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君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~  作者: ぱるめりあ
第七部「君と迎える朝」

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第45話 僕が恋した王女様

 雨音で目が覚めた。


 窓を打つ雫は細く、途切れる気配がない。


 僕は鏡の前で、父の銀のカフリンクスを袖口へ通した。


「兄さん、まだ終わらないの?」


 扉の向こうから、アンナの声がする。


「今、留めたところだよ」


「さっきも同じことを言っていたわ」


「右を留めたところだったんだ」


「では、左にどれだけ時間をかけているの?」


 扉が開き、正装したアンナが顔を覗かせた。


 以前より背が伸びている。


 それでも、僕を見る目は昔と変わらない。


「曲がっている」


「どこが?」


「全部」


「具体的に言ってくれないかな」


 アンナは部屋へ入り、僕の襟元を両手で直した。


「兄さんが王女様と結婚する日なのに、どうして私が世話をしているのかしら」


「僕にも分からない」


「お母様は泣いて、役に立たないし」


「もう泣いているの?」


「朝食の時から」


 廊下の向こうで、母の声がした。


「アンナ。テオを困らせてはいけませんよ」


「困っているのは私です」


 母が部屋へ入る。


 目元は赤かったが、表情は穏やかだった。


「よく似合っていますよ」


 母は僕の正装を見た後、袖口の銀へそっと触れた。


「お父様のカフリンクスも、今日つけてもらえて喜んでいるでしょうね」


「父さんにも、見せたかったな」


「ええ」


 母は短く頷いた。


「でも、今日ここに立っているのは貴方です。お父様の代わりではなく、貴方が選んだ道を歩いてきた、テオです」


 胸の奥が熱くなる。


「そうだといい」


「そうですよ」


 母は迷わず言った。


「外交官になったことも。自分で選んだ方と結婚することも」


 胸の奥が熱くなる。


「泣かないでくださいね」


 アンナが言う。


「式の前に兄さんまで泣いたら、誰が支えるの?」


「君は、もう少し兄を敬ってもいいと思う」


「今日は敬っています」


「今日だけ?」


「今日だけです」


 母が笑った。


 雨の音は続いている。


 一年半前。


 停車場でも雨が降っていた。


 届かない窓の向こうへ手を伸ばし、遠ざかる列車を追った。


 同じ雨の朝に、今日は彼女を見送るのではない。


 迎えに行く。


「テオ」


 母が僕の肩へ手を置いた。


「行きましょう」


「はい」


 僕は父のカフリンクスをもう一度確かめ、部屋を出た。


◇


 大聖堂の前には、雨にもかかわらず大勢の人々が集まっていた。


 傘と外套の向こうから、声が上がる。


 セレネ王国の旗。


 アルディナ王国の旗。


 その間に、柑橘の枝を模した飾りが並んでいる。


 馬車から降りた僕へ、花びらが投げられた。


 雨に濡れた花びらが、肩や髪へ張りつく。


「レイン書記官!」


「おめでとう!」


「王女殿下を泣かせるなよ!」


 最後の声には、どこか聞き覚えがあった。


 振り返ると、夏祭りの楽団員が軒下から手を振っている。


 楽器を雨から守るため、布を何重にも巻いていた。


「式の後には晴れる予定だ!」


「誰が決めたのですか!」


 僕が声を返すと、周囲に笑いが起きる。


 大聖堂の入口では、ロスウェル侯爵夫妻が待っていた。


「遅くはありませんね」


 マリアンヌ夫人が、僕を上から下まで確認する。


「予定より早く着きました」


「新郎が逃げ出さないよう、使節団長が見張っていたのでしょう」


「その必要はありません」


 侯爵が答える。


「逃げるなら、もっと前に逃げている」


「それもそうですね」


 夫人は僕の袖口を見る。


「お父上のものですね」


「はい」


「よい選択です」


