなたへ命じ、反対し、国のために拒む娘も愛せるか」
「はい」
「即答するな」
「では、正確に申し上げます」
僕は一度、言葉を止めた。
「腹が立つことはあると思います」
国王の口元が、ほんのわずかに動いた。
「拒まれれば傷つきます。自分の方が正しいと思うこともある」
「それでも?」
「彼女が僕と違う人間であることを、なかったことにはしません」
「愛せなくなる日が来たら」
すぐには答えられなかった。
永遠に変わらないと言えば、美しい。
けれど、まだ起きていない未来を保証することはできない。
「そうならないよう、話し続けます」
「保証にはならない」
「はい」
「娘を一生愛すると誓えないのか」
「愛し続けたいと誓います」
僕は答えた。
「ただ、何もしなくても愛だけが永遠に残るとは思いません」
国王の視線が、少しだけ柔らかくなったように見えた。
「そなたは、意外に夢がないな」
「王女殿下へ、砂糖を入れすぎた紅茶を何度も飲まされましたので」
「何の話だ」
「申し訳ありません」
場違いなことを言った。
そう思ったが、国王は叱らなかった。
代わりに、机の引き出しを開ける。
古びた封筒を一通、取り出した。
「これは、王妃が私へ残した手紙だ」
胸が強く鳴る。
封はすでに開かれていた。
紙の端は何度も触れられたように、わずかに柔らかくなっている。
「エリーゼが幼い頃に書かれたものだ」
国王は手紙を開いた。
「王妃は、自分が先に死ぬと決めつけていたわけではない。だが、病が重くなってから、いくつかの手紙を残した」
声に、父としての痛みが混じる。
「読んでも?」
僕が尋ねると、国王は手紙をこちらへ向けた。
王妃の文字は、細く整っていた。
『あの子が、いつか誰かを愛する日が来たなら。
王女ではないあの子だけを愛する人を、私は認めたくありません。
王女であることは、あの子を苦しめるでしょう。
それでも、それはあの子が生きてきた時間であり、あの子自身が選び直していく人生です。
王女であるあの子の選択を聞く人なら、その言葉を最後まで聞いてあげてください。』
そこで手紙は終わっていなかった。
けれど、国王は紙を閉じた。
「続きを、読みたいか?」
「いいえ」
「なぜ」
「陛下へ宛てられた手紙です」
国王は手紙を封筒へ戻す。
「この手紙を読んだから、そなたを呼んだわけではない」
「はい」
「王妃の言葉だけで娘の婚姻を決めるなら、それは私が自分の判断を放棄したことになる」
「そう思います」
「否定しないのだな」
「陛下は、僕の返事を最後まで聞いてくださいました」
国王が、わずかに目を細めた。
「そなたが襲撃の際に娘を庇ったことは、報告で知った」
机上の文書へ手を置く。
「だが、それだけなら恩人として報いればよい」
「はい」
「正体を知った後、娘を拒んだことも」
胸が痛む。
「公開会見の直前、自らを悪者にする文書へ署名しようとしたことも知っている」
「誇れる行動ではありません」
「まったくだ」
国王の声は厳しかった。
「娘と似すぎている。どちらも、相手を守るためなら、相手へ何も聞かずに決める」
「反省しています」
「反省だけなら、誰でもする」
国王は続けた。
「そなたは、娘の名を利用せず試験を受けた。外交官となり、正式な任務でこの国へ来た」
「はい」
「再会してすぐに、昔の恋人として振る舞わなかった」
「怖かっただけかもしれません」
「それでも、娘の現在を知ろうとした」
冬の庭園が浮かぶ。
王女へ戻ったと告げたエリーゼ。
僕を案内した回廊。
雪の温室。
「婚姻を望んだ後も、王女の地位を捨てさせる案を出さなかった」
「それは、当然です」
「当然ではない」
国王の声が低くなる。
「娘を愛すると言う者の中には、娘を自分だけのものにしたい者もいる」
「僕にも、その気持ちがないとは言いません」
国王が僕を見る。
「会えない日が続けば、僕だけを見てほしいと思うこともあるでしょう」
「それでも、縛らないと?」
「縛りたいと思った時に、それを愛情と言い換えないようにします」
国王は長く沈黙した。
やがて、机上の婚姻条件へ手を伸ばす。
署名欄の前で、筆を止めた。
「最後に聞く」
「はい」
「娘を幸せにできるか」
最も簡単で、最も答えにくい問いだった。
「僕一人で、幸せにできるとは思いません」
国王の眉が動く。
「ですが、彼女が自分で選ぶ幸せの中に、僕もいたい」
手の震えは、もう止まっていた。
「僕の幸せにも、彼女にいてほしいと思っています」
「守るのではなく?」
「守ります」
「支えるのではなく?」
「支えます」
「それだけではない?」
「はい」
僕は言った。
「守られることも、支えられることも受け入れます」
国王の筆が、紙へ触れた。
黒い線が、空白だった欄を埋めていく。
アウグスト・フォン・アルディナ。
署名を終えると、国王は筆を置いた。
「娘を王女から解放する者ではなく、王女である娘と生きる者として、君を認める」
息が止まった。
「ありがとうございます」
立ち上がり、深く頭を下げる。
「まだ、父親として言うことがある」
「はい」
「娘を泣かせたら、国王ではなく父親として話を聞く」
「僕が泣かされた場合は?」
口にしてから、失礼だったかと思った。
国王はしばらく僕を見た。
「自分で娘に言いなさい」
「承知しました」
わずかに、国王の口元が緩む。
それから、引き出しの奥からもう一通の封筒を取り出した。
こちらは封が閉じたままだった。
表には、一人の名だけが記されている。
『エリーゼへ』
「王妃が娘へ残した、最後の手紙だ」
「僕がお預かりしてよいのですか」
「娘へ渡す」
国王は封筒を僕へ差し出さなかった。
「ただし、開く時はエリーゼ自身に決めさせる」
「はい」
「婚姻を認めたと伝える時、この手紙の存在も話す」
国王は封筒へ視線を落とした。
「王妃の言葉に答えを求めるためではない。娘自身の答えを選んだ後で、読ませたい」
「承知しました」
国王は封筒を机の上へ置いたまま、僕を見た。
「行きなさい。待っているだろう」
「どちらで?」
「それくらいは、自分で探せ」
最後まで、簡単には教えてもらえなかった。
国王の署名は、僕たちの物語へ与えられた結末ではない。
父が娘へ返した、未来を選ぶ権利だった。




