最終話 君と迎える朝
結婚式の花束から、白い花を三本だけ残した。
エリーゼはそれを両手で抱え、海辺の小道を歩いている。
数日前まで僕たちを包んでいた鐘も、祝砲も、歓声もない。
聞こえるのは、波が岸へ寄せては戻る音だけだった。
「静かですね」
エリーゼが言う。
「寂しいですか」
「いいえ」
彼女は海の方へ顔を向けた。
「今は、このくらいがよいです」
風が、銀白色の髪を揺らす。
婚礼衣装ではなく、淡い青色の外出着。
胸元には王家の紋章があり、少し離れた場所にはクラリスと護衛がいる。
結婚したからといって、彼女が第一王女でなくなったわけではない。
それでも今日、僕の隣を歩く彼女は、公務へ向かう王女ではなかった。
母へ結婚を報告しに行く、一人の娘だった。
「疲れていませんか」
「大丈夫です」
「式から、ほとんど休めていないでしょう」
「テオも同じです」
「僕は、微笑んで手を振る公務には慣れていません」
「私も、結婚式であれほど長く手を振ったのは初めてです」
「王女殿下でも?」
「今日は、王女殿下ではありません」
「では、何とお呼びすれば?」
エリーゼが僕を見る。
「妻です」
「妻殿」
「そういう呼び方は求めていません」
「難しいですね」
「エリーゼでよいのです」
「はい、エリーゼ」
彼女の口元が緩む。
その笑みはすぐに消え、丘の上へ向けられた。
海を見下ろす場所に、小さな墓地がある。
亡き王妃は、アルディナ王都の王家の墓所ではなく、故郷に近いこの土地へ葬られることを望んだという。
白い石の墓標には、王妃としての名と、生まれた日、亡くなった日だけが刻まれていた。
エリーゼは墓前へ進み、花を置く。
「お母様」
声が、波音へ溶ける。
「結婚しました」
僕は彼女から数歩離れた。
ここから先は、母と娘の時間だ。
立ち去れば声が聞こえなくなる。
近くにいれば、エリーゼが一人で話せないかもしれない。
迷った末、墓標から視線を外し、海を見る位置で待った。
背後で、紙の擦れる音がした。
アウグスト国王から渡された、亡き王妃の最後の手紙。
封筒の表には、エリーゼの名。
裏には、王妃の筆跡で一文が記されていた。
『自分で人生を選んだ日に、開けてください』
エリーゼは、結婚を許された日には開かなかった。
結婚式の日も。
今日、母の前で読むことを自分で選んだ。
封が切られる。
しばらく、何も聞こえなかった。
波が寄せる。
風が草を揺らす。
僕は振り返らずに待った。
「テオ」
呼ばれて、ゆっくりと振り向く。
エリーゼは開いた手紙を胸元へ抱えていた。
目元は濡れている。
「こちらへ来てください」
「よいのですか」
「はい」
隣へ立つと、彼女は手紙の端を僕へ差し出した。
「読んでほしいのです」
「王妃陛下から、エリーゼへの手紙です」
「今は、貴方にも読んでほしい」
僕は受け取った。
細く整った文字。
ところどころ、筆圧が弱くなっている。
『愛するエリーゼへ。
あなたがこの手紙を読む時、私は隣にいないのでしょう。
何歳になったあなたが読んでいるのか。どのような顔で、この封を開いたのか。想像しても、私には分かりません。
だから、あなたの未来を決める言葉は残しません。
これは、私が選べなかったことについての手紙です。』
最初の数行で、喉の奥が詰まった。
続きを目で追う。
『私は、アルディナへ嫁ぐことが決まった時、とても怖かった。
生まれた国を離れることも、知らない王の妻になることも、王妃という役目を負うことも。
本当は、自分で選びたいと言いたかった。
けれど、王女として育てられた私は、その言葉を口にすることができませんでした。
泣けば家族を困らせる。
拒めば国を困らせる。
そう思い、従うことだけが正しいのだと、自分へ言い聞かせました。』
エリーゼは、僕の腕へそっと手を添えた。
『アウグストとの結婚は、最初から愛に満ちたものではありませんでした。
私は故国を恋しがり、彼はどう接すればよいか分からず、何度も互いを傷つけました。
それでも、言葉を交わし、同じ食卓を囲み、喜びも失敗も共にするうち、私は彼を愛するようになりました。
王妃としての人生も、あなたとルシアンを得たことも、私は幸福でした。
だからこそ、長く認められなかったのです。
幸福だった私が、あの時、選びたいと願っていたことを。
義務に従った結果、愛を得た。
それなら、最初に選べなかったことまで正しかったのだと、そう思い込もうとしました。』
文字がわずかに滲んで見えた。
風のせいではなかった。
『けれど、義務と愛の片方しか選べないと決めたのは、誰だったのでしょう。