 その言葉だけで、十分だった。


 大聖堂の中へ入る。


 高い天井の下に、両国の人々が並んでいた。


 前方にはアウグスト国王とルシアン王太子。


 ローデン伯爵は儀礼の確認を終えたところらしく、手元の時計へ目を落としている。


 クラリスは祭壇近くの席にいた。


 いつもと同じ落ち着いた表情だが、手にしたハンカチを何度も折り直している。


 母とアンナは、マリアンヌ夫人の隣へ案内された。


 少し離れた席には、夏を過ごした宿屋の夫婦がいる。


 僕に気づいた主人が、胸の前で大きく親指を立てた。


 妻に肘で止められている。


 市場の店主は、祝いの菓子を運び終えたのだろう。


 正装の胸元に、柑橘色の小さな花を挿していた。


「レイン書記官」


 声をかけられ、振り返る。


 マクシミリアン王子が立っていた。


「本日は、ご参列いただきありがとうございます」


「祝福を伝えに来ました」


 王子は穏やかに言った。


「貴方と王女殿下が、ここまでたどり着いたことを嬉しく思います」


「殿下にも、ご決断をいただきました」


「私は、自分の人生を選んだだけです」


 彼は微笑んだ。


「今日の主役は、私ではありません」


「はい」


「王女殿下を、お幸せに」


 そこで少し言葉を切る。


「ただし、幸せにして差し上げる、とは考えない方がよいでしょう」


「陛下にも、似たことを言われました」


「では、もうご存じですね」


「二人で幸せになるつもりです」


「それがよい」


 短く握手を交わす。


 敗れた恋敵の顔ではなかった。


 自分の道を選び、今日ここへ祝福に来た一人の王子だった。


 聖堂の奥で、鐘が一度鳴る。


 話し声が止まった。


 僕は祭壇の前へ進む。


 雨の音が、石壁の向こうで遠く聞こえる。


 扉が閉じられたまま、しばらく時が過ぎた。


 手のひらが汗ばむ。


 父のカフリンクスへ触れようとして、やめた。


 もう何度も確かめた。


 今、確かめるべきなのは、そこではない。


 やがて、大聖堂の扉がゆっくりと開いた。


 光の代わりに、雨に白く霞んだ空が見える。


 その中央に、エリーゼがいた。


 息をすることを忘れた。


 銀白色の髪は柔らかく結い上げられ、その上から長いヴェールが流れている。


 後でマリアンヌ夫人から聞いた。


 亡き王妃が婚礼で身につけたものを、今日のために整え直したのだと。


 白いドレスの胸元には、アルディナ王家の紋章。


 けれど、重い宝飾は多くない。


 青灰色の瞳が、まっすぐ僕を見ていた。


 エリー・アルノーと名乗った少女。


 第一王女エリーゼ・フォン・アルディナ。


 どちらか一方ではない。


 その両方を抱えて歩いてきた彼女が、父王の腕を取り、僕のもとへ進んでくる。


 アウグスト国王は、いつもの厳しい表情をしていた。


 けれど、祭壇まで半分ほど来たところで、エリーゼへ何かを囁いた。


 近づくにつれ、その声が聞こえた。


「エリーゼ」


「はい、父上」


「母の故郷で過ごした、あの夏を後悔しているか」


 エリーゼは足を止めなかった。


「いいえ」


 声は、聖堂の静けさの中ではっきり届いた。


「あの夏が終わったから、私は自分で次の季節を選べました」


 国王の顔が、ほんの少しだけ歪んだ。


 泣いたようには見えなかった。


 ただ、娘の手を取る腕へ力が入る。


「そうか」


「はい」


「なら、よい」


 二人は僕の前まで歩いてきた。


 国王はエリーゼの手を僕へ差し出す。


「テオ・レイン」


「はい、陛下」


「娘を託すとは言わない」


 聖堂が静まる。


「この娘は、誰かへ渡すことのできるものではない」


「はい」


「そなたの人生も同じだ」


 国王は僕を見た。


「二人で選び続けなさい」


「必ず」


 エリーゼの手を取る。


 手袋越しでも、指がわずかに震えているのが分かった。


「緊張していますか」


 小声で尋ねる。


「しています」


「僕もです」


「そうは見えません」


「今日は、かなり見せないようにしています」


