ジョブチェンジ:先輩→先生
「せんぱい、せんぱい! 次は先生ね!」
「えっ? まだやるの?」
「だってぇ、こんなチャンスもう無いかもしれないんだもん。お願い、お願い……ダメ?」
両手を顔の前で組んで、首を横に傾けながらおねだりをするノノ。それは敬虔なシスターが祈る姿に似ていたが、ノノなら神様相手でも祈らずにおねだりしそうだ。
「ダメじゃ……ないよ……」
本当はダメだけれども。僕は今すぐにでもノノと手を繋ぎたいし、何なら抱きしめたいと思っているのだから。
それなのに、いつもこうなのだ。いつだって僕はわがままなノノの言いなりで、勝手に焦らされた挙句に愛おしいとすら感じてしまっているのだ。
「やったぁ! ありがとうせんぱい……じゃなくて、せんせえ!」
「っ!?」
「せんせえ? どうしたの、せんせえ?」
「う、ううん、何でもない……」
「そうなの? 変なせんせえ♡」
結局、僕は何でもいいのかもしれない。先輩でも、先生でも、呼び方なんて何でも良くて、ノノに構ってもらえるだけで喜んでしまうのかもしれない。
だってそうだろう。僕も詳しくは無いけれど……主人に愛してもらっている犬って、きっとそういうものだろう。
教卓の前に立つこと自体は初めてじゃない。通り過ぎるくらいのことなら何度も経験がある。でも、授業をするという意識で立つのは初めてだった。
眼前に整然と並ぶ30もの机だけでも圧迫感があるのに、実際の授業では60もの瞳も加わるのだ。そんな注目を集めながら人に何かを教えるなんて、僕には耐えられそうにない。
しかし幸いなことに今の生徒は一人だけ……両手で頬杖をついて、足をぷらぷらと揺らして、ニコニコと視線を向けているノノだけだ。
これなら、僕にだって授業の真似事くらいはできるだろう。情けない僕だけでなく、知性的な僕もノノに見てもらおう。
「で、ではっ、授業を始めますっぅう⤴」
声は裏返ったし、どもったし、語尾も彼方に飛んでいった。
自己肯定感もパンと弾けてしまって、破片が教室中に散らばっていく。このままでは芋虫になってしまうところだったが、散らばった破片を一つずつ丁寧に拾い集めてくれたのはノノだった。
「お顔が真っ赤だよ、せんせえ。カッコいいね♡」
くすくすと、可笑しそうに口を抑えて笑うノノ。嘲りではなく、侮蔑でもなく、ただ純粋に、ノノは無様な僕を笑ってくれていた。
ノノは拾った破片の一つ一つを顔の前に持っていって、吐息で埃を払ってくれた。愛おしそうに頬ずりをして、軽い口づけで勇気を与えながら僕の中に積み上げてくれた。
そんな妄想をしていた。
こほんと一つ咳払いをして僕は気を取り直した。授業の内容なんて何でもいい。僕たちは学年が違うし、ノノだってごっこ遊びがしたいだけなのだから。僕が直近に受けた授業をそれっぽくなぞればいいだけだ。
「えー、では今日は……理科の授業で……えっと……なんだったかな。んー……あ、そうだ生物の変態について――」
「えっ?」
「? ……あっ――」
気づいた時にはもう遅く、梅雨入り前の教室には季節外れの寒風が吹いていた。
もちろん、吹かせたのは僕だ。