国でしょうか。
家族でしょうか。
それとも、言っても無駄だと諦めた私自身でしょうか。
あなたには、私と同じ諦め方をしてほしくありません。
王女であることを憎んでほしいのでもありません。
王女であるあなたを連れ去る人ではなく、王女として疲れたあなたが帰りたいと思える人を選びなさい。
その人が、あなたの選択を最後まで聞いてくれる人であるよう、願っています。
その人を選べたのなら、私に謝らないでください。
幸福になったと、ただ教えてください。』
手紙は、娘の名で結ばれていた。
僕は最後まで読み、エリーゼへ返す。
「お母様は」
彼女が声を絞り出す。
「ご自分の結婚を、後悔していたのでしょうか」
「僕には、そうは読めませんでした」
「では」
「幸せだったことと、選べなかった寂しさは、同時にあったのではないでしょうか」
エリーゼは手紙へ視線を落とす。
「片方が本当なら、もう片方が嘘になるわけではありません」
「……そうですね」
彼女は墓標の前へ膝をついた。
僕は再び、数歩下がる。
エリーゼは手紙を胸へ抱き、母の名を見上げた。
「お母様」
今度の声は、先ほどよりはっきりしていた。
「私は、王女であることを捨てませんでした」
波が岩へ当たる。
「でも、自分の愛も捨てませんでした」
一度、言葉が途切れる。
「怖くて、間違えて、大切な人から選ぶ権利を奪いました」
僕は黙って聞いた。
「それでも、もう一度話しました。今度は、相手の答えを聞きました」
エリーゼの肩が震える。
「私は、自分で選びました」
手袋をした指が、墓石へ触れる。
「王女として生きることも」
風に、髪が揺れる。
「テオと生きることも」
彼女は小さく息を吸った。
「……幸せです」
涙が一粒、墓前の白い花へ落ちた。
「お母様。私は、幸せです」
それ以上、言葉はなかった。
必要もなかった。
しばらくして、エリーゼは立ち上がった。
涙を拭き、手紙を丁寧に封筒へ戻す。
そして、自分から僕のもとへ歩いてくる。
差し出された手を取った。
「帰りましょう、テオ」
「はい。僕たちの家へ」
丘を下りる。
背後には母の墓。
正面には海へ続く道。
エリーゼは一度も振り返らなかった。
忘れたからではない。
言うべきことを言い、これから帰る場所を自分で選んだからだ。
◇
新居は、海を見下ろす小さな丘の上にあった。
王宮が当初提案した宮殿より、ずっと小さい。
それでも警護の詰所があり、公務に使う執務室もある。
僕たち二人だけで暮らす家ではない。
クラリスも、必要な使用人も、護衛もいる。
王女であるエリーゼが暮らす家だ。
けれど、玄関の扉を開ける時だけは、僕たちの家だった。
「少し待ってください」
敷居をまたごうとしたエリーゼを止める。
「何ですか」
「僕が先に入ります」
「安全の確認ですか」
「違います」
僕は扉を開き、室内へ入った。
窓から、午後の光が差し込んでいる。
荷ほどきはまだ終わっていない。
廊下の端には木箱が積まれ、居間の机には公務書類と食器が同じように置かれていた。
整った宮殿とは程遠い。
僕は玄関へ向き直る。
外には、エリーゼが立っている。
銀白色の髪。
青灰色の瞳。
手には、青い糸で綴じられた願い帳。
「お帰りなさい、エリーゼ」
彼女の瞳が、ゆっくりと細められた。
「ただいま、テオ」
敷居を越える。
その一歩を、僕はずっと忘れないと思った。
「願い帳を」
エリーゼが言う。
居間の机へ向かう。
木箱の隙間へ椅子を二脚並べ、隣同士に座った。
青い糸をほどく。
夏の日付が書かれたページを、一枚ずつめくる。
好きな菓子を選ぶ。
海を見る。
家族と食事をする。
好きな人へ朝食を作る。
王女である自分を知っても、愛してもらう。
自分で選んだ人と結婚する。
印の付いた願いの先に、最後の一行がある。
『愛する人と、同じ家へ帰る』
「今度こそ、よいでしょうか」
エリーゼが尋ねる。
「確認が必要ですか」
「念のためです」
「誰と帰ってきましたか」
「テオ・レインです」
「どこへ?」
「私たちの家へ」
「では、叶っています」
エリーゼは鉛筆を取った。
一行の横へ、小さな印を付ける。
手を止め、もう一つ、重ねるように線を引いた。
「二度も付けるのですか」
「一つは、私の分です」
「もう一つは?」
「テオの分です」
「僕の願い帳ではありません」
「私の願いを叶えた人なので、必要です」
「そういう決まりでしたか」
「今、決めました」
彼女は帳面を閉じた。
青い糸を、結び直す。
「終わってしまいました」
「何がですか」