「では、後で確認します」


「何を?」


「手が震えていたかどうかを」


 こんな時まで、いつもの会話ができる。


 それだけで、少し呼吸が楽になった。


 式が始まる。


 両国の婚姻協定が読み上げられた。


 長い条件をすべて朗読することはなかった。


 エリーゼが第一王女としての称号と公務を保つこと。


 僕が外交官としての職を続けること。


 二人が互いの立場を失わせずに婚姻すること。


 必要な部分だけが、聖堂の中へ響いた。


 続いて、誓いの言葉を求められる。


 最初に僕が、エリーゼへ向き直った。


 ヴェール越しではなく、彼女の目を見る。


「僕が最初に恋をしたのは、エリー・アルノーという名の少女でした」


 参列者の間に、かすかな息遣いが走る。


「けれど、その名が偽りだったからといって、あの夏まで偽りになったわけではありません」


 エリーゼの指が、僕の手を握る。


「僕は、海を見て笑った貴女を愛しました」


 雨の停車場が浮かぶ。


「王女として国の前に立ち、自分の言葉を選んだ貴女を愛しました」


 冬の王宮。


 長い回廊。


 砂糖を二杯で止めた紅茶。


「疲れることも、迷うことも、頑固なことも知りました」


 エリーゼの眉がわずかに動く。


 今、それを言うのかと思っている顔だった。


「偽名の少女か、遠い王女か。そのどちらか一方を選ぶのではありません」


 声が震えそうになる。


 それでも、最後まで言う。


「そのすべてを抱えて生きてきた貴女を、これからも知り続け、愛し続けます」


 エリーゼの瞳に、涙が浮かぶ。


「貴女の責任を奪わず、僕の責任も手放さず、隣で生きることを誓います」


 聖堂のどこかで、母が鼻をすする音がした。


 アンナがハンカチを渡している姿が、視界の端に入る。


 次は、エリーゼの番だった。


 彼女は一度息を整える。


「私が最初に愛したのは、ロスウェル侯爵家の秘書でした」


 僕は少しだけ笑った。


「自分の望みより、家族の暮らしを優先し、自分には選べない未来だと決めていた人です」


 正確だった。


「私は、そんな貴方へ真実を隠しました」


 声は、逃げずに聖堂へ響く。


「守りたいと思いながら、貴方から選ぶ権利を奪いました」


 僕は彼女の手を握り返す。


「それでも貴方は、自分の道を選び直し、私のもとへ戻ってきてくれました」


 エリーゼが僕を見る。


「私は王女です」


 胸元の紋章が、蝋燭の光を受ける。


「これからも国の責任を負い、時には貴方より公務を優先します」


「はい」


「強くあろうとして、弱いと言えない日もあるでしょう」


 声が少し揺れる。


「妻として生きる私が、どのような人間になるのか、今の私にも分かりません」


「僕もです」


「では、一緒に知ってください」


 涙の向こうで、エリーゼが笑った。


「王女である私も。弱い私も。貴方の妻として生きる私も」


「はい」


「私も、外交官である貴方を、家族を支える貴方を、迷いながら私の隣を選ぶ貴方を愛します」


 指先に力が入る。


「貴方の人生を奪わず、私の人生も手放さず、共に生きることを誓います」


 誓いの後に、指輪が運ばれてきた。


 冬の庭園では、何も準備していなかった。


 今、僕の手の中には、両国の職人が整えた簡素な金の輪がある。


 大きな宝石はない。


 内側に、二人の名と婚礼の日付だけが刻まれている。


 エリーゼの左手へ指輪を通す。


 少しだけ指が震えた。


「震えています」


 彼女が小声で言う。


「後で確認する必要はなくなりましたね」


「私も震えています」


「知っています」


 エリーゼが僕の指へ輪を通す。


 途中で少し引っかかった。


「入りません」


「落ち着いてください」


「テオの指が大きいのです」


「今まで測ったはずでは?」


「私が作ったわけではありません」


「分かっています」


 小さな笑いが、前列から漏れる。


 エリーゼは頬を赤くしながら、今度こそ指輪を収めた。


 司祭が、僕たちを夫婦として宣言する。


 その瞬間だった。


 雨音が、止んだ。


 誰かが息を呑む。


 大聖堂の正面扉が開かれる。


 雲の切れ間から差した光が、濡れた石床をまっすぐ祭壇まで伸びてきた。


 奇跡ではない。


 ただ、雨が止んだだけだ。


 けれど、その場にいた誰もが空を見上げた。


 鐘が鳴る。


 一つ。


 二つ。


 やがて、大聖堂だけではなく、王都中の鐘が応えるように鳴り始めた。


 外から祝砲が響く。


 少し遅れて、港の汽笛が重なった。


 低く長い音が、街の向こうまで広がっていく。


「エリーゼ」


「テオ」


 ヴェールが上げられる。


 母のものだった白い布の向こうから、僕の妻になる人の顔が現れる。


 涙の跡。


 赤くなった頬。


 笑おうとして、うまく笑えていない唇。


 完璧な王女の顔ではなかった。


 僕が愛した、エリーゼの顔だった。


「口づけても?」


「結婚式でも聞くのですね」


「大勢が見ていますから」


「では、早くしてください」


 身体をかがめる。


 唇が重なる。


 聖堂中から、拍手と歓声が上がった。


 外では、夏祭りの楽団が演奏を始める。


 雨上がりの風に乗り、あの夏と同じ旋律が届く。


 扉の外へ出る。


 雲はまだ空の大半を覆っていた。


 けれど、光は確かに王都へ落ちている。


 花びらが降る。


 白。


 青。


 柑橘色。


 雨に濡れた群衆が、傘を閉じて手を振っている。


「エリーゼ王女殿下!」


「レイン書記官!」


「おめでとう!」


 公の名と称号が、次々に呼ばれる。


 僕たちは手をつないだまま、その声を受けた。


 以前なら隠さなければならなかった手だった。


 今日は、誰の前でも離す必要がない。


 アウグスト国王が後ろから歩いてくる。


 ルシアン王太子は姉へ近づき、何かを言おうとして、先に泣いた。


「ルシアン」


「泣いていません」


「泣いています」


「雨です」


「もう止みました」


「では、先ほどの雨が残っているだけです」


 エリーゼが弟を抱きしめる。


 ルシアン王太子も、ほんの一瞬だけ姉の背へ腕を回した。


 ローデン伯爵は、その様子を止めなかった。


 ただし、少し離れたところで時計を確認している。


「祝宴の開始が遅れます」


「今日くらいはいいだろう」


 国王が言う。


「陛下まで、そのようなことを仰るのですか」


「今日だけだ」


「記録しておきます」


 ローデン伯爵の返事に、近くの者たちが笑った。


◇


 祝宴の食卓には、見慣れた湯気が上がっていた。


「魚のスープ……」


 エリーゼが目を見開く。


「覚えておられましたか、王女殿下」


 宿屋の主人が、大きな鍋の前で胸を張る。


「忘れるはずがありません」


「婚礼の料理にするには、少し地味だと言われましたがね」


 妻が横から言う。


「この人が、どうしても出すと」


「最初の食事だったのでしょう?」


 主人が僕を見る。


「はい」


「なら、必要だ」


 大きな晩餐用の器ではなく、あの宿屋で使われていたものに似た白い皿へ、スープが注がれる。


 香草。


 魚。


 温かな湯気。


 僕たちは並んで腰を下ろした。


 一年半前は、偽名の令嬢と侯爵家の秘書として向かい合った。


 今日は同じ食卓で、夫婦として隣に座っている。


「いただきます」


 エリーゼが匙を取る。


 一口飲み、目を細めた。


「同じ味です」


「少し違います」


 宿屋の妻が言う。


「今日は、いつもよりよい魚を使っていますから」


「では、同じではありませんね」


「王女殿下は正直ですね」


「嘘をつかないことにしましたので」


 僕たちは顔を見合わせた。


 市場の店主が、次の皿を運んでくる。


 小さな柑橘の菓子が、二つ並んでいた。


「半分にする必要はありませんよ」


 店主が言う。


「今日は、お二人に一つずつです」


「大きさは同じですか」


 エリーゼが確認する。


「もちろん」


「以前は、エリーゼが大きい方を取りました」