「夏の願いが、全部」
少し寂しそうな声だった。
「新しい帳面を作りますか」
「また願い事を?」
「今度は、季節を限定せずに」
「どのくらい?」
「一生分では、多すぎますか」
エリーゼは考える。
「書き終える前に、次が増えそうです」
「では、それでよいのでは?」
「終わらない帳面ですね」
「急いで終わらせる必要はありません」
エリーゼは鞄から、新しい白い帳面を取り出した。
表紙には、あの願い帳と同じ青い糸が結ばれている。
「新しい願い帳ですか」
「いいえ。これは、二人で選ぶ未来の帳面です」
最初の頁には、一行だけ書かれていた。
『愛する人と、何度でも同じ家へ帰る』
「これは、印を付ける日が来ますか」
「毎日です」
彼女はそう答え、青い糸を僕の指へ預けた。
二人で結び目を作る。
今度の帳面には、終わりを急ぐ理由がなかった。
エリーゼは願い帳を胸へ抱えた。
「最初の願い帳も、終わるまで長くかかりました」
「途中で国を挟みましたから」
「国のせいにしないでください」
「僕たちにも問題がありました」
「それなら正しいです」
家の中へ、穏やかな波音が届く。
窓の外には、夏の日に彼女が初めて見た海と同じ海が広がっていた。
けれど、あの日とは違う。
もう帰りの列車を気にする必要はない。
海を見終えた後、同じ家へ戻れる。
「明日の朝食は、私が作ります」
突然の言葉に、僕は願い帳から顔を上げた。
「なぜですか」
「最後の願いまで叶いましたから、新しい生活の最初の願いです」
「料理人に任せても」
「テオ」
「はい」
「私が作ります」
こういう時の彼女は、王女であるかどうかに関係なく頑固だ。
「クラリス殿の監督を付けてください」
「信用がありませんね」
「経験がありますから」
「以前より上達しました」
「いつ練習を?」
「王宮で」
「厨房へ入れてもらえたのですか」
「三度だけです」
「成果は?」
エリーゼは答えなかった。
僕は少し不安になった。
それでも、断るという選択肢はなさそうだった。
「楽しみにしています」
「今、少し間がありました」
「気のせいです」
「嘘をつかないことにしたのでしょう」
「覚悟を決める時間でした」
「失礼です」
そう言いながら、エリーゼは楽しそうに笑った。
翌朝。
焦げた匂いで目が覚めた。
「エリーゼ」
寝室を出る。
廊下の向こうから、クラリスの落ち着いた声が聞こえる。
「殿下。火から下ろしてください」
「まだ、こちら側が焼けていません」
「反対側は、十分すぎるほど焼けています」
「切れば分かりません」
「テオ様は分かると思います」
厨房へ入ると、エリーゼが真剣な顔でパンを見つめていた。
白い朝用の服へ前掛けをつけている。
机の上には、形の整った卵料理。
温かなスープ。
そして、端だけ黒く焦げたパン。
「おはようございます」
僕が言うと、エリーゼが振り返った。
「まだです」
「何が?」
「完成していません」
「十分に見えます」
「パンが」
僕は皿を見る。
「以前より、かなりよくなっています」
「本当に?」
「卵は形があります」
「前回も形はありました」
「殻が入っていません」
「今回は、すべて取りました」
「成長ですね」
「子ども扱いしていませんか」
「していません」
クラリスが、焦げたパンを別の皿へ移す。
「こちらは、お出ししない方が」
「食べます」
僕が言うと、エリーゼが目を見開いた。
「無理をしなくても」
「全部食べます」
「焦げていますよ」
「知っています」
「では、残しても構いません」
「それとこれとは別です」
以前と同じ答えに、エリーゼの口元が緩んだ。
食堂の窓辺へ、二人分の朝食を運ぶ。
向かいではなく、隣に座ることもできた。
けれどエリーゼは、最初の日と同じように向かい側を選んだ。
「顔を見たいので」
理由まで先に言われる。
「僕もです」
パンを口へ運ぶ。
端は苦い。
中央は、きちんと温かかった。
「どうですか」
「以前よりおいしいです」
「以前と比べて?」
「はい」
「今日の朝食としては?」
逃げ道を塞がれた。
「パンの端は焦げています」
「知っています」
「卵はおいしいです」
「スープは?」
「おいしいです」
「パンは?」
「全部食べます」
「答えになっていません」
「嘘をつかないことにしたので」
エリーゼは不満そうにパンを一口食べた。
すぐに眉を寄せる。
「苦いです」
「焦げていますから」
「なぜ平気なのですか」
「平気ではありません」
「では、残してください」
「残しません」
「頑固ですね」
「以前からです」
「それは私の台詞です」
朝の光が、食卓へ差し込む。
窓の外には海。
夏の日差しより柔らかく、風も少し涼しい。
けれど、波の色はあの日と同じだった。
エリーゼがカップへ手を伸ばす。
砂糖を一杯。
二杯。
三杯目へ伸びかけた匙が、途中で止まる。
僕は何も言わず、砂糖壺を少しだけ遠ざけた。
「またですか」
「ご自分で止まりましたから」
「今日は、入れてもよいと思っていました」
「では、戻しましょうか」
「結構です」
エリーゼは二杯入りの紅茶を飲む。
少しだけ顔をしかめた。
それでも、砂糖を足さなかった。
「テオ」
「はい」
「この夏が終わったら、どうなるのでしょう」
以前なら、その問いに胸が締めつけられただろう。
夏の終わりは、別れの日だった。
今は違う。
「秋になります」
「それだけ?」
「冬になって、春になって。また一緒に夏を迎えます」
「公務で、同じ場所にいない時もあるでしょう」
「その時は、帰る日を決めます」
「喧嘩をすることも」
「あると思います」
「私が、朝食を失敗することも?」
「それは、かなりありそうです」
「テオ」
「冗談です」
「半分ほどは本気でしょう」
「はい」
エリーゼは呆れたように笑った。
「それでも、一緒に迎えられますか」
「はい」
僕は最後のパンを食べる。
少し苦くて、温かい。
「夏だけではありません」
彼女の手を取る。
「どの季節も、君と迎えます」
エリーゼの指が、僕の指へ重なる。
大聖堂の鐘も、祝砲も、歓声もない。
ただ、窓の外で波が鳴り。
食卓には、少し焦げたパンがあり。
向かいには、僕が選び、僕を選んだ人がいる。
それが、僕たちの幸福だった。
君と過ごしたあの夏は、最後ではなかった。
誰かに決められた人生へ別れを告げた、僕たちの最後の夏だった。
ここから先の季節は、全部、君と選んでいく。
(完)
ここまで『君と過ごした、最後の夏 ~僕が恋した令嬢は、隣国の第一王女でした~』をお読みいただき、本当にありがとうございました。
本作は、身分を隠した王女と、未来を諦めていた没落男爵家の青年が出会う、王道の身分差恋愛として始まりました。
偽名で出会い、本名を知ったことで傷つき、一度は互いを守るために相手の選択を奪いかける。それでも二人は、過去の思い出へ戻るのではなく、今ここにいる相手を選び直します。
この物語で大切にしたのは、「愛する人を救うこと」と「愛する人の人生を代わりに決めること」は違う、という点です。
テオがエリーゼを愛したからといって、彼女から王女という立場を取り除けば幸せになれるわけではありません。王女であることは彼女を苦しめる責任であると同時に、彼女が生きてきた時間そのものです。
同じように、エリーゼがテオを愛したからといって、彼に仕事や家族への責任を捨てさせればよいわけでもありません。
二人が最後に手に入れたのは、すべての問題が消えた世界ではなく、問題があれば話し合い、別々の場所へ出かけても同じ家へ帰り、少し焦げたパンを一緒に食べる生活でした。
名前の呼び方も、二人の距離を示す大切なものです。
「アルノー嬢」と「レインさん」。
「エリー」と「テオ」。
「王女殿下」と「レイン書記官」。
そして、「エリーゼ」と「テオ」。
偽名の少女へ恋をした青年が、やがて名前も称号も責任も含めて彼女を愛せるようになる。その積み重ねを最後まで見届けていただけたことを、作者として嬉しく思います。
青い糸で綴じられた夏の願い帳の最後には、『愛する人と、同じ家へ帰る』と書かれていました。
けれど、願いを叶えることは、人生の終着点ではありません。
最後に二人が新しく綴じた帳面には、『愛する人と、何度でも同じ家へ帰る』と記されています。
本作のタイトルにある「最後の夏」は、二人が共に過ごす最後の夏ではありません。
誰かに決められた人生を、それしかないと思って生きていた二人にとっての、最後の夏です。
夏が終われば、秋が来ます。
冬が来て、春が来て、また夏が来ます。
これからも二人には、会えない日や、意見が合わない日や、紅茶の砂糖をめぐって揉める朝があるでしょう。
それでも彼らは、相手のために勝手に別れを選ばず、何度でも言葉を交わし、同じ家へ帰っていくのだと思います。
テオとエリーゼの夏に、最後までお付き合いくださった皆様へ、心から御礼申し上げます。
この物語を読み終えた皆様の心にも、雨上がりの海のような、明るい景色が残っていましたら幸いです。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。