「テオ」


「事実です」


「結婚式の日まで言うのですか」


「忘れていませんので」


 店主が笑いながら、皿を置いた。


 エリーゼは二つを見比べる。


 その後で、ほんの少し大きく見える方を僕へ押した。


「どうぞ」


「よいのですか」


「今日は特別です」


「明日からは?」


「公平に分けます」


 僕は菓子を受け取った。


「結婚生活の最初の条件ですね」


「婚姻協定へ追加しますか」


「ローデン伯爵が困ります」


 少し離れた席で、伯爵がこちらを見た。


 聞こえていたらしい。


 僕たちは同時に口を閉じた。


 祝宴が進むにつれ、楽団の音が近づいてくる。


 夏祭りで聞いた旋律。


 あの日は、広場の端でエリーゼの手を取った。


 今日は、大聖堂に続く王宮の広間で、何百人もの前に立っている。


「踊っていただけますか」


 僕は彼女へ手を差し出した。


「喜んで」


 エリーゼが手を重ねる。


 広間の中央へ進む。


 周囲の人々が道を開けた。


 音楽が始まる。


 最初の一歩。


 次の一歩。


 エリーゼの動きは、夏よりずっと滑らかだった。


「上達しましたね」


「王女ですから」


「それは関係がありますか」


「舞踏の練習も公務の一部です」


「では、もう足を踏まれる心配はありませんね」


「おそらく」


 その直後。


 靴の先へ、はっきりとした重みが乗った。


「痛いです」


「失礼しました」


 声に、まったく申し訳なさがない。


「わざとですね」


「証拠は?」


「今の顔です」


「どのような顔をしていますか」


「嬉しそうです」


 エリーゼが少し笑う。


「王女殿下でも、まだ踊りは苦手ですか」


「今は王女殿下として踊っているのではありません」


「では、何として?」


 エリーゼが僕を見上げる。


「貴方の妻としてです」


 胸の奥が、また熱くなる。


「それなら、足を踏んでもよいと?」


「妻には、その権利があるのでは?」


「婚姻条件にありません」


「後で追加を相談します」


「拒否します」


「意見が違いましたね」


「話し合いが必要です」


「では、踊りながら」


 曲に合わせ、身体を回す。


 銀白色の髪が揺れ、亡き母のヴェールが柔らかな弧を描く。


「エリーゼ」


「はい、テオ」


 名前を呼ぶ。


 ただ、それだけでよかった。


 偽名でも、称号でもない。


 彼女が生まれた時から持ち、僕が知り直した名前。


「もう一度、呼んでも?」


「何度でも」


「エリーゼ」


「テオ」


 音楽が高くなる。


 楽団の旋律へ、拍手が重なる。


 アウグスト国王が見ている。


 ルシアンが手を叩いている。


 マリアンヌ夫人は泣きながら笑い、母も同じ顔をしていた。


 アンナは呆れたように二人へハンカチを渡している。


 クラリスは胸元で手を重ね、ローデン伯爵は時計を見ることをやめていた。


 宿屋の夫婦。


 市場の店主。


 侯爵家の人々。


 両国の代表。


 あの夏を知る者も、知らない者も。


 皆の前で、僕たちは踊っていた。


 雨の停車場では、伸ばした手が届かなかった。


 今は、彼女の手が僕の手の中にある。


 離れないよう強く握る必要はない。


 曲が終われば、一緒に同じ食卓へ戻る。


 夜になれば、それぞれ別の馬車へ乗るのではない。


 明日の朝も、その次の朝も、同じ人生の中で目を覚ます。


 音楽が終わる。


 僕たちは互いに礼をした。


 エリーゼが、すぐには手を離さない。


 僕も離さなかった。


 歓声と拍手の中で、もう一度名前を呼ぶ。


「エリーゼ」


「はい、テオ」


 僕が恋をした王女様は、僕の妻になった。


 けれど彼女は、僕のものになったのではない。


 王女である自分も、一人の女性である自分も抱いたまま、僕と生きることを選んでくれた。


 そして僕も、彼女の隣で生きる自分を選んだ。

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